第4部30章『トライア祭』7
その翌日、トライア城都は前夜祭を迎えようとしていた。明日からが遂に、民の待ちに待った祭の始まりである。昼下がりの城内は平静を保って割に落ち着いているが、城下街の方では興奮が徐々に高まり、活発化していた。
城内の兵士達は、祭期間中の特別体制に入る明日までは、これまで通りの平常運営を徹している。起床、食事、訓練、食事、巡回、訓練、食事、巡回、訓練、食事、そして夜勤か休養。部隊によっては出張があったり、土木作業に携わったりし、馬の世話などもしている。各文官は情報収集と調整、記録、指示出しにかかりきりである。祭の実行庁長官は、部下と共に一歩も城から出られなくなっていた。通信役は魔術師か末端の部下が担い、足となっている。軍務に関しても情報のやり取りが頻繁であるので、人の出入りがことに多くなっていた。
午後になると王室に幹部が集まり、執務室として籠るようになって、各部署の長同士で伝達不足が起きぬように努めた。当日になれば、ここにいるメンバー全員が揃うことはなくなるので、それだけに今この面子が顔を並べていることが重要なのである。事前行動が周到であれば、明日からの祭は事無く運ぶのだ。
この時期になると、この執務室に机や筆記に必要な道具一式等も運び込まれて、1スペースを占めるようになる。入って来た報告にその場で許可のサインを与えたり、通信の文書を認める為だ。
ソニアとアーサーは武官として、書類関係の処理を殆ど書記官に任せているので、ペンを持つのはサインをする時ぐらいであった。そして、どちらかというと立ち上がってテラスから城下街の様子を眺めていることの方が多いものだから、書類を読み上げる書記官の方もテラスまで行き、彼等の返事を書くのもそのままテラスで、首から下げた記録板の上でするようにしてた。
書記官にしてみれば困ったことではあるのだが、武官が始終机上で執務しているのも妙であるし、城と城下の平穏無事を見守る役としてテラスに立つのも彼等の務めであるから、この時期の恒例として不平を述べずに甲斐甲斐しく従っていた。二人がこうしてテラスにいるうちは、見方を変えれば全て順調に事が運んでいることの証でもあるのだ。
国王も時折、玉座を離れてテラスの二人に混じり、城下の様子を眺めて談笑した。このテラスから見えるのは主に城下街の東側地区一帯であり、先日堤防を越えて水が溢れてしまった南側地区は少しだけが眺められる。ここから見る限りでは、その南地区も含め、城下は前夜祭の準備を滞りなく進めているようだ。
豆粒のように見える人々が忙しなく蠢き、家々を飾り立てていく。窓や扉に生花やドライフラワー、柄物の布などが掛けられ、華やかに彩られていった。屋根に上って軽い木材で作った模型や布製の人形を設置している姿も見られた。どんな品を扱っているのか、何の商売をしているのかを示す看板代わりにするのである。臨時の宿を運営する所は、今日から玄関先に赤い布を下げる決まりだ。前日のうちにチェック・インする客が殆どであるから、宿屋は今日からもう祭本番のようなものである。
人々が増える分、いざこざや犯罪が発生するおそれがあるので、兵士達の巡回には抜かりがなかった。徐々に盛り上がる街の空気を感じ取っている子供達はつるんで街中を駆け回って遊んでいる。今晩は興奮して眠れない子もいるだろう。
今のところ入って来ている情報では、宿屋の宿泊キャンセルも少なく、現在の世界情勢からすると素晴らしい盛況となっているようである。
この分なら、問題なく祭が開催できそうであることに安堵して、ソニアとアーサーは穏やかな面持ちで街を見下ろしていた。昨晩ルークスから皇帝軍で起きている動きを教えてもらい、この国を彼の大隊が担当する可能性があることをソニアは聞いており、それをアーサーにも伝えていた。おそろしいことではあるが、そんな問題でゴタゴタしているうちは急襲されることもまずないであろうから、少なくとも明日の祭は民の期待通り催せるのだ。皇帝軍側の状況が今の様子であれば、三日間全てが無事にやり通せるかもしれない。いずれ皇帝軍がやって来るのが避けられないのであれば、せめて祭くらいは民に楽しませてやりたい二人としては、有り難いことだった。襲撃の規模によっては街が酷く破壊され、再び祭ができるようになるまでに長い復興の年月を要するかもしれないのだ。これが最後の思い出となる人もいるかもしれない。
そんな二人の間に入るように、王がゆっくりと背後から歩んできて二人の背を軽く叩いた。
「やれやれ、ようやく今晩からじゃのう。大騒ぎは」
老いた自分にはついていけない、と言わんばかりに肩を竦めて見せる王であるが、その顔は朗らかで実に愉快そうであった。振り返り王を見る二人の笑顔も、実に大らかである。
「今宵の宴が楽しみじゃ。皆が揃うのは今晩だけじゃから、一同出席しているところでなければならんからのう」
「おや? 何か企んでおいでですか? 王様」
王は悪戯っぽく笑みを浮かべている。ソニアは一緒に悪戯に付き合うつもりのような調子でこっそりと尋ねた。アーサーも耳を傾ける。
「フッ、フッ、フ。内緒じゃが、まぁ楽しみにしておれ。皆も、そなた達もきっと驚くじゃろう」
「ハハハ! 王様がそんなに嬉しそうにしているのは久しぶりですよ。一体何を計画してらっしゃるんですか?」
「まだ内緒じゃ。内緒。とにかく、二人とも必ず出席するんじゃぞ。とびきりの正装で来なさい。よいな」
そう言うと、王はまた二人の背を叩いてクルリと踵を返し、鼻歌混じりに実に機嫌良く執務室の中へと戻って行った。二人はその姿を眺めながら、暫く笑いが止まらなかった。
「ハハハ、今の見たか? 踵が浮いてたぜ。一時はどうなるかと思ったくらい体調がよろしくなかったのにな」
「アハハハ。ホントだね。お元気そうで、嬉しい限りだよ」
「何だろうな? 皆が驚くようなことって。何か発表するつもりなのかな」
「さぁ……」
テラスの柵に手をかけて二人が王の姿を目で追っていると、王は執務室の他の者にも今夜の宴のことを触れ回っているようで、同じ調子であちこちをウロウロしていた。王妃は呆れ顔で長椅子に腰かけている。止めないところを見ると、王妃の方でも承知しているようだ。ふとこちらに目が向いたので、二人は王妃に一礼した。三人で目を合わせると、それだけで王のことで疎通できてしまい、可笑しくなって皆で笑い合った。全く、しょうのない人でしょう? と言うように王妃はお手上げのポーズをする。
「そうか……今晩の宴に出席するとなると……お前、どうするんだ?」
「え?」
「あいつの所には……行かないのか?」
「とても遅くなるだろうけれど……昨日聞いた皇帝軍の話も続報があるかもしれないから聞きたいし、あの人もきっと待っているだろうから、必ず行くよ」
「……そうだな。それがいい」
ソニアは最近の彼が急に変わってしまって不思議に思っていた。当初はあれ程ルークスに会うことを嫌がっていたのに、今では全く反対しなくなり、それどころか肯定的にさえなっている。嫉妬を露わにして、何でも共有したがっていると言っていたあの時の不満はどうしたのだろう? 何度かやり取りしているうちに、ルークスとの密会が何の問題もなく行われていることを確信し安心できるようになったのだろうか? もしそうなら助かることではあるが、そうではなくて無理をしているのなら心痛むことであった。全く苦痛にならなくなったのではなく、ただそのフリをしているだけなのだとしたら……。彼ならやりかねない。
「……ねぇ、アーサー」
「ん?」
彼は、何の問題もないような笑みを浮かべて彼女を見ている。その瞳の中に真実が隠れていはしないか探ろうとしたが、暫くソニアが言葉に詰まっているうちに報告が急に入ってきて、会話は中断された。そしてそのまま、この話は流れて忘れられてしまったのだった。