第4部30章『トライア祭』15
バワーム城敷地内にある実験農園で、植物の生長具合を記録しながら研究員達に指示を出していたゲオルグは、農園のベンチに腰掛けて記録書を見ながら小休止を取っていた。彼が与えた生長剤によって、農作物の苗は通常よりも早い速度で育っている。その薬剤の精製方法について彼等に全てを明かしはせず、当たり障りのない技術の部分だけを教えてやっているのだが、それでも彼は大いに感謝され、尊敬されていた。
勿論、彼の目的がそんなところにある訳ではない。人間の食事情を改善してやろうなどとは微塵も思っていないのである。彼は農作物に種々の変化を与えることで、それがどれだけ食する人々に影響を与えるかということを調べているのだ。言わば、世界一の農業大国を実験場に選んで、壮大な規模の人体実験を行っているのである。だが、誰もそんなことは知らなかった。
この戦時を利用し、これから大きな計画が三つほど控えている。全て成功すれば、皇帝軍にとってもエングレゴール家にとっても有効で有益な技術が確立できるだろう。魔導大隊でも早速役立てたいから、近々実行に移す予定だ。
それを終わらせれば、それだけソニアを迎えに――――命を奪いに行く日が早まることになる。できるだけ思い出さないようにしていたのに、再び夕映えの中で輝く少女の姿が甦ってしまい、彼はベンチの背もたれに深く寄りかかってふんぞり返るようにし、溜め息をついて目を閉じた。
肺の中を、灰色の空気が満たしている。焦げ臭くてチクチクとし、冷たいものだ。吐き出しても吐き出しても体のどこかから湧き出してきて、肺を埋め尽くしてしまう。
黄昏の空はあんなに美しいのに、その中の少女もこんなに綺麗なのに。
「お兄様」
一瞬の間の後、彼はおそろしく仰天して飛び上がるように起きた。うたた寝をしてはならぬ厳粛な場で、居眠りが見つかってしまったような驚きぶりだった。あまりに突然起き上がったものだから、帽子が頭から落ちてしまった。
「アハハッ。嫌だわ。何をそんなに驚かれるんです?」
そこにいたのは、後ろで腕を組んで一人立つマリーツァだった。白い侍者服姿ですまし顔をしている。向こうの方でアラーキ大臣が農園管理者と話をしているから、国務大臣として珍しくここを視察しに来たらしい。彼女はその隙にちょっとだけ離れさせてもらって、彼を驚かしてやろうとわざわざ遠回りに死角の方から近づいてきたのだ。
「まさか、眠ってたの?」
彼女はニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼の反応を大いに楽しんでいる様子だ。
状況は素早く把握できたのだが、先日の夜の出来事は、まるで夢のようなあやふやな感触でできていたので、それが現実だったのだと、ここで改めて思い知らされたところであり、彼は呆然としていた。マリーツァの方はそんな戸惑いがないようで、あっけらかんとしており、まだコロコロと笑っている。
「アラーキ様とここを見に来たの。もう少ししたら、お兄様の所にもいらっしゃるかと思うわ」
そして彼の承諾も得ず、いいでしょ? という顔で当然のように隣に腰掛けた。
「お前は……人前ではよせと……」
「あら、だって今は忙しそうじゃなかったんだもの。違うの? それに、近くに人がいなかったし」
仕事の邪魔だと即刻追い払っても良かったのだが、実際に然程忙しくはなかった上、彼女がそこに居るのが不思議と鬱陶しくはなかったので、彼はそっぽを向いただけで、他には何も文句を言わなかった。二度の『お兄様』が効果を発揮していたのである。
それに、彼は彼女に訊いてみたかったことを思い出し、そこに居て欲しいとさえ思って、それが自分でも驚きだった。
「お兄様の仕事って、どういうものなの? 野菜の面倒みたりとか、そういうかんじ?」
言葉にすると、何とも長閑な仕事だ。農夫よりものんびりしていそうである。
「……お前には関係ない」
「ええ~、教えてくれたっていいじゃない。どんなことしてるのか、興味があるんだもん」
如何にも煩そうにして彼は顔を顰めた。それでもマリーツァは引かない。彼の企みを突き止めたいと思っているので、これは格好の機会だった。「見せて、見せて」と記録ノートを横取りしようとするものだから、そうされてはなるものかと、彼はサッと腕を引き離した。
「私とかが見ちゃいけないもんなの? 国家機密とか?」
「うるさい」
傍からみると、あのマリーツァに熱心に構われている何とも羨ましい光景であるから、研究員も、たまたま通りかかった人々等も、この様子を盗み見ていた。どうして彼があんなに不機嫌そうなのかが誰にも理解できない。もしかすると、彼女はああいう無愛想な男が好みなのかもしれないと皆は勘ぐった。
彼の嫌がり方は単に面倒臭がっているだけのようなので、マリーツァはその様からは何とも企みの糸を読み取ることができなかった。
「それより、一度訊いてみたかったんだが……」
彼の方から質問してくれるのであれば、マリーツァはそちらに心を向けた。
「この前、テラスで歌っただろう。国王の前で。昼食会の時に」
「ああ、あの歌ね」
「あの歌は……どういう歌なんだ? ガラマンジャ中部のある地域の歌だと言っていたが……何処のなんだ?」
マリーツァはドキリとした。彼があの歌に夢中になっていたのは解っていたが、こうして改めて自分に問うほど興味を示しているなんて。物心つかない赤子の時分に耳にした歌を、そこまで覚えているものだのだろうかと思ったのだ。彼女としても、何かしら特別な反応を見せはしないかと期待して歌ったのだが、効果は予想以上だったようだ。
「ディライラ領の奥地の森に、小さな村があるの。その地方独特の歌よ」
その辺りと言えば、彼が結界に守られた聖域を見つけて侵入したことのある、ハイ・エルフの村が近い。だから、何処かに共通点があるのかもしれないと彼は思った。マリーツァの方は、正にエリア・ベルのことを言わんとしていた。
「……何処かで聴いたことがあるような気がしたんだ」
「あら」
やはり本当に覚えているのだと感心し、マリーツァは、その歌を歌っていた愛しい人の面影と情景を思い出しながら目を閉じた。
「……泣き続ける赤ん坊を抱いて、母親が安心させようと歌う子守唄なの。怖い夢でもみたのか、その赤ん坊はずっと泣いているんだけど……そうして歌いながら母親が優しく抱いて揺すっているうちに、いつの間にか泣き止むの。
“何も怖いものはない。お前に悪戯をする小悪魔達はもういない。私がお前を守ってあげる。だから安心してお休み、可愛い坊や”」
森を吹き渡っていく柔らかな風。白い光の飛沫。
「歌詞があったのか?」
「いいえ。今の詩は、この子守唄の心。子守唄は心で歌うものなのよ。言葉は要らないの」
彼は感心した様子で「へぇ」と言い、遠い目をして何かを思い描こうとしている。そこでマリーツァは、もう一度あの歌を口ずさんだ。囁くように、そっと。
安心してお休み、可愛い坊や
すると、彼は再びあの不思議な光景の中に連れ戻された。今しも、木陰に母の姿が見えそうな気がする。時を遡って拝んできたばかりの、あの麗しい姿を。
彼女がそうして歌い続けている限り、彼はそこで何時までも歌を聴いていそうな程、恍惚とした表情で空を見上げていた。
ふいに、彼のその世界は打ち破られた。
「ゲオルグ殿、ご精が出ますな」
農園管理者との話も済んだアラーキ大臣が、従者コリンを連れてやって来たのだ。彼が我に返って見れば、マリーツァはもう立ち上がって大臣の脇に控えている。
アラーキ大臣は自分より上官に当たるから、彼も立ち上がって胸に手を当て軽く会釈した。
「あなたの研究で、作物の生長が格段に良くなったと聞き及んでおりますぞ。大した技術ですな」
「お褒めに預かって光栄です。大臣」
「特に今のような大戦中は、食料不安が大きくなり易いものですからな。あなたの技術は大いに貢献していますな」
輸出によって国も潤うから、農業技術の進歩はこのバワームにとって大変ありがたいものである。だから政治的権力はあまりないとは言え、ゲオルグの待遇はかなり良かった。
「研究の為に常日頃外出されていますが、今も世界中を渡り歩かれているのですかな?」
「はい。いずれ、私の技術を必要とする別の土地へと移るでしょう」
それは以前から国王に了解を得ていることであった。この国にいる必要がなくなった時に自然に去れるよう、前もって口実を用意しているのだ。国王はずっと居て欲しいと思っているし、大臣もそうであるから、時々こうして引き止める取っ掛かりがないか軽く探りを入れられることがある。
「え? 出て行ってしまわれるんですか?」
そう訊いたのはマリーツァだった。彼の何らかの計画が無事に終わればここを去るのだろうとは思っていたが、今から明言されているので、ますます怪しいと思ったのである。大臣や従者コリンからしてみれば、その様子はまるでマリーツァが残念がっているようであった。ゲオルグの仕事についてよく大臣やコリンにも質問してくるので怪しいとは思っていたのだが、これはもしやと思い、二人の目がキラリと光った。
「そうなのだよ。ゲオルグ殿は国に縛られぬ自由な研究者であられるから。マリーツァよ、お前も残念に思うか?」
マリーツァは睫毛の長い目をパチパチとさせて、しおらしく「はい」と言った。
彼女が残念がる理由をゲオルグは知っているから、別段不思議ではないのだが、大臣とコリンの反応は大きかった。
「ほう、ならば、一生懸命お引き留めしてくれ。成功すればお手柄だぞ」
従者コリンは、このことを早速広めるつもりでニヤニヤしている。おそらく今日の内には城下一帯にまで噂が流れるだろう。その末端では、この美女を賭けて城中で二人の高官が激しく争っているという筋書きになっていることは間違いない。事実は全く違うのだが。
大臣はその後、多少のからかいも含めた事務的な会話をしてから実験農場を後にした。マリーツァが実に名残惜しそうに振り返り見ながらそれについて行くものだから、ゲオルグの方もついそれを目で追って見てしまった。
兄の面影を見いだせる男がまた自分から遠ざかって一人になってしまうことを彼女はおそれ、寂しがっているのだろうと彼は思った。そんな事、どうでもいいはずなのだが、大切な双子が自分から去ってしまったばかりの彼には、その姿が何とも哀れに見え、同情してしまった。そして、そんな反応をする自分自身にも驚いた。
放っておけ。気にするな。たかが、人間の娘じゃないか。
そう己に言い聞かせるのだが、彼女の眼差しがいつまでも頭の中に残り、彼を見つめた。
執務室へと向かって歩きながら、アラーキ大臣がそっと彼女に尋ねた。
「のう、マリーツァよ。そなた……もしや、あの男を好いておるのか?」
唐突にそんなことを訊かれても、マリーツァは特に意外そうな顔はしなかった。そう見られても仕方のない行動ばかりしているのだ。だが、目的の為だけかと自問してみれば、それだけではないことに自分でも気づいていた。彼とのやり取りは面白い。
マリーツァはニッコリと笑って、「ええ、そうです」と答えた。大臣は、大切な娘が男と付き合い始めた父親のような残念そうな顔をして、それでも気持ちは嬉しくなり、「そうか」と笑った。
「死んでしまった兄にどことなく似ているから、懐かしい気持ちで親しくさせてもらっているんです」
そうか、そういうことかと大臣と従者は納得した。この美女の心を射止めたのは、見栄えや権力や金ではなく、失われた家族への慕情なのだ。これは、とても強力で固い動機となるだろう。大臣は大らかな笑顔で年長者らしいお節介の虫を疼かせ、従者コリンはすぐにでも人々に言いふらしたくてしようのない衝動に駆られたのだった。