第4部28章『炎の戦姫』19
「軍隊長閣下、陛下がお呼びです」
近衛兵が彼女を見つけてそう告げたのは、南の見張り塔の上だった。夕暮れの燃え立つような西の空を眺めながら、彼女は外壁の縁に腰をかけて物思いに耽っていた。
被害地域を高みから一望にしようとここへ来ていたのだが、今は沈みゆく夕日を見ていた。地平線近くにほんの少し細い筋雲が伸びているだけで、空全体はとても高く澄んでいる。火災によって発生した煙はとうに消え去っていた。
暮れの黄昏色に染まっている彼女は、その近衛兵に「わかった」とだけ答えると、今暫く落日に目を向け、その様を見納めようとした。
返事をもらった近衛兵は、そこにいつまでもいる必要はないのだが、夕日に映える彼女の端麗な横顔をほんの暫く拝んでから、きちりと敬礼をしてその場を去っていった。
沈む夕日の色に、ソニアは数刻前の炎を見ていた。
ただでさえ、いつかゲオルグがやって来るかもしれないという不安や、自分がエルフの血を引くという秘密を抱えて、国王やアーサーに相談し認めてもらった上でここに留まっているのだ。それが全く予想もしない角度から、しかも皇帝軍の刺客などではなく、自分の生まれにまつわることで今回の問題が起き、大切なこの街を大変な目に遭わせてしまった。如何に自分の認識外の所で端緒となった諍いであろうとも、責任を感じずにはおれなかった。こうして街を見渡し森を眺め、その傷跡を認めると、それらが自分のせいなのだと思い、居た堪れなくなる。この現実は彼女の心に暗い影を落としていた。
セルツァから事の経緯を詳しく説明してもらう時間はまだ得られておらず、未だに解らないことだらけだが、それでも既にこう思い始めていた。本当に、自分はこのままここにいてもいいのだろうかと。この国を離れるべきなのではないかと。それも、或いは一つの道なのかもしれない。
ホルプ・センダーに籍を入れて要請に応じられるようにしつつも、基本的には自由な戦士としてこの大陸でひっそりと隠密裏に行動し、刺客や今回のような相手に見つからぬよう隠れながらこの国を守るのがいいのかもしれない。そうすれば、これ以上このトライアが自分の為に傷つくことはなくなるだろう。
ソニアは吐息し、外壁に乗せていた足を下ろして立ち上がると、南塔の見張り番の敬礼を受けてその場を後にし、螺旋階段を下っていった。今回の災害があまりに不可解であるから兵士達は未だに困惑しており、彼女が通り過ぎる際に行う敬礼にも、どこか戸惑いが表れていた。彼女もまた、浮かない顔でそれらを受け流していく。
到着した王室では、彼女を除く幹部全員が既に集まっていた。
「――――おお、来たか」
数段高い所にある玉座の国王は、ソニアの姿を認めるや彼女を招き寄せた。
玉座のすぐ下に幹部たちが居並んでおり、ソニアの入室に気が付くと全員が一斉に振り返った。それ程敏感でなくとも、大抵の人間ならこれに違和感を覚えたろう。ソニアは皆が彼女を見る目の中に不安の影がチラリと覗くのを見た。誰もがすぐに平静を装おうとするが、もう遅い。最初からニコニコとして彼女を迎えたのは国王一人だけである。
アーサーもまた、今回の事件以来どこか沈んだ様子だった。消火作業と街に溢れた水の除去作業が粗方終わって顔を合わせた時の笑顔には、いつもの明るさがなかった。ソニアは、その場の雰囲気を笑顔で取り繕うようなことを無理にせずに真顔のまま進んだ。
「今回の被害報告がまとまりましたぞ、ソニア殿。この分であれば、予定通り祭りは執り行えそうですわ」
祭りの実行長官から報告書が手渡され、ソニアはそれに目を通した。浸水と落雷による火災の被害状況が事細かくまとめられている。浸水した家屋に目立った痛みはなく、水がすぐに引いたお蔭で今はもう乾いているらしい。兵士が多数街に出ていたので負傷者数も少なく、その程度も軽微である。火災のあった家では家財の焼失を免れることはできなかったが、その件数も案外少なくて済み、不運な家は早急に国の保護で家の取り壊しと再建が始められていた。
そして、災害に遭った全ての家に確認を取っているのだが、誰も祭りへの意欲を失っていないとのことだった。これを見て、ようやくソニアは微笑むことができた。大切な祭りを潰すことにならなかったのは救いだ。
「良かった。直前のことだったから、一時はどうなるかと思っていました。これで安心ですね、王様」
「うむ、あの雷と火災で死人が出なくて何よりじゃった」
「本当に」
堤防には一切の損壊が見られなかったので、主な修繕や再建作業は火災家屋に集中される。そのプランが報告され、国王の了承を得た。近衛および国軍の衛生担当官が、兵の負傷状況とその後の治療経過について報告する。明日からの修繕作業には兵士の手も借りることになるから、その折り合いもこの場で総務長官とソニア、アーサーの間でつけられた。これで、この度の事件に関するやり取りは概ね完了である。
「いよいよ明後日には前夜祭じゃ。早いものじゃのう」
王は被害など何でもなかったかのように満足げな笑みを浮かべて、ゆったりと背凭れに体を預けた。玉座には光沢のいい牛革が座面と背凭れに張られ、その下には柔らかなクッション素材が詰め込まれており、そうすると少し体が沈み込んだ。王がこうしていると、やはり何となく落ち着いた空気が流れるものだから不思議である。
「皆、滞りのないよう、よろしく頼むぞ。ますます民には祭りが必要じゃ。万事怠りなく、素晴らしい祭りに仕上げておくれ」
「はい」
「お任せください、陛下」
そうして皆は解散し、それぞれの部署に戻るべく王室を退出していった。
ソニアだけそこに残るよう王に声を掛けられ、前々から打ち合わせていたのか、アーサーも黙って留まり、王の指示で全ての衛兵まで人払いがなされて、王室内は三人だけとなった。
王は手振りで二人をもっと近くに寄らせ、段を上がって玉座脇に立つようにさせた。できるだけ声を忍ばせたいからだ。
皆が下がった後の王はソニアをジッと見つめ、もう笑顔を作ることもなく、憐れみと不安の混じった哀しい色をそこに表していた。
「……手短に済ませるつもりじゃ。アーサーから先に話を聞かせてもらった。……そなたを庇う為か、あまり詳しくは教えてもらえないのだが……」
国王はチラリとアーサーを見た。彼は床に視線を落としており、ソニアとも目を合わせようとしない。ソニアもまた俯いた。今は三人の誰もが目線を同じくしていない。ただ、深い溜め息で繋がっていた。
先に、ソニアの方から切り出した。彼女はきっぱりとそこで頭を下げ、膝までついた。
「……申し訳ありません……! 私が……私がこの国にいることが招いた惨事です!」
王は慌ててそれを止めようと手振りで言葉を遮った。
「いや、いや、そなたを責めようなどとは思っておらぬ。ソニアよ」
「――――いえ!」
ソニアは頭を上げ、王を見た。ようやくアーサーも彼女の顔を確かめる。その表情は、重責と罪悪感に耐えようと強張っていた。
「この度の事件は、軍隊長としての私に皇帝軍が差し向けた刺客が起こしたものではなく、私の生まれに関係して生じたことだったのです……! 弁解の余地は全くありません……!」
「……だが、無事に追い返したのじゃろう?」
「いつ、また同じような者が現れるか解りません……! 私には把握しきれていないのです!」
彼女の声には、既にかなりの覚悟を決めていることを感じさせる強さがあった。まだ言葉にはしていないが、彼女の発する空気が、この国を出て行く考えを先に語っていた。
じっとりと重い雰囲気が三人を包む。王は彼女の様子から悩みと覚悟を読み取っており、それを言わせぬ為に立ち上がった。王の方でもまた、始めから心が決まっていたのである。
「ソニアよ、まぁ聞きなさい。ワシは、そなたを責めようとここに呼んだのではない。……アーサーにも、それを伝えてあるからこそ、やっと今日のことを話してくれたのじゃ。……ワシはな、そなたの良識と判断力を信じておる。そなたの過去に関わる問題に口を挟むつもりはない。しかし……さればこそ、そなたは自ら責任を感じ、それを果たす為に決断をするかもしれぬ。そなたがする、と決めれば、わしはそれを止められん。……だがな、そうでない限り、そなたがワシの手の届かぬ所に行こうとしない限りは、そなたが何者で、どんな敵がやって来ようと、ワシはそなたをこの国から遠ざけるつもりは毛頭ないのじゃ……!
これは、婉曲にそなたの出国を促しているのではないぞ。ワシは本当に、心から、そなたにこの国にいてもらいたいと思っておる。
そなたに向かって来た者が何だと言うのじゃ! 無事に一人の死者も出さずに、大した怪我人も出さずに、事が済んだではないか! そたながこの国にいることで人々が得られる平和の方が如何に尊くて大きいことか……! それを人々も知らねばならぬし、そなたもまた知らねばならん! そして……誇りに思いなさい!」
王の叱咤激励は彼女の胸を打った。彼女が早急に答えを出してしまうことをおそれ、王はこの場をもって先に方針を明らかにしたのだ。ソニアは涙ぐんだ。
「王様……」
王の言葉はアーサーの心にも触れ、二人は、頼り尊敬すべき親を見上げるように国王の立ち姿を拝んだ、。本当にこの国王は、王としての立場と責任を弁えつつも、万事において愛と平和を判断基準にしている。
「……ソニアよ、ワシはな、そなたに警告しておきたかっただけなのじゃ。そなたの身の回りに起こる出来事に疑問を抱く者がいる。今日もまた……その疑いが強まったであろう。水の竜巻がそなたを追っていたという証言が流れておるからな。このままでは……そなたはここに居辛くなるばかりじゃ。いざ本物の皇帝軍の部隊が来ればそれどころではなくなり、そなたが重要であることが皆にも解るであろうに、今はまだ疑いの方が先に立ってしまっている。くれぐれも……それを肝に銘じて気をつけておくれ。ワシは……そなたを失いとうはない」
ソニアはそこで打ち震えながら首を垂れた。
「私のような者に……勿体ないお言葉です……!」
王は実に温かい眼差しを向け、彼女の肩に手をかけた。そして彼女の頬を撫で、上を向かせた。感激のあまり潤んでいる彼女の目は、幾面にも削りを入れた宝石よりも繊細な光を湛えていた。王は、その美しい輝きを真っ直ぐに見つめた。
「……ワシは、そなたを真の娘と思うておる。娘をこの手から手放しとうない。そなたは……どうじゃ?」
今までに何度となく聞かされてきた言葉であるのに、今日は特別に彼女の胸を詰まらせた。
「わ……私も……私もです……! この城は我が家同然で……あなたは私にとって父親と同じです。できることなら……ずっとここで暮らしたい……!」
国王は頷き、微笑んだ。
「では……ワシを父と呼んでくれぬか? 今だけでも」
ソニアの頬を涙が滑り落ちた。彼女は眩しそうに目を細め、王の手を取ってそれに接吻した。王はその手で彼女の頬を撫でる。
「お父……様……」
その光景を見守っていたアーサーの目にも涙が光った。彼の父親を思い出したせいもあるが、何より、彼女にこんなにも心許してくれる王がいることが嬉しかったのだ。
「……良かったな、ソニア」
王の促しでソニアは立ち上がり、国王とその家来としてではなく、親子として二人は抱き合った。彼女の鎧が少し邪魔であったが、王は構わず彼女の頭に手を伸ばし撫でてやった。ソニアは王が苦しくないように力を抑えて、優しく包み込むように腕を回した。
「ワシの……娘じゃ」
王は何度も繰り返しそう言い、ソニアはその度に頷き、王の肩に顔を埋めたのだった。