第4部30章『トライア祭』25
祭りの喧騒を離れた暗い森の中で、手鏡が光を放ち、覗き込む者の顔を青白く照らした。城下の街は美しい色と光に溢れているが、ここはまるで死の国にいるように暗く、冷たい。
たった今、聞きたくなかった知らせを聞かされたばかりのルークスは、顔を強張らせている。遂に、竜王大隊がナマクア大陸を担当すると決まったのだ。しかも、トライアを最初に攻める予定だという。
『こうしてゆっくり連絡をする暇もないかもしれん。いざ進撃という際は、必ず呼石でまず知らせる。気づいたら退避してくれ』
呼石とは、何か連絡事がある際に震えたり光ったり音を出したりして知らせる魔法具で、呼石の反応に気づいてから別の手段で本格的に連絡を取り合う、という風にして使われる物だ。
「……かなり……急ぎ襲撃する予定ですか?」
『そうなるやもしれん。バル=クリアーのことといい、ディライラに現れたマキシマという謎の妨害者のことといい、特にヌスフェラートの大隊が様子見で動けなくなってしまっているから、再び出現するかという試みでもあるのだ。我々の進撃で何か新たなことが判れば、再び各大隊が活動できるようになるからな』
そのような危険極まりない役目を、皇帝軍最強との呼び声高い竜王大隊に任せたいのである。そして何より、ヴォルト自身が関心を示しているのだ。バル=クリアーにもマキシマにも。
『お主にナマクアの調査を任せていて、丁度よかった。こうなる流れだったのかもしれぬな。そちらは今、どのような様子だ?』
「……今日から祭が始まっています。明日、明後日と3日間行われる予定で、かなり盛り上がっています。とても戦時とは思えないくらいに」
『ホゥ……、それをぶち壊せば、かなり各国に衝撃となるような、大きな効果が期待できるな』
これまでだったら、ヴォルトの言うどんな事にも心から賛同できたのだが、今は事情が違っていた。ルークスは主の発する言葉一つ一つにドキリとしながら、かなり恐々、お願いをした。
「……人間に情が移ったわけではないのですが、これから滅びて死んでいくのであれば、せめてこのような祭くらいは最後まで楽しませてやりたいと思います。開催期間中は進撃を控えるというわけにはいかないでしょうか? 人間世界への効果は承知しているのですが、せめてもの餞として」
ヴォルトは何度か瞬きをして、非難めいたところや蔑むようなところは少しもなしにルークスを見つめた。
『……例の娘の為にそう言うのか? 或いは人間全体の為に?』
「……どちらもです」
ヴォルトは、初めて会った時と同じように保護者的温かさのある表情で目を薄くした。
『……こう言っても気を悪くしないでくれ。お主は……やはり人間の部分があるのだな。恥じることはない。辛いようなら、早々にその地を離れるのだぞ。それは弱さではないのだから。お主の言うことも考慮したいとは思うが、期間中になる可能性の方が高いと思ってくれ』
そして、もう幾つかのやり取りをした後、通信は終了した。辺りは真っ暗闇となる。
ルークスは首を落とし、魔法具をポーチにしまった。
皇帝軍側の事情が複雑に絡み合ってしまって、願うことでどうにかなるような状況ではなくなてしまった。後はいつ起きるのか、という秒読みの段階に入ってしまっている。竜は大きいのでヴィア=セラーゴに駐屯できないから、出陣が決まってから招集することになる。その上、虫王大隊と同じように兵の移動に流星術は使わないから、兵の招集と移動にある程度時間を要するので、今宵一晩はまず安全圏だろう。だが、明日のことは判らない。
ルークスは呻き声を漏らした。
せめて、最後の瞬間まで彼女の側にいてやりたい。何しろ明日は一日中休みだというから、離れていたら、いざという時の連絡に気づくのが遅くなるかもしれない。だから、やはり明日は彼女の願い通り祭を共にして一時も離れず側にいてやり、呼石が反応したらすぐに教えてやろう。それが、最後の別れになる。
ああ……何て残酷なことだろう。運命というものは。
黒い死神の目に、涙が光った。