第4部30章『トライア祭』31
森を抜けた2人は、街外れの馬の預け所で老人に馬を託し、連れ立って音楽と人に溢れる街の中へと歩んでいった。傍目には女性の方が男性の手を引いて先導しているように見え、実際そうだった。強引にグイグイと引っ張るわけではないのだが、女性がそうして先導していないと、男性の方は足を進め難そうだった。“気が乗らない”という心理がありありと表に顕れてしまっている。
ソニアは慎重に道の端を歩き、何度も彼を振り返り見ては様子を窺い、手を通して伝わってくる緊張感にも気を払った。どんなに遠回りになっても、できるだけ人の少ない道を選んで歩き、どうしても人だかりの中に入る時は、なるべく接触することがないよう彼を壁際にさせ、自分が盾となって歩き、時折優しく声をかけながら進んだ。その間、決して離さぬよう、しっかりと手を握り続けて。
そこら中が仮装した人ばかりで、本当にこの2人の恰好など、すぐに目立たなくなる。女神に扮している者あり、魔術師に扮している者あり、魔物やら鳥やら頭に角を生やしたのやら色々だ。魔物に関しては、今の時節に人間を襲う類は不謹慎であるから、所謂その地域に根差した言い伝えのある悪戯妖精のようなものに留められている。下手に仇の恰好をしたら、酔った人間に袋叩きにされかねないから、本人の安全の為でもある。
防衛上、国軍や近衛と紛らわしくなるような黒や赤の胴着で戦士になることは禁じられているが、その他の色の戦士も大勢いる。子供達には特に戦士が多くて、玩具の剣を振り回し立ち合いごっこをしている光景が街のあちこちに見受けられた。
そんな雑踏の中だと、2人の扮装はどちらかと言いえば道化師のようであった。人ウケする恰好だと「それ、いいね」と声をかけられたりすることもあるから、敢えてつまらないものにしたのだが、それが今のところ成功しているようである。
ルークスも人々の恰好に目を引かれており、キョロキョロとしていた。このような仮装の祭は初めてだと言うのだ。
「正午からは、国立歌劇団で歌劇があるの」
「歌劇?」
「歌や踊りのある、お芝居のことよ。きっと面白いと思うわ」
人間達に気を取らているせいで、少し会話が覚束なくなる。ルークスはまるで狼の棲む森の小道を主人に連れられて歩く犬のようだった。犬と言っても、勿論、狼に怯えて尾を巻く臆病なものではなく、相手の姿がチラとでも見えたら飛び出して行きかねない猟犬に近い。そんな彼の手を握っていることは、猟犬の首に綱を着けているようなものだった。何かのきっかけで双方が危害を加えることのないよう、ソニアは今日一日そうしているつもりだった。
幸い、身体の一部でも彼女に触れてさえいれば彼はかなり落ち着いていた。少し遅れながらも彼は「歌は好きだ」と返事をした。
「良かった! 後でそれを見に行こうと思うの。それでは街で色んな所を見ましょう」
石畳の道を行き交う幾人もの仮装者。なだらかな勾配に築かれた家々は三叉路に次ぐ三叉路の中に立ち並び、迷路のようになっている。煉瓦造り、木造り、石造りと、家屋の種類や色も形もバラエティーに富んでおり、それぞれが各々の趣味と家風と個性を生かして我が家を飾り立てている。軒先にはドライフラワーが吊るされ、鉢植え、レース、布、リボン、人形、張りぼて、絵画、木の実、果物、魚の剝製、魚の骨、菓子、パンなど、あらゆるものが窓や屋根、壁や塀を彩っていた。街を往く人まで仮装してるせいで、今日は特にいつもと違った世界の雰囲気が出ている。
装飾や看板で何を扱う店か判り易くなっており、ソニアは屋根に大きな風景画と肖像画の掲げられている家屋を見つけると、そこに彼を連れて行った。
「ここは、街でも有名な画家のアトリエなの。時々、王宮用にも依頼される人なのよ」
王宮御用達画家と言っても、特別大きな家に住んでいるわけではないので出入口は狭く、扉をくぐる際に、ちょうど中から出てくるところだった固太りな中年男性と肩が触れ合いそうになり、ルークスは過敏に身を反らせた。人間の男に触れるなど、汚らわし限りの何ものでもないように。
それに気づいたソニアは一瞬ヒヤリとしたのだが、その男性は祭の陽気さで気分を害することもなく「おっと失礼」と手を挙げて、その場を普通に去って行った。
ホッと溜め息をついて、ソニアはこの狭い空間の中で他にぶつかる危険がありそうな人間はいないか中を見渡した。絵画鑑賞に来ている者は他にも数名アトリエ内にいて、夢中で絵を眺めてるところだ。この建物は入ってすぐの所に階段があり、1階にも2階にもそれぞれ絵が飾られている。只今はそこから見える限りで計8名ほどが鑑賞中といったところだ。
ゆっくり回れば大丈夫だろうと思い、ソニアは彼にピッタリと身体を寄せ、必ず人間と彼との間に自分が位置して盾となるようにし、中に進んだ。彼女がそうして身体を密着させていれば、彼の注意も彼女の温かみの方に向くようで、もう少々落ち着いて彼女と共に風景画を観た。
そして一度絵画を目にすると、驚くほどに彼はその世界に没頭した。
浅い川の流れる森。暗い茂みの向こうから、こちらを窺い凛と立つ鹿。筋雲の流れる空を舞い踊る小鳥達。流れの明暗は、その水の冷たさと穏やかさを表している。まるで囀りと川音がいまにも聞こえてきそうだ。いや、聞こえたような気さえした。
絵画というものをじっくりと鑑賞するのは初めてである彼は、布という平面上に描かれた色が起こす驚異に暫く絶句した。ヴァイゲンツォルトでヌスフェラートの絵画をチラと視界に入れる機会はあったのだが、常に緊張感のある訪問で絵画の方をメインに目を向けることなどできなかったのである。初めて鑑賞目的で目にした絵画が、王宮レベルの作品であったから尚更、彼を刺激した。
ヴォルトの教育の中では、戦闘における作法など戦士としての美学に重きを置いていたので、造形美学というものに触れる機会としては、よくデザインされた武器、防具や建築ばかりだったものだ。
彼が案外、興味を示してくれたので、ソニアは彼の進みに合わせてゆっくりと歩み、絵が変わる毎にその都度、それが何処の風景なのか、誰の肖像画なのかを解説した。
「私の部屋にも一枚あるのよ。以前、誕生日に贈られたの」
彼は彼女の部屋のテラスにまで行ったことはあるが、部屋の中までは入らなかったので、その絵のことは知らなかった。
彼は無言で数十枚の絵に見入った。それらの絵の中の世界は、画家がその対象を見た時に感じた“美しい”という想いがそのまま込められ、表現されているようだった。画家の恋人という噂の女性をモデルに描いた肖像画は正にそうだった。画家の中に取り込まれた映像は、画家の心の中で掻き混ぜられ、洗われ、整えられ、再結晶化されていた。
「……君みたいだ」
「えっ?」
巧く説明できないルークスは、それ以上何と言ってよいものか戸惑い、ソニアの手を引いてアトリエを出た。その背中は、何だか照れているように見えた。