第4部30章『トライア祭』29
二人の服や武器、荷物だけが木陰に残され、後を追う密偵達の極々僅かな気配さえも去って行った森の中、魔法の障壁によって音と気配を悟られずにいた姿なき者達が一息ついた。彼等は障壁の中で、更に姿まで消しているのだ。
「……あの通りだ」
「実に……仲のおよろしいことで」
姿が見えずとも、妖精の小さな声からは恥じらいと紅潮が伝わってきた。
「こうして盗み見るのも、本当は気が引けるんだが……どんな扮装で街に行くのか見ておかないと、後で探せないからな」
「え? では、もう後を追われないのですか?」
「……ああ、これ以上無粋なことはしたくないしな」
それは、セルツァと妖精ナージャであった。彼はヴァリアルドルマンダのことがあってから、こうしてずっと姿を隠して彼女を見守っていた。姿を現せばソニアに質問攻めにされることが解っており、その殆どに答えられない立場に自分があるものだから、彼女に済まなく思いつつも逃げに徹しているのだ。
そうして、長老エアルダインの指示を仰ごうと答えを待っていたのだが、つい今しがた通信役である妖精ナージャがそれを持ってやって来たのである。ソニアが城から出てきたので、まずは観察に集中したため、二人の伝達はまだ途中だった。
セルツァは、あのルークスが祭でごった返している人間社会の中に入って平気でいられるのかについては少々心配していたのだが、彼女に何かすることはないだろうと思い、後は放っておくことにしていた。
「もう、これ以上彼女に黙っているわけにはいかない。それでは礼を欠き過ぎている。誰かが彼女に告げなければ……。それで、長老は何と言っておいでだ?」
「長い間、リュシル様とご相談になられて……エアルダイン様は、どうやらご自身の口からソニア様にご説明したいと思っておられるようです。ですが、あの通りのご老体ですから、ご本人がこちらに来るわけにもいきませんし、ソニア様をお呼びできれば村で直接お話になりたいようですが、その場合はソニア様が応じてくださるかどうかによってまいります」
「そうか……。難しいかもしれんな。軍務にかかりきりで、この国を離れられんだろうから」
「その場合は、リュシル様が出向いてご説明申し上げる予定のようです」
「あいつが来るか。……その方がいいかもしれん。あいつの方が、きっと巧く彼女に説明できるだろう。オレは、こういうのは苦手だからな……」
誰が見ているはずもないような樹上の葉陰ではあったが、二人は尚も姿を隠し続け、障壁の中に籠って念には念を置いていた。ディスカスが何かしらの追跡措置と監視を行っていることは察知していたし、他のエルフ族から偵察が来て話を盗み聞きされる可能性がないとも言い切れないので、万事に慎重さが求められるのである。
「やはり、ワー・エルフも快くは思っていないようだからな。まだまだ、この先何が起こるか判らない。ヴァリーがやって来た時だって、他の奴らの助けがなかったら守り切れなかった。本当にヤバかったんだ。オレ一人じゃ難し過ぎる。早く応援が来ないことには、彼女の命の保証はできないぞ」
「エアルダイン様に、そのようにお伝えします。やはり……リュシル様が、そうなるのでしょうか?」
「わからん。直々に守護天使となるよう命を受けたのは、まだオレだけだ。残る座は、これから追々選ばれていくだろう。取り敢えず、今は誰でもいいから、彼女の周囲を固める者が欲しい。未来の守護天使である必要はない。悠長なことは言っていられないんだ」
「そうですか……」
すぐ側の小枝に舞い降りてきた小鳥が、何かがいるようには見えないこの空間に気配を感じて、慌ててまた飛び立っていってしまった。ピチチチチ、と驚きの声が遠ざかっていく。
「セルツァ様の目から見て、他に有望と思われる方はいますか?」
「……守護天使の候補でか?」
「はい」
セルツァは、地下世界に聞こえる強者、切れ者達よりも、先日あったばりの戦闘の場を思い浮かべた。彼女はこの地上世界で多くの者に愛されている。人を護るのに、愛に勝る力はない。
「さっきの奴は……なかなかいいかもしれないと思ってたんだがな」
「えっ? あの……ソニア様を斬ったという男が……ですか?」
「まぁ、あれは事故だ。戦士としての腕はかなりのものだし、あの通りソニアを大切に思っている。リヒテンバルドという名を聞いたことがあるか?」
ナージャは首を傾いだ。普段この地上世界の、しかもエリア・ベルだけで暮らしている妖精では、セルツァほど地下世界事情に詳しくないのである。
「竜時間という技を使える、稀な能力を持った皇帝騎士団の首席騎士だ。とっくに退役していたんだが、どうやらこっちに来ていた上に子を残していたんだ。それが、あの男だ。しかも竜人ヴォルトが唯一弟子に取って仕込んだ特別な戦士なんだ」
ナージャは大層感心して溜め息を長々と漏らした。それは妖精にも解る華々しい経歴だ。