第4部30章『トライア祭』11
「私は……」
ソニアは顔を上げた。
「私は……正直申し上げて、とても戸惑っております。私が本当に相応しい者なのかどうか、今は判断ができません。どうか、私に考える時間をくださいませんでしょうか? そうしてくださるのであれば……できる限り、王様と王妃様のご期待に応えるべく、決意を固めたいと存じます」
それは観衆の期待した答えではなかったが、王は当然のことのように受け止めて、優しく頷いた。
「うむ。何の前触れもなしに、いきなり決断せよと言われても、心の準備には時間がかかるであろう。そなたは慎重で思慮深い者じゃ。そなたらしい言葉である。相分かった。じっくりと考えておくれ。そなたの返事は、祭が終わってから聞かせてもらうことにしよう。それで良いかな?」
「はい。ありがとうございます。王様」
「良い返事を待っておるぞ」
王はソニアを立たせ、彼女を励ますように肩を叩いた。この場で内定とはならなかったものの、ほぼ間違いなく彼女がトライアの次期王位継承者となるであろうから、一同は沸き上がって再び歓声と拍手を送った。ぜひ決心を、との言葉が雨霰のように降り注がれる。
迷いを正直に述べて決断を見送ったことが彼女らしいとアーサーも思い、溜め息混じりに微笑んだ。
さぁ、宴会を続けてくれと言う王の掛け声と共に音楽が再開されると、宴の炎は一層湧き立って盛り上がりを見せた。話題は、もうこの重大な発表のことで持ち切りだ。
席に戻ったソニアは、次々と祝辞を述べに来る人々の対応に追われて落ち着く間がなかった。この女性が将来トライア女王になると思って疑わないから、今から忠節の程を示して売り込みたいのである。ソニアも、皆が心から祝福してくれているのだと思い、それを疑う余裕などなかった。
だが、一部の者にとって、この発表は懸念すべきものと捉えられていた。疑惑が多く、危険な竜を連れ帰るような思考回路の持ち主を国家の最高権力者に据えてよいものかと。しかし、この場でそのような疑念をあからさまにするのは賢明ではないから、そのような者達も作り笑いを浮かべて拍手に参加していたのだった。
彼等は意見を同じくする者が誰であるかを知っているから、この後で別室に少々集まることになる。そして相談するのだ。もはや発表してしまっただけに王へ進言するというのは適当ではない。王の判断力に意見するようなことになってしまうし、現にこれだけ大多数に喜ばれているから反感を買うおそれがある。だから、どうやって彼女の気を悪くさせずに、できれば彼女と王、双方の立場に泥を塗らぬやり方で、穏便に彼女自身に断念させるよう仕向けられるかと。
そんな者がいることを知らぬ者達の止まぬ賛辞にソニアは晒され続け、その当惑が謙遜からではなく本物であることが解っているアーサーが、一頃経ったところで立ち上がり、退席を告げた。明日の為に、今夜はもうこれで失礼すると言えば引き止められ難い。そしてソニアにも目を向けて、軍隊長もお疲れのようだと声を掛けた。彼の気遣いのお蔭で、ソニアも便乗して宴を退席することにした。残っても気が休まらないだけだし、本当に明日からの役目は大切だ。この二人が揃って出て行こうとしているのであれば、尚のこと人々は遠慮して止められなくなるから、明日は頑張ってください、ゆっくりしてくださいと挨拶して快く二人を通してくれた。
そろそろ、他の席も空きが出始めている。責任の重い地位にいる者ほど、やはり早めに宴を辞して大事を取っているようである。王と王妃は重大発表後すぐに退席しているので、上座はこれでかなり寂しくなった。これからは、根っからの宴好きが粘る時間だ。
ホールを出た二人は、通路に残っている兵士達からの挨拶を受けながら、特にソニアは祝辞を述べられながら、高官居住区のフロアへと進んでいった。夜も遅いので、明日が勤務日である兵士達も引き下がったようであり、他の場所でも人がまばらになっている。通路は至る所が酒の臭いで満たされ、それが乾季の爽やかな夜気と混ざり合い、酔いを心地良い程度に醒ましてくれそうな、それでいて未だに興奮の感じられる空気を漂わせていた。
高官居住区に近づくほどに人の数はまばらとなっていき、やがて誰もいなくなった。
二人は岐路で立ち止まった。ソニアはこのまま進み、彼は階段を下りて一階の自室に向かうのだ。最近、夜になるとディスカスは従者用の部屋に引き籠り彼女につきまとわなくなったので、今もこうして二人きりでいられた。二人の知らぬ所で相変わらず監視の目は光っているのだが。
そこでふいに、アーサーは彼女を抱きしめた。ソニアもまた抱き返した。とても静かな抱擁だった。酒の臭いに混じり伝わってくる互いの慣れた香りが、それぞれを安心させた。
彼は何か言いたそうなのだが、言葉にするより彼女を抱く腕の力の方を強め、彼女もまた何か言おうかと思ったのだが、結局言葉にならなかった。
彼の腕の中、ソニアは目を閉じ、皆にも彼にも望まれながら、王の申し出をすぐには受け入れられなかった自分のことを申し訳なく思った。きっと、誰より喜んでくれているのは、他ならぬこの彼なのだろうから。
ふと、彼が僅かに震えているのに気づいて、ソニアは彼の顔を見上げた。彼も腕を解き、彼女の顔を大切そうに両の手で包んだ。
彼は、この上なく優しい慈しみの微笑を浮かべ、そして泣いていた。ほんの一筋、涙の痕が光っている。
「アーサー……」
祝福に違いないのに、どうしてかその笑顔から、ソニアは切なさと不安を感じた。何故なのか解らなくて、落ち着かない気持ちになる。
彼は笑顔のまま彼女の頭を引き寄せ、ゆっくりと深く、彼女の唇に想いを這わせた。ソニアは少しの抵抗もせず、それを受け入れた。彼の震えが止まらないから、次第に自分の胸が痛んで熱くなり、伝染したように涙がこぼれ出てくる。
彼はそれから頬擦りをして、顔を伏せた。
「……お前の信じる道を行け。ソニア」
何か言葉を掛けたいのに、見つからない。ソニアは今の自分のもどかしい思考に戸惑いつつ彼を見た。彼もまた顔を上げると、今一度、彼女の顔を拝んで微笑んだ。
何かが、変わってしまったのか?
彼は笑ってくれている。喜んで、泣いてくれている。私を、愛してくれている。
なのに、どうして私はこんなに胸が痛いのだろう。何故?
何かが、いつの間にか変わってしまったというのだろうか?
「……幸せになれよ」
そう言うと、アーサーはクルリと踵を返して階段を下りて行った。一度も未練がましく振り返ったりすることなしに。
彼女は何も言えなかった。ただ、彼が階段の向こうに見えなくなった後も、そこで立ってこの不安の意味を考えていた。