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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第30章
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第4部30章『トライア祭』4

「……あ……もう注文はされましたの?」

「ああ」

 マリーツァは「ちょっとお待ちくださいね」と言い置くと、一度裏方に引き返し、彼が注文した内容を確かめて給仕を引き継ぐと、一言テレサに馴染みの高官が来ているのでお相手をしますと告げて、上官用の美しいカットグラスと一緒に、酒のボトルを運んでいった。

 すぐに自分の所へやって来ると思っていたアラーキ大臣は、彼女が配膳する姿を見て、どうやら大切な客らしいと判り、仕事であれば仕方あるまいと温かく見守って知り合いとの談笑を続けた。彼女の代わりはテレサが務め、大臣達のご機嫌が損なわれることはなかった。何しろこれまでは、この黒髪のグラマラスな女性がこの店を切り盛りしていたのだから、接客についてはマリーツァの二枚も三枚も上手をいっているのだ。

 マリーツァがテーブルに戻りグラスを置いて酒を注ぐ様を、彼だけでなく周辺席の全員が盗み見ていた。優雅な所作で彼にグラスを差し出すと、彼女は真向いではなく、角を挟んで彼の左隣に座った。親しい間柄のようであると、それで判る。

「本当に、よく来てくださいましたわね」

二人は目を合わせた。微笑むマリーツァ。笑いを作りもせず、肘をついた手を口元に添えている無表情な男。

 こうして近くで向かい合えば密やかな声で話せ、流れる音楽で声が掻き消され周辺には届かなくなるので、彼はようやく口を利き始めた。

「……お前はこうして、しとやかににしてるのが本当なのか、それとも、あの時のように無礼極まりないのが本当なのか……どっちなんだ?」

彼はニヤリと笑った。傍目には親し気なものに見えたろうが、それは皮肉たっぷりの嘲りの笑みであった。彼女はそれを見ても表情を変えず、にこやかな顔をしている。

「あら、どちらも本当ですのよ」

彼は呆れた調子でフンと鼻息をつき、グラスを手に取った。

「やれやれ……そうして男共を騙しているというわけか。お前の本性を知っているのは、一体何人くらいいるものかね。知りたいもんだ」

「あなただけよ」

「ほう……それは光栄と言うべきなのかな。それとも、奴等がただ馬鹿なのかな」

「それも、どちらとも本当でしょうね」

彼は思わず本当に笑った。ここにいる者全てを愚かだとあっさり言い放ち、それでも尚、非の打ち所のない笑顔を浮かべていられるこの娘の薄情さが次第に面白く思えてきたのだ。

 グラスに手を掛けてはいても一向に口はつけず、ただ揺するばかりで、彼の関心は彼女の方に向いていた。全く、大した曲者だと思う。

「あなただって、何か他人を騙していることがあるはずよ。……違う?」

彼は、まるで心を見透かすように視線を向けるマリーツァの大きな瞳を見つめた。そして、少々ギクリともした。自分の正体に気づく者がいるとしたら、それはまずこの娘のような者だろうと考えていたからである。まさか人間に気づかれるはずはないのだが、その一瞬の躊躇は彼の言葉を暫く押し留めた。

「……ここにいる誰だって、何か一つくらいは秘密を持っているはずよ。それが何なのかは……本人にしかわからないことだけどね」

演奏に手拍子を打つ者、踊る者、歌う者、それを観ている者、周りのことそっちのけで話に夢中の者、給仕係にしな垂れる者、実に様々な人間が目の前の空間で蠢いている。その数だけ秘密があるのかは、確かめようもないことだ。だが、多分あるのだろう。

「あなたの秘密は何かしら? 知りたいけど……教えてはくれないでしょうね。まず先に私の方から打ち明けなくちゃ」

彼女が浮かべる笑みは、作り笑いではなかった。とても穏やかで親しみがある。だから彼の人間に対する抵抗感は、それ程露わにはならなかった。彼にとっても、それは何とも不思議なことだった。

 多分、さっきの歌のせいだろう。聴くだけで心が何処かへ飛んでいきそうな感覚になる。そう思い、ここのところの精神的な弱りもあって、彼はこの会話を中断せず、何となく成り行きに任せることにした。

「その前に……あなた、この前城で私が言ったこと、覚えてる? あれはやっぱり当たっていたの?」

「……何のことだ?」

「あなたの家族のことよ。……姉妹のこと。いるの?」

 テンポのいい曲が続いたので、今度はスローなダンス音楽が流れてきた。それに合わせて、幾組かの客が手を取り合ってステージ近くの空間に集まり、ゆったりと慣れた様子で踊り始めた。

 それは三拍子の輪舞だった。

 幸せそうな男女。回る世界。

 つい先程見ていた黄昏色の光景を思い出し、彼の顔は苦々しく曇った。その様を見て、ポピアンもつられたように顔が翳る。

「……あまり言いたくないようね」

彼は目を背けて、グラスの赤い酒の中に血の色を見た。嵐と闇を一時でも忘れる為にここへやって来たようなものなのだが、どうやらそうはいかないらしい。姉妹の存在を問われたことで、あの絶望と憤怒が容易に甦ってきた。闇に捕らわれて体が震えないよう、苦悩が表出しないよう、彼は目を閉じてそれらを内側に押し込め、ジッと堪えた。

 が、その緊張はふいに解けた。

 来るべきではなかったと思い始めていたのだが、やはりここはあの孤独な部屋ではなかったのだ。ふと見ると、マリーツァの温かな手が彼の拳の上に重ねられていた。握りしめられていた拳は、それだけで力が緩んだ。

 そして何故か、彼女は深い同情を示す哀しげな面持ちで目を伏していた。つい先程、彼女の薄情さに呆れていたばかりだったのに、この娘にも情は存在するのだろうかと彼は驚き、これまた彼女の偽りなのではないかと疑ったのだが、彼の直感はこれを本物だと感じていた。だから、ますます不思議だった。

「きっと……何かとても哀しいことがあったのね。……ごめんなさい。なら、無理には訊かないわ」

 苦しみは分け合うことができると文学作品に書かれていても、これまでそれを経験したことのなかった彼なのだが、本当にそういうことがあるのだと、初めて実感していた。そして彼の苦悩が少々和らいだ分、その苦しみはマリーツァの方に移行していた。

 彼がほんの僅かに見せた痛みから、そして触れた肌から、生傷が未だに血を流している臭いが漂い伝わってきて、彼があの夜に如何に傷ついたのかを実感したからである。その傷は半分以上自分がつけたようなものであるから、尚更だった。

 次第に触れていることすら悪いような気がしてきて、マリーツァは手を放した。

「……話題を変えましょうか。……そうだわ、あなたから話して頂戴。同じ質問を私もするから。だから、自分で答えたくないことは私に訊かないでね」

「別に私は……」

「何かあるでしょう? 何もないの?」

「……私は、お前と話をする為にここへ来たんじゃない」

マリーツァは彼の否定に全く動じず、強い眼差しで彼の心に迫った。それくらいの力が彼女の目には宿っているように見えた。

「嘘よ」

「いいや」

「じゃあ、何をしにここへ来たの? 歌だけ聴きに来たって言うの?」

「ああ、そうだ」

「嘘よ」

彼女は身を乗り出すようにして彼に顔を近づけた。未だに二人のやり取りを盗み見ている者達には、どのような会話によって起きたリアクションなのか全く予想がつかなかった。親しいのか、そうではないのか、いまいち量りかねる様子である。

「私に訊きたいことは何もないの? 何の興味もないって言うわけ?」

「……」

彼は相変わらず肘をついて口元を手で覆うポーズのまま動かずに、目だけで彼女の迫る姿を見ていた。そして、またドキリとしていた。半分当たっていたからだ。今晩は歌だけ聴ければそれでいいと思っていたのは確かだ。だが、彼女に興味があり、バルコニーで歌ったあの子守唄のことを訊いてみたいと思っていたことも本当なのである。

「私は、最初に会った時にあなたとお話がしたいって言った! これでも、いつかこうしてゆっくりお話できないかと機会を窺っていたんだから! あなただって、知っていたでしょう?」

「……何故、オレに興味を持つ?」

次第に、礼儀正しい言葉遣いがいつものポピアンらしい口調へと変わっていき、それにつられて彼の方も自称がいつの間にか変わっていた。

「いけない? 人に興味を持つのに理由が要るっての? あたしは、あんたに興味を持ったの。それじゃダメなわけ?」

彼はようやく身を動かし、口元を覆っていた手を外して卓上に乗せ、挑戦的な顔を前に突き出した。

「ほう……それなら、訊こうじゃないか。オレは、何故お前がオレに興味を持つのか、それが知りたい。それに関心がある。訊いて欲しいんだろう? ならば、これが質問だ。――――さあ、答えろ」

 マリーツァは乗り出していた体を元に戻して腰を下ろした。そして躊躇った。正直に答えてしまうのはまだ早い。それに、この場はそれに適していない。つい思ったままを口にしてしまったが、まだここで本当のことを言うわけにはいかなかった。外に連れ出して本当のことを言うという選択肢もあるが、それをしてしまえば、もうここを去らなければならなくなる。まだ彼のことをろくに知らず、企みを突き止めてもいない。この生活も楽しく定着してきたところだ。もう暫く今のあり方を保っていたい。

 だが、だからと言って、彼に何と説明すればいいのだろう。ひとまずこの場を取り繕い、彼が自分を避けることのないようにするには。

 慕っている。男性として好き。……そんなことを言おうものなら、彼は自分を突き放すだろう。人間の娘に言い寄られたとなると、面倒に思って徹底的に関係を断とうとするに違いない。片想い路線はやめた方が無難だ。ならば……。

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