第4部30章『トライア祭』2
彼女は日没前のつい先程交代したばかりなので、今は日も地平線に沈みかけて、空高くまで橙色に染まり、城も丘も燃え立つような夕映えの中にある。
彼女が仕事を離れて一人きりになるのを見計らってから会うことが殆どなので、夜か、彼女が非番の日の昼などがこれまでは多かったのだが、夕暮れ時というのはデルフィー以来久々だったので、彼は黄昏色に染まる彼女の美しさに見とれ、心和ませたのだった。夕日に映えるものの中で一番美しい黄金の彫像のように彼女は輝いている。彼は恍惚と彼女の横顔を拝み、それを心の記憶庫に確かにしまい込んだ。
『私の好きなこの街が、一番綺麗で楽しい時を見ていって欲しいのに……』
君以外、誰にも会いたくないんだよ、今日は。騒々しいのは苦手でね。
『残念だわ』
それより、最近はどうだい? 何か辛い目にはあってないかい?
『ううん、そんなことは特にないわ。ありがとう。いつも心配してくれるのね』
彼がいつ現れても彼女は決して嫌な顔一つせず、いつも心から喜んで彼を迎え、語り、彼の好意を快く受けてくれた。勿論それは、彼が本当に彼女のことを大切にしていることが彼女にも伝わっていたからである。
初めて会った時からずっと、彼女は人ならぬ彼の姿をおそれることなく無邪気に接してきたので、彼の方も偽ることなく、ありのままの姿で彼女に会いに来ることができていた。今は街に近いし人目があるから人間の姿をしているが、それでも互いの言葉には嘘が何一つなく、こうして打ち解けることができているのだ。だからこそ、彼にとって彼女の存在はただの愛玩品や愛しむべき鑑賞物ではなく、それ以上のかけがえのないものになっていたのである。
彼女は実生活で問題がないことの証しに、最近の出来事やこれからのことを事細かに語って聞かせた。彼が彼女の生活について詳しく知りたがるのは昔からなので、いつもそうしてくれるのだ。
現在所属している110隊で今度遠征があるそうで、西海岸の方まで長い旅をするのだとか。今いるトライア最高の部隊は、その性質上仕事の内容が多岐に渡っており出番も多く、彼女を生き生きとさせていた。
ずっと幼い頃から、彼女はこの国一番の戦士になることを望んでいた。だから、いずれは将校となり、行ける所まで役職を昇りつめていくのだろうと思われる。彼は彼女の特別さを知っているから、平凡な種族の中にいれば、いずれ彼女がトップになるであろうことは目に見えていた。
今は亡き先の大戦の英雄を待って、その男の為に修行と鍛錬を積み重ねてきた彼女。その男が死んだことも知らずに今も尚待ち続け、国の為に命を散らそうとしている。
彼女の命を救ってくれたことには今でも感謝しているのだが、その男と出会わず、人間社会で育つこともなければ、と思わずにはおれなくなっていた。彼女の存在をもっと早くに知って、英雄より先に彼女を救うことができていたら、きっと今も彼女は自分の側にいて、愛らしい笑みと幸せを自分に与えてくれていたに違いないのだ。そう思うと、父ゲオムンドが彼女の行方を見失ってすぐに助け出せなかったことが悔やまれた。
そんな思いに胸を燻らせつつも、彼の目の前で彼女はまだそこにいた。
日が落ち、だんだんと足元が薄暗くなっていく中、まだ見えるうちにと彼女は彼の手を取って立ち上がり、街から流れてくる音楽に合わせて踊り始めた。トライアの伝統的な踊りのうち、最もポピュラーで簡単な三拍子の輪舞を彼に教えると言うのだ。祭を見ない代わりに、これを覚えてもらいたいとの彼女の願いである。
関係に一定の距離を置くことを弁えている彼は、彼女に触れることもあまりなかったので、彼女の方からこうして手を取ってくれたのであれば、断ろうはずもなかった。
彼の幾分大きい手を取る彼女の手の温もり、感触。その素晴らしさに胸を膨らませながら、彼は彼女に言われるがまま動きを教わった。
足を見て、と彼女は言い、一定方向に回転しながら互いに向かい合い、前に後ろにと足や体を交差させる様をゆっくりと彼に見せた。そしてこの踊りの際に手が置かれる位置を教え、彼の右手を彼女の腰に添えさせた。彼女の左手は彼の右肩に乗る。
長年生きてきて踊ったことが一度もなかった彼は、慣れない体験に多少ドギマギしたものの、飲み込みも早くすぐにやり方を覚えて、二人の踊りは形になっていった。そうすると流れるように二人の息が合うものだから楽しくなった。
弦楽器と笛の音に合わせて多くの二人組が街のあちこちで踊る中、人気のない高台で二人は互いの顔を見ながら舞った。
『上手よ。踊ったのが初めてなんて、本当?』
ああ、初めてだよ。
『なら、とても筋がいいのね。どう? この踊りは』
とても楽しいよ。君と一緒だからかな。
彼女の体の温かみを感じ、声を聴き、愛らしい笑みを間近で見て、彼はこれまでにない至福の時を過ごした。
まだ見下ろすくらいの身長である彼女。母親似の美しい娘。流れるルピナス色の髪。深い宵色の瞳。囁いても、笑っても透明感のある声。彼女と共に回る世界。その総てが愛しい。
だが――――
まるで発作のように、突然その美しき記憶は吹き飛び、代わって別のものが割り込んできた。それは彼の胸を裂く、あの嵐の夜だった。
『――――私はもう……こんなおそろしい一族に関わり合いたくない……‼ こんなおそろしい人にはもう会えない‼ 二度と……顔も見たくないわ‼』
叩きつける雨。叫ぶ雷光。彼の腕を押し退け舞い上がる風。拒絶という名の鋭い眼光が彼女の瞳から放たれ、それが彼を金縛りにさせる。壊さねば越えることのできない透明で巨大な壁が彼の前に立ちはだかった。
『こんなおそろしい人……』
『……顔も見たくない……』
ここ数日間は忘れられていた一番苦しい思い出が峻烈に蘇り、彼の世界で反響して、病んだ傷がさらに蝕まれた。
刺すように閃く強光。泥の臭いがする雨風。剣圧によって負った胸の裂傷。彼女の戦士としての力。立ち向かうその姿。
拒絶。
『おそろしい人……!』
気がつくと、彼は己が目を潰すように瞼をギュッと閉じ、頭を抱え込んでいた。
目を開いても闇。閉じても闇。
罪深い血を受け継いだ、呪われし生まれの自分。拒まれて……忌み嫌われて当然の……。
そこに愛は存在しない。するはずがなかったのだ。初めから。
……何処までいっても、探しても、自分にあるのは孤独の闇だけ。
一人きりの部屋。
一人きりの夜。
あの夜と同じで、何も変わりはしない。ただ、土地が違うのみ。
これからも、この先も、ずっと。
彼は声なく震えながら、そこに蹲った。
過去を変えることもできず、以前から計画されていた目的どおり、今ここでこうしているが、果たしてこの先、自分は生き続けていくことができるのだろうか。この、あまりの孤独の中で。
あの父のように冷徹を極めることができれば、愛などというものに翻弄され打ちのめされることもないのだろうが……自分にはとても、あの様な悪魔になりきることはできないだろう。
何という心弱さ! 脆く頼りない精神力! あの父の血を受け継いでいるというのに……!
マキシマはもはや完成に近い仕上がりだ。肉体を変異させたことそのものに問題が生じなければ、この先は外的要因によって死に至る可能性が極めて低いだろう。放っておけば、ヌスフェラートの寿命が尽きるまで、この先何百年も生きるのだ。
あの父のように、七百年も平然と生を送ることができるだろうか?
――――いや、無理だ。自分には絶対に耐えられない。
無理だ。
今でさえ、このまま死んでしまいそうな虚無感が部屋中に漂って四方から責め苛むのだ。
例え目を開けていても、蝋燭一本の明かりでは本当にこの部屋は暗く、夜目の利くヌスフェラートの血を受け継いでいながら、彼はふいにその闇に恐怖した。震えながら、吹きすさぶ嵐の中に放り出され、凍えるように身を縮め、雨のように涙を滴らせた。
やはり、お前を連れて世界の果てへ行こう。とてもこの世界では生きていけない。お前の墓を守って、それだけを目的として、草花のように生きて。
そして朽ちていこう。
この闇は寒過ぎる。
彼は、この凍えた空気を溶かし、温めてくれるような風景を思い描き、縋ろうとした。
木漏れ日のカーテンが揺らめく、眩い森、爽やかな風。人の滅多に踏み入らぬ奥地。聖なる領域。
彼の涙は止まり、震えも治まって、ふと顔を上げた。
何故、そんな場所を思い描いたのだろう。そこはまるで、あの子守唄を聴いた時に思い浮かび、心揺さぶられた風景と同じである。そして、つい最近見てきたばかりの、母が住んでいた森にも似ていた。ずっと昔、赤子だった時の記憶でもあるというのだろうか。不思議だが、その風景を思い浮かべていると、僅かながら心安らぐ気がした。
この闇は寒い。
彼は孤独の闇への恐怖から、怖々ベッドから立ち上がり、明かりの灯る街を見下ろした。夜の街は、闇の海に浮かび漂う幾隻もの船の集まりの如き華やかさだ。少なくとも、この部屋の中よりは孤独が紛れるような救いがあるように見えた。