第4部30章『トライア祭』13
湖面に浮かびたつ男の影が、彼を見ていた。
『あいつを守ってやってくれ。ルークス。ソニアを頼む』
その姿は影であったが、潔い瞳の輝きは、そのままそこにあった。真直ぐに、彼を見ている。
どうしても今のルークスには、人間でありながら、この影の人物の方がより高潔で紳士であるかのように思われた。彼女を託される資格など、この自分にはないのだ。
自分は徹底的に人間を憎んでいる。この凶暴なまでの怒りと復讐心は、人間が全て滅びるその時まで消えることはないだろう。だが、半分その血を引き、今もこんな無様な姿を曝している自分もまた、人間と共に滅びるべき愚昧な存在だと思わずにはいられず、そんな落胆の中にいるうちは、騎士としての力も悉く失せ、ただの役立たずな男になり果てているのだった。
あのダーク・エルフが襲ってきた時のように、彼女が危険に晒された時は不思議なほどに騎士の力が己の中に甦ってくる。それは紛れもなく、彼女への愛が成せるものなのだろう。
だが、それもこの国が大隊の攻撃を受ける時まで。その後はただの役立たずとなる。
騎士を名乗る資格などない。自分は、ただの呪われた男だ。早々に死んで呪いを断つといい。死んでしまえ。
だが……それも結局、誰の何の役にも立たない。
これまでは、自分が死ぬことがあるとすれば、それは主ヴォルトの為に戦った時だと信じていた。主人の助けになると信じて、騎士として命を散らすのだと。それ以外には、自分が死に至る問題は起こり得ない。
それが、ここに来て、罠に嵌ったかのように身動きが取れなくなり、この世の何にも役立つことなく、価値のない死を迎える未来が明らかになったのだ。
大火の中、踊り狂う人々。そして、水辺のつまらぬ男。
オレは……このまま、何もできないのだろうか?
ふと、下草のこすれる囁きと枯れ枝を踏む音が聞こえ、ルークスは振り返り、木立の闇を見た。
闇の中から、月光を浴びて白く輝く、彼の女神が現れ出た。
暗黒の世界で、やっと見出した外界への扉の光のように、それが苦しくとも絶望的なものであろうとも、それらを凌駕する強い力で、彼の全てが光の安らぎを欲した。
「今夜は祭の前の宴があったの。遅くなってしまってごめんなさい。ずっと待ってくれていたのね」
優しく静かな微笑み。闇や孤独を慰めるような柔らかく清かな光。月の女神。
毎夜の如く、彼女の方から彼の胸へと入って来た。かけがえのない友人としての絆を確かめる為の、一人で去って欲しくない想いを伝える為の、抱擁。
苦悩のせいで、彼の方から彼女を引き寄せることはできなかっただろうが、彼女の方からこうして肌を寄せ、温もりを伝えてくれた今、もはや彼の気は遠のき、想いの深さ強さと同じ大きな力で彼女を抱きしめた。
このまま、時が止まってしまえばと思う。いっそ、そうするのがいいかもしれない。心臓が耐えきれずに止まり、二度と再生しなくなるまで竜時間の中で彼女を抱き続けるのだ。どうせ死ぬのなら、こうして彼女に触れているうちがいい。
だが、今はまだそうできなかった。彼女の心音と息遣いを感じていたいから。この風を感じていたいから。
「……ソニア。やはり……オレの大隊がトライアを受け持つ可能性が高くなった。もう……時間の問題らしい」
ソニアが息を飲む。二人共敏感であるから、こうして肌を触れ合わせていると、相手の心情など、より多くのことが直接伝わった。どんな敵が来るのだとしても戦うのは同じだから、ソニアはむしろ彼の心持の方を心配した。
「襲撃の直前までここにいて……君に時だけは伝えたいと思う。でも……」
「いいのよ。それでいい。……気にしないで。それぞれの役目を果たすだけなのだから」
二人は、吹雪から身を守り温め合うかのように、互いを強く抱き続けた。
「そうなると……明後日にお願いしていたことも……もしかすると難しいのね。明日も祭で忙しくて、多分ここには来られないと思うの。だから……もしもの時は、何か別の方法で知らせてくれると助かるわ。何処かに何かの目印を残すとか」
それでは、場合によっては今宵が最後の逢瀬となることも有り得る。ルークスはブルリと震えた。
そんな、耐えられない。これが最後だったりしたら、そんなの……
だが、彼女の求めに応じ、万一の時は変装した状態で外国の密使だと偽り、その辺の兵士や官吏を捉まえてソニアに伝言を託すことにした。勿論、伝言役には何のことやら解らぬ言葉で“緑の天使が飛び立った”と。
「でも……もし、まだ大丈夫なようだったら、どうか明後日、あなたと過ごせることを願っているわ。来てくれるなら、その日の朝、私があなたを探して見つけた、森のあの場所で待っていて。変装の為の服や小道具は私が用意して持っていくから」
今、この場での返事は求めず、言うべきことを言い終えると、彼女は笑顔で彼の腕から離れた。彼の胸の中に入る時も、そこから出て行く時も、彼女の方からであった。彼は、彼女が離れようとすればそれを止めることはできず、ただそこに立ち尽くして、まだ触れていたいという想いだけを募らせて、そこで震えていた。
「……今日はもう行くわ。もし良かったら……明日の朝一番には私も城からパレードで出ることになっているから、何処かで見ていてね」
後退りしながら再び木立の闇に消えていこうとするソニア。名残惜しさはいつものことだが、今晩は特別だった。彼だけでなく、状況の変わったソニアにとっても。
だが二人共、いつも以上に去り難い気持ちを味わっていながら、却って再び寄り合うことはできなかった。心の中でルークスはソニアを追い、力一杯に抱きしめ、熱いキスをしていた。
「それじゃあ……明後日、あなたが来てくれると嬉しいわ。……おやすみなさい、ルークス」
街の炎を瞳に映し、燃やしながら、彼女は闇の中へと戻って行った。彼女自ら発光しているかのようだった輝きも、その闇は瞬時に呑み込み、暗黒に帰してしまった。
身を焦がすような火照りと切なさ。胸に残る彼女の温かさ、柔らかさ。
もう、オレの身体は焼かれ始めているのかもしれない。あの街を焼き尽くすのと同じ炎で。
ルークスはその熱に震え怯えながら、己が肩を抱いた。
彼女は美しく気高く、聡明で聖い人だ。きっと、聖なる領域に属する生まれなのだろう。だが……彼女を想うことで生じるこの炎は、まさに地獄のものだった。地獄の住人が聖なる乙女にいくら恋い焦がれても、得られるのは天上の悦びではなく、己が属する世界の炎だけなのだろうか。
地獄の炎に取り巻かれ、身動きの取れない役立たず。彼女の何の役にも立てない卑怯者。本当は、壊滅してしまった暗黒大隊こそが自分には相応しかったのかもしれない。それなら地獄の炎がお似合いだ。
だが……一つだけ、役に立てることがある。彼女はさっき何と言った?
明後日、自分が祭に同行することを願っているじゃないか。他の何の役にも立てないのなら、例え人間でごった返す環境の中にいることがどんなに厭わしくても、彼女の為に願いを叶えてやれ。それならできるし、彼女と長く一緒にいられるのだ。これくらいはするべきだろう? したいだろう?
もし、明後日にまだ襲撃の日が決まっていなかったら、彼女の願いを叶えるんだ。愛する彼女と、自分の為に。
彼は再び天を仰ぎ、どうかその時までこの街に皇帝軍が攻め入らぬよう、あの女神に祈った。