第2部第8章『ゲオルグ』その3
結局、皇帝側もそれなりに調査員を出したものの、収穫は捗々しくなくて、男がもたらした僅かな情報しか手掛かりがないようだった。彼女が人間社会で暮らしていたということと、ソニアという名であることくらいしか解っていないらしい。
男が潜入生活をしていたトライア国内で彼女が発見されたことから、彼女もトライアで暮らしているとは思われているが、そこより先にまで調査の手を伸ばす気はないようだった。
そもそも、皇帝が彼女の母親を本気で捜して――――つまり、力ずくで妃にしようとしていたら、とうの昔に村を探し出して大いに権力を行使し、戦も厭わずに暴力的な方法で連れ去っているだろう。
ところが、この辺りは皇帝カーンの美学とも言うべきか、心から自分に靡いていない相手を力ずくで捻じ伏せるのは、どうやらお好みでないらしい。やがて自分のものになるという自信があるのか、かれこれ300年近くもその状態を続けているのだから、大したものだった。
ともかく、去る者追わず主義の皇帝は無理に娘を捜し出す気はないようで、また、計画中の地上侵攻に向けて忙しいこともあって、あまり力を入れない様子だった。むしろ、有力な男が失踪したことの究明に重きを置き、調査員達はアルスを動き回った。
目覚めた彼女に、彼は多少の嘘も交えて説得を試みた。これだけの目に遭えば、今度こそ自分と一緒に来てくれるのではないかと思ったのだ。
彼女と過ごせたら、どんなに素晴らしいだろう。ゲオルグの胸は高鳴った。
しかし、軍人として彼女が抱く責任感は立派なものだった。無闇に怯えはせず、力となれる限りトライアを守ろうとし、彼の誘いには応じなかった。今では愛国心も強く、その上、育ての兄を待とうとする熱い想いも相変わらず持っていた。それらの前には、彼の説得も敵わなかった。
彼女はゲオルグに尋ねた。いずれ大戦は起きるのか、と。ヌスフェラートであるだけに、やはり妙に内情に詳しい彼のことを怪しんでいるのだ。でも、その疑いを否定したがる彼女の葛藤の光が瞳に見えて、それが彼には嬉しかった。
真実を知らせたところで、彼女との関係が悪くなるとしか思えなかった彼は、ただ「解らない」とだけ言った。
調査が伸びてきたら改めて考えなければならないが、それまでは彼女を人間世界に戻しても安全かもしれなかったので、彼は説得するのを諦めて陰ながら彼女を守ることにし、トライアに帰してやったのだった。
その後、予想通り彼女に対して調査の手は然程伸びず、誰の仕業なのか、あの男が何処へ行ったのかだけが調査目的となって派遣隊は動き、ヴィア・セラーゴでの証拠探しに重点が置かれ、外界での調査は中央大陸の聖地付近を中心に行われた。
あの村はどうなっても構わないと思っていたゲオルグだったが、調査員との接触で、あの人々に彼女の存在が知れて面倒なことになるのもつまらなかったので、ちょっとした細工で調査員達を森の中で迷わせてやり、結界付近から遠ざけてやった。
大きな事件の後だったのに、これまでと同じような日々がすぐに戻り、彼は安堵した。だが、いつまでもこうしてはいられない。数年後には、大軍団による侵攻が待っているのだ。
彼女はそれを知らないが。
それから暫くして、彼女は更に階級を昇りつめ、遂にトライア軍のトップとなってしまった。優秀なヌスフェラートの血を引く、素晴らしき美貌の母を持って生まれた類稀なる美戦士は、人間達の中にあって当然その地位を上げ、相応しき名声を勝ち得たのである。彼女は今や、その国の護りの女神と讃えられていた。
彼女が人々を虜にしているのは誇らしいことだったが、彼には複雑だった。彼女を説得して隠さなければ、いざ大戦が始まった時に、国の代表として軍を率いて真っ向戦うに違いないのだ。そんなことになったら……そしてもし死なせたりしたら……
彼は長いこと説得方法を考えていたが、彼女の変わらぬ愛国心や育ての兄への想いを鑑みる限り、どれも巧くいくとは思えなかった。そうなると、力ずくで奪い去るしかない。彼女を死なせるよりはマシだろう。しかし、どうしようもない場合になるまで、その手は避けたかった。彼女の命の次に、彼は、彼女の心を失いたくなかったのである。
また時が経ち、彼女がトライア軍の軍隊長としてすっかり馴染んで当たり前のようになった頃、恐れていた皇帝軍の侵攻が遂に始まってしまった。
事前に準備期間があったので、それが完成間近になり、そろそろだということは彼にも解っていたので、突然のことではなかった。
7つに分かれている大隊の内の1つをゲオムンドが指揮することになっており、諸事情から、その大隊はナマクア大陸侵攻に名乗りを挙げていた。トライアが他軍に攻められることで、彼女のことが皇帝に知れる危険を避ける為だ。
もし本当に邪魔だった場合には、父自らが娘に手を下すであろうことをゲオルグは解っていた。何としても、そうさせる訳にはいかない。彼は彼で皇帝軍の為の仕事があり(もとい父の為だが)、それに従事する合間を縫ってゲオムンドと連絡を交わし、トライアをどうするつもりなのか、何度も確かめた。ゲオムンドも彼の案ずる所を察していて《最初に手は出さない》とだけは言っていた。
そして、彼の研究成果ばかりが求められるようになり、早い完成が望まれたので、あまり他の事にかまけている余裕がなくなり、彼はトライアが攻められないかだけを、くれぐれも部下に監視させていたのである。
このところ、宮殿を留守にして人間社会に潜入し仕事をしていた彼だったので、部下との連絡は取り辛く、特に最近の1、2週間に関しては仕事に集中していた事情もあって、彼女の様子を見たり説得に向かったりすることもできなかった。
――――――そして、その隙に事は起きていたのだ。
トライアの南隣テクト王国がいつの間にか攻められ、そこに副長として送り込まれたのは、彼も知る同じ一族の男であるリヴェイラで、そのリヴェイラの消息が途絶え、調べてみれば、トライアにいるはずの彼女がテクトに手助けに来ており、この度の勝利に貢献していたらしいのである。
またしても、部下の恐るべき失態だった。彼女の身に何かあれば判るよう、特殊な装身具をお守りとして渡していたので、彼自身もそれに何事もない内は大丈夫だろうと高を括ってしまっていた。彼女の遠征出発に気づき、それを報告しなかった部下の無能さに腹が立ったが、後の祭だった。そんな部下を送り込んでいる自分にも責任があるからだ。
もはや一刻の猶予もならなかった。この事が父ゲオムンドに知られれば、間違いなく彼女は父の事業に仇成す娘として殺されてしまうだろう。
ゲオルグは、起きた出来事の真実をひた隠しにして調査を一手に請け負い、誤魔化した。幸い、調査は自分にしか出来ないことだったので、怪しまれることもなく適当な報告をすることができた。そして、これ以上危険な事態に陥る前に、何としても彼女を説得しなければならなくなった。
かつて彼女に与えた魔石によって、彼は何時でも彼女の現在位置を知ることができる。ゲオルグは、調査に入ったその日の朝にテクトから出発して帰途についたばかりだというトライア精鋭軍の位置を突き止め、そこへ向かった。
行軍中は接触できないが、何とか彼女が一人きりになってくれれば、話が出来る。精鋭部隊を見つけたゲオルグは、姿を見られぬよう慎重に距離を開けつつ、付かず離れずついて行き、先頭を行く美戦士の姿を切なく眺めながらチャンスの時を待った。
精鋭軍は、3日目に辿り着いた湖近くの森林地帯で小休止を取り、彼女がようやく騎馬で一人きり部隊から離れて行くのを見て、彼はその後を追った。
静かな森の中を光が踊り、彼女が通って行くだけで、より清められていくように感じる。湖岸に来て馬を下り、水辺に佇むその姿は、まるで完成された1枚の絵のようだった。
木陰からその様子を眺めていたゲオルグは暫し見とれ、恍惚とした。この儚げな色彩の美の精霊が戦いの場にいて、リヴェイラと死闘を繰り広げていたとは信じられなかった。
だが、よく見れば鎧は以前より破損が激しく、修繕の痕はあっても、とても今までの機能を果たせそうには見えないほどに痛んでいた。如何に激戦だったのかが、そこに表れているのだ。
ゲオルグは苦しく目を伏せた。何としても説得しなければ。
彼はそっと出て行き、彼女がしたように自分も湖水を掬って飲んだ。彼女が触れ、清めたものを共有したかったのだ。
その時広がった水の波紋に気がついて、彼女がこちらを向いた。そして彼の大好きな、輝く笑顔で声を上げた。
「――――――まぁ! お久しぶり! 元気だったのね! ゲオルグ!」
この大戦が起きてから、まだ一度も彼女に会っていなかったので、反応がこれまでとどう変わるかを恐れていたゲオルグは、初めて会った時と同じ光を彼女が投げかけてくれたことにホッとして、自分も微笑んだ。彼自身知らなかったが、彼のそんな柔らかい表情を見たことがあるのも、このソニアだけだった。
「……半年ぶりだね」
笑みを湛えて寄って来る彼女の姿は、ヌスフェラートの娘や人間の娘よりずっと美しく見えた。いや、この世の全てが彼にはどうでもいいもので、彼女だけが特別なのかもしれない。彼女自身は己を人間と思い、確かに耳の形だけは胎内異常の為か、ヌスフェラートにも母の種族にも似ず、丸みのある小さな、人間のものに近かったが、彼の目には人間だなどとは全く映らなかった。
近づいてジッと見合うと、やはり情勢が変わったことで、ただの平和な時とは異なる緊張感が彼女の瞳の奥底に流れているのが判った。その方が本来自然なのに、相手が彼だからこそ、こうして笑顔で迎えたのである。
彼は愛しげに、かつ痛々しく目を細めた。
「よく、ここが判ったのね。城都から離れているのに」
「……まぁね。ソニアのいる所は、ちゃんとお見通しさ。何時もそうだろう?」
彼女はフフッと笑った。どんなに彼が謎めいて疑わしく見えても、これまでの親交によって積み重ねてきたものや、彼の情を信ずればこその笑みだった。
近年、こうして彼が現れると、側にいるアトラスは体を震わせて木陰や物陰に隠れてしまった。彼女にも、彼の体に何か異変が起きているらしいことは年々感ぜられていたが、それを問うことは一度もしなかった。
そして、今回はソニアの方が先に切り出した。
「……今日は、特別なお話でもあるの?」
「……何故そう思うんだ?」
「だってその顔……とても深刻そうだもの」
ゲオルグは、彼の気持ちを察しやすい彼女の鋭さが嬉しくてフッと笑った。
「……その通りだよ。ソニアに折り入って話があるから来たんだ。急ぎだったから、こんな所に来たんだよ」
「まぁ……」
彼女の奥底の緊張が増して、もっと顕著に表れ、彼の方も、柔らかだった表情を次第に厳しいものにしていった。
「……世界が、こんな事態になってしまった。言うまでもなく……君も十分承知だと思う」
「…………」
彼を見つめるソニアの瞳が、まるで次の言葉を察しているように微かに震えるのを見て、彼はなかなか口に出せず、思わず先に手が伸びて、彼女の両肩を取った。
今では彼女の背がとても高くなったので、彼の方がほんの少し高いだけで、目線は殆ど平行に近かった。母親が長身の種族で、ゲオムンドはヌスフェラートの中では小柄な方だったから、母親似と父親似との差と、更に男女の違いでそうなったのかもしれない。
彼はまだ話せず、目を瞑り、心を落ち着かせようとした。微風が水面を撫で、葉をサラサラとさざめかせ、彼の肌も滑っていくが、彼の不安はおさまらず、あまりの愛しさと苦しさばかりが募って、どうしようもなかった。
「ゲオルグ……」
彼女の透明な囁きが彼の強張りを取り払い、彼は一思いに彼女を抱き締めた。硬い鎧が彼を拒むかのようだったが、それを越えて伝わる彼女の温かみが、そんなものを感じさせなかった。
会って唐突にそんなことをされたのは初めてで、ソニアは目を丸くした。
「……もう、これ以上は危険だ……! このままでは君は殺されてしまう……! 頼むから……オレと一緒に来てくれ……! オレと一緒に暮らしてくれ……! 妹として……」
「……ゲオルグ……!」
ソニアは驚き、戸惑い、抱き返すことも出来ずに、ただ棒立ちになった。これまで彼女の目の前で感情をあまり露にすることのなかった彼だったが、こうして震えながら抱き締められていると、その奥に隠されていた想いが彼女にも直に伝わっていった。
ソニアは、ただ、ただ、切なくなった。
「私……テクトで戦ってきたばかりなの……。あなた……知ってるのね……?」
ゲオルグは彼女を抱く腕の力を緩められず、顔を伏せたままで小さく頷いた。
「……君が、そんな危険な目に遭っていたなんて……オレは知るのが遅すぎた……! 知ってたら……」
ソニアはようやく彼の背に腕を回し、そっと包んだ。
「あなたは……いつも私のことを本当に心配してくれる。これまでも、ずっと優しくしてくれた。命の危うい時だって……。どうしてなの? あなたはヌスフェラートなんでしょう? 人間の私をそんな風に助けたりしたら、あなたはまずい立場になってしまうんじゃないの? そんなことはないの……?」
ゲオルグは人間という言葉に歯がゆさを感じて、肩を抱いたままで彼女の顔を覗いた。本当の事を言ってしまいたかったが、そこから何が始まるのかが予測できず、恐ろしくて切り出せずに、深く眉根を寄せた。
「……前にも言ったろう? ……君が好きなんだ。特別なんだよ……! 君をこんな戦の為に失いたくない……! オレの安全なんか、大した事じゃないんだ!」
彼の鬼気迫る顔と震えとは対照的に、ソニアの方が落ち着いて切なそうに彼を見ていた。
「それは……私に、何処かに逃げて隠れろ、ということなのね? ……あぁ……ゲオルグ、私がそうしないことは、もうずっと解っているでしょう? あなたの気持ちは嬉しいけれど……私は隠れたりしないで、どこまでも戦うつもりなの。お兄様が現れるのを待って、一緒に戦うつもりよ。私こそ――――――私の安全や命なんか、大した事じゃないの」
ゲオルグは狂おしく顔を歪め、彼女にある事を告げたくてならなくなった。だが、これまで彼女が如何にそれに情熱と愛を傾け、強く生きてきたかを見ているだけに、彼女を失意のどん底に落とすような宣告をするのは幾ら何でも憚られ、もしかしたら彼女がこの国や人間との暮らしを諦めてくれるかもしれない決め手となり得る情報なのに、口に出すことは出来なかった。
そして、それは間違いなく、母の死の知らせを聞き、愛しい者を失った苦しみを味わって知っている彼ならではの、また、彼女をあまりに想う彼の優しさ故のことだった。
「……君は……君自身も解っているだろうが、色々な理由で確実に狙われているんだ……! もう、これがギリギリなんだよ! 今、何処かに行かなくちゃ、君は必ず殺される! 君がその気になってくれないと……オレじゃ守り切れない! いつかのようにはいかないんだ!」
ソニアの目は、今にも涙が零れそうに揺れていた。彼女もどこまでも真剣で、同じく現状に苦しんでいたのだ。彼ほど追い詰められてはいないが、それでも、自分に尽くしてくれる長年の友人の願いに応えられないことに胸を詰まらせていた。
「……あなたが何処に属していようと、私はずっとあなたのことが好きよ。これまで、どんなに良くしてくれたか……でも、本当にあなたは何者なの? ヌスフェラートの国を離れて一人で生きている人なの? ……それとも皇帝軍の一員なの?」
皇帝軍の名を聞いて、ゲオルグはギクリとした。その反応がソニアにも伝わった。
「……あなたはアウト・ローにしてはヌスフェラートの内部に詳しい。……本当は皇帝軍なの? それで、私がターゲットにされていることを知っていて、隠れさせようとしているの?」
彼女のその言い様は、ずっと昔からその可能性については考えており、今更ショックを受けている様子はないものだった。
初めて出会った時と同じで、彼女にパニックの徴候がなく、受け入れる心構えが出来ているのを知ると、ゲオルグの恐れは薄らいで、もっと突き詰めた本当のことが言えるようになった。持ち前の冷静さと頭脳が働くのを実感しながら、今までより落ち着いた呼吸の中で彼は告げた。
「……そこまで察しているのなら、もはや隠しはしない。確かに、オレは皇帝軍の一員だ。望んで入った訳ではないが……父が、その重要な地位にいる。父の為に……オレは活動をしている」
何となく想像していたソニアも、直接口にして言われると、さすがに驚いて目を見開いた。
「そんな……!」
彼女が逃げることを恐れるように、彼女の肩を掴む彼の手に力が入った。
「……テクトを攻めた男は父の部下だ。この大陸攻めは父が請け負っている。テクトでの敗戦を機に、他の大隊に遅れを取らぬよう成果を上げて挽回するべく、早速ペルガマやトライアを滅ぼしにかかるだろう」
ソニアはブルンと肩を震わせて、逆に彼の肩を掴んだ。
「……な……何ですって?! じゃあ……魔道大隊というのは、あなたの……?! こんなに……こんなに美しいこの国を滅ぼすと言うの……?!」
ゲオルグは静かに頷いた。
「そんな!! 止めさせることは出来ないの?! 阻止することは――――――」
「――――――できない」
苦々しくも、彼はキッパリと言った。あまりにキッパリとしていたので追及する勢いは挫かれて、ソニアは口を開けたまま固まってしまった。
「……例えば、オレだけ皇帝軍を抜けて、父の報復や軍の制裁を覚悟で君を連れて逃げることはできる。……君を守ろうとしたら決して賢い方法ではないが。……だが、軍を止めることはできない。オレはたかだか一大隊の長の息子というだけだ。父も、オレの願いを聞いてくれるような人ではない。……オレには何の権限もないし、もはや、オレ一人でどうにかなる規模ではないんだ! とんでもない勢力なんだよ……! 人間の世界は確実に滅ぼされるだろう……! オレに出来る一番のことは、皇帝軍の一員として動きつつ、君を匿い護ることなんだ! それ以外にない……! 解ってくれ……! ソニア」
ソニアは言葉にならぬものを唇だけで不完全に表現し、言葉の代わりに、彼の目の前、はらはらと涙を零した。彼女の涙を初めて見たゲオルグは、胸を掴まれる痛みを感じ、耐え難く、やり切れない気持ちになった。彼女の笑顔を心から愛する彼にとって、その姿はあまりに心苦しかった。
「今まで……この国を訪れていたのは……やっぱり、こんな時が来ることを知っていて……」
「――――違う! 誤解しないでくれ! 調査の為なんかじゃない! 君に何度も会いに来ていたのは、ただ普通の旅をしていて出会った君が、本当に好きになったからだ! このナマクア大陸の担当になるよう父に願ったのも、君を説得して助け出すギリギリまで、どの大隊にもトライアを攻めさせたくなかったからだよ! オレにできるのは、そんな時間稼ぎくらいだから」
彼のその言葉を疑ってはいないようだが、それで、彼女の苦悶に歪む表情が和らぐことはなかった。
ゲオルグは必死に続けた。
「……君が兄さんのことをどんなに好きか……この国をどんなに大切に思っているかは知っているよ。だが……君はすぐに目をつけられて、全力で殺されるだろう! 皇帝軍が本気で乗り込んでくれば国も守り切れない。最初から無理なんだ……!
君は信じられないような努力と才能でここまで地位を築いてきたけれど、もう、そんなものでは対抗できない域になってしまったんだよ! 国と共に滅びるか、オレについて来て生き延びるか、2つに1つなんだ……!
君の兄さんが、これから現れたって無理だろう! 彼以上の天使が皇帝軍にはいるんだ! とても太刀打ち出来る訳がない! ……ただ、オレの側で隠れているだけでいいんだ。そうすれば君を救うことが出来る! どうか一緒に来てくれ……!」
ソニアは涙を流し続け、信じられぬように首を何度も横に振った。そして、ある所でその動きをピタリと止め、改めてしっかりと、否定を表して首を横に振った。
「……できない……ダメ……ダメだわ……仲間を残して……この国を捨てるんなんてこと……私にはできない……! あなたは好きよ……! でも……でも……私にはできない……! 選ぶなら……国と共に滅びる方だわ……! 仲間や……国王陛下を残して……私だけ逃げるなんて……絶対にできない……!」
ゲオルグの瞳が苦悩に淀み、長い沈黙と思考と溜め息の後、彼はゆっくりと口を開いた。
「……どうあっても……オレと一緒に来るつもりは……無いんだね……?」
彼女は涙を一杯に溜めた目でコクリと頷き、そして彼の 胸に額を押し付けた。
「ごめんなさい……今までこんなに……私に優しくしてくれたのに……」
ゲオルグは切ない思いで一杯になり、今こそ彼女の鎧が彼を拒み、2人を引き裂こうと間に割って入る不快な壁のように硬く感じられた。
ソニアがふいに顔を上げ、こう言った。
「……私……もう、あなたとは会えないわ……」
ゲオルグは、まだ別の説得方法はないか考えていたのに、先に彼女の方がそう切り出したので、今までで一番驚き、ビクッとして彼女の瞳を見た。《今、何と言ったのか》と訊き返したいくらい、信じたくない、聞きたくないことを耳にしたような気がした。
「……いつか……あなたと戦うことがあるかもしれないなんて……そんなの、とても耐えられない……! それなら……いっそのこと……これ以上優しくしないでくれた方がずっといいもの……!」
ゲオルグは、震える手で食い込むほどにソニアの肩を強く掴んだ。
「……そんな……! ソニアと会えないなんて……! そんなことは言わないでくれ……!」
ソニアは、ずっと首を横に振りながら泣き続けている。全てが苦しくてゲオルグは眩暈に襲われ、足元が揺らぐのを感じた。
「オレは……君と会うことだけが……! それだけが……! オレを癒してくれる、あの歌声を……もう聴くなと言うのかい……?!」
2人の心が喘ぐ様を表すかの如く、風が強く吹きつけてきて、ソニアの髪は激しく煽られ、涙は風に散っていった。彼のマントも弄られるようにはためいた。
「……ごめんなさい……! でも……このままではいつか……あなたと戦うことになってしまうわ……! それなら……そうなる前に……ここでお別れをしましょう……!」
彼の心臓は破裂しそうなほどに激しく痛く打ち鳴り、沸騰寸前の熱い血潮を全身に廻らせた。体に力が入るにつれ、血管が浮き上がり筋を成していく。
「オレは嫌だっ……! こうして……君に会いに来ることだけが唯一の安らぎだったのに……それを奪われるなんて……! とても耐えられない!!」
彼の声は叫びに変わっていた。ソニアはただ項垂れ、それでも、どうしようもないのだということを示した。もう、彼の冷静さはどこかへ飛んでいた。
「……な……な……何という……ことだ……! こんな結果になるなんて……! いっそのこと、何も言わずに……君を……」
ソニアは再び彼の背に腕を回し、優しい力で抱き締めた。鎧という壁があっても、伝わって来た彼女の柔らかな力にクラリとしたゲオルグは、握り潰しかねないほど強張っていた手の力をふいに抜き、同じ優しさで包んだ。
拘束から解かれた瞬間、ソニアは彼の腕の中から身を滑らせ、離れた。そして静かに微笑んだ。涙で潤んだ瞳は、水底に揺らめく宝石のようだった。ずっと見てきたはずなのに、改めて彼はその美しさに見入ってしまった。
「……ごめんなさい。……あなたのことは一生忘れないわ……ゲオルグ。会うことは出来なくても……私は毎晩歌を歌う。……あなたの為に。だから、どうか……それを聴いて心を慰めて……!」
ソニアは一歩、また一歩と後退っていった。ゲオルグは手だけは伸ばしていたが、どうしてか、それより先に動くことはできなかった。
10歩ほど離れた所で、ソニアは苦しみに眉を寄せつつも、どうにか笑顔をつくって言った。
「……さようなら……!」
彼女はサッと踵を返して走り出し、アトラスにヒラリと飛び乗ると「ヤー」というささやかな一声で賢い白馬をすぐさま走らせ、風のように森の中へと姿を消してしまったのだった。蹄の音だけがこだましながら暫く辺りに残り、それも、やがて葉擦れの音の中に掻き消されていった。
後に残されたゲオルグは、ただ呆然と木偶人形のように立ち尽くしていた。道端に捨てられたばかりの人形が、自分の身に起きたことを、まだ理解できずにいる姿のようだった。
足元からバランスを失った彼はガクリと膝をつき、手をつき、そこにあった草を握り締めた。全身が小刻みに震え、それが次第にひどくなってゆく。
「……ソニア……!」
ブチブチッと弾ける音を立てて草が抜け、彼の手の中に土塊ごと残った。
「ソニア……!!」
切なさと悔しさが綯い交ぜになった激しい苦しみに身を焼きながら、彼はゲオムンド似の三白眼に危険な光を帯びていき、虚空を睨んで歯を食いしばり、牙をギラつかせて、ここで一つの誓いを立てたのだった。
「……ソニア……! お前を死なせるものか……! 父上にも決して……殺させはしない……! オレの研究が完成すれば……皇帝軍からも手を切って……必ずお前を迎えに行くぞ……! 例え父上が許さなくとも……お前が拒もうとも……オレはお前を攫いに来る! 後少しだ……! 完璧な力を手に入れたら……お前をずっと守ってやる……! きっとな……!」
彼にとっての生き甲斐も、愛も、喜びも、全ては彼女の存在にあった。それ以外のものは、彼にとって何の価値もない。
父であるゲオムンドでさえも、敬ってはいるものの、《愛》には程遠かった。
その、彼の唯一の拠り所、彼の長年の孤独を温もりで埋めてくれた、自分の感情を熱く注げる唯一人の相手が離れていくことで、彼の抑え切れない怒りと、彼女への愛情が激しく高まった。
自分の道を妨げる何者をも寄せ付けぬ狂暴な光を瞳に宿して、肩を震わせながら、ヨロリと彼は立ち上がり、星となって彼方へ飛び去っていった。
――――――一刻も早く力を完成させて、彼女を守り戦う武器とするべく。