第4部30章『トライア祭』12
夜も更けたというのに、今宵は城も街も全てが賑やかに華やぎ、眠りを忘れているようだった。明日から祭本番だと聞かされているルークスであるが、それでも夜中にこれ程活気に溢れている人間の都市をこれまでに見たことがなかったものだから、感心したような、はたまた呆れたような、落ち着かない気持ちで夜景を眺めていた。世界中を旅している彼であるが、これまで人間社会は自然と避けていたので、こんな光景に遭遇することがなかったのである。
そうして夜景を眺めつつ、いつもの水辺で岩の上に腰かけ、彼は苦悩していた。先程、改めてヴォルトから連絡が入り、やはり竜王大隊がナマクアを担当することになりそうである、との経過報告をしてくれたのである。“決定”と断言できないのは、まだ魔導大隊のゲオムンドが承服しかねる様子であるからだそうで、急ぐわけではない戦でこの決定を押し通して軍内部の不和を生じさせたくない皇帝の気遣いもあり、ゲオムンドが了解してくれるのを待っている状態なのだとか。そして、そのやり取りにも先が見えてきているらしいのだ。
つまり、ゲオムンドが渋っているのは、それによって魔導大隊の対面を保ちつつ、何かしら取引ができないかと企んでいるからであり、良い条件をチラつかせたら途端に態度を軟化させてきたらしい。この分であれば、明日にも決定となるのではないかと言うのだ。
その知らせに、ルークスが蒼白になったのは言うまでもない。
本当に主が軍隊を引き連れてやって来るのであれば、主は確実にソニアと戦うことになる。彼女は優秀な戦士であるから、竜との戦いの中で際立って、おそらく次々と竜を倒し抜きん出て目立つであろうから、主直々に対決することは目に見えているのだ。
セルツァやディスカスという、何も知らぬ主からすれば思いも寄らぬ守護者がいて苦戦するのかもしれないが、主は何者よりも優れている。竜人であり天使である主に誰も敵うはずがなくて、セルツァもディスカスも破れ、ソニアも殺されるだろう。
何としたことか、主が彼女を殺す羽目になるのだ。そんなことが、自分に耐えられるだろうか。
世闇の中に煌々と照り輝く街の篝火やランプの炎が、大火を容易に連想させる。魔導大隊だったらどのようにこの国を攻めるのかは知れないが、主の軍団が来れば徹底破壊になるのは確実だ。家屋も道も城も全て粉々になり、火がつけられる。海と形容して然るべき大量の炎が、この城都市全体を呑み込み、何もかも焼き尽くすだろう。
建物という建物は巨大な爪に引き裂かれ、体当たりによって打ち砕かれ、昼となく夜となく燃え続ける紅蓮の中で燻り、空に火の粉と煙を舞い上げていくのだ。燃えるものが何もなくなるまで炎は上がり続け、全てを灰にするのだ。
勿論、その中に生きた人間が残れるはずはない。街が燃え尽きるよりもずっと早く、人間達の命は天に舞い上がり消えていくだろう。
人間がそうして滅びるのは構わない。女性や子供はできるだけ苦しませたくないから、却ってこのような強烈な破壊の方が、あっという間にあの世に行けていいのではないかとも思う。
だが、その炎の中に彼女がいることを考えると、事情は全く違う。
彼女が死んで、自分が生きていることなどできるだろうか。しかも死因となる敵は、決して止めることのできない我が主なのだ。
彼女が主によって倒され、炎の中で他の人間達と一緒に黒焦げの炭となっていく時、自分はその場におらず、何処か戦火の見えない遠い所で、一人当て所もなく彷徨い歩き、己の運命を呪いながら事が終わるのを待つのだ。そして己を責め続け、おそらく最後には、ひっそりと彼女の後を追うのだ。パースメルバを地下世界に帰し、ヴォルトに別れと謝罪の手紙でも残して。誰にも知られない場所で、一人で。
ルークスは、短刀で自らの喉を突こうとしたあの時のことを思い出した。あの時の自分が血迷っていたとは思わない。自分の不甲斐なさで彼女を失ったら、決して耐えることなどできない。彼女を深く愛しているから。
だが、己の愛とは一体何なのだ?
例え魔導大隊がやはり担当となって攻め入ったとしても自分は割り込めず、竜王大隊であれば尚のこと邪魔立てすることはできず、かと言って力尽くで彼女を連れ出し守ることもできず、ただその日が来たら、どちらにも干渉せずに姿を隠すことしかできないなんて。
『それでいいわ……あなたの立場はよく解っている。善いとか悪いとか……そういう問題じゃないもの。誰かに仕えるというのは……そういうものよ』
この手で一度は命を奪いさせしてしまったというのに、愛しい彼女は寛大にもそう言って自分を抱きしめ、温もりと安らぎを与えてくれる。
だが、彼女の理解に甘えて、自分は何もすることができないのだろうか?
こうして今尚、毎晩彼女と会い、不安と苦しみを代償にして彼女を想う心は強まり、この国からも彼女かも離れられなくなるなんて、こんな馬鹿げたことしかできないのだろうか。
……だが、事の真相を話して主が来るのを止めたとしても、魔導大隊がやって来る。どの道、この国が何者かによって攻め入られることを止める手段は、皇帝軍の一員たる自分にはない。
そして彼女を、戦場から無理矢理引き離すこともできない。彼女を守ることはできないのだ。それでありながら、こうして今も、この湖で彼女を待っているのだ。
ルークスは頭を抱え、髪を掻き毟るように掴んだ。
自分は何と半端な騎士なのだろう! 主人の騎士としてこの国に堂々と乗り込み攻め滅ぼし、他の者に代わって彼女を美しく殺してやることもできず、逆に彼女の騎士として、全てを捨てて愛する者を守る道を選ぶこともできず!
何よりも、彼女に対して卑怯であることが彼を苦しめ、苛んでいた。
あの素晴らしい彼女は、こんな自分に愛と安らぎばかりをくれる。だが、自分が彼女に対してした事と言えば、国を守る心と自分への友愛との狭間で苦しませたばかりか、挙句の果てにアイアスが死んだと告げて心を傷つけ、身体も傷つけて殺してしまった。それだけ! 結局それだけなのだ! 本当なら、早々にこの国を立ち去り、彼女にも顔向けできない者なのだ! どうせ守れないのだから! 守る気がないのだから!
それなのに、彼女に求められていることをいいことに、ここにいるなんて……!
ああ……自分が罪深いことは判っているが……それにしても何故、運命はこんなにも残酷な出会いをさせたのだろう。生まれて初めて女性に心奪われ、こんなにも深く激しく愛してしまったというのに、それは結ばれ祝福されることもなく、ただ血が流れ、苦しみばかりが生まれたなんて。
きっと、他の女性を愛することは一生涯ない。
運命が己に与えた出会いと愛は、このたった一つの、苦痛に塗り固められたものだけに終わるのだ。そして、苦しくても、これが唯一だと思うからこそ、この愛を捨て去ることも、閉じ込めてしまうこともできなくなるのだ。
彼は重い頭を上げ、星を見上げた。死した人々が何処かに行くのだとしたら、天上の星がある場所なのではないかと思っていた。この何処かに、かつて愛した人もいるのではないだろうか。
だから、彼は星に向かって心の中で語りかけた。
父さん、母さん。オレは、苦しみの他にも、異性に恋い焦がれて愛することを知ったよ。
だが、病で若いうちに死んだり、人に責められ罵られながら死ぬように、オレにもあなた達のような不幸が見事に受け継がれたらしいよ。“呪い”と名のつくくらい、どうしようもないやつなんだ。
あなた達は出会いには恵まれた。結末は悲惨なものだったし、短かったけれど、それでもひとまず、二人は幸せだったろう?
オレの方は、出会いまで呪われているよ。そしてこの先の運命まで呪われているときた。
……まぁ、せいぜい呪われた息子の、のたうち回る様をよく見ててくれ。大した見物になるだろうから。
ルークスは卑屈な笑みを浮かべた。もうすぐそこに、自分も行くだろうと思う。同じ場所であるかどうかは定かではないが。
そして溜め息をつき、もう一度大火に燃える終末の都市を見た。
その未来を知ってか知らでか、炎の中の民は歌い踊り、楽器を掻き鳴らして騒ぎ続けている。
何て愚かな人間共。
そして、愚かな自分。