第4部29章『対面』1
アルファブラ王国、グレナドの街に潜伏を続けている少年の成長と記憶の蘇りの進行は更に進んでいた。そろそろ肉体の方は少年と言うより青年に近い完成を見ている。そして心の方は、遂にイクレシア島での死闘にまで辿り着いてた。これで、彼の記憶は一応一繋がりとなったのだ。
サール=バラ=タンとの闘い。そして死。それを思い出した時のショックは強烈であった。確かに、彼の鎌を首筋に喰らったのを覚えている。あんな傷を負って生きていられる訳がない。側に味方がいるならまだしも、あの状況ではそんなものは望めなかった。
最後の瞬間、この絶望的な危機を誰に託せばいいのだろうと考え、あの幼子を思い出したことを彼は覚えていた。それが、記憶にある限り、今のような自分になる前の“アイアス”最後の思考だった。後は何も覚えていないのだ。
死後の世界とやらを覗いた記憶もないし、天界というものを見た気もしない。その後一切の時間が全く欠落していて、そこから急に、あの森での目覚めへと繋がっている。
一度死にかけた人間が、再び意識を取り戻すまでの間に不思議な世界を見てくる臨死体験なるものの話を書物で幾つか読んだことがあったが、それらしきものを体験した気がしない。
果たして自分は死んだのか?
サール=バラ=タンの口上を思い出す限りでは、ただ自分を葬ろうとしているだけのようだったから、ヌスフェラートの怪しい秘術でも施して今のような状態にさせられた、ということは非常に考え難い。何しろ、彼等側から見た利点が全く考えられないのだ。
それに、今となっては正体を知れたあのヴォルトも、先日の戦いで自分の姿を見た時に酷く取り乱していた。だから、自分が今置かれているこの状況は、少なくとも皇帝軍が行った謀ではないのだろう。
だとしたら、一体自分には何が起きているのだ?
アイアスは、ようやく謎の全貌が明らかになったことで、今度はその謎そのものに悩まされることになった。
自分は天使なのではないかと思い、それを確かめに旅に出てからというもの、長の年月、探求に追われてきた。もう一人の天使と言われているヴォルトもずっと生きているから、まだまだ役目があるのでお互い生かされているのかもしれず、天使の宿命とされる短命で証明されることがないので、真相が解らぬまま、宙ぶらりんな状態にあった。
だが、今こうなってみて改めて思う。やはり自分は天使なのではないだろうか。それ以外に、この不可思議な現象を何と説明したらいいのだろう。まだ果たすべき役目があるのに死んでしまったから、まるで天が彼をいとも簡単に生き返らせたようではないか。そう捉えるのが一番しっくりとくる。どうして子供となって甦ったのか、その理由は知らないが、この先起きる重要な戦いでは、より若い肉体の方が優れていて望ましいのかもしれない。
サールと戦った時、経験と知識によってまだまだ十分英雄の名に恥じない力を見せることができたが、純粋に肉体のことだけを考えれば、先の大戦時の体が最盛期にあったことは確かである。もう一度、あの頃の若さで、しかも経験と知識だけはより進化した最高の状態で、使命に臨ませようというのだろうか?
そんな深い悩みの中にありながら、アイアスは城とパンザグロス家とを頻繁に偵察し続けた。王女は遂にアルファブラ女王となり、現在は執政を立てて自身は喪に服している。
両親も健在で、屋敷の修復は順調であった。この肉体の成長がどこまで続くのかは解らないが、やはり今この姿で出て行くのはまだまずかった。これでは、彼等の記憶にあるアイアスそのままで、ちっとも年をとっていないことになってしまう。正直に説明すればいいのかもしれないが、それは余計な悲しみや心配を与えるだけなのかもしれない。息子が一度死んだ話など、聞きたい親がいるはずがないから。
いずれにしても、皇帝軍から命を狙われていたことが判り、しかも今尚生存していることを知られてしまったから、また襲われる可能性がある。だからそうなる前に両親に会いに行こうとは思っているので、今はもう少しだけ様子を見ようと、一日、一日、タイミングを計っているところだ。もうすぐ、皆と再会することになるだろう。
だが、それをする前にアイアスには情報が必要であった。不甲斐無く自分が死んで皇帝軍を止められなかったことによって、一体どれだけの国がどれだけの被害に遭ってしまったのか、その現状を正確に把握しておきたかったのだ。ここに来るまでは、自分の置かれた状況が解らないから、ただ漠然と故郷を目指していたので、この新しい大戦に関する知識が十分ではないのである。世界の各所を訪れて、直接情報を得る必要がある。
そこで彼は、引き続き正体を隠しつつ流星魔法で世界を巡り、素早い情報収集を行った。出向いてはアルファブラに戻り、また何処かに出掛けては戻って来る。そんな風にして、祖国と両親を陰ながら見守りつつ、この大戦が如何に大規模で悲惨なものであるかを知っていった。
まず、既に幾つかの国が滅びていること、これが非常に痛い。それに伴う死者の数は夥しいものだった。辛うじて勝ち残っている国も幾つかあるようだが、それでも勝利とは言い難いものだ。要するに、侵略に対する防戦に耐えきっただけのことであって、攻め入って来た皇帝軍の大隊を壊滅させるに至っているケースは少ないのである。どう考えても相手は準備を整えてまた出直してくるであろうから、手放しでは喜べない。
しかも、話に聞く大隊の特性から、六つか七つは種類がありそうであるから、まだまだ皇帝軍の層は厚いのだ。アルファブラを襲った鳥の軍勢といい、ディライラを襲った虫の軍勢といい、以前の大戦とは全く規模――いや、次元が違う。過去の戦を参考になどしてはならないだろう。
人間がかつて鳥族や虫族と戦ったという歴史は記録に残っていないし、そうした種族の存在すら知らない者が圧倒的大多数なのだ。本気で人間世界を滅びから救おうというのであれば、何かこれまでにはない特別な手を打つ必要があるだろう。それが何なのか、彼にはまだ見えていなかったが、見出せるとすれば自分以外にはないということは解っていた。
天が、まだお前には役目があると生き返らせたのだとしたら、納得のいく惨状だった。自分が天使だとして、自分一人で本当に足りるのかと疑いたくなる程だ。
そこで彼は、“アイアス”としての最後の瞬間に考えていた、あの幼子の今も気になり、直接トライアに行くことはしなかったが、隣国などでそれとなく尋ねてみたりした。トライアに、こんな髪の色をした娘がいるという噂を聞いたことがないか、と。あれ程特殊な才能に恵まれていた子だから、あのままトライアで暮らしていれば、それなりに有名人になっているはずだと思ったので、こんな隣国で訊いてみているのである。
そして案の定、それは守護天使と呼ばれている、あの国軍隊長のことかという答えが返ってきた。名前も確かにソニアというらしい。
アイアスは感動した。そして同時に、深い罪悪感にも改めて襲われたのだった。あの子と別れる時の、自分が彼女に与えた言葉を覚えている。まさかあの子は……本当にそれを信じて待ち続けていたのではないだろうか。だとしたら……ああ……! 自分はなんということをしたのだろう……!
どう考えても普通ではないあの子を人間世界に置き、後は全て天の計らいに任せてしまっていた。無事に暮らしているかを一度も確かめに行っていないし、考えることすら止めようとしていた。その間に、彼女がどんなに寂しい思いをし、場合によっては迫害を受け、苦しんでいたかもしれないのに。
――そう、自分はとても無責任で残酷な仕打ちを、彼女に対してしたのだ。
だが、幸いにも彼女は無事に人間世界で定着し、あの国でそのまま暮らし、しかも国一番の守り手として成長を遂げていたのだ。やはり、あの子は只者ではなかったのだ。
彼女は自分のことを待ち続けていたのだろうか。もし、そうだとしたら……。
この大戦の間、トライアが攻められれれば国軍隊長として彼女は矢面に立つ。そして自分より先に死んでしまうことだってあるかもしれない。ならば、なるべく早く彼女の前にも一度姿を現しておく必要があるだろう。彼はそう思った。まずは両親に会い、女王となったフェリシテに会い、そしてその次にソニアにも会うのだ。もう少し状況を把握して、せめてもう少し体が成長したら。
そう決心したアイアスは、如何にこの謎が奇妙であるとは言え、こうしてまだ生きているお蔭で皆を最悪の悲しみに暮れさせることなく、再会という義務が果たせることをありがたく思った。
かつて天使として早くに死すことをおそれていた彼ではあったが、それは誰しもが思うような死への恐怖ではなくて、真実を知らされないことに対する不安であった。だが、一度本当に死んだとしか思えない今は、そんな過去の不安は何処かに消えてしまっていた。勿論、やはり謎のままであるこの神秘は気持ちの悪いものだ。だが、もうどうでもいいと思える心の割り切りがあった。いつ死んでも構わない。最後に、大切な人達に挨拶さえできれば、それでいい。
今、重要なのは、それが使命なのであれ何であれ、類稀な才を受けた自分が進んでこの世界を皇帝軍の手から守らなければならないということだ。そして、彼はそれに心から尽力する心積もりであった。これがお前の使命なのだと言われる必要はない。彼自身が、世界を救いたいと強く願っていた。
この危機を回避できたら、今度こそ自分はお役御免となって天に召されるのかもしれない。若く甦ることもなしに。それでもいい。大切な人々を守ろう。それが達成できるのならば、他は望むまい。彼はそう決心し、様々な準備を始めた。