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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第8章
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第2部第8章『ゲオルグ』その2

 そんなある日、ゲオルグはヴァイゲンツォルトの父から急な知らせを受けた。父の部下が、遂に双子の片割れを見つけたのだと言う。アルスにいる彼がそこへ向かった方が早いからと、様子を見て来るようにゲオムンドは命じた。

 ゲオムンドの言うには、部下からの映像を見る限り、片割れはまだ母に瓜2つのままで、少なくともヌスフェラートらしいところはなく、安心したらしい。

 そして、やっと世に出られて成長を始めたものの、どうやら生まれた時からの問題のせいか、成長速度は人間並みで、自分を人間と思って人間と一緒に暮らしているのだとか。まだまだ幼いなりをしているそうだ。ヌスフェラートだったら2、3年で幼少期は終わってしまうので、問題があるのは確かなようだ。

 ゲオルグは父の知らせた土地に赴き、求める者の姿を探しに行った。

 一路、ナマクア大陸、トライア王国の東海岸の港町、デルフィーへ。


 人の姿に変化して人間社会に潜入するのに慣れていた彼は、人間に扮して港町を徘徊し、幼い少女の姿を探した。人々に胸の鼓動が聞こえてしまうのではないかと思うくらい胸は鳴りっぱなしで、それを抑えるように、彼はマントの胸元を心筋梗塞の患者のようにぎゅっと掴んで、広い街を歩き回った。

 子供の姿が目に留まる度にハッとしてそちらを向き、明らかに人間の子供だと判ると、また他方に目を向けた。

 長いこと探し回るうちに、とある路地裏にさしかかって、そこでワイワイと騒々しい子供達の集団がワッと逃げていくのとすれ違った。子供達の言葉に彼の息は止まった。

「――――――ソニアが鬼だぞ――――っ!」

そう言って笑いながら、子供達は何処かへ消えて行ってしまった。それは、彼が探し求めている者の名だ。

 子供達がやって来た方向に足を向けて進んで行くと、やがて、彼の耳に幼い子供の声が届いてきた。何やら数を数えている。

「97……98……99……――――――100!」

 その途端、目の前にある胸ほどの高さに煉瓦積みした垣根の上に元気のいい少女が飛び乗って来て鉢合わせ、2人の目がバッチリと合い、互いにそこで固まってしまったのだった。

 片膝を垣根の上に乗せて両手をついたまま、少女はジッと彼を見ている。

 このアルスに咲くマメ科の花、ルピナスの色に似た淡い青紫色の髪。白い肌。1番星が照り始めたばかりの夜空の如き、透明な宵色の瞳。

 こんな姿の子供は、これまでに見たことがなかった。間違いなかった。

 もはや――――――後は名前だけだ。

 花のように愛らしい少女が首を傾げて訊く。

「……なぁに?」

見た目に違わぬ、澄んだ可愛らしい声だった。ゲオルグはどうにか落ち着きを取り戻して、ソニアという女の子を探しているんだと説明し、するとその少女が、自分がそうだと教えた。

 この子なのだ。自分の双子は。母に瓜2つだという――――――

 ゲオルグはただひたすらに少女を見つめ、心震わせた。ヌスフェラートの娘を見ても、人間の娘を見ても、こんなに美しいと思ったことはない。何と素晴らしいことだろう。

 そして、ふいに少女に指摘されて気がつけば、あまりの衝撃と感動によって彼の変化術に綻びが出ており、手に真の姿を曝け出してしまっていた。慌てて取り繕おうとするが、少女は怯えることもなく、ただ喜び感心していた。彼女が人間と思って暮らしていると聞いていた彼は、その反応に逆に驚かされてしまい、呆気に取られた。

 少女がこっちへ来いと言うので、ゲオルグはされるがまま森の方へ連れて行かれ、そこで変身術を解くことを要求された。彼女に手を取られ引かれてから彼の思考回路は止まっており、また、そんなことを要求されたものだから頭がショートしかけていたが、正面でニコニコと笑って目を輝かせているその子を見るうちに落ち着いてきて、まともに呼吸が出来るようになり、彼は奴隷魔法にでもかかったかのように求めに従った。

 彼の真の姿を見ても少女は驚かず、返って喜びの声を上げて笑みを広げた。

 何故だろう? 何故この子は、自身を人間と思っていながら、自分のような異種族を恐れないのだ? それどころか歓迎している。なんと素晴らしいことだろう!

 訊いてみれば、彼女はこれまで魔物達と暮らしていたらしい。何処か辺境の森の奥深くで。そのせいで、これまで何年も見つからなかったのだ。だからその生活のお陰で、彼女はこうして異種族に抵抗がないのである。

 だが、話によるとヌスフェラートには会ったことがないようだった。ゲオルグは慎重に言葉を選び、自分がヌスフェラートだとは明言しなかった。人間達はヌスフェラートを恐れているはずだから、知らない方が無難だろうと思ったのだ。

 屈託なく彼に笑みを投げかける少女。鈴のような笑い声。輝く瞳。彼を引いたその手の小ささと温かみ。そして、母譲りという素晴らしき美貌。

 ゲオルグは熱病に罹ったかのようにトロンとして少女を眺め続け、胸震わせた。

 これが、同じ日に生まれたという、世界に一人の双子の妹なのだ。

 こんなに……こんなに愛らしいものがこの世に存在していたというのだろうか……?

 彼は心の底から陶酔し、ずっと自分の中にあった、温かい何かを求める本能が遂に拠り所を見つけて、一気に解放されていくのを感じた。

 ゲオルグは彼女と話しながらも、自分が兄であると名乗るべきかどうか、かなり悩んだ。仮に言ったとして、今の彼女にどうやって理解させればいいのだろう。そしてどうやって、これほど人間の世界で生き生きと生活している彼女を、この世界から離れさせることが出来るのだろう。

 喜びは極まると痛みになるのだと知った彼は、彼女と目が合う度にズキズキと胸が締めつけられ、心の中喘いだ。

 その度、彼はいっそ彼女を攫ってしまおうかと何度も思った。そして、妹として自分の側で余生を送らせようと思った。自分が五体満足で生まれてきた分、彼女には負担がかかってしまったらしいし、実際、人間ほどの老化速度でここまで成長して来たから、おそらく後数十年しか生きられないはずなのだ。その間、せめて自分の下に置いておきたかった。

「……わたし、ほんとうはお兄ちゃまがいるの」

突然そう言ってきた彼女の言葉に彼はギョッとして、本当の事を知っているのではないかと思った。だが、彼女が続けた言葉から、それが彼ではなく他人のことを指しているのだと判明した。彼女が魔物達と別れて生命の危うかったところを救ってくれた恩人らしい。

 切なく海を見つめる彼女の姿から、その人物への想いがひしひしと伝わって来て、彼は内心激しい嫉妬に駆られ、狂おしく目を伏せた。彼女の恩人だから、人物そのものを悪くは思わなかったが、それでも耐え難いものがあった。

 彼はこれまで、嫉妬というものを胸に抱いたことがない。それほどに欲する対象に廻り遭ったことがなかったし、奪い合う相手もいなかったからだ。

 自分こそが本当の兄なのだと叫びたかった。

 彼女はその兄と別れ、今では老婆と2人暮らしで彼を待ち続けているらしい。兄に認めてもらう為に強くなろうと、必死で自分を鍛えているのだ。

 彼女の体の痣や傷に目を留め、ゲオルグは嫉妬心を強めて彼女の身を案ずるのと同時に、これほどの情熱を秘めている彼女をこの世界から引き離すのはおそらく無理であろうと悟り、今日はまだ何も告げず、様子を見るだけにしようと自分に言い聞かせたのだった。

 子供が近づいて来る声がしたので、彼はそれを機に話を切り上げ、そこを去ることにした。去り際、彼女が見せた寂しそうな顔が彼の嫉妬心を和らげて、炎を穏やかにした。2人はまた会う約束をし、そこで別れた。

 彼女のとびきりの笑顔が瞼に焼き付いて離れず、彼は遠くなっていく彼女の笑い声を耳に、長いこと森の中で呆然と立っていたのだった。


 宮殿に戻ったゲオルグは早速父にこのことを報告し、ヌスフェラートの因子発現の徴候は全くないし、人間世界にいさせた方が安全かもしれないから、このまま様子を見てはどうかと提言した。ゲオムンドは思案して同意し、これからの監視をゲオルグに任せ、何か変わったことがあったらすぐにでも措置を取るように命じた。

 そしてゲオムンドは、くれぐれも頻繁に彼女と会わぬよう彼に釘を刺しておいた。度々会っていては危険だからだ。それは彼にとって苦しい注文だったが、彼女自身の安全の為にも耐え得る限り彼女に会うのを控え、偶にだけ会うようにした。

 その間は、通信役の部下を通して彼女の映像を見ることが出来たので、それで心潤わせ、飢えを凌いだ。

 彼女が母に似ていると聞いているからか、見たことのない母への恋慕と重なって、彼の想いはただの兄妹愛を既に超えていた。彼は彼女に完全に恋をしていた。そして恋を超えて、この世の何よりも愛するようになっていた。


 彼女に夢中になることで母への想いが翳るかというと、そんなことはなくて、逆にますます強まり、彼は母が住んでいた村を探すようになった。きっとその村に墓があるはずだし、あればせめて墓を訪れたかったのだ。

 それは危険な行為だったから、父には知られぬよう密かに行い、父から聞いている通り捜し難いその場所を求めて、中央大陸の大森林を彷徨った。

 母の種族は、アルスガードにありながら人間世界と隔絶すべく結界を敷いて、その中に暮らしているらしく、普通に探していては決して辿り着けない所にあるのだとか。

 だが、彼の知識と魔術を駆使して結界反応がある地域を遂に見つけ、彼はその中に入ろうと色々な技を試みた。

 そこは大森林地帯の本当に奥地で、結界などなくても、滅多なことでは人間は入り込むまいと思えるような場所だった。

 ようやく結界の一部を崩して中に入り込んだ時、彼は急に変わった空気の清らかさと光の白さに目を細め、何故か懐かしさを感じさせるその風を、胸一杯に吸い込んだ。ソニアに会えた時に感じるものと同じ、胸にこみ上げてくる感動があって、彼は瞳を潤ませた。母を想う時に心に浮かべていた何かに共通するものがあるのだ。

 しかし、彼が村を捜そうとほんの少し歩いただけで、突然足元に幾本かの矢が刺さってきて、彼の行く手を塞いだ。見れば、遠い木立の陰から幾人かの者が矢を番えてこちらを狙っている。

 彼は怒りを抱くよりも先に彼等の姿に驚き、胸ときめかせた。スラリと背の高い者が多く、長い直毛を垂らすか後ろで束ねていて、その髪色は正しく妹のものと同じだったのだ。一目で、彼女が彼らと同種族なのだと判った。中に一人だけ強い青色をした髪の男がいるが、それ以外の者は皆、淡い青紫のルピナス色だ。

 ゲオルグは攻撃する意志がないことを示して両手を広げ、杖はベルトに差したままにした。

 彼等は尚も矢を番えて、いつでも射られるように彼を狙っている。杖先の宝玉を発光させて威嚇する者も幾人かいた。これだけの結界を築いて生活するくらいだから、余所者は一様に嫌うのだろうが、彼等がゲオルグを見る目つきはそれ以上の、実に憎々しげなものだった。

 ゲオルグは、自分はあなた方の同族を母にもつ者で、墓に訪れたくてやって来たのだ、という旨をまずはヌスフェラート語で述べ、次にアルスの人間の言葉で言った。彼等がどちらを公用語にしているのか解らなかったからだ。

 八方で弓引き、杖を向ける者達が、チラチラと代表者らしき男の顔を窺った。長い髪を垂らしたその男は目を伏せ、あっさりこう告げた。アルスの言葉だった。

「……お前を村に入れる理由はない。帰れ。二度とこの結界に足を踏み入れるな」

 ゲオルグは引き下がらず更に頼んだ。

「本当に、母上の墓に行きたいだけだ! 生前は会えなかったから! それだけだ!」

 代表者のすぐ後ろに控えていた、唯一人の真っ青な髪の男が前に出て来ようとした。髪は肩までの長さしかないが、色の強さの為にとても存在感がある。殺気すら感じる形相で彼を睨んでいたが、代表者がスッと手を出してその男を止め、また言った。

「……解らないのか? お前は我々に歓迎されていないのだ。決して。立ち去るがいい。再びここへ来た時には命はないものと思え」

 何故、彼等にこれほど冷遇されるのかゲオルグには解らなかった。何処の種族でもよくあるように、異種族と交わった者を恥とみなして、無かったことにしようとしているのだろうか? 母もこのような仕打ちを受けていたのだろうか?

 どうしても村に入れてもらえそうにないので、悔しく、怒りすら覚えたが、母の故郷を汚したり、その同族達を傷つけて騒ぎ立てたりしようとも思わなかったので、彼は無念さを胸に押し込めて、幾つもの矢と杖が自分を狙う中、すごすごと退散して行ったのだった。

 結界は後ろで再び閉じ、完全な壁となって聖地を隠してしまった。


 母の故郷に憩いは見出せないと知った彼は、ますますその情熱をたった一人の妹に向けて、彼女を愛するようになっていった。彼女の身を案じて、彼の魔力と技術とで生み出した魔獣を彼女に与えて護衛をさせ、もしもの時には彼女の位置が知れる魔石を、お守りとして彼女に持たせた。

 母の故郷のことも、そこに憩いはないと知っても、そこにまだ母が眠っているのならばと思い、あらゆる手を講じて村を守ろうとした。

 彼女にお守りを与えた時、返礼として彼女は今までに聴いたこともない素晴らしい歌声を披露してくれた。それは、あの聖地に足を踏み入れた時のように彼の心を奥底から震わせ、揺す振り、恍惚とさせた。彼はそれを、この世で一番美しい音だと思い、大層気に入って、聴いた後には何日も頭を離れず、記憶を繰り返し再生して何度も何度も楽しんだ。

それ以来、彼と会う度に彼女は歌ってくれるようになり、それは彼が彼女に会う時の大きな楽しみの一つとなった。


 愛しい妹はみるみる成長していき、哀しいかな、確かに人間と同じくらいの速さで育ち、老化に向かっているようだった。今は日々美しくなっていくばかりだが、後20年もすれば急に下降線になり、彼がこれからまだ何百年も生きるというのに、彼女はきっと残り80年足らずで亡き人となってしまうのだ。

 彼女の成長に驚かされ、美しさにときめく度に、彼はその事実を痛感するようになり、やがて彼女の延命の道を探り始めて、新たな研究に加えるようになった。

 出来るものなら、自分の寿命を半分彼女に与えてやりたかった。彼女が数十年で死んでしまったら、その先どう生きれば、何を拠り所にすればいいのか、彼には全く解らない。あまりの辛さに自分も死んでしまうだろう。

 動機の熱意が格段に違う為、今までの比にならぬほどの集中力で彼は研究に没頭し、解決の道を探るべく尽力した。


 彼女は会う毎に強さを増し、いつしか兵士としての道を歩み出し、護衛の魔物が命を賭して守らねばならぬほどの危険な場面にも遭遇するようになった。

 護衛の死を知った彼は、今度は代わりに、彼女の身に何かあった時にすぐ知れる装身具を与えた。

 無理だろうと思いつつも、彼は以前から度々、自分と共に来ないか彼女に尋ねていたが、やはり彼女は育ての兄を待ち続けていて聞き入れる様子はなかったし、彼の心配は増すばかりだった。彼女が望み、そうする限り、彼は力ずくで連れ去るつもりはなかったが、果たしていつまでそれに耐えられるかは解らなかった。

 ゲオムンド似のヌスフェラートが彼女の側にいるのが危険なのだったら、ずっと人化したままでもいいから、何時でも傍にいたかった。そして声を聞き、歌を聴き、あの温もりに触れていたかった。いつでもこの手に抱き締め、いつでも全力で守ってやりたかった。それが出来るのなら、今ある地位も過去も全て捨て去ってもいいとさえ思った。

 彼が、何時でも彼女の傍にいれるよう長く人化して人間社会に潜入しかねない可能性をゲオムンドは早くから見抜いており、それだけは前もって釘を刺しておいて許さなかった。危険を冒してはならない。そして研究を蔑ろにしてはならない。これが父の口癖だった。ゲオムンドにそう制限される内は、彼もそれに従うしかなかった。


 やがて、兵士として優秀な彼女はトライア首都に転勤となり、彼の懸念は強まっていった。妹はとても勇敢で、人々が危険に晒されれば、たった一人でも飛び込んでいくところがある。トライアに何かあれば、矢面に立って戦おうとするだろう。

 彼女は強くなることを心から願っているので、彼には止められなかったが、本当は戦士職など辞めて、安全な場所で暮らして欲しいと思っていた。戦闘服や鎧などでなく、彼女の美しさに見合うドレスを身に着けて。

 しかし、血筋故の優秀さからか、彼女はメキメキと頭角をあらわして昇進を遂げていった。このままでは、トライアの軍務における要人となるのは間違いなかった。

 仮に、またヌスフェラートの何処ぞの貴族が私軍を率いて地上侵攻に来たとして、彼自身はこれまでのように我関せずと傍観者を決め込んで安全な宮殿にいられたが、今度は今までのようにはいかない。大切な彼女に危険が及ぶ恐れがあるのだ。

 自分が半分その血を引いているとも知らずにヌスフェラートと戦うことにでもなったら、なんと悲しいことだろう。しかも、有力な名門エングレゴール家の者なのだから、本来ならヌスフェラート界でも相応な扱いを受けて然るべき令嬢なのだ。

 彼は長いこと無関心だったヌスフェラート国内の動きにも目を向け、独自に調査をして情報を仕入れるようになり、事前に異変を察知できるよう務めた。ある程度は父から聞くこともできるが、何時でも自分の知りたいことを100%教えてくれる訳ではないので、自分で手に入れる方が確実だった。

 昇進していく彼女を心配して見守る、そんな彼の苦悩を余所に、相変わらず彼女は彼との旅立ちを少しも考えず、トライアを守ることと育ての兄を待つことで一杯になっていた。

 このまま、アルスガードに何事もなく時が過ぎてくれればいいのだが……


 ある日、ゲオムンドから入った連絡でその恐れは現実のものとなった。

《ゲオルグよ、昨日、皇帝から正式な通達がなされた。知るのはまだ幹部だけで極秘ではあるのだが、これから10年内に、皇帝の下で大軍団が結成されてアルスに侵攻する。我が一族も、その一大隊の結成と統率を任されることになった》

父の髑髏顔が映る水晶玉を呆然と見て、ゲオルグは耳を疑った。

「……皇帝が……指揮を……?」

《ああ、そうだ。前代未聞の大軍団となろう。 これまでの侵略軍とは全く規模が違う。遂に皇帝カーン様が、歴史を覆す為に動かれたのだ》

ゲオルグは眩暈を感じて壁に手をついた。

《心配ない。お前は今までのようにそちらで働いてくれ。ようやく役に立つ時が来たのだ》

 心配ないだって?

 ゲオルグは、あっさりそう言う父に更に強い眩暈を覚えた。父が、彼についてのことを言っているのは解っていた。

 それでは……もう一人の子供のことは……?

 彼は真っ先に、妹をどう守ろうかとしか考えていなかったのだが、父の方はその存在すら忘れているような口振りだった。

 これまでだって、成長しても彼女は美しさを増すばかりで、ヌスフェラート的兆候を一切見せなかったので、父はそれを喜んでいたが、それは我が子を殺さずに済む安堵ではなく、あくまで自分の身の安泰を喜ぶものだった。

 もしや、この人は……大戦のついでに彼女が死ぬのなら、それはそれで構わないと思っているのではないだろうか……?

 ゲオルグは気が遠くなり、父との距離を改めて実感し、尚一層妹のことが愛しく感じられた。まだ時間はあるようだが、どうにかしてその間に彼女を説得して避難させなければならない。自分の手で。頼みはこの自分、双子の兄たる自分だけなのだ。


 そう決意を固めた矢先だった。宮殿内部の研究室で培養液の調合をしていた時、ふいに自分の右腕にしているブレスレットが砕けて落ちて、破片がその場に転がった。

 ゲオルグはその破片をただ見つめ、それが何を示すのか思い出すのに束の間時間を要した。そして、ただでさえ青い顔をもっと青くして研究室を飛び出した。

 彼は、『監視室』と呼んでいる、妹の監視を専門に行わせている部下達の集う部屋に飛び込んでいき、普段あまり大声を出さない彼にしては珍しく叫んだ。

「――――――どうした?! 何があった?!」

「数時間前から偵察魔の映像が混乱してまして……只今、事態の把握に全力を……」

「――――――何故、早く教えなかった?!」

「単なる不調かと思われたのです。夜ですから映像もハッキリといたしませんし」

 部下の暗鬼はゲオルグに弾かれて壁に叩きつけられた。

「――――――彼女に何かあった!! それがまだ判らんのか?!」

「た……只今、現地に確認に向かっております故……」

ゲオムンド並みの恐ろしい形相を見せる若君に、部下達は震え上がり、肩を竦めた。

 ゲオルグはブツブツと呪文を唱えて、掌の上に魔法の地図を浮かび上がらせながら言った。

「――――――そこは何処なのだ?!」

「ト……トライア領内の町です。内陸部で……」

 地図上に点った光の標を見て、ゲオルグは目を見張った。そこは、予想した地点より遥か遠くに位置している、見当外れな、とんでもない場所だった。

「ナマクア大陸じゃない……!!」

 ゲオルグは地図をそのまま掌に乗せて、部屋を飛び出して行った。そして、テラスから流星となって飛び立ち、地図の示す地点に向かってまっしぐらに突き進んで行った。


 信じたくなかったが、辿り着いた先は、あろうことかヴィア・セラーゴだった。彼でさえ、父からの達しで近づかぬようにしているヌスフェラートの旧都市だ。彼女は流星呪文が使えないはずだから、自身でここに来れる訳がなかった。何者かに連れ去られて来たのだ。

 ――――――まさか、バレてしまったのか?!

 早鐘のように打ち鳴る心臓の鼓動が耳にも喉にも伝わり、ゲオルグは拡大表示された立体地図上の位置を頼りに、光の示す地点を目指して走った。

 叫び声。

 辿り着くと、地上入り口の階に近い、ほんの数階下のフロアーで事は起きていた。

 背面からでもそれと判る姿のヌスフェラートが、しかも吸血嗜好の者が美食に耽っている時に見せる格好のままに、何者かに覆い被さっていた。

 ほぼ確信していたが、そのヌスフェラートの陰から床に広がり流れている長い髪の色を目にした時、彼の全身の血が沸騰して瞳が熱に輝いた。

 ゲオルグは、誰とも知れぬそのヌスフェラートの首を掴んで引き剥がし、吊るし上げて、もがくのも構わずに一気に首をへし折って、汚らわしい体を横に打ち捨ててやった。

 慌てて覗き見れば、そこに横たわっているのは、やはり彼女だった。全身傷だらけで血塗れの姿に彼の胸は激しく締め付けられ、痛みに顔を歪めた。口から胃が飛び出しそうなほどだ。彼女は薄く目を開けて彼のことを見ていた。

 改めて死体を見ると、彼女を襲っていたのは、情報収集の中で彼も知っていた吸血鬼だった。

 ともかく、ゲオルグはまず彼女に応急処置の治療魔法を施し、グッタリとして力のない彼女を抱き上げて幽霊城からの脱出を試みた。


 ようやく安全な所にまで逃げ切った後で、ゲオルグは、彼女が何故あんな場所にいたのか、その理由を知った。人間社会に潜入していたあの吸血鬼が彼女を見つけ、何と、かつて皇帝が妃と定めた女性に似ているという観点から拉致されて、皇帝に引き合わされたのだ。

 また、彼女の育ての兄が先の大戦でバル=バラ=タンの一味を破った者でもあることから、彼女をダシにしてその男を呼び出し、仇を取ろうという企みもあったらしい。

 ゲオルグにとって、何より重要で恐ろしいのは、彼女が通信術で皇帝カーンに会わされたということだった。彼女はまだ何も、自分の身に起こり得る物事について知らない。皇帝側は今のところ、彼女とエングレゴール家とを結び付けてはいないようで、ただ捜し続けている女性の手掛かりとして目をつけたに過ぎないようだったが、由々しき事態だった。早急に手を打たなければならない。

 後のことは自分に任せて安心するように言うと、ゲオルグは彼女を眠らせてやり、ヘトヘトの彼女は、彼の腕の中で沈み込むように、まどろみの中に落ちていった。

 彼は、危うく助け出せたことを天と母に感謝し、彼女の身に起きた危険を今一度思い返して恐ろしく思い、肌を震わせてギュッと抱き締めてやった。

 彼女を失ったら、自分はとても生きてはいられないだろう。

 ゲオルグは愛しい妹の髪を撫で、額の前髪を掻き上げ、血で汚れたその額と頬にキスをし、また抱き締め、暫くそうしていた。


 必要な時の彼の行動は、父ゲオムンドに劣らず迅速で容赦がなかった。

 彼はまず、彼女を襲っていたヌスフェラートの死体を部下に命じて転送させ、跡形もなく焼き消してしまい、ヴィア・セラーゴの幽霊城にも、出来るだけ証拠を残さぬよう破壊や修復を行った。

 そして、衛兵達がどのようにこの事件を捉えているのかを偵察魔に探らせて把握し、彼女とのやり取りを目撃していたらしい者を中心に、ほぼ全員に暗示をかけて忘れるよう操作し、または違う記憶を植え付けて、何が起こったのか解らないようにした。暗示にかかり辛かった者は邪魔なので殺した。

 幸い、ヴィア・セラーゴとヴァイゲンツォルトとの間に距離があり、残された衛兵達が役立たずばかりだったから、工作は巧くいった。

 ゲオルグはこのことを父には告げずに、全て独自で極秘に行い、彼女と直に会う手筈になっていたという皇帝がこの事実をどう受け取るのかを、幾多の偵察魔を派遣して見守った。

 もしもの時の為に宮殿には連れて帰らず、人間社会のとある町の宿を借りて、そこで彼女を看護し、経過をみた。

 皇帝側の動きを探る不安な時間ではあったが、こんなに喜ばしい時もまたなかった。危険だろうと何だろうと、こうして長い間、彼女の傍にいられるなんて。通信役からの連絡を聞くとき以外、彼はずっと傍にいて彼女を見守った。

 皇帝は、彼女を襲った男が彼女諸共消えたことを怪しんではいたが、彼女についての詳しいことはまだ知らされていなかったようで、母親或いは父親、同族の者が助けに来たと思っているらしい。

 人間に助け出す力はないと思っているので、人間世界から来た救援という可能性は少しも考えられていない。また、育ての兄との関連もまだ伝わっていないようなので、その線も全く考えられてはいなかった。そして何より、同じヌスフェラートが一枚噛んでいようとは、夢にも思っていないようだった。

 それは好都合だった。あの村に矛先が向いてしまうかもしれないが、エングレゴール家は安泰だ。それに、母の墓は荒らされたくないが、自分を冷たくあしらったあの人々達はどうなろうと全く構わなかった。自分を冷遇したように、同じ兄妹である彼女のことも受け入れないのだろうから。この美しい姿を見れば気が変わるのかもしれないが、誰が彼女のことを教えてなどやるものか。

 ゲオルグはそう思って、一人ほくそ笑み、自分だけの宝物である彼女の髪をそっと撫でた。

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