第4部28章『炎の戦姫』16
通路では、残っていた三人が今こそ突入しようと身構えていた。噴火活動とは別種のよく解らぬ唸り声が響いたり、激しい振動が始まって石が崩れ落ちてきたりと、こちらでも危険は高かったが、もう扉の向こうに見える炎は十分に鎮まっている。これなら中に入れそうだ。
「噴火が始まってしまったらしい! 入口が塞がる前に彼女を連れて脱出するぞ!」
しかしそこへ、残る炎が立ち昇らせる陽炎に揺らめきながらルークスが現れたので、三人の足は止まった。彼の腕にソニアが抱かれているのを見て、皆一様に安堵の声を上げる。
この事実を目の当たりにして、アーサーはただ一人深い無力感を味わい、己に失望した。まるで胸の奥深い所に重い岩が落ちていき、そのまま体ごと何処までも沈めていくようだ。
彼女は無事、ルークスの手によって保護された。だが、自分には何もできなかった。
自分は、彼女を守ることができなかった。
人間世界では滅多にお目にかかることができないレベルの貴重な鎧に身を包んでいるからだけではなく、その鎧の下に持っているルークスの肉体的、戦士的強靭さの歴然とした差を、アーサーは身に染みて感じ取っていた。まるで自分は月を見上げている亀のようにちっぽけだ。
奴には敵わない。
どう足掻いても、今は。
この落胆によって、アーサーは身動きすることができず、ルークスの腕からソニアを受け取ろうと進み出たのはセルツァだった。
「酷く火傷を負っている。まだ意識がない。早く治療してやってくれ。オレにはこれ以上はできなかった」
それだけ言ってセルツァにソニアを譲り渡すと、ルークスはクルリと踵を返し、炎の絨毯が薄っすらと広がる大神殿の中へと再び戻って行った。ソニアを抱えているうちは優しさが見えていた彼の目は、機械的な冷たい殺意だけを宿らせている。
「お前……」
セルツァはソニアを受け取り抱いたまま、それを呆然と眺めた。そこにディスカスが素早く歩み寄り、彼女の容体を確かめ始める。
極度の恐怖に襲われた反動でまだ体が痺れていたヴァリーは、ようやく頭が回るようになり始めた。体の自由はまだそれほど利かないが、心だけは平静さを取り戻しつつある。
今でも、あんなものを見れたことが信じられなかった。
あれは、確かにあれだった。
自分でもまだ行ったことがない、あんな術を使うなんて。
しかも人事不省になりかけていたあの状態で。
何ととんでもない、末おそろしい可能性……。
そして、今いるこの場所がとても揺れていることに気づき、ようやく噴火を知ったヴァリーはふと、自分に近づいてくる者の気配を感じた。
ハッとして顔を上げた瞬間、彼女は鋭い真空の刃に圧され吹っ飛び、壁に叩きつけられてしまった。咄嗟に作った空気の壁によって直撃は逸れていたが、かなりの衝撃を身に受ける。
壁をずり落ちながら辛うじて認められたのは、そこに例のヌスフェラートがいることだった。槍と思っていた武器には鎌の細い刃まで出現し、それが空を薙ぎ払った後のポーズのまま天を指していた。
「……彼女を傷つけた者は殺すと言った。女であろうと容赦はしない。覚悟しろ」
ヴァリーはこの衝撃と痛みですっかり目が覚めたようになり、ずり落ちてそのまま立ち上がった。クラクラとしている意識を整えようと首を振る。
「――――フン! 馬鹿にするんじゃないよ! 誰が、たかが戦士などにやられるものか!」
ヴァリーは忘れかけていた炎を呼び戻し、ドレスのように纏った。紅い髪が精気を取り戻した蛇の如くしなやかに波打つ。そして腕を突き出し、滝のような多量の火炎を彼に向かって放射した。
「――――私は炎のヴァリアルドルマンダだ! お前など、この炎で燃え尽きておしまい!」
正面からそれを喰らったルークスは炎に呑み込まれ、姿が見えなくなった。
自ら炎精になったかの如く身体全体を炎の色に輝かせてヴァリーは笑った。先程の恐怖から一転して、その様は狂気じみている程だ。
ここはダーク・エルフの聖地。この場において同族以外に己を止められる者がいる筈はない。そう信じていたヴァリーであったが、炎の激流に抗う者の動きを感じた時、その高慢な笑みは消えた。
まさかと彼女が疑う中、彼が歩みを進めてくるのを感じる。
炎がその像を歪めていたが、その距離が狭まってくると、何が起きているのかはっきりと認めることができた。
彼の纏う鎧が武器と共に光を発し、それが薄膜のように全体を覆ってバリアを築いている。炎がそれを避けるようにして通っていくので、彼を燃やすことができず、彼は実に涼しい顔をしていた。武器を手に、一足ずつゆっくりと彼女の方へと近づいて来る。
その目は実に挑戦的で、殺意に満ちていた。
直接的なダメージを避けられても、炎熱はバリアを通して伝わっているのだが、致命的なレベルではないと判断した彼は、精神の一切を攻撃の方に集中させていた。
長年の経験と知識でこの鎧の効能を見抜いたヴァリーは炎の流れを止めた。そして目の前の戦士が、噂に聞いていた、ある人物なのではないかと思い、意外に難しい敵のようであることを悟った。
「チッ……厄介な奴だね……!」
ヴァリーは身体を浮かせ宙を滑るようにスッと後退した。
そして戦法を変えようと呪文詠唱に入るか入らないかのうちに、一瞬でルークスの姿が視界から消えた。噂の人物であればおかしくない動きだ。
彼女がこの人物の素性と才能に気づいていなければ危うかったかもしれない。だが、背後に気配を感じて瞬時に体を横に投げたので、突き下ろされてきた鎌の刃は彼女の体を貫かず、脇腹をビスチェごと少々裂いただけで助かったのだった。格闘家としても優れた彼女の身のこなしによって、その程度で済んだが、ただの魔術師であればおそらくもっと深い傷を負っていたことだろう。
ヴァリーは脇腹を押さえながら一息に神殿の天井にまで舞い上がり、ジャンプではそこまで簡単に来られないであろうこの高みで慌てて自身に加速魔法をかけた。一つでは足りないだろうから、重ねがけして、自身を流れる時の速度が変化を起こす。
これでようやく彼の動きが捉えられようになり、ヴァリーはその上更に炎風も発生させた。攻撃としての効果は期待できなくても、これで彼の動きを抑制することはできる。
真空刃で次々と攻撃を仕掛けてくるものだから、この態勢でヴァリーは下降してルークスと対決した。加速と炎風を合わせても、まだ彼の方が動きに先行している。姿が全く見えなくなる一瞬があり、その直後もう少し先に出現して槍を突き出してくるのだ。
どうやら思っていた通り、このヌスフェラートは竜時間の使い手らしい。そう睨んだヴァリーは真剣に対策を考えた。普通に戦ってはおそらく勝てない。そこまでの相手はなかなかいないものだ。
また背後を取られ槍の柄で強かに打たれると、ヴァリーは地に落ち四肢をついた。
加速魔法の二度がけで間に合わないのならばと、もう一つ更に上がけし、それでようやく瞬間移動後の彼の動きについていけるようになった。しかし、これには限界がある。
振り下ろされる鎌を手刀で幾度も払いのけ、魔法が一つ分でも消えかかるとまた新たに加速魔法をかけ直し、速度を保つようにした。これでは魔法をかける間に隙ができるし、魔法力が尽きたらそれまでである。
本来エルフが得意とする魔法、そして自然操作の技が有効でないものだから、彼にダメージを与えるには肉弾戦しかない。しかも今の速度でようやく攻撃に転じれるのみで、大半は相手が巧く受け流してしまうものだから、有効打は滅多に出せなかった。明らかに、総合的に見て彼女の方が劣勢である。
このヴァリアルドルマンダは広く地下世界を周遊して修行を重ねているから、通常は並大抵の相手なら敵として彼女に歯が立たない。相手が身に着ける優れた防具の組み合わせの不運なども重なって、これ程戦い難い相手に遭遇するのは初めてだと言えた。