第4部28章『炎の戦姫』21
夜の気配に満ちた水辺。暖かい風に乗って、波音や笛の音が微かに響いてくる。足元からは周期的に羽虫の奏でる音楽が聞こえてきた。
街の明かりを映してたゆたう湖面は、月の光も受けて鏡のように輝いている。このトライア城都らしい夜景だ。実に素晴らしい。
その美しい闇の中、岸辺の岩に二つのシルエットが隣り合って並び、座していた。もう一刻以上もそうしている二つのシルエットは、時折肩を寄せ合って一つになるかと思えば、また時には片方が立ち上がって何かを身振り手振りで表現して見せようとする。
彼らの言葉は密やかに囁かれるだけなので、とても小さくて、ここからでは穏やかな風に消されてしまい、僅かに残る母音だけが偶に耳を掠めていった。
長い間そうして過ごしていた二つのシルエットは立ち上がり、別れの時を迎えた。片方が少し離れてから手を振る。もう片方が『待って』と言うように手を差し出すと、振られていた手は止まり、下ろされた。暫くそのまま立っていた二つの影。だが、残されそうだった一方が近づいていくと、また一つになった。
肩を寄せていた時より、ずっと確かに一つとなり、絡み合っている。そして、それはなかなか元に戻らなかった。
見守る者の目が、苦痛に揺らぐ。
やがて影は離れて再び二つとなり、片方が手を振りながら、離れた別の木立の中へと去っていったのだった。
ルークスは、城へと帰っていくソニアの姿を名残惜しく長々と見送っていた。木立の闇に消えてしまい、彼の目でもとうに彼女の姿は見えないのだが、今もその闇の中に彼女がいて歩いているのだと思うだけで心が和んだ。
理由も解らず、彼女の危機らしいことを察知して今日は駆けつけ加勢した彼であったが、結局彼女自身も未だによく解っていないということで今尚戸惑うばかりであり、とにかく重症ながら彼女の命が助かり、治療を受けて今では完全に回復し、今夜も彼に笑顔を投げかけてくれたから、それで善しとしていた。
これまで傷つけるばかりだった彼女の役に立てるというのは、とても嬉しいものだ。胸の内にある罪悪感を多少なりとも薄め和らがせてくれる。
二人を待ち受ける未来は決して幸福なものではないと解っていても、今はひとまず、その悦びを偽らずに素直に解放していた。
彼にもエルフ族の知識はそれなりにあり、知る範囲のことを彼女にも教えたのだが、あのダーク・エルフという一族はかなり好戦的で知られている。ヌスフェラートといい勝負だ。今日それを目の当たりにして、とても納得がいった。ワー・エルフというのは更に物騒な連中のようだから、どれ程のものだろうと考えてしまう。正直、地下世界の中で好きな種族は彼にとって竜族だけなので、エルフも地下由来のものはどうも好きになれないと改めて思った。
だが、ソニアがその血を引くハイ・エルフというのだけは別格だ。人間は除外されるが、やはり地上世界と、その世界に住まう者達の方が自分は好ましいようである。そう考えながら、ルークスは彼女が消えていった闇を眺め続けていた。
そして足元に置いていた槍を手に取ろうと腰を屈めた時、彼女が去っていった方向とは別の程近い木立から葉擦れの音と足音が近づいてきたので、ルークスは反射的に身を低くして闇に目を凝らした。人間に姿を見られてはまずい。
すると、誰かが出て来て真っ直ぐこちらにやって来た。それは、彼も見知っている者の姿だった。
「……よォ」
気軽にそんな挨拶をかけてきたのは、ソニアの友人であり、この国の兵士である人間、アーサーであった。姿を見られても問題ない相手であるから、ルークスは武器を手に取ってゆっくりと立ち上がった。
アーサーはあまり距離を詰めずに、そこで立ち止まった。槍を伸ばせば届く距離であるから、彼おそれてのことではないことが解る。単に礼儀として開けているのだ。
二人はそのまま見合った。
アーサーはただ普通に立って見ていたが、ルークスの方は睨むと言った方がいい形相だった。アーサーが丸腰で構えていないから、彼も構えはしないが、それでも槍をしっかりと握って挑戦的な気を発していた。何しろ相手は人間の男で、唯一の女性に同じく想いを寄せているのだ。厄介な人物である。年齢的にも同じであり、背丈もほぼ同じ二人の青年は、こうして暫く互いを見合った。
やがて、アーサーが言った。
「あんた……人間が嫌いなんだってな。早くオレにここから消えて欲しいだろうが……まぁ、ちょっと我慢してくれないか。あんたに……聞いてもらいたいことがあるんだ」
ルークスは何も答えず、黙って鋭利な視線を向けるばかりである。アーサーは彼がそこに居て話を聞いてくれるだけで十分だったので、そんな視線のことは気にせず、彼のことを見る目はとても穏やかで落ち着いていた。
「……ソニアのことだ」
この二人の間に共通する話題と言えば彼女のことしかないのだが、そう察してはいても、名を挙げて宣告されると、ルークスの方でも少々胸の内は動揺し、牙が収められた。
この戦時下にあって、本来ならば敵同士として会い見えるはずの者同士であるが、ソニアという名の下においてのみ、二人の間から戦いの意志は生じることがなかった。
自分の姿と素性を知られていながら人間の男とこうして面と向かって話をするのは、ルークスにとって実に数年ぶりのことである。話をすると言っても、アーサーが一方的に話すのを聞くばかりであるが、それでもこうして互いの顔をしっかりと見て、目を合わせて人間が自分に話しかけてくるのを聞くのだけでも、本当に久しぶりのことであった。
最後に話をしたのは、以前に母と自分を助けてくれた男に再び会った時で、和やかな会談というわけでもなかったから、こんなゆったりとした空気の中にいるのは、更に遡ってデレクと共にいた頃にまで昔に戻らないと、なかったかもしれない。
アーサーは始めた。そして淡々としたペースで一気に話した。
「皇帝軍がこの国に来たら、オレはソニアと一緒に戦う。オレはソニアをできる限り守る。……だが、オレが死んだ時、あいつを守る者はいない。セルツァもディスカスもいるが、あの二人は何か秘密を抱え込んでいて、どうもいけない。だから……オレはあんたに頼みたい。あんたは強い。今のオレでは到底敵わないだろう。だからこそ安心して任せられる。……もしもの時、あいつを守ってやってくれ、ルークス。ソニアを頼む」
彼は一度しか言わなかった。だが、それで十分だった。声は穏やかでもきっぱりとしていて、言葉に込められた心の力が直にルークスの胸に伝わっていたのである。
ルークスの心を真っ先に占めたのは、驚きだった。ソニアという聖い女性の側に長年いたからそうなったのか、それとも元からこうなのか、この人間の男は、彼が偶に人間の中に見出すことがある善人のようなのである。かつて母と自分を助け守ってくれたあの男や、デレクのように。
「……それだけだ。じゃあな」
そう言ってアーサーが見せた静かな微笑は、人間の中に滅多に見出すことのできない潔さと奥深さを表していた。
ルークスが呆然としているうちに、アーサーはくるりと踵を返して木立の中に去って行ってしまった。ソニアが去った後のように、彼はまたそこで動けなくなる。
岸に打ち寄せる波は彼に囁きかけるようで、止め処なく寄せては引いていった。
幼い頃の彼を知らない人間の男が、それでも敵意や恐怖心を見せずに自分と対面し、話しかけ、しかも愛する女性の未来を託していくなんて……。
自分がそんな発想を持ったことがルークスにとって大変な衝撃だったのだが、彼は一瞬チラリとこう思ったのだった。“彼となら友達になれるかもしれない”と。相手はこの世で最も信用のならない人間の成人男性だ。それなのに。
ルークスはアーサーの言葉と、それを受けて自分の身の内に生じた反応に戸惑い、長いこと水辺で立ち尽くして森の闇ばかりを見ていたのだった。