第4部28章『炎の戦姫』11
その彼女が、ゆっくりと、ゆっくりと、ソニアに視線を移した。その顔、その眼差しには、今や憎悪が満ち満ちている。
何故この女性にそんなに憎まれなければならないのか。それもソニアには全く理解できない。身に覚えのないことで、こんなにまで赤の他人に憎まれるというのは、とても気持ちが悪いものだった。
「…………いいだろう。お前達がこの娘を、全く本気で守ろうとしていることは……よぅく解ったよ。――――ならば、お前達諸共に戦うまでだ!」
ヴァリーはそう叫ぶと同時に両腕を振り上げ、狂気の笑みを見せた。彼女を取り巻く陽炎の揺らぎが各段に激しくなり、その中の彼女の像が歪んだ。
そして閃光が天を貫き幾筋もの稲妻が空を裂いて、そこら一体の複数の地に落ちた。耳を聾する轟音が渡り、足元を震わせる。この数では街の民家にも幾つか落ちたかもしれない、とソニアは民を心配した。
ヴァリーは何処からともなく炎を発生させ、それをドレスのように身に纏い、やがて全身を炎で覆って火達磨になった。しかし、炎の中にいるヴァリーは少しも熱さを感じていない様子で、マントも服も髪の毛も、炎に弄られているだけで燃えることはなかった。
ソニアはこれを見て、何故彼女の魔法力がこれまで尽きなかったのかが解り、震撼した。確かにこの女性は魔法を使ってもいるのだが、それは今も天に浮かぶ幾つかの光の球を発生させたり、自分を浮かせたりする為に使うだけであって、攻撃に使用している殆どの炎の光球は、このように呪文なしで生み出すことができるのだ。自分が命ずれば、幾らでも呼び出せるとでも言うように。
ヴァリーは己を取り巻く炎を更に膨張させ、巨大な炎の塊へと成長し、その一部がユラリと波立つと、それは次第に形を変えて姿を成していった。彼女を中心に炎が左右に広がり、優雅に羽ばたきを始める。それが翼だと解った時、ソニアに向かって長い首が伸びてくると、それは竜の頭の形を取り、首長の大翼竜の姿となった。
純粋な炎の竜。
ソニアは燃え立つその紅蓮を瞳に映して、畏れながらも心ときめいた。何て美しいんだろう。アーサーやルークスもまたその雄大さに目を奪われ、ディスカスは腰を抜かした。
セルツァは遂にこうなってしまったことに苦しみ、顔を歪めながら重い決断の息を吐き、構えを崩さなかった。
完成した火炎竜は、ソニア目掛けて滑空してきた。
もう誰も盾にしたくないソニアは1人飛び出し、闘志を全身に漲らせて圧縮した風をぶつけた。大強風が嵐のように巻き起こる。
彼女の前に出ることができなかった者達は、それでも各々にできることをし、セルツァとディスカスは魔法を放ち、ルークスは再び真空刃をぶつけ、アーサーは少しでもソニアに近づいて守ろうと駆けた。
そんな中で、風の激流と炎の翼竜が激突した。
炎の圧する力は想像以上で、実際の竜の頭突きよりも重く、それに対抗するには極大に近い強さの風で対抗しなければならなかった。
それでも炎は気流に圧されながら細く長く頭の形を変えて抵抗を少なくしていき、徐々にソニアに近づいていった。
グレナドのような広範囲で風を起こすのではないが、この狭い範囲で風を極めるのにも多大な精神力を要し、ソニアは集中して風を凶器に変えた。
森の木々は軋み、叫びを上げながらのたうち回り、根こそぎ倒れてしまいそうになる。火炎竜は魔法を食らっても真空刃を食らっても止まらず、2人の対決に割って入ることのできない者達は、ひとまず風の一番激しい所を避けてソニアの背後へと移った。その移動すら、嵐の中で身を立てるようなもので非常に困難であり、背後に移ってもあまりの至近距離であるから、弾かれた風の破片を受けることは免れなかった。
ソニアは、これでも尚、圧されていった。
両者風の扱える者同士、しかもヴァリーは嵐を呼べ、炎まで操ることができる。炎を乗せ、意志を持った風に、ただの風は弱かったのだ。
どんなに必死に風を送っても、剣のように細くなった炎の翼竜の頭はジリジリと距離を狭め、近づいてきた。
このままでは彼女に炎が達してしまう。そう見極めた一同は、この嵐の中で再び各々の技を放った。ディスカスは氷炎呪文を連射して翼竜にぶつけ、ルークスは槍を何度も振り回して真空刃を無数に放ち、アーサーは捨て身なほどの近距離にまで進んで渾身の力で竜の首を斬りつけた。
この一斉攻撃で火炎竜がやや怯んだほんの一瞬の隙を突いて、セルツァが燕の如き俊敏さで飛翔しソニアを掻っ攫い、そのまま上空へと舞い上がった。
抵抗する風がなくなった反動で、翼竜の炎はドッと崖にぶち当たって崩れ、森一面を炎の海に変えた。
「――――ああっ!」
セルツァの腕の中で、ソニアは崖に残された者達が炎に包まれたのを目にし、身を案じた。落雷や火炎竜の飛び火などによって森の木々に火がつき、広範な森林火災が起こってしまっている。森だけでなく、落雷によって城下街にも火の手が上がっているのが見えた。
他の土地ならまだしも、我が家と思う城下街とその森でこのような災害が発生してしまい、ソニアは身の内から痛みが湧き上がってくるのを感じた。
上空では尚も雷鳴が響いており、いつまた稲妻が走るか判らない状況だ。
標的が動いたものだから、火炎竜は火災の中から姿を作って舞い上がると、2人を追って来た。
「――――止めて‼ これ以上街や森を傷つけないで‼」
理由は全く飲み込めていないが、とにかく自分のせいだと言われていることで街や民が害を被るのは耐えられなかった。ソニアがそんな風に悲痛に叫ぶのを見て、近づいてきた火炎竜の中にいるヴァリーは竜を羽ばたかせて滞空し、ニヤリと笑った。
「――――面白い! ならばこれはどうだ!」
火炎竜の左右の翼から更に小振りな竜2匹が誕生し、それぞれ森と城下街に向かって滑り始めた。翼を広げ、太陽のように輝く炎の竜が悠然と空を渡っていくのを見て、ソニアは恐怖し、叫んだ。
「――――やめてぇぇっっ‼」
ソニアは上空にありながらセルツァの腕を振り解き、無我夢中で竜巻を起こして翼竜を追わせた。自然には有り得ぬ角度に捩じれた細い竜巻は、鞭のように撓って素早く翼竜に追いつき、城下街にあと一歩というギリギリの所で進路を変えさて、手前の森に叩き落とした。もう一匹の方は既に森の中に落下して火柱を上げている。セルツァが再び空中で彼女を確保しようとするのをソニアは風で拒否し、そのまま風に乗りながら地に降り立った。そして追いかけてきたセルツァに手を突き出して、近づくなと示し、上空の火炎竜を見上げた。
「わかった‼ あなたと戦う‼ だからもう、関係ないものを傷つけないで‼」
「ソニア⁈」
セルツァは彼女の決断に驚くのだが、そうしている間にも、彼女の言葉を聞いたヴァリーが炎の衣を消し去り、勝ち誇るように笑った。
「フフフ! そうこなくてはな!」
「ここは嫌だから、場所を変えて!」
「いいだろう!」
ヴァリーは下降してソニアの差し出した手を取り、星にならんとした。
「――――だめだ! ソニア! 君はまだ……」
「セルツァ! 街と皆を助けてあげて!」
セルツァが止める間もなく、ヴァリーとソニアは光となって飛び立ち、天球障壁も解除されて空を突き抜け、彼方へと光の軌跡を描いて弾丸のように消え去ってしまったのだった。