第4部30章『トライア祭』3
油灯がガラス細工のシェード越しに琥珀色の光を広げ、幾つものテーブルが小島のように薄暗い店内で浮かび上がっている。いずれのテーブルにも人が二、三人と肩を並べており、多い所では四、五人、奥の大テーブルには十人以上のグループが席を埋めていた。今夜も店は大盛況である。
しかし、これだけ客で溢れていながらも、店内は静まり返っていた。皆のお目当てが、これからまさに壇上に上がり、出番を迎えようとしているのである。
テレサの店の看板娘となった歌姫マリーツァは、ステージ中央に立つと、楽隊に目配せし、演奏の準備はいいか確かめた。楽隊のリーダーはニコリと笑顔でそれに応える。
今夜の彼女は、葡萄酒色のロングドレスに身を包んでいた。宝石類は一切身に着けていないのだが、結い上げた髪に差されているガラス細工の蝶の煌めきと、よく瞬く瞳が、彼女の上半身を十分に輝かしく見せていた。
高価そうな布地のそのドレスが誰かからの贈り物であろうことは、居並ぶ観客の面々が容易に察していたところであり、実際のところ、そのドレスはアラーキ大臣からのプレゼントであった。今晩はその大臣も店に来ており、特等席で彼女の晴れ姿を眺めている。
二人の噂に踊らされている者達は、卑猥な想像をして客席の大臣と舞台上のマリーツァとを見比べていたのだが、本当のところは依然として二人の関係は変わっておらず、父と娘のようであった。大臣の近くにいる者はそれをよく知っているのだが、遠い者ほど想像はかけ離れたものとなっていく。
マリーツァが特等席のアラーキ大臣に微笑むと、大臣も温かな微笑でそれに返し、やがて音楽が始まった。弦楽器と笛、そして打楽器による伴奏だ。
マリーツァが歌おうと両腕を広げただけで空気が変わった。天を見上げるように視線を上方に向け、その目線の高さとは対称的に、よく抑えのきいた低音が響き始める。
あなたに寄せる波の
あなたに流れる風の
あなたに囁く大地の
あなたに光を投げかける星の
あなたに優しき夜の
深遠なる安らぎよ
目を閉じ、己が身体を包み込むようにして腕を回し、ふいに彼女の歌声は肌を震わせるような心地いい高域に達した。
月よ星々よ。
それら輝くものが全て皆、あなたに慈愛の光を降り注ぐ。
観客達は皆、彼女と共に目を閉じて歌声に陶酔し、それぞれの心を暫しここではない何処かへと浮遊させた。それは故郷であり、桃源郷であり、宇宙であった。
深遠なる安息
あなたのための
あらゆる生命の喧騒から免れた宇宙空間にいるような深い静寂。そんな空気が天を仰ぎ立つ彼女の周囲を取り巻いていた。
そして暫時の後、息をすることも忘れていた観衆はふと目覚め、揺り起こされたかのように正気を取り戻し、再び夜の酒場へと還ってきた。
見れば、マリーツァは全てを解っているかのような顔をして『皆さん戻ってきましたか』と言うように微笑を湛えている。それを認めた観衆達はまず溜め息をつき、それから割れんばかりの拍手で喝采した。腰の重い年配者はともかく、それ以外の者は皆、迷わず席を立ち上がって惜しみのない賛辞を送る。
それに応えて彼女は優雅に腕を振り上げ、頭を垂れると、観客達に長々と拍手させずに楽隊に次の曲を演奏させ始め、二曲目の披露に入った。まだ拍手を送り足りなそうにしている熱狂的な観衆も、新しい歌が始まれば再び席に着き、新たな歌の魅力に取りつかれて夢中になった。今やこの店内の運びは全てこの歌姫が取り仕切り、支配していた。
この土地に来て教わったばかりのエランドリース民謡に続いて、彼女以外の誰もこの国では知る人のないハミングだけの歌を披露し、計三曲を歌い上げると、マリーツァはステージを終えて退場した。
すぐさま激しいアンコールにあいそうになるのだが、間髪入れずに楽隊が次曲の演奏を始めて巧くそれを治め、次なる演者の紹介が始まる。常連客は既に了解していたのでしつこくマリーツァを求めてその演者に恥をかかせはしなかった。マリーツァが三曲歌って退場した後は、その次の出番が来るまで決して出てこないと解っているのである。如何に人気急上昇中の歌姫とは言え、彼女はこの店で働き始めたばかりの給仕女なのである。それまでこの店で看板を取っていた出演者たちの出番をあまり奪ってしまっては彼等に悪い。
そんな配慮から、女主人テレサと彼女とで相談して、一晩のうちで最大三ステージとし、しかも各ステージで連続して四曲以上の歌は披露しないということにしていた。
マリーツァとしては大好きな歌をもっともっと人前で歌っていられたら、こんなに楽しいことはないのだが、テレサの意向はよく承知していたので、与えられた僅かな時間を思う存分楽しむようにしていた。
民謡など、人間の歌を歌わせても勿論聴かせるのだが、妖精独特の力を持つ歌を歌えば、人々がその影響を受けて心踊ったり、塞いだり、感動したりするのは至極当然で、大多数の人間がその効果を実感している。だからこそ彼女の歌は人気を呼び、同じ客が毎晩やって来るというケースもかなりあった。
そんな中、観客の名残惜しそうな視線を浴び、彼女自身もいつも後ろ髪を引かれる思いで退出するのだが、今晩に限ってはそんなことはなかった。彼女にはすぐに行きたい所があったのである。
彼女は軽やかに舞台を去ると、そのドレス姿のままで暗い客席の方へと入っていき、人々が彼女に向かって手を差し伸べたり賞賛の言葉を口にするのを微笑みでかわしながら、入口に近い場所へと向かっていった。
入口近くというのは店全体からするとステージに遠い末席であり、早い時間に訪れた客から順にステージ周辺のテーブルに案内されるものなので、こんな所に座っているのは後から遅れて来店した者ばかりである。顔が利く上客ならば時間を問わずに特別な席へ通されるものであるが、権力もコネもない一般市民はここに座るのがせいぜいであった。
だが、彼女が向かったテーブルには、そんな席には似つかわしくない者が座っていた。自分の権力を振り翳さなかったから、或いはひっそりと陰から見ていたかったから、そこにいるのであろうその人物は、高官でありながら、あまり顔を知られていないから、周辺のテーブルに座る者達に気づかれることなく、窓際の片隅に己のスペースを設けていた。
出演後、彼女がまっしぐらにこちらへやって来るものだから、この末席エリアにいる客達はどよめき、何より彼女にピタリと視線を向けられたその男は、半ば驚きで目を丸くした。本人は気づかれていないつもりだったのだろうが、天性の舞台演者が観客を隈なく見渡せる目というものを知らなかったのである。彼女は歌っている最中に彼の姿を見つけていたのだ。
「まあ、来てくださいましたのね。嬉しい」
彼女が砕けた感じの可愛らしい笑顔を向けるものだから、何だ何だと周辺はざわついた。彼女と一言でも言葉を交わしたくてたまらない者が多い中で、こんな笑顔を見せられたら、相手は誰なのかと突き止めずにはおれない。
マリーツァが足を止めて挨拶に手を差し出した席には、暗い印象の若い男が一人で座っていた。所帯を持っているような感じのない身軽そうな雰囲気で、力仕事ではなく頭を使う仕事で身を立てていそうな賢さが滲み出ており、何となく油断のならない感じがする。そして、彼女が直々に挨拶に来れば普通の男なら夢見心地で目を輝かせるのに、嬉しくないのか、その男はただギョッとしている様子で彼女を見上げていた。
彼女が当然の如く手を差し出したので、自然な流れとしてその男の方もその手を取り、甲に接吻をして挨拶を返した。
あれは誰なんだとヒソヒソ話が始められる。だが、ステージ近くの客たちは気づいていないようで、専らこの状況に好奇を示しているのは入口周辺の客達ばかりであった。
「どうしてこんな所に座っていますの? もっと奥へいらっしゃればいいのに。今、話をつけてきますわ。もっといいお席に着けるようにいたします」
「――――いや。……いや、いい。私はここで」
よく見ればそれなりにいい服装をしているその男は立ち上がりもせず、最初の一言でかなりきっぱりと移動を拒否した。その後はどことなくたじろいだ様子で、躊躇いがちに断り直した。遠慮をしているような様子ではなく、断るその目に余裕は見られなくて、本当にただ移動したくないようだった。
彼女に面と向かうと多くの若者が少々怯えるのだが、彼もまたどこか怯えていた。他の者とは違った種類の震えを、至近距離であるからこそマリーツァは僅かに感じ取り、一瞬にして、そこにあの夜の憐れな姿を思い出して閉口した。
彼を見つけてからここに至るまで、人間世界での生活が面白いからずっと浮かれ調子であった彼女なのだが、今改めて、事がもっと重大で苦しいものであることを思い出させられたのだった。
今エピソード内に出てくる歌は、Bill Douglasの『Deep Peace』です。