第2部第8章『ゲオルグ』その1
8.ゲオルグ
エングレゴール家の当主ゲオムンドが、領地内の森の奥にひっそりとある無人の森番小屋に赤子を連れ帰ったのは、ハタリの木に実がなって、それが紫色に発光する頃だった。
そこに呼ばれた忠実な召し使いは、赤子をあてがわれて乳母となるよう命じられると、何も訊かずに従って、その日以来、森番小屋でその赤子を育て始めた。
笑うことのない、家風にピッタリの暗い目をした年輩の女召し使いは、主に追及したりすれば命がないのを知っていたので、その赤子が何者なのか、どうしてここで育て、まるで世から隠すようにするのかは一切尋ねなかった。
だが、訳を訊かずとも、召し使いには大方解っていた。未だ妻を娶らぬゲオムンドに、この赤子がよく似ていたからである。彼は、世に知られてはならぬ私生児を引き取ってきたのに違いない。
そしてそれを証明するかのように、この直後、ゲオムンドは殆ど形だけの偽装結婚をし、赤子の母親と思わせられる者を用意した。
乳母は、その男児に始め手間取った。これまでに自分の子供や一族内の赤子の面倒を幾度となくしてきた女だったが、この赤子だけは今までの赤子のようにはいかなかった。何が気に入らないのか、来たばかりの頃は、泣いて、泣いて、泣き止まず、大概の赤子が落ち着くことをあれこれ試しても、安心して眠ることがなかったのだ。
主の息子らしい気難しさの表れなのか、とにかく乳母はほとほと疲れ果てた。そして赤子の方も泣き過ぎてみるみる痩せていき、乳母をハラハラとさせた。もし死なせでもしたら、確実に自分の命はないだろう。
滅多なことでは進言したり泣き言を言ったりせぬ優秀な召し使いであったが、ある日様子を見に来たゲオムンドに、乳母はたまらず申し出た。どうしても泣き続けて止まない、と。
その場での叱責や、最悪の場合殺されることも覚悟していた彼女だったが、それを聞いたゲオムンドは特に咎めもせずに、何か深く考え込んで暫し沈黙すると、やがて《考えておく》と言って何処ぞへ出掛けて行き、翌日には変わった品を色々と持ち返って小屋に置いて行ったのだった。音の出る玩具や、鈴や、花の香りのするオイルなどで、普通の子供には使わないような物ばかりだった。
しかし、鈴を鳴らしてやると赤子は驚くほどに落ち着き、香油を染み込ませたシーツに寝かせてやれば、ぐっすりと眠ったのだった。乳母は不思議に思いながらも、ようやく安心して育児が出来るようになり、実によく赤子の面倒をみた。
ゲオムンドは定期的に森番小屋に顔を出して赤子の様子を見ていたが、その時に彼が纏う緊張感は、愛する我が子を目に納めようというより、何らかの異変を恐れて経過を観察に来ている医学者のものに近かった。
幸い、彼が恐れる変化は座(ヌスフェラートの暦の区切り方。地上世界での月に相当する)が変わっても起きないようで、乳母は変わらぬ育児と献身を命じられた。
赤子が目を開けると、その瞳はゲオムンドと同じ翠玉色をしており、しかしその中には紫色の星が2つ、3つと瞬いているのが判った。何処の母親か知らないが、その星は母親の名残に違いなかった。
泣き止まぬ内は憎らしくてならなかったが、この頃になると、乳母も赤子に愛着を抱くようになっていった。
またゲオムンドが訪問した時、乳母は尋ねた。《この子は何と呼んで育てればいいのか》と。ゲオムンドは、そんな事はすっかり忘れていたかのようにそこで考え込み、そしてこう言った。
「……ゲオルグ」
それ以降、乳母は赤子を《ゲオルグ様》、《ゲオルグ坊ちゃん》と呼ぶようになった。
2つの座が過ぎ、3つの座が過ぎ、それでも何の変化もないようだと見ると、ゲオムンドは赤子が人の目に触れることを徐々に恐れなくなり、赤子を連れて自由に森を散策することを乳母に許すようになった。
1年経ち、赤子が立ち上がるようになると、他に2人の召し使いが専属としてあてがわれ、身の回りの世話や教育などが十分に行われた。それぞれが主の恐ろしさを知っているので、この子供のことを決して他所には漏らさなかったし、育児に必要なこと以外は主に一切詮索しなかった。
科学者や魔術者の大家を代々多く輩出しているエングレゴール家であるだけに、この子供も幼い時分から賢いところを見せ、文字を覚えるとすぐに言葉や魔法の名前も次々と覚えていき、数のゲームやブロック遊びなどを軽くこなしてしまった。
彼は森での遊びを特に好み、そこに生きる獣や植物達に興味を示して、日がな一日よく観察をしたり、追い掛けて掴まえたり、バラバラにして調べてみたりした。
この子が賢いことを知ると、ゲオムンドも遠くに連れて出掛けるようになり、様々な知識を授けて、早くも将来の部下として彼のことを見ていた。
彼は、ゲオムンド様、ご主人様、と傅かれるこの男が自分にとってどのような存在なのか知らなかったし、ゲオムンドの方も自分が父であるとは教えず、彼を息子だとも言わなかった。そう呼ぶ癖がつくことを恐れていたので、彼が成長していき、それでもまだ心配していた徴候が見られないと知るまで、その習慣は続けられた。
10年経ち、これから更に40年をかけて50歳で成人となるヌスフェラートの緩やかな成長期を迎え、それでも彼が相変わらず外見的には異質さを見せないと踏んだゲオムンドは、15歳のゲオルグに、遂に自分達が父息子の関係であることを告げた。
何となくそう思っていたゲオルグに大した驚きはなかったが、ようやく父親が打ち明けてくれたことは、やはりどことなく嬉しかった。
ゲオルグは、成長すればするほどゲオムンドによく似ていった。若い頃の主を覚えている者は、ゲオルグの姿を見かけると間違いなく主の息子だと思った。広い額やしっかりした鼻梁、ギョロリとした印象のある三白眼。
だが、違う点もあった。父ほどは濃くない目の隈と、身の周りを世話する者達が感じる彼の性格である。エングレゴール家の者は、召し使いや目下の者に手を上げたり鞭打ったり足蹴にしたり……と、残虐で乱暴な者が多いのだが、このゲオルグだけは、無闇に乳母や召し使い達に罰を与えたりはしなかった。隔離されて育ったから、エングレゴール家の者らしい振る舞いを見て刷り込まれなかったせいもあるのだろうが、彼等の見る限り、元々の性分からして何かが違うようだった。
ある日、彼がゲオムンドに連れられて領地内の家畜について説明を受けていたところ、家畜の世話係の一人が不注意で家畜の足に怪我をさせてしまい、その若い男はゲオルグの目の前でゲオムンド直々の折檻を受けた。魔法で簡単に治る程度の怪我だったので鞭打ちだけで済んだが、それでも、激しい肉体的罰はゲオルグにとってショッキングだった。ゲオムンドは全く躊躇なくその男を痛めつけ、失神させてしまった。
ゲオムンドは、時に出来の悪い召し使いも部下も平気で殺し、一族の者でも、家名に傷をつけるような失態を犯した者は直ちに抹殺した。
ゲオルグは、何故父が人々に恐れられているのかを次第に理解していき、自分でも怖いと思う反面、そんな父に憧れを抱くのだった。
ある時、ゲオムンドは息子にこう教えた。《自分にとって邪魔な者は、誰であろうと殺す》と。それは、息子たる者お前もそのように生きろという訓戒であり、同時に、例え息子でも役に立たなければ殺すという宣言でもあった。ゲオルグは心底背筋から凍りつき、何とかこの父に認められたいものだと思うようになった。
自分が父であると告げてからも、ゲオムンドの息子に対する態度は全く変わらず、これまで一片の愛情すら見せたことがなく、おそらく生まれてこの方、誰にもそのような感情を抱いたことがないように思われた。
それでも、恐れられる領主としての憧れと父への慕情から、ゲオルグは少しでも父に気に入られ満足されるよう務め、父の仕事を手伝い、勉学にも励んだ。
ゲオルグは1度だけ、父に母親のことを尋ねたことがあった。殆ど会わぬ母は存在していたが、鋭い彼は生活ぶりから本当の母ではないらしいことに気づいていたのだ。乳母に問い詰めてみたところ、疑わしき証拠を幾つも聞き出すことが出来て、それが決め手になっていた。
人間世界ではまだ思春期の少年くらいの姿である23歳のゲオルグは、そこで初めて、本当の母のことを少しだけ知らされた。例え息子にでも、根掘り葉掘り訊かれたり問い質したりされるのは許さないゲオムンドだったが、この時ばかりは何やら深く考えて、慎重にこう告げたのである。《お前の母はもう死んだ。今は義母を母とせよ》と。そしてこの事に関して決して他言せぬよう、よくよく注意をしてゲオルグに釘を刺しておいた。
ゲオルグはそれ以来、亡き母のことを思い描くようになった。
乳母や召し使い達に傅かれても、当主の息子として扱われようとも、ずっと孤独で心を満たされることがない。
そして彼は、その原因が何なのか、その頃自覚した。彼は、人並みの愛情に飢えていたのである。ヌスフェラート全般がそもそも冷淡な情の種族ではあるが、それでも親子間や兄弟姉妹間、男女間、夫婦間にはそれなりの情愛が存在している。ところが、彼の生活にはそれが全く欠けていたのだ。求める側の彼は幾ら欲しても、それを返し、与えてくれる存在がいないのである。目に見える対象として父がいて、父に尽くそうとしていたが、見返りはあまりに冷たかった。
だからゲオルグは、見たこともない母を心の中で思い描き、美化し、そこに憩いを感じていた。召し使い達もまた、ヌスフェラートのエングレゴール家の者――――しかも、あのゲオムンドの息子にしては冷酷な仕打ちをしない彼に仕えるうちに、もし側に母親がいたら、さぞ母想いの孝行息子となっていただろうと思い、少し憐れんだ。
彼にとっての喜びは、森の中で木々の香りや葉擦れの音を聞き、鳥の声に耳を傾けている時にやっと感じることが出来る僅かなものだった。何故自分がこんなに孤独で、満たされないのか、彼には解らなかった。
月日の経つうちに、自分が普通の若者より変わっていることにも気づき、ゲオルグは戸惑った。強い光を嫌う者が多いヌスフェラートだが、彼は魔法を発生させた時に現れる閃光を見ると心ときめいたし、特に吸血嗜好の者が嫌う太陽炎も好きだった。
ある時、領地近くの森で旅の途中のダーク・エルフが歌っているのを目撃した時には胸踊るようだったし、川の水がサラサラと流れていく音を聴くのも好きだった。どれも、普通のヌスフェラートはあまり関心を示さないものばかりである。彼等の関心は、外側の自然よりも、内側である血肉の方に向けられているものなのだ。
領主の息子として、またその持てる才能を認めて何人もの娘が近づいて来た時に、彼は特に自分の異質さを感じた。彼は全くと言っていいほど、その娘達に関心が湧かなかったのである。ヌスフェラートの成人年齢とされる50歳間近になっても、彼は一向に娘達に興味を持たず、自分でもそれを不思議に思っていた。
愛を求めていながら、なぜ自分の中にそれを見出せないのだろう。やはり父と同じ無常さを自分も持っていて、その表れなのだろうか? 彼はそう思った。
ある時、いつものように領地内の森で動植物の観察をしていると、一人の娘が彼の下に寄って来た。本家を訪問中の遠縁の者だった。
案内してくれという娘の願いにあまり気乗りはしないものの、一族交流として渋々彼はその辺を連れて回り、彼に興味津々の娘の質問に適当に答え、今では改築されて広くなった、元は森番小屋である彼の住まいにも寄りたがったので案内した。
娘の一瞥で召し使い達はそこから去って行き、2人きりとなると、娘は唐突に彼に抱きつきキスをした。彼はそれを反射的に引き剥がして、押し退けてしまった。娘の波打つ黒髪は乱れ、紅が頬に向かって伸びてしまっている。目を丸くしている彼に、娘はニヤリと笑った。
一族内でも美しいとされている娘で、彼にもそれはよく解った。だが、彼の心も体も、これをチャンスとは捉えていなかった。娘は少しも諦めずに、戸惑っている彼に擦り寄り、彼の目の前で暗色のドレスを脱いでいった。
彼の目は成り行きを眺めていたが、彼女の姿に釘付けになっているのではなく、頭の中で自分にこう問い掛けていた。《本当に自分に愛がないのか、試してみてはどうか?》と。
そうして彼は、なかなか火の灯らぬまま、その娘の肌に手を触れてみた。
満足のいくものの無かった彼は半ば失望し、それ以来、その娘を遠ざけていた。
しかし、数座の後に娘から思わぬことを告げられた。《お腹にあなたの子がいる》と。
驚いたことには、彼自身がゲオムンドにそれを話すよりも早く、知らせを受けた場を盗み聞きしていた乳母がこのことを報告していた。
ゲオムンドの行動は迅速だった。父に知らせるべきか悩みあぐねている彼の下にやって来たゲオムンドは、一言、《あの娘が欲しいか?》と訊き、それに対して彼が驚きながら否定すると、その日の内にゲオムンドは全て片付けて、夜には彼に《性悪女は始末した》と告げたのだった。
ゲオルグは改めて震撼した。全く愛も熱も無い状態だったとは言え、一時触れたあの娘を、特に嫌っても憎んでもいなかった。この完璧な冷酷さをさすが父だと思う反面、何故ここまでするのか彼には理解しかねた。
《本当に自分の子がいたかもしれないのに》と彼が言うと、ゲオムンドは暫し沈黙した後、こう言った。
《お前はハイ・ブライドなのだ》
愕然として固まってしまった彼を置いて、ゲオムンドは出て行ってしまった。
ゲオルグはそれを確かめようと幾つかの事を試したが、結果はどうもそれを裏付けているようだった。
そしてその頃、彼の噂が娘の死の謎と共に広まるようになったことで、以前よりゲオムンドが懸念するようになり、ゲオムンドは彼を連れて、ふいに遠い異国の地に旅に出た。
父の命で、ヴァイゲンツォルトはおろか領地内からもあまり出たことの無かったゲオルグは、流星となってひたすら上昇した先にあった別天地に、これまでの常識を覆された。
初めて見る本物の太陽。明るい大地。光降り注ぐ森。『夜』という闇の時間帯。その時天空に浮かぶ『月』という美しい天体。宝石をちりばめたかのような星々。
そこは、文献でしか読んだことのなかった別世界、アルスガードだった。
何故、父が自分をここに連れて来たのかゲオルグには解らなかったが、導かれるまま、とある孤島の宮殿に辿り着いて、そこで初めて父から色々な事を明かされた。そして、何故ここに連れて来られたのかも説明された。
かつてゲオムンドは、このアルスガードに仕事で来ていた時、この世界に住まある種族の娘に恋をし(それ自体がゲオルグには驚きだったが)、その娘との間に生まれた子が、ゲオルグなのだと言う。ゲオルグは、ヌスフェラートとその種族とのハイ・ブライド――――合いの子――――なのだ。
彼が生まれて間もなく、その母が死んでしまったので、ゲオムンドは彼を祖国に連れ帰り、育てたのである。
驚きはそれだけではなかった。何故、これまでゲオムンドが彼の変化――――ヌスフェラートらしからぬ特徴の発現を恐れていたのかには、もう1つ別の理由があった。彼の母であるその女性は、その当時はゲオムンドも知らなかったのだが、同時に皇帝であるカーンにも見初められ、異種族でありながら妃にとまで望まれた唯一の人だったのである。
後にそれを知ったゲオムンドは、仕える皇帝より先に自分が娘に手をつけてしまったことに恐怖し、生まれてきた子が彼女の特徴を持って、彼女に似はしないかと心配したのだ。もしそうなれば、すぐに事実が発覚し、皇帝の大いなる怒りに触れて何をされるか分かったものではない。
ゲオルグは恐ろしくて訊けなかったが、もしや、父が母を殺したのではないかとも思った。全ての証拠を隠して身を守る為に。そして、自分がもし今とは違った――――ヌスフェラートらしからぬ外見を持って成長していたら、やはり殺されたのだろうかと考えた。
ゲオムンドは、母の死因は病であり、皇帝とのことを知ったのはその後だと言っていたが、この父が父であるだけに、ゲオルグは何とも信用し切れなかった。
ヌスフェラートの徴候しか見せぬ彼を、ゲオムンドはこれまでは安心してヴァイゲンツォルトで育ててきた。だがここに来て、私生児らしきゲオルグの噂が皇帝の耳にも届きそうになったので、互いの安全の為に、このアルスガードに地上派遣を装って連れて来たのだとゲオムンドは息子に教えた。
この孤島の宮殿は、かねてからゲオムンドの地上活動拠点であり、不在にしていることの方がずっと多い場所だったが、長年ここに住まい、管理、維持をしている部下達も揃っているので、生活に不自由はしない隠れ家として格好の場所であった。ヌスフェラートは地上侵攻の時期以外、殆どこのアルスガードに来ることはない。たかが謎の私生児の為にこんな所まで捜しに来ることはあるまいと踏んで、ゲオルグをここに避難させることにしたのである。
ゲオルグは父の説明を聞き入れ、納得し、それからというもの、アルスガードでの生活を始めた。もし、そうした事情がなかったとしても、彼は一目でこの世界が気に入っていたので、これまで暮らしてきた故郷には何の未練も感じなかった。それどころか、これまで満たされなかったものがここにはあるようで、喜びすら感じていた。
これまで謎であった自分の性格も、父に打ち明けられた事実によって徐々に納得していった。あの薄暗い世界や人々が好きになれなかったのは、この光溢れる世界で生きていた母の血のせいなのだ。
太陽の光射す昼間が嫌いなくせに、ヌスフェラートは地上侵攻を企て続けていて、占領した暁には夜を主な生活時間帯にするつもりらしいが、ゲオルグにはそんな必要は感じられなかったし、むしろ昼間の方が好きだった。母の種族も、きっと同じように太陽の下で生きているのだろう。
彼は母を想い、この世界のあらゆる事象を楽しみ、逍遥した。
始めは、部下との疎通の為にアルスガードの言葉を学ばねばならなかったが、それもすぐに覚え、宮殿の部下達も主の息子である彼によく従い、尽くした。
地上でも地下でも彼は孤独だったが、それでも、彼はこのアルスガードの方を気に入っていた。
ゲオムンドは偶に会いにやって来るものの、殆どは遠隔通信魔法によるやり取りだけで、直接の接触をなるべく避けようとしていた。
このアルスガードに来るまで、人間という種族を見たことがなかった彼だったが、言葉を覚えてからは変化してその生態を観察してみたりし、地下とは違う自然現象や動植物の生態にも大いに興味をそそられて、独自に研究を重ねた。
孤独と逍遥の中で、彼はますます母への想像を逞しくしていた。自分はハイ・ブライドという、ヌスフェラートの中にいても、こちらの世界に来ても全く同族のいない宙ぶらりんな存在であったが、それでも、皇帝カーンにすら求められたほどの女性が母であるということは、何とも誇らしかった。
きっと、この上なく素晴らしくて、美しい女性であったに違いない。それだけは、彼のハイ・ブライドとしての哀しみを和らげてくれた。
まだ生きていてくれたら、どんなに会いたかったことか。彼は何度もそう思った。
アルスガードの人間という種族は、短命ですぐに壊れ、すぐに忘れる、鼠か鳥のような生き物だった。ヌスフェラートが何度も人間の手からこの世界を奪おうとしているのにも納得がいき、どうしてこんなに愚かで弱い種族から、未だにこの世界を勝ち得ていないのかが不思議でならなかった。
たった30年前のことでも正しく伝わらずに事実が湾曲されるし、すぐに笑いすぐに泣く。そしてまた忘れる。
彼はそのうち人間観察には飽きて、専ら世界中の自然現象や生態の研究に従事するようになり、いずれこの世界を侵攻する時の役に立つだろうと父にも喜ばれた。
月日の経つ内に、何度か他の暗鬼貴族がこちらに侵攻して来たが、その度に彼は孤島の宮殿から高みの見物をしていた。そこにいれば戦いの火の粉が降ってくることもないし、偵察魔の映像で、人間とヌスフェラートの攻防を観察して楽しむことも出来た。
地上侵攻では、何時も『天使』と呼ばれる、見た目人間の戦士が出現してヌスフェラートを打ち負かしてしまうので、それが不思議でならず、ゲオルグの関心を引いた。人型の天使の謎については人間の研究が解明の助けにもなろうかと、新たな視点で人間を観察できるようになり、『天使』研究も彼の仕事の一環となった。
かつてからヴァイゲンツォルトの方でも天使全般に対しての研究が行われていたことを知り、しかも、長年にわたる調査にも関わらず全容が解明されていない事実に彼は驚いた。
この世界に生きるあらゆる種族の中でも知識欲が特に旺盛なヌスフェラートが、長い歴史の中で興味を示していながら解き明かせていない謎は、極僅かな事象でしかない。そのことが彼の探究心に更に火をつけて、いつか解き明かしてみたいものだと思うようになった。
想像の中の母ぐらいしか心から愛する者のない彼は、ゲオムンドに仕え、成果を上げて喜ばれることだけをささやかな生き甲斐として日々を送り、気がつけばいつの間にか、地上で100年もの月日が流れていた。
そして彼が152歳になったある時、久々に地上を訪れ息子に会いに来たゲオムンドが、何やら落ち着かない顔で彼にこう告げた。地上では2人はアルスの言葉を使う。
「……ゲオルグよ、実は、お前には兄妹がいる」
そんなことを切り出されたのは初めてで、彼はただ呆然とし、何の実感も湧かなかった。
「お前と同じ日に生まれた双子だ」
今になって何故、急にこんなことを言い出すのかが解らず、彼は首を傾いだ。
「……どうしたのです? 父上、一体……」
この宮殿でなら自分を父と呼ぶことを許しているゲオムンドは、息子を見ずに遠い水平線ばかりを見て語った。
「……お前はワシが引き取り育てたが、双子のもう一方は、ずっと母親の下にいた。それが……最近になって急に見失ってしまったのだ」
ゲオルグは目を見開いた。双子がいたということより、ある可能性の方に心震わされた。
「父上……まさか……母上は生きて……おられたのですか……?」
ゲオムンドは悪びれもせず、済まなく思う様子も微塵もなしにあっさりと言った。
「……ああ。知れば、お前が必ず会いに行くと思ったのでな。それは危険なのだ」
ゲオルグは体中がかあっと熱くなり、胸がドクドクと打ち鳴り、涙が出そうになった。今まで父を憎いと思ったことはなかったが、今、初めてそれに近い感情を抱いた。
「酷い……会いたかったのに……! ずっと……!」
ゲオムンドは目を細めて、またサラリと言った。
「残念だろうが、もはや叶わぬ。数ヶ月前に死んだ」
立て続けに知らされた事実に、彼は何度も崖から突き落とされたような衝撃と落胆を味わって、肩をブルブルと震わせた。
「……堪えろ。もしお前が会いに行って、皇帝にワシらのことが知れていたら、どうなるとおもう? ワシやお前だけでなく、母も殺されたかもしれないのだぞ。何処に皇帝の監視の目があるのかわからんのだから」
それにはさすがに、ゲオルグも悔し涙を飲むことしかできなかった。だが、失われた何かをこんなに惜しく思い、渇望したことは未だかつてなかった。
ゲオムンドの言うには、今度こそ本当に母親は病死しており、これまで部下の偵察魔に四六時中監視をさせて見守ってきていたので、今回のことを知ったらしい。
ゲオムンドは急に調子を落として、ゆっくりと、強調するようにこう言った。
「……重要なのはここからだ、ゲオルグよ。お前には双子がいて、お前の方は無事で生まれたが、もう一方には問題があって、これまで長いこと樹液の中で眠らされ、母が見守っていた。しかし、母の死以来、そのもう一方が消え失せてしまったのだ。誰かに連れ去られたのか、死んでしまったのか、部下さえもわからぬ内に事が起きてしまった。もしやすると、今は無事に何処かで生きているのやもしれぬ」
失望の衝撃にまだ震えているゲオルグは、ただ黙って父の言う話を聞いていた。母の死が一番のショックではあるが、次々と語られる事も聞き捨てならなかった。
「……ワシが、何を心配しているか解るか?」
ゲオルグは《我が子の身を案じて》と言いたかったが、この父がそんな種類の者でないことを長年よくよく承知していたので、違う理由に違いないと思い、首を横に振った。
「お前が母の名残を見せないか恐れていたように、ワシは、その子がワシの特徴を表さないか恐れているのだ」
「……? 母上の特徴を……ではなく、父上のを……ですか? 何故……」
ゲオムンドはやっと息子の目をジッと見つめて、そっと言った。
「……そちらは母に瓜2つなのだ。お前と違って」
静かな衝撃だった。ゲオルグは口を開けたまま、尚も呆然とした。
「お前はヴァイゲンツォルトにいた方が自然な姿だった。だがもう一方は、母と共にいた方が自然ななりだったのだ。だから、これまでこのアルスで生きていた。成長が止まったままで樹液の中にいる内は母と同じ姿のままだったが、一度世に出て成長を始めたら、どの様になるか、まるで分からん。万一、成長と共にワシに似てきたら……すぐにワシとは結び付けなくとも、誰かヌスフェラートが手を出したことは容易に悟られてしまう。そうなれば、皇帝の調査が伸びるだろう。そして、やがてワシに疑いが掛かるのは必定だ。……だから、何としてもそちらを探し出さなければならん」
ゲオルグは呆然とし続けた。母を本当に失った痛みに晒されるのと同時に、その姿に瓜2つという双子のことが母の代わりの様に輝き出して、灯火の如く彼の心の中に点った。
「ワシが今回ここへ来たのは、その調査の為だ。部下にも引き続き調べさせているが、未だ何の手掛かりもない。それで、ずっとこちらにいるお前にも捜索をして欲しいと思ったのだ。もう、この世界のことはワシより詳しいはずだ。お前が動いた方が早く見つかるやもしれん」
ゲオルグは、渇望するエネルギーをそのままに探索に注ぎ、自分の部下にも手伝わせて世界中を探し回った。
父も、父の部下も、彼自身も皆成果を上げられず、そのうちに新たな暗鬼貴族バル=バラ=タンが地上に侵攻してきて思うように探索が出来なくなり、やがてゲオムンドは、後の捜索を息子に任せてヴァイゲンツォルトに戻ってしまったのだった。
バル=バラ=タンが滅ぼされた後も求める特徴を持つ者は見つからず、落胆の日々が続き、幾つもの月が満ちては欠けていった。