第4部30章『トライア祭』10
穏やかな声で王は続けた。
「公式には後日、国民に向けて発表するつもりであるが、ひとまず内々に、身近な者達には伝えておきたくて、今日この場を借りることにした」
王と王妃はもう一度視線を交わし、おしどり夫婦らしくぴったりと寄り添い、王が王妃の肩を抱いて微笑むと、それに応えて王妃も皆に向かって笑顔を見せた。長らく、臣下と国民の親愛の情と尊敬を集めてきた高貴な笑みだ。
「ワシと、このアクエリアンは今年で夫婦生活40年じゃ。二人で力を合わせ、これまでやってきたものじゃが……そろそろ二人とも老い先が短い。しかしながら……ワシ等は子に恵まれず、遂に血の繋がる後継者を得ることができなんだった。さすがにこの年では、もはや無理であるしのぅ」
深刻な話であると同時に、王がどのようなことを発表しようとしているのか見当がついた為、一同は笑顔から一転して厳しい面持ちとなった。
王妃は諦めと切なさとで哀しい微笑を浮かべ、視線を床に落とした。もはやこれまでと見切りがつく時まで、彼女は養子も取らずに子ができることを待ち望んでいたのだ。それを知る臣下達も、哀れに思って同情的な眼差しを向けた。
王は慰めるように王妃の肩を抱く腕に力を入れ、耳元で何か囁いた。王妃がそれに頷くのを見てから、王はまた続けた。
「そこでじゃ、ワシ等はこの度、後継者を立てることにした。養子縁組によって、ワシ等の子となってもらい、ゆくゆくは王位継承者としてこの国を継いでもらう者を決めたのじゃ」
この言葉に、会場中は一斉にどよめいた。いずれこうなることは数年前から皆が予想していたので、内容そのものに対する驚きは然程なかったと言っていい。皆を興奮させたのは、今まで沈黙を守っていた王夫妻が、遂に今夜それを打ち破ったということにあった。
王は再び手を翳し、静粛を促した。
「血が絶えることは真に無念ではあるが……ワシには未練はない。この妃と共に夫婦でいられたことを満足している。それに、度重なる戦によって滅びる国もある中であるから尚のこと、国を継ぐのは血ではなく、精神であると確信している。国を建て、守ろうという強い意志があり、その能力を兼ね備えてさえいれば、血統などは問題ではないのじゃ」
王はホールを見渡し、居並ぶも者の顔を見た。不満や不服は特に見受けられなかった。
「我々が選んだ者も、きっとその心を継いで、立派にこのトライアを治めてくれるであろうと信じている」
そして王は腕を伸ばし、誰かに差し伸べるように一方を示した。そして微笑んだ。
皆、一斉にその手が示す先を目で辿った。
果たして、その延長で呆然と立っているのは、ソニアとアーサーの二人だった。
ソニアは、まさかと戸惑い、振り返って後ろを見た。誰もいるはずのない上座であるから、そこには壁があるばかりで、周囲にも範囲内と認めていいような所に人はいなかった。
ふいに、アーサーが彼女の背を押した。彼は王と同じく穏やかな眼差しを向け、頷いた。
「お前だ」
そんな、まさかと未だに信じられぬ彼女は辺りをキョロキョロと窺い、そして王を見た。
これが演技などでなく、当事者同士で既に話し合われた事ではなくて、いきなりの申し出であることが見守る者達にも判った。
王はソニアと目を合わせると、実に誇らしげに頷いた。
「そなたじゃ。ソニア=パンザグロス国軍隊長。そなたに、このトライア王家と、そして王国を託したい」
一度は静止していた観衆達は、この重大発表に大いに驚いてどよめき、声を上げた。まだ彼女の返答もないうちから、歓喜と祝福の拍手が嵐のようにホールを圧し、はちきれそうになり、まだ驚愕のあまり立ち尽くしているソニアを包んで四方八方から圧倒した。
王は手を差し出したまま、彼女がこちらへ来るよう促している。だが、ソニアはそこから動けず、事実を受け止めるのだけで精一杯で、気持ちの整理すらできなかった。
何処に目を向けても、誰を見ても、さぁ、行きなさいと頷き拍手するばかり。
でも……この私が? エルフの母親の血を引き、父親に至っては何者なのかも知らず、人間の血が一滴たりとも入っていないかもしれないこの自分が、人間の国の王位継承者に?
自分にそれだけの資格があるのか解らぬ不安があまりに大きくて、重りとなって彼女の体を縛りつけていた。
あの手を取り、王の偉大なる好意と決断を受け入れていいと言うのだろうか?
その時、温かな腕が彼女の肩に優しく掛けられた。
「……何も心配することないぜ。何を躊躇っているんだ? お前は、王の御意思を継いでこの国を治めるのに、誰よりも相応しい人間だ。王のお考えに間違いはない」
自信と誇りに満ちたアーサーの顔が、彼自身もこの発表に驚いて輝きを放ちながら彼女の顔を覗き込んで、勇気を与えた。
「お前ほど、この国を愛している奴はいない。それは解ってるだろう? お前より相応しい奴が他にいるものか」
「アーサー……」
「さぁ、行け。王様を待たせるな。お前の行くべき道だ」
不安の全てを消すことなど到底できなかったが、それでも彼の瞳が与えてくれる勇気の力を励みに、ソニアはおそるおそる歩み出て行った。
私は、この国を愛している。神様、この国を愛しています。
王は三段高くなっている上座から王妃と共に降りてきて、そこで膝をつき敬意を示すソニアの肩に手を置いた。拍手が止み、この儀式を見守る為に静まり返る。
「ソニア=パンザグロスよ。ワシ等の一人娘……第一王女として養子入りすることを、引き受けてくれるかな?」
彼女の返答に注目が集まり、緊張が高まった。
ソニアはそこで顔を伏せたまま、己に決断を迫った。
ほんの少し前まで、自分はアイアスと共にこの国を出て行くことばかり考え、夢見ていた。だが、それはもう意味のないことだと諦めている。もう、兄を追いはしない。例え、今もまだ何処かで生きているのだとしても。
一度王位継承者となれば、ましてや王位を継ぎでもしたら、もう世界を駆け巡ることはできないだろう。国を守る高官として国に拘束されるのは今とさして変わらないのだろうが、今まで以上にこの国に縛られることになる。他国への援助や、友好関係を結んだりする決定権を手にすることができるのは魅力だが……軍人としての、戦士としての自分はいなくなるのだろう。安易に戦場に出て命を落としてはならない最高官となるから、テクトへの遠征のように前線へ出向くことはし辛くなるのだ。同様に、ホルプ・センダーに加わって皇帝軍と戦うという選択肢も消えることになる。
自分が最も、この国と世界の為に貢献できる道はどちらなのだろう?
世界の果てで躯となる覚悟でここを出るのか。それとも、この地に骨を埋めるのか。