第2部第7章『テクト城決戦』その6
アーサーは、腕の中のソニアが今にも意識を失いそうなのでオロオロと首を上げた。
「誰か――――――誰かソニアに手当てを――――!」
我に返ったロリア姫が駆け寄ってきて、彼女自身も涙で頬を濡らしながら施術した。
これまで他の要所を受け持っていた兵士や魔術師達も駆け付け、重傷者の手当てに当たった。
「――――王様! ご無事でしたか!」
テクト王は、デイルに守られていたお蔭で命に別状はなかった。しかし、デイルはぐったりとして力がなく、うつ伏せだった体を起こしても、頬を叩いても、ピクリともしなかった。
他にも、絶望的な者が幾人か転がっている。彼等が息をしていないのを見ると、兵士達も皆、言葉を失った。
「誰か、蘇生術のできる者を探してきておくれ! 手が空いているようなら、ここに来るように!」
王の命で、すぐさま兵士はホールから飛び出して行った。魔法には傷の治療や回復だけでなく、まだ完全に死の国に行っていない者の魂を呼び戻せる、蘇生呪文というものがあるのだ。
ただし、この術は当然ながら超高等級の難易度である為、扱える者が非常に少なく、流星呪文術者の中の、更に1、2割程度しかいない。
間に合う内に忠臣達を蘇えらせたくて、王はやきもきした。
ロリア姫は、上体を起こせるくらいまでにソニアを回復させると、本人にそれ以上の治療を断られて、他の者を診に回った。
そして、王の腕に抱かれているデイル隊長の無惨な姿を見て、跪いた。
「ああ……デイル……」
ロリア姫は胸元からハンカチーフを出して、血塗れの彼の顔を拭った。美しいレースのハンカチーフが、あっという間に真紅に染まっていく。
「私が……無力なばっかりに……!」
姫の涙がデイル隊長の頬に落ちて血と混ざり合い、流れていった。兵士達も隊長の姿に悔し涙を溢し、俯いた。
ふと、また風が流れる。ロリア姫や王や兵士達が見れば、ソニアが膝立ちになって剣を杖にし、身を起こしかけていた。
ソニアは癒しの呪文を唱えた。剣から床に、そして風へと白い霧が伝わっていき、風の中に溶け込むと、みるみる光の強さを増していった。
その風に包まれた者達は皆、心地良さに目を閉じてウットリとした。先程、まだ敵の暗黒陣が敷かれていた中で行ったものとは大違いだった。暗闇の中ではなく、眩しい陽の射す滝の側で清い水を飲んでいるかのような爽快さだ。
傷を受けた者達の血は光の中で止まり、意識もハッキリとして、風が止む頃には、疲労だけを残して殆ど回復してしまったのだった。
そして、生死の境を彷徨っていた者達までが意識を取り戻し、仲間に抱きかかえられながら生き残った喜びを分かち合い、涙ながらに笑った。
「……ロリア様、ご無事でしたか……」
姫はその声にハッとして、デイル隊長の顔を見た。隊長の頬には赤みが差し、目は生きる者の喜びに輝いていた。
「デイル!」
姫は、嬉しさのあまり彼を抱き締めた。デイル隊長は面喰ってもっと顔を赤くし、兵士達がそれを見て笑い声を上げた。
すっかり変わった空気と、目の前で大将が滅びた安堵で笑いが広がっていく中、ソニアは横たわる大蠍の亡骸の側に立ち、1人沈んでいた。アーサーがそっと肩に手を掛ける。
「……こいつも……他の奴等も……あの時、何かの束縛から解放されたんだろうか」
「……たぶん」
「……お前がこれまで言ってた事の意味が、もっと解ったような気がするよ」
「…………」
その時、1人の兵士がホールに駆け込んで来て、大変だと大声で喚いた。全員がそのテクト兵に注目し、もしやまた何か問題が起こったのかと身構えて、言葉を待った。しかし、紅潮して息を切らせている若い兵士がテラスを指して告げようとしたことは違った。
「王様……! そ……外をご覧下さい! 魔物が……!」
訳も解らぬままに、王に続いて皆がテラスに出て外を見てみると、城内や城下町で何が起きているのかが一望できた。魔物達の様子がおかしい。
「……何と……!」
恐ろしい力を持った魔獣達が次々と城塞外へ一目散に逃げて行き、逃げない者も、ただの獣と化してウロウロ徘徊している。すっかり邪気や殺気の抜けた顔で、中には兵士にじゃれている者までいた。
サーベル・タイガーは呑気に民家の食べ物を漁っており、怯える民が遠巻きにそれを窺い、大蟻の群れは互いに触角を合わせて懸命に交信し合い、大鴉は民家の屋根の上に留まって、羽を繕いながら仲間同士ガア、ガアと鳴き交わし、ある家の前では、子供と毛玉のような小獣モウラがジッと見つめ合っていた。
誰かが言葉を発するより先に、ソニアが身を乗り出して叫んだ。
「――――――衛兵――――――っ!! 逃げる者も、攻撃しない者も、決して傷つけるな――――っ!! 何もするな――――――っ!!」
遠くのテクト兵もトライア兵も、聞こえた者は頷き、仲間に今の命を伝えに行った。
城塞都市を取り囲むように、何やら白くて薄い天幕の如きものが垂れていて、それが刻一刻と薄らいでいくのが判った。先程発生した謎の技の産物に違いなかった。
「……奇跡じゃ……!」
テクト王はテラスの皆に振り返り、両手を広げ大いに笑った。
「天の……奇跡じゃ!」
兵士達もどっと歓声を上げてテラスから飛び降り、ホール出口から出て行き、次々と広場に集まっていった。
これこそ、戦いに勝ったのだと本当に皆が悟った瞬間だった。もはや敵はいないのだ!
歓びに騒がしくなる城内を見下ろし、ようやくソニアにも笑顔が浮かんだ。逃げていく魔物やじゃれる魔物達を温かい眼差しで眺め、安堵して、二度と彼等が戦わないように願った。
「ソニア様……先程の技は、一体……?」
安心したロリア姫が先程の出来事をゆっくり振り返られるようになって、ソニアの隣に立ち、尋ねた。テクト王も、兵士も、魔術師も、アーサーも、姫と同じく関心を示してソニアを見た。ソニアは、自分でも何が起こったのか解らない様子で頭を振った。
「……何が何だか、よく解らないんです。あの杖の中に魔法が隠されていたみたいで、それが飛び出て来たような感じでした。私は魔法が使えるから……それで発動したのかもしれません」
テクト王がウウムと唸り、ある勉強家の魔術師が、ふと思い出して言った。
「真か嘘かわかりませんが……魔法具の中に魔方陣や魔法を仕込んで保存しておいて、必要な時に取り出す戦い方があると……以前に文献で読んだ記憶があります。もしや、そういったことなのでしょうか……?」
術者でもあるロリア姫が相槌を打った。
「それなら納得がいきますわね。これほどの広範囲を覆える大呪文を、何の準備もなしにいきなり発動させられるなんて、考えられませんもの」
薄れゆく白い天幕を眺めながら、各々、「成る程」と独り言ちた。だが、それだけではスッキリしない謎が多過ぎる。
やがて、王が言った。
「そうだとして……それでも解らぬことがある。ワシはかつて、この現象に近い呪文の名を学んだ。邪悪なる力を打ち消す『バル・クリアー』という呪文じゃ。おそらくこれは、それなのではないかと思うのだが……そんな高等な聖なる呪文を、あの男が隠し持っていたりなどするのじゃろうか?」
「『バル・クリアー』……」
「そんな珍しい魔法を……」
魔法の知識がある者は王の言葉を吟味し、呻いた。それほど、高等かつ稀少な魔法なのだ。
魔法談議には加わり辛いはずのアーサーが、いきなりこう言った
「今回の軍勢が押し寄せて来た時に……おそらくあの男の仕業なんでしょうが、同じ位規模の大きい魔法がかけられて、この都市一帯が重苦しい空気に変わりました。それで魔物達の凶暴性も増しました。そんな術を持つ男が、わざわざ反対の効果を持つ力を杖に仕込んでいたとは、確かに理解できません。発動した後は、本人もあんなに弱っていましたし」
「……その瞬間を見てはなかったが、襲撃と同時に嫌な気配が辺りを支配したのは、その為だったのか。もし正しいならば……それは、『バル・クリアー』の対極に位置する暗黒の魔法、『バル・ダムール』じゃろうな。どんな呪文にも、全く反対の性質を持つものが存在する。『バル・ダムール』は聖なる力を打ち消し、闇の力で支配するものじゃ」
魔術師は恐ろしさに頭を振って、魔除けのまじないの仕草をした。自分の胸に向かって指で正五芒星の形を空でなぞるものだ。
皆が理解に苦しむ中、ここでロリア姫が一つの結論を見出した。
「もしや……杖から出たのはただの魔方陣で、そこに、ソニア様のお力が加わったのではないかしら?」
そう言われてソニアはギョッとし、目を丸くした。
「ワシも、それが一番妥当な考えのように思う。そなたの力ならば不思議はない」
「そんな……! とんでもない……! 私……何の呪文も唱えませんでした。ご覧になっていたでしょう?」
それも一理あって、魔術師達は悩んだ。一番困り顔なのはソニアだったが。
「私、無我夢中で、とてもそんな技を使える余裕なんてありませんでした。剣でなく、杖先の方で彼を殴ろうとしていたなんて、今思い返しても恥ずかしいくらいです」
「……フム……怪我の功名か……」
「それに第一、私、『バル・クリアー』なんて使えません」
これはトライア兵もアーサーも知っているから、頷いた。こうなると、もう迷宮入りだ。
王は全てを考え合わせてフムフムと納得し、やがてこう言った。
「真実は今も解らぬが―――――ワシは何にせよ、そなたのお蔭だと思っておるよ。魔法というものも、極めれば必ずしも詠唱を必要とはしない。そなたの力か、或いは何らかの加護が働いたのか――――いずれにせよ、我々は助かった! 戦いに勝ったのじゃ!」
それには誰もが賛同して、そうだ、そうだと口々に言った。
「そなたはこれからも……いや、これからますます『トライアス』と呼ばれることであろう! ありがとうソニア殿! そしてトライア兵士諸君! 我がテクト兵もご苦労であった!」
一同は胸を叩いたり拍手したり抱き合ったりして、改めて歓び合った。ソニアはまだ困ったような、はにかんだ様子だったが、そんな彼女をアーサーが抱き締めて、言ってやった。
「オレ達は勝ったんだ! そして、お前の望み通り、魔物達は戦いを止めて帰って行った。それでいいじゃないか!」
ソニアは微笑し、彼の背を叩いて、守り通した都市を一緒に眺めた。
その後は、全兵士が戦いの後始末に働き、民の被害状況を調べ、破損箇所の修復等に従事した。今回の軍に勝ったからといって、次がないという保証はない。今から十分な備えをしておかなければならないのだ。
ソニアの命令が速やかに通ったお蔭で、ウロついていた魔物と衝突することもなく、兵士達は根気よく魔物を追い立てて城外に出し、戦勝後はそれ以上の怪我人を出さずに済ませることが出来た。
城内や城下町で惜しくも亡くなった者の下に蘇生術者が奔走して、甦りの術で呼び戻しを試し続けた。助かる確率の決して高くない、そして当人の意志や魂の強さも影響する、甦れば儲けものと言えるくらいの難しい術なので、全死者数の3割ほどしか生還しなかったが、家族や仲間は泣き叫んで喜び、息を吹き返した者に抱きついた。戻らぬ死者には葬儀の準備が行われ、棺職人が忙しくノミを打ち、兵士等によって墓穴が掘られ、丁重に葬られた。
どうしても痛みと苦しみと哀しみが付き物だったが、それでも、今の都市を覆う空気の中では、明日の為に力強く生きようとする意志が泉のように涌き出て来て、テクト民の心を潤した。
テクトから各国に使者が飛び、また各国からの使者が来て、テクトがバワーム王国、エクセントリア王国に次ぐ戦勝国となった知らせが広まっていった。テクト民にとって、これほど誇らしい瞬間は近年になかったし、この知らせが他国の戦う者達に勇気を与えて、士気を高めていった。
――――その夜、王に十分な休養を勧められて早めに特設テントで就寝したソニアは、ランプの明かりもない暗いテントの中で、外の篝火の作る影がテント地を透かしてボンヤリと揺らめくのを見ながら、何度も何度も繰り返し、ある思い出に浸った。
そのきっかけは、テクト王が言った『バル・クリアー』だった。彼女には、その魔法に纏わる記憶があった。いずれ使えるかもしれないからと、これまでにアイアスやデルフィーの魔術師が彼女に様々な魔法を見せてくれたものだが、その中でもこの『バル・クリアー』は、幼いソニアにアイアスが実演して見せた、印象深いものだったのである。
どんなに特殊な魔法でも、優秀な彼女ならいつか自然と覚えてくれるかもしれないと2人の師は期待してくれたものだが、結局、彼女は攻撃魔法の幾つかと治療魔法を、一番初歩的なレベルで扱えるだけに留まり、風の力に頼ってその威力を増幅させる戦い方の方を磨いていった。
トゥーロンに学んでいた『ミスト』だって出来ないし、暗闇を照らす松明呪文『ルクサ』も出来ない。これを知ったら、彼は残念がるだろうか?
――――――今から16年以上前。あの時は、とある河原でアイアスに呪文の手解きを受けていた。ソニアはアイアスへの想いに胸を熱くしながら、その情景を回想した。
『いいかい? ソニア、よく見るんだよ。この呪文は、とても頭が疲れるんだ。使う時と場所を考えないと、死ぬこともあるんだよ』
『……はい!』
幼いソニアの真剣な表情にアイアスはニコリと微笑み、それから、草の禿げた地面に向かって呪文を唱えた。そこには既に魔法で力を込めた石が定間隔に置かれており、魔方陣の基礎が出来ていた。
『――――――バル・クリアー!』
天に掲げられていた手が布を滑らせるように振り下ろされると、置かれていた石が俄かに眩しく光を放ち、互いを光の線で結び合った。
そこに現れたのは、大人が1人寝転んで手足を広げたくらいの大きさの六芒星と、それを取り囲み、各頂点と接している円だった。円の縁に合わせて真っ直ぐ上に白いカーテン状の光幕が出現して広がり、オーロラのようにユラユラとうごめいた。それは上に行くほど薄っすらとしており、アイアスの背より少し高い所で、もう切れて見えなくなっている。
高等かつ特殊な魔法を発動させた時によく起こる、ブゥ――――ンともオォ――――ンとも聞こえる不思議な共鳴音が発動と同時に高まって、光幕の発生をピークに静まっていくと、やがて、微かな音だけを残して落ち着いた。
ソニアは目を丸くして光幕の揺れ動く様を見つめ、ただ、ただ、驚いていた。
『……さ……さわってもへいき? おにいちゃま』
『ああ、私達には何ともないよ。これが苦手なのは、闇の力で生きる者なんだ』
ソニアは、許可を得て恐る恐る幕に触れてみた。微弱に電気的な刺激がピリッと走ったが、痛みや不快さはそれほどなく、手は難無く幕を通り抜けて陣の中に入ることが出来た。ソニアは手を出し入れする動作を繰り返し、それから幕を撫でたりした。
彼女の熱心な観察意欲と体験する様にアイアスは満足そうに笑むと、『ちょっと待ってて』と言って川沿いの森の中に入り、間もなく何か生き物を手にして戻って来た。それはボンガと言う魔物で、この辺りの森では一般的なビーバーの一種だった。
この森や川の一帯は、アイアスが言うには暗黒気が強いとかで、闇の魔物が多く棲息していたし、このボンガも見た目は毛むくじゃらでもっさりとしていて可愛いのだが、狂暴だった。ソニアは前に一度、可愛さについ手を伸ばして、危うく指を噛み切られそうになっている。
アイアスは、ボンガをバル・クリアーの陣の中に放り込んだ。
『よーく、見ててごらん』
でん、でんっと尻から落ちてギャッと喚いたボンガは、ムクリと身を起こすと、先程までは尾を掴んで離さないアイアスに牙剥いて、シャー、シャーと威嚇していたのに、急に大人しくなって顔の皺もなくなり、よく懐いた犬か猫のように2人を見比べて、ただキョトンとした。
アイアスの驚いたことには、すぐさまソニアが喜んでその中に飛び込んでいき、ボンガは彼女に体中を撫でられると、満更でもない様子で目を閉じた。
『うわぁ! すごぉい! すごいね! おにいちゃま!』
直感的にこの魔法の性質を見抜いたとも言える彼女の行動と好奇心の強さを面白がって、アイアスは優しい目で見守り、説明した。
『これが聖なる光の呪文、《バル・クリアー》だよ。術者のレベルによって広さは違ってくるけれど、私なら町一つ分の大きさぐらいまでは出来ると思う。この呪文の特徴は、今見て解るように、相手を傷つけたり殺したりしようと思う暴力的な闇の力を抑え込んだりすることなんだけれど、他にも、一度作ったら、その後数十年はそのまま残るというところにもあるんだ。だから、この魔方陣も、このままここにずっとあるんだよ』
『すごおい!』
『何か異変があった時に、大きな街でこれを使えば、多くの人々を魔物達から守ることが出来るよ。それも、かなり長い期間ね』
ソニアは、これまでに見せられてきたどんな種類の魔法実演よりも目を輝かせて、アイアスを見上げた。ボンガはすっかり彼女の毛繕いが気に入って、もっと撫でろと頭を押しつけている。
『わたしも、きっとおぼえるよ! こんなすごいのできたらいいもん! ね! おにいちゃま!』
彼はコクリと頷いて、彼女の気が済むまで、そうしてバル・クリアーの効果を楽しませてやったのだった。
懐かしい思い出に、ソニアは目頭を熱くした。そうだ、兄はバル・クリアーの使い手だったのだと思うと、何だか誇らしくて、思わず顔が綻んだ。
ソニアは、自分が『バル・クリアー』を使えたらどんなにいいだろうと予てから思っていた。だが、『ミスト』も出来ないような者が、そんな高等魔法を扱えるはずがない。それに、幾ら人に言われようとも、自分はあの時、確かに何の呪文も唱えていなかったし、本当に魔法を使ったのなら、魔法の発動時に自分の精神力が消費されるのを術者は自覚するものなのだが、そんな感じも全くなかったのだ。残念ながら、彼女が否定したのは謙遜からではなく、本当にあり得なかったからなのである。
しかし、誰がやったのか、何が原因なのかはともかくとして、もしこの都市に施されたのが本当にバル・クリアーなら、とても素晴らしいことだった。今後数十年に渡って、万一この都に魔物が入り込んで来ても、この中で酷く暴れることはないのだ。
反対呪文が存在しているから、この陣を上回る規模でバル・ダムールを掛けられてしまえばそれまでという危険はあるが、その可能性は何処の世界にいても同じだし、例えそれまででも、この状態が続くのは喜ばしいことだった。
状況によっては、魔物も害はないということを人々が学べる良い機会でもある。
ソニアは1人きりのテントで微笑みながら、天幕の明暗の揺らめきをウットリと眺め、懐から宝物の詰まった小さな巾着を取り出して、アイアスから貰ったパンザグロス家のペンダントにキスをし、ダンカンの触角の欠片にもキスをし、2つを大事に握り締めたまま眠りについた。
それから数日間、トライア兵はテクトに留まり、敵の報復に備えつつ復興の手伝いをした。本国トライアは依然として無事であり、テクト防衛戦での勝利をトライア王は大いに喜んで褒め称え、今後の計画についても、ソニアに一任することを命じていた。
魔術師達によって、謎の陣の調査も進められている。この清々しい空気の中で、テクト民達は今まで以上に精力的に日々の生活と物作りに励んだ。
あのリヴェイラという副長の死は、まだ皇帝軍の知るところではないのか、或いは速やかな報復は計画していないのか、テクトでは何事もない日々が過ぎて、ようやく訪れた平穏な生活に民は感謝していた。
――――しかし、ソニアにも解っていたことだったが、これほどの大魔法が発動していて、皇帝軍が気づかぬ訳はなかったのだった。
――――――皇帝軍の地上世界侵略拠点、ヴィア・セラーゴ。
刃先のように鋭い山々が連なり閉ざされた盆地に存在する都市の中央。地上から一見しただけでは判らぬほど地下深くにまでフロアーが存在し、潜っている主城に、今は多くの魔物が犇めき、ヌスフェラートや他種族の戦士達が往来していた。幽霊城のようだった以前の姿が嘘のように城らしく機能し、多くの幽霊火が焚かれ、通路を青や赤に照らしている。
その地下城中部階層の通路を、自軍の作戦室に向かって歩く1人の老ヌスフェラートがいた。
石造りの床、壁、彫刻で出来た通路には幾星霜の経過を感じさせる素材の劣化が見られ、その表面を仄かな明かりで照らすことで、闇は何処までも暗く浮き立ち、恐ろしい雰囲気を一層引き立てている。
年嵩の為に頭髪が薄く、皺だらけの顔のその男は、目元に広がるヌスフェラート特有の隈が骸骨の印象を深めている恐ろしい形相をしており、眼窩めいた黒い隈の中心に光る目は、翠玉色の幽気が灯っているかのように見えた。
術者らしく、また老人らしく片手に杖を持ち、カツカツと通路を突きながら歩んでいく。
床に擦れるほど長いローブは厚みのあるベルベット光沢の生地で、そこに金糸で豪奢な刺繍が施されていた。黒に限りなく近い暗紫色のローブの中で、金色の炎が揺らめき立つような紋様だ。
齢700歳を過ぎているこの老人が、腰に手を当てて物思いに耽りながら、ゆるゆると通路を進むと、杖の音から誰が歩んで来るのか悟った魔物やヌスフェラートの部下達は、違う通路にわざわざ逃げて出会わないようにし、已む無くすれ違ってしまった者は深々と頭を垂れ敬意を示すか、キビキビと刃物の如く鋭い敬礼をした。
彼はそれらに一切応えもせず無視して通り過ぎ、何事かを考え続け、やがて辿り着いた作戦室に入ると、誰もついて来ていないのを振り返り確かめてから、そっと扉を閉じた。
彼は、暗鬼族の部下2人が待つ作戦室中央のテーブルに進み、そのテーブルの真ん中に三脚とクッションで固定され鎮座している水晶玉の輝きに目をやった。
「……どうだ? その後」
「それが……リヴェイラ様からは一向にご連絡が入りません。つい先程、テクトから山2つ離れた森を巡回していたカルラから報告がありまして、付近の魔物が言うには、リヴェイラ様が3日前にテクトを落とす為に攻め入ったのは確かなようです」
「…………」
男は、地上に住まう部下が地上の言葉の方を得意としていることから、これらの部下に対しては地上の言葉を使って話していた。
この男はリヴェイラの上官であり、今回テクトを攻めた軍団『魔導大隊』のトップであるヌスフェラート、ゲオムンド=エングレゴールだった。ゲオムンドはリヴェイラが連絡を絶ってからというもの、まるで進展がないことを危ぶんで、ずっと機嫌が悪かった。
エングレゴール家と言えば、ヌスフェラートですらも恐れるほどの冷酷さで評判の一族であり、また名門でもある。現在の一族代表であるこのゲオムンドは、予想に違わぬ極め付きの残虐君主で、大帝カーンとは違った意味で恐れられていた。
カーンは狂ってもいないし、道理の解る人物なので滅多矢鱈に民を殺したりはしないが、王らしい冷静な決断を行う為に王として畏怖されている。しかし、このゲオムンドは己自身や一族の邪魔になる者を誰彼構わず抹殺し、しかも犯人がバレると立場的にまずい相手の場合には、証拠を残さずに完全犯罪を成し遂げるのを得意としていたのである。
これまでに何人の部下が暗黒界に放り込まれ、何人のヌスフェラートが毒を盛られ、或いは忽然と姿を消したか知れない。そして、大概その手口は酷く残忍で、聞く者を震え上がらせるようなものだった。
カーンも彼の暗殺癖には気づいていたのだが、長年代々の名門であり、優秀な頭脳を持つ策士であり科学者でもあったので重く用いて、彼の素行には目を瞑って、これまで好きなようにさせてきた。
そして、今回はその残虐なまでの遂行力にも期待して、彼に皇帝軍の1大隊を任せたのである。エングレゴール一族の力と、長年積み上げてきた功績によって、ゲオムンドは魔導界での第1人者であったし、それに纏わる魔物達との繋がりも密接だったので、彼が魔導大隊を率いるのは当然でもあった。
部下である副長リヴェイラは、遠縁であったが同じ一族の者で、ある人物を除いて現在ゲオムンドの次に優秀な男だったので、この度、彼が白羽の矢を立てて重要な役目を負わせたのである。
しかし、早速このような事態に見舞われてしまったのだ。
ゲオムンドは、丁度リヴェイラがテクト攻めをしていたはずの3日前に皇帝カーンに呼び出され、遠隔通信の魔法で対話をした時のことを思い出した。
現在自軍が侵攻中であると報告し確認し合っていると、ふいにカーンが沈黙したので、何か意にそぐわないことでもあるのかと内心恐れて、次の言葉を待った。ゲオムンドは、皇帝として誰よりカーンを恐れていた。
その時、カーンがこのような奇妙なことを言っていたのである。《テクトかどうかは判らないが、ナマクア大陸のその辺りで、先程何かが弾けたような気がする》と。
そして皇帝は、ゲオムンドが自身でナマクアに赴き指揮を執っているのかと尋ね、そうでないと彼が答えると、直々に《お前自身がそこに行って調査し、報告せよ》と命じたのである。ゲオムンドは《仰せのままに》と深々頭を垂れて承知し、ずっとこの城で様子を窺っていた。リヴェイラの帰還を待って、報告を聞いてから出立しようとしていたのである。
しかし、リヴェイラは戻って来ない。カーンの言う《弾けた》という言葉の意味するものが何なのか、ナマクア大陸で何が起こっているのか、そしてリヴェイラはどうしたというのか、それら全てが気懸かりで、ゲオムンドは様々な思考を廻らした。
「……リヴェイラの話では、ワシが出向くまでもなく落とせる国だと聞いておったが……何やら状況が変わったらしいな……。ホルプ・センダーに手を焼いている天空大隊の援護などに現を抜かしている場合ではなかった……」
ゲオムンドは独り言でありながら、既に慣れた地上の言葉の方を使った。
このところ、人間の若者達で結成された義勇軍――――軍というより部隊の規模である――――が、ターネラス大陸のカレーンスティア王国攻めをしている天空大隊の妨害をして苦戦を強いられていたので、鳥人族からも部下を借りている手前、ゲオムンドが要請に応じて知恵を貸しに行っていたのであるが、その間に何かが起きてしまったらしい。
結局、いまいち徹底して冷酷な手が打てない鳥人族の将との連携が満足に取れず、ホルプ・センダーのメンバーの内1人を葬れただけで、その時のカレーンスティア攻めは失敗に終わって、再度挑むことになっているのである。ゲオムンドに言わせれば、全くの無駄足だった。
ゲオムンドは水晶玉に手を翳し、ブツブツと長い文句を呟き、己が手で発動させてみた。水晶の中心から光る霧が生まれて渦を巻き、その光で玉の中が一杯になると、ボンヤリと何らかの映像が写ってそのままになった。まるで漣が立っている海面下の魚を見ようとするように巧くいかず、一体何が映っているのかもよく解らない、乱れた映像だった。
部下が補足して言った。
「……ナマクアでは、テクトだけがこのようになります。トライアとペルガマに異常はありません」
ゲオムンドは黙って頷いた。彼の怒りを何時買うか知れないから、全ての部下は基本的に発言が少ないのだが、ここにいる者は長年篩に掛けられてきた彼お気に入りの優秀な地上特派員だったので、主の機嫌を損ねずにタイミング良く必要な情報を告げるのが巧みだった。
皇帝軍の7大隊はそれぞれ大雑把ながら担当地域を割り当てられており、ゲオムンドは自ら進んでこのナマクア大陸を選んでいた。それには、皇帝軍の誰にも知られてはならぬ、ある者と彼だけの重大な秘密に関わる深い理由があったのだが、今回はそれが役に立つかもしれなかった。
「……早急にワシが行かねばならんな」
ゲオムンドは髑髏の眼窩めいた隈ごと目を細めて、杖の先端に象られた本物の髑髏の彫刻を摩った。その目と口には3種類の宝玉が埋め込まれている。
ゲオムンドは、相手の心の内を見透かそうとする時以外には特に部下の目を見ない者で、例に漏れず水晶玉を見つめたまま部下に命じた。
「すぐにあ奴に連絡を取って、ワシが呼んでいると告げてくれ。『ナマクア大陸のことで』と言うがよい」
長年の部下である彼等は、このゲオムンドがあらゆる一族や部下のことをどのように呼称するか心得ており、『あ奴』と言った場合、それが誰を指しているのかは確かめるまでもなかった。
「はい、ただちに、閣下」
「ただし、ここには呼ぶな。いつもの場所に来るように言っておけ」
「はい、仰せ通りに」
部下の1人が作戦室の奥に、ローブの裾をシュルシュルと擦らせて退出して行った。
ゲオムンドはいつもの場所に向かうべく作戦室を後にし、地下城内部に幾つも設けられている魔法動力による自動昇降機に乗って地表を目指し、人目につき難いことでよく使用する寂れた発着台から、流星となってヴィア・セラーゴを発ち、彼方に消えて行った。