第4部30章『トライア祭』50
「……私ね、一昨晩に前夜祭で……国王夫妻に、養子縁組みをするよう申し出られたの」
「えっ……」
肩と腰を抱き合いながら2人はゆっくりと歩んだ。拾った仮面と頭巾はもう着けず、ただ手にしてる。やっと表れた素顔を拝むかのように、彼は度々彼女の顔を覗き込んだ。
「まだ……返事はしてなくて……待ってもらっているの。明日の夜には、正式に返事をしなければならないのだけれど……。お子に恵まれなかった、あの方々は……私を本当の娘のように可愛がってくださったわ。私も、陛下を父と思い慕ってきた。でもまさか……本当にこんな事を申し出られるなんて、思ってもみなかったわ」
ルークスは頭がグラグラとした。12枚のカードの羅列や占い師の言葉、そして竜王大隊の進撃する光景や、炎の中、鎧姿で果敢に立ち向かおうとするソニアのヴィジョンが錯綜して、眩暈を起こさせるのだ。
「……君がトライアの王位継承者となれば……本当に人間として、国を滅ぼす時に標的にされる。今まで、どの国も王族の命が狙われてきた。君は……それを受けるつもりなのか?」
ソニアも彼の顔を見ると、彼は非常に苦々しい表情で眉根を寄せていた。
もう何度目か判らぬ自問自答をしてみたソニアだったが、やがて小さく首を横に振った。
「……わからない。決められなくて……ずっと悩んでるの」
「だったら、受けるな。受けちゃいけない。君が軍のトップとして戦う限り、大した違いはないのかもしれないが……万が一にも見逃される可能性が本当になくなってしまう」
ソニアはフッと笑った。
「見逃してなんかもらいたくないわ。……どうせ国王夫妻の盾になるつもりだから、私が生きている限り、陛下を死なせたりなんかしないもの。そうできないことがあったりなんかしたら……陛下が死んで、私がまだ生きているなんてことに、もしなったら……臣下として、のうのうと生きてなんかいられないわ」
「……必ず君が先に死ぬようにするつもりだということか。そして君が死ぬ時が……王の死ぬ時にもなるんだろう。ならば、王位継承権なんか何の関係もない。それなら……何故、悩んだりするんだ? どっちでもいいんだろう?」
ソニアは首を傾いで、街の明かりに照らされボンヤリと浮かび上がる轍に目を落とした。小さな白い合弁花が点々と咲いているのが見える。
「……それが、自分でもどうしてか解らなくて困っているの。国の誰もが喜んでくれるだろうって解ってるのに……一生を一つの土地に縛られるのが嫌なのか……そこまでの重責は負いかねるのか」
「ずっと、例の英雄を待って、いつか出て行くつもりだったから……そのせいか?」
「……そうなのかもしれない。でも……解らない」
暗い道も、木立のすぐ向こうに広がる闇も、光の届かぬ所は凶兆のカードを容易に思い出させて、その中に死神の髑髏顔や堕天使の青い顔が見えるようだった。空には“希望”の如く星が瞬いてはいたが、それでも今はどうしても辺りを包む闇の印象の方が勝っていた。炎に照らされ輝く街は煉獄のようであったし、長く伸びる道は流浪の民が進む荒野のようであった。
真っ直ぐに前を向いて、彼は言った。
「もし……君が受け入れるのだとしたら、1つ確かなことは……オレと君とは……ますます遠くなるということだ」
その距離を測るかのように、彼は遥か前方を見る。
それ以上何も言えなくなり、2人は長いこと黙ったままで森の中を進んでいった。やがて、2人は朝に待ち合わせた場所へと到着した。
一人で去ってしまうかもしれない彼を探しに探して遂に見つけて、捕らえて離さなかった、あの朝陽の白さと比べると、同じ場所でありながら今はあまりにも暗く、まるで違う森の中にいるようである。しかし確かに、目印とした大木の陰には2人の荷物が隠され置かれていた。
2人は言葉なく元の服を手に取ると、別々の離れた木陰に行き、そこで仮装衣装を脱いで自分の元の服に着替えた。夢のようだった今日一日のことを名残惜しむかのように、ゆっくりと躊躇いがちに、やっと脱ぎ捨てることができる程度のルークスは、普段着ている飛行スーツのズボンだけを穿いても、その上のジャケットまでは身に着ける気がなかなか起きず、その場に座り込んで溜め息をついた。
手にした呼石の丸さを少ない光量の中で見つめていると、自分の現実的な立場が何であるかを今一度実感させられ、鎧と武器にも目を向けると、ますます強迫的に感じられた。
そして、それと同時に見えてきたのは今日体験してきたばかりの絵画や装飾品や舞台や音楽の中の、風や光や温度やときめきであり、何もかもが渦巻くようにして彼の中を駆け巡った。
ただでさえ、いろんな物事で頭がいっぱいになり、それらをゆっくり消化していきたいところだというのに、どうしてこんな現実と向き合えるだろうか。
今日見てきた感動の数々は、疼きとなって現実の苦しみをも高め、その苦しみが更にときめきを募らせて、互いにどうしようもなく彼を揺さぶっていた。
彼は鎧や武器から目を逸らし、着替えを終えて軽装になり現れたソニアを見た。馬は傍らの木に繋がれ、静かに御用の時を待っている。
彼のそんな様子を見たソニアも、すぐには去り難くて、そっと隣に座った。どうせ丸一日休暇なのだ。無理に早く戻って仕事に就く必要はない。竜王大隊の攻撃に警戒して城に戻り、鎧を装着したいとも思うが、彼とこうして一緒にいる間は、まだ時間に余裕があることの証でもある。それに、もし今晩その知らせが入るのなら、それまで一緒にいた方が最短で情報を得られていいとも思った。
今朝のように透明で清々しい日射しが辺りを満たし、美しい羽虫や甲虫が蠢いて鳥が羽ばたくのを見るまでは、そこを動きたくない気がした彼は、そのまま上着を横に放って、投げやりな格好で座り続けた。
そうして2人共並んだまま、羊飼いの少年のように星空を見上げた。どんなに苦しくとも、今隣にいる彼女も、今日見た夢も、この星空も、美しかった。
「この先……例え何が起きても……どんな事になっても……君と出会えたこと、そして……今日のことは……決して忘れないよ」
2人は手を握り合い、哀しく弱々しく微笑み合った。
「私も……決して忘れないわ」
瞳を震わせ、このまま消えてしまいたい瞬間を思い、共有した。
その時
突然、辺りが青い光で満たされ、染められた。街の明かりと月明かり以外は暗闇だった森の中にあって、その不意打ちのような光は2人の眼を射した。