第4部28章『炎の戦姫』20
涙の治まった二人は王室を後にすると各々の持ち場へと戻り、日勤と夜勤の交代時で集まっていた兵士達に明日の指示と夜勤の確認をして、解散させた。
ここ連日そうしているように、ソニアが水辺に向かう前の夜のひと時を、アーサーは彼女の側で過ごした。仕事を終えた二人は落ち合って、アーサーの部屋で食事をした。何かあった時の為に軍服は着たままであるが、鎧姿のままでは堅苦しいので、装甲だけは外して身軽になってから食卓に着く。
食事が揃った後は女官達を下げ、扉も閉めて二人だけになった。彼女が国を出て行かざるを得ない可能性に怯えているのか、彼女のフェデリは太陽の輝きを失ってしまっている。
急ぐ用事もないので、二人はあまり食事が進まなかった。
「結局……あの女は帰ったのか? お前の力を見ることに満足して」
「……そうらしいわ。私は、最後の方は何も覚えていないんだけれど……セルツァが説得したらしいの」
二人は火災対処の為にセルツァから十分な説明を受ける暇もなく別れたから、今回の事の経緯をまだよく解っていなかった。ソニアの方が多少ヴァリーから聞かされているだけで、アーサーの方は全くもってチンプンカンプンだ。
「お前の力を見たいって言っても……一体何の為だったんだ?」
ソニアはそのことを思うと頭が重くなり、ただでさえ遅い食事の手が止まって、食卓の上に置かれた。
「あのヴァリアルドルマンダという人から少し聞いたけど……でも、向こうの都合で一時に話したことだけだから、私……まだよく解っていないわ。……でもね、これだけは解ったの。エルフというのには四種類あって、私やセルツァみたいなのがそのうちの一つで、あの人もまた別の一つなのよ。で、あの人はその一族の未来の族長となるお姫様らしいわ。……それでね、私もまた……族長であるお婆様の孫でしょう? そこで、セルツァやお母様たちハイ・エルフ一族の……後継者として名を披露されたんですって。……それも、つい最近」
「なんだぁ? そりゃあ」
溜め息が漏れ、ソニアは憂鬱そうに俯いた。
「そんな突然の発表がね……あの人達には気に入らないことらしいの。資格がどうとかこうとか言って……それで、私がどの程度の者か見ないことには気が治まらなかったらしいの」
アーサーは目をパチクリとさせ、芋が刺さったままのフォークをずっと手に握っている。傍目にはなかり滑稽な様だ。だが、それだけ訳が解らないのである。
「それって……何だよ。最初は内緒にしてたのに……勝手に……お前に何の断りも入れずに向こうが決めちまって、発表しちまったってことなのか? いずれ、その村の族長にさせるつもりで」
「……そうみたい」
沈みがちであったアーサーも、これにはさすがに呆れて素っ頓狂な声を上げた。
「――――何だそりゃあ⁈ そんな話ってあるのかよ? おい! それで……セルツァからは何か聞けたのか? あいつは当然知ってるんだろう?」
「……それがね、あの後、人気のない所で何度か呼んでいるんだけど来てくれないし、ここに来る前、部屋のテラスでも呼んでみたんだけど、姿を見せないのよ。呼べばいつも来たのに、こんなことは初めてよ」
「何て奴だ! あいつまでお前に何か隠してやがんだな!」
セルツァに弁解の余地はなく、またソニアの方でも彼に腹を立てていたので、フォローする気はなかった。だが、一応事実は述べた。
「……出会ってからずっと、ゆっくり話す時間が持てなかったのは確かだけれど……それでも、後で話してくれるって言ったのよ。そりゃあ……何か理由があるんだろうけど、私は今すぐ聞きたいわ。黙ってるなんて酷すぎるもの」
「全くだ!」
腹立たしさで、二人共が荒々しく食べ物を口に運んだ。そして口の中をモゴモゴとさせながらお互い文句を言っていると目が合い、急に可笑しくなってようやく笑い合った。食卓の笑顔は何よりの調味料であると改めて感じる。
「全く……どいつもこいつも酷いよ。勝手に現れて勝手に騒ぎは起こすし、勝手に消える。お前はオレに内緒事するしな」
その点も自分に弁解の余地はないので、ソニアはシュンとした。
「……冗談だよ。落ち込まないでくれ。お前は悪くないって解ってる。オレが……何でもかんでもお前と共有しようなんて欲張ってるだけだ。子供みたいに」
彼の笑いにいつもの勢いはなく、『解っている』とは言っても、彼の顔にはやり切れなさが滲み出ていた。だからソニアの申し訳なさは消えない。
「……本当に、ごめんなさい。アーサー」
「いいよ、もうオレに謝るなって。解ってるって。何度も聞いたし。……オレがただの欲張りなんだよ。お前はそうじゃない。いろんな人のことを考えて悩んでたんだ。今だってそうじゃないか。心配するとすれば、そうやって他人のことばかり心配して自分を蔑ろにしそうなところだ。もう自分を大切にしてくれよ」
理屈では、彼も本当に理解していた。ソニアにも、それは解っていた。この世界で彼ほど自分のことを理解してくれる人はいない。ちょっと一言話しただけで、この人はそれ以上のことを読み取り、察してくれるのだ。
だが、その理屈や道理を超えて、このやるせなさ切なさは彼の胸にどうしても生じてしまい、彼を刻々と蝕んでいるのだ。
ソニアもまた、恋心が生み出す独占欲というものを理解し始めていたので、彼の辛さをその陰りの中に読み取り、彼を大切に思うからこそ胸を締め付けられるような気がした。
私は、この人のことが好きだ。でも……どうしてもこの人を喜ばせることはできない。あの人も大切だから。……それがこの人を苦しめているのだとしたら……私はどうすればいいのだろう。
「とにかく、早くセルツァが教えてくれるといいな。このままじゃ、あんまりだ。今度のことで、お前はとても責任を感じている。お前のせいじゃないのに。これはあいつらの責任だ。身内だと言いながら相手を苦しめてちゃ、身内もへったくれもないよ」
「……身内……か……」
アーサーはソニアの顔を覗き込んだ。
「……なぁ、もし、その話が本当だったら……お前、どうするんだ? その村で後を継ぐのか? 一応、お前の血の故郷なんだろう?」
ソニアは落としていた視線を彼に向けた。彼はとても不安そうにしている。この国にいつまでいられるのか、というおそれが目の前にあるから、もしそうなった時のことをどうしても考えてしまうのだ。彼女が将来行き着く場所は当然気になる。これについて、彼女の心に迷いはなかった。
「私の故郷は……ここよ。ここ以外に、私の戻る場所はないわ」
「……そうか」
陰ってはいても、限りなく優しい瞳でアーサーはその答えに微笑んだ。
女官達に悪いからと、二人は暫く止まっていた食事を再開し、早く皿を空にしようとした。スープも主菜も半分冷めていたが、皿はすぐに空になり、野菜の入ったボウルも空になり、後は一欠け残ったパンと、傍らにゴロンと置かれているテロックだけとなった。甘味と酸味の強い果物だ。パンを口に入れて、テロックの赤い皮を剥き、フワリと爽やかな香りが漂う。
その時、ソニアは彼がテロックに手をつけず、ジッと自分のことを見つめているのに気づいた。何か言いたそうで、切なげな眼差しだ。その視線があんまり強いものだから、ちょっと彼女も驚き、何を言われるのだろうと思いながら、取り敢えず口の中のパンを片付けた。
「……なぁ、ソニア」
「……なに?」
普通、見つめるといっても、相手が不快に感じないバランスを計って視線をどこかに一時逸らしたりするものだが、彼がひたすら真っ直ぐに自分ばかりを見るものだから、ソニアはドキドキし始めた。アーサーはテロックには手も触れず、指先を組んで腕を卓に下ろしている。
こんなに照明のきいた明るい所で彼の瞳をまじまじと見たのは何だか久しぶりのような気がして、その純粋なまでに曇りなく黒い瞳が、まるでよく磨かれた石のようだと思いながら、ソニアはその視線を受けていた。
「……正直に答えてくれ。オレに気遣いなんかしないで。お前は……あの男のことを……」
彼の瞳が苦しさに一瞬揺らいだ。
「あの……ルークスとかいう男のことを……どう思ってるんだ? ソニア」
決心の要ることを訊いた緊張で、彼の顔が上気した。
彼がこの事に一番悩みを抱えているだろうと解っていたソニアも、はっきりとこうして訊かれると、心臓を掴まれたような痛みを感じ、戸惑った。二つの炎に挟まれている苦しみを表して、彼女の頬が赤らんでいく。そうした艶っぽい反応は、それだけで彼の心を今一度落胆させた。
「どうって……大切な人よ。とても苦しい道を歩いてきた……私と同じ宿命を持った人。でも……私よりもっと過酷で、孤独な人生を歩んできた人。……そう思ってるわ」
彼が顔を顰めて、じれったそうに眉根を寄せたものだから、ソニアの方が辛くなって目を逸らしてしまった。
「……オレの言ってる意味は……解ってるよな?」
「……ええ」
こうして明るい場所で彼女が娘らしい恥じらいを見せるのを拝むのは初めてだったので、彼の胸はときめいた。ほんのりと赤らんだ彼女の横顔は、まるで化粧をしたように色っぽく見える。初めて彼女に自分の想いを伝えた時も、暗闇の中でこのように紅潮していたのだろうかと思うと、愛しさが募った。触れたくてたまらなくなる。
「彼が……好きよ。あなたを好きなように。あなたは私に……いつも勇気と元気をくれるわ。……彼の場合はね、私が逆に……あなたがしてくれるようなことを、してあげなきゃいけないような気がしてしまうの。だって……あの人には誰もいないんだもの。この人間世界に。心許せる人だって、世界にお師匠さんただ一人なんだと思うわ」
アーサーは目を閉じた。
「ただの義務感とか……同情とか……人道とか……それだけじゃなく、それ抜きでも、あいつのことが好きか? ……オレと同じように、と言ってくれたが、そうだとしても」
「……ええ」
「……どんなところがいいんだ?」
「……通ってきた道が大変だったせいで、屈折しているところはあるだけど……本当はとても純真で優しい人なのよ。それに、すごく情熱的なの」
アーサーの瞼の裏に、炎の中で彼女を抱きかかえ毅然と立つルークスの姿が映っていた。思い出すだけで悔しさに震えてしまう。
「そうか……。あいつはお前を大切に思ってくれているみたいだし、今回もあいつのお蔭で助かった。お前を守ってくれて、ありがたいと思ってるよ」
「ええ、それはそうなんだけれど……でも……いざ魔導大隊が来たら彼は一切手出しできないことになっているわ。今回はその前だったから幸運だったのよ」
「……そうなんだろうな」
ようやく二人がまた視線を交わした時、アーサーは微笑んでいた。それで少しソニアも気が楽になる。
「あいつは……お前に、幸せをくれると思うか?」
「えっ?」
「一緒にいる時に心が休まるとか……落ち着く感じがするか?」
妙なことばかり問い詰めてくるものだと思い、ソニアは目を丸くして首を傾いだ。
「そういう時もあるけれど……どうしたの? アーサー」
「そうか……。いや、恋敵として当然気になったまでのことさ。――――さ、早く片付けちまおう」
彼はそう言ってテロックを手に取り、クルクルと指先で転がして、いつもの陽気な口調に戻った。まだ顔を赤くしているのはソニアばかりだ。
光が陰っていても、彼の色は間違いなく太陽の色をしている。そう思ったソニアは、まだ心の内であの詩を過らせた。
「今夜もあいつが待っているんだろう? 礼も言わないといけないし。早く食っちまえよ」
「……そうね」
二人は微笑み合って、テロックの皮を剥いた。太陽の光には、この香りがよく似合う。