第4部28章『炎の戦姫』8
そんな風にして彼等の時は過ぎ、2日経ち、祭まであと3日となった。そろそろトライア各地で前祝の騒ぎが始まる頃である。いつ酔っ払いが暴れるか判らないから、各地の兵士達はもう片時も持ち場を離れることができない。
ソニアもアーサーもまた巡回はできなくなり、特にソニアは各地方からの報告を受けて指示を出す役割を果たす為、城を出ることはできなくなった。
ディスカスは従者ぶりがかなり板についてきており、ソニアから城の人間に対してもう少し友好的に振る舞えと言われていたので、徐々に改善されて不評が鎮まっていた。彼はセルツァに正体がバレているが、目的が一致しているので互いに干渉しなかったし、ソニアからもセルツァに彼のことを詮索しないよう頼んでいたので、当たらず障らずの関係をきちりと保っていた。セルツァとしても、いざとなったら盾になって彼女を守ってくれる術者が近距離で彼女に密着しているのは便利であったし、ディスカスの方としても、少し離れた所から彼女を見守ってくれる大変優秀な魔術師の存在は助かると思っていた。
そしてアーサーは今まで以上に彼女との時間を大切にするようになった。事ある毎に彼女の側に行っては相談し、2人で軍の運営を担った。彼女が可能な限り食事を共にし、困り者が起こした事件報告を聞けば共に嘆息し、可笑しな珍事件の報告には共に大いに笑った。
そして、他の者に聞かれぬようタイミングを見計らっては、ルークスとのことがどうなっているのか聞くことも忘れなかった。ソニアの方も、ルークスのことはできるだけ細かく伝えてアーサーにも理解を示して欲しいと思っていたので、話せることは包み隠さず彼に教えるよう努力した。
2人がこれまでのように唯一無二の親友であり続けるには、情報の共有が不可欠でもある。隠し事がどれだけ少ないかを知ればアーサーの不安も和らぐし、ソニアとしても安心してルークスとの時間を持てるのだ。
あくまで互いの身の上話ばかりして、それぞれの立場を変えられないことを確認し合っただけだと知ると、アーサーは随分と気持ちが楽になったらしく、表情まで柔らかくなった。それを見て、彼に如何に不安を抱かせていたかが解ると、ソニアも改めて済まなく思った。
しかし、彼女も全てを話している訳ではない。実は今朝、いつもの野原で朝の運動をしていると、またセルツァが小鳥の姿でやって来て、この前ほどではないが、また警告鈴が鳴っているから注意してくれ、と言われていたのである。アーサーに話しても心配させるだけで、自分が気をつけるしかないことだから、ソニアは黙っていた。
ディスカスにも話してはいないが、セルツァから聞いたのか、或いは何か別の方法で仕入れたのか、その事を知っているようで、いつもより警戒の度合いが高くピリピリとしていた。だから、もしかしたら遂にゲオルグが来るのではないかとも思ったのである。
しかし、そうではなかった。
それは、ソニアとアーサーが王に誘われて久々に王室のバルコニーで昼食を取り、食後の茶を口にしながら、次々と訪れる部下の報告を聞いていた時のことであった。
1人の近衛兵が急ぎやって来た。
「――――軍隊長閣下! 隊長閣下! 城下街南地区で堤防が決壊しました!」
「決壊⁈ この乾期に⁈ 被害は?」
「南地区の数棟が浸水しています! 現在も水が溢れ続けており、下流の民家に向かって流れています!」
「大変だ!」
さっと緊迫した空気に変わり、2人はすぐに立ち上がった。祭に関してあらゆる緊急事態を想定していたが、これはあまりに意外な、それも深刻なハプニングだった。王も顔色を変えている。
「原因は何なんだ? 何が川を塞いでる?」
「それが……よく解らないのです! とにかく水が溢れるばかりで……!」
ソニアは、この後に訓練時間の予定であった第2中隊の出動を要請した。その命を受けた衛兵が走り出ていく。城下街は近衛の管轄でもあるから、アーサーは城の守りを薄くしないギリギリの範囲で可能な兵を全て出動させた。
「雨期ならともかく、乾期の今時になんだって決壊するんだ?」
「さぁ……馬車でも落ちたんだろうか……。それくらいで塞がるような川じゃないと思うけど」
2人は、王によろしく頼むと任されて王室を後にした。2人共が現場に行くつもりだったので、留守中の代役をそれぞれの副に任せる旨を伝え、それから馬を駆って現場に急行した。
先着していた第2中隊と近衛兵の総勢約200名は南地区の対処に奔走しており、近衛隊が主に民の保護と避難誘導を担当し、土木作業に慣れている国軍第2中隊が土嚢を積んで水流の方向を変えるなどの作業に従事した。災害時に建築・土木作業ができるよう普段から訓練されているから、国軍の方が動きが早いのだ。
城下街を横切る4つの川は、どれもそれほど大きい川ではない。小川ではないが、主要な交通手段として使えるほどの幅はなく、ミラル湖に流れて行っているだけである。そしてミラル湖からまた別の川が始まり、更に低い土地へと流れていくのだ。
そんな川であるから、すぐに作業が終わるのではないかと期待していたのだが、現場近くに到着してみると状況は違っていた。兵士の言う通り、何が原因か一目では判らないのである。
現場を見下ろせる所に2人は馬を進めて、その様を眺めたのだが、川のある一部に何かが沈んでいるかのように水がそこでせり上がり、堤防を越えて溢れていた。ここからでは、その沈んでいる何かの影さえ認められない。
雨期でも降水量の少ないこの土地であるから、急に河川が増水することはない。そんな土地柄なので堤防の高さがそれ程ないことは確かだが、それでも、こんな規模で街を水浸しにすることは、これまでまずなかった。ここから見えるだけでも30軒近くが浸水している。一番深い所で膝下程度であるから、それが救いであるが、早く解決せねば、ますます被害の範囲が広がり、深刻さが増していくのは確実だった。
ソニアは水の溢れ出ている地点をよく見た。人間がそこに沈んでいる感じはしない。ただの物体だけだろう。幸い、この角度なら堤防を傷つけずに済みそうだ。そう見極めると、ソニアは即座にそこから指示を出した。
「――――川から離れろ――――っ!」
彼女の考えが解ったので、アーサーはジタンを駆って現場の近くに行き、自ら兵の退去指示に当たった。
「皆、下がれ――――っ! 川から離れろ――――っ!」
土嚢積みに奮闘していた兵士達は、その指示に驚き手を止めた。そして向こうの高みに白馬の白さが際立って目に入り、その脇に今しも剣を抜こうとしている軍隊長がいるのに気づいた者が逸早くその場から離れた。
「下がれ! 下がれ! 軍隊長様だ!」
仲間のその言葉と示す先から状況を理解した者達は慌てて川から離れた。
高い位置からそれを見ていたソニアは、兵士が全てそこから離れるのを見届けると、手振りで伏せろと彼等に指示し、剣を抜いて、彼等が皆その場に伏せたところで一気に振り切った。
今回は特に刃の範囲が広がらぬよう闘気を集束させ、狙いを過たずに真空の刃が川めがけて正確に放たれた。その下に何が沈んでいるにせよ、水ごと砕くつもりで刃が水を裂き、突っ込んでいき、川に沿って水が大きく舞い上がった。
彼女自身ヒットの瞬間を見ていたが、裂かれた水の下に何かがあるようには見えなかった。
真空刃は見事に堤防を傷つけず、水だけを縦に裂いて、水の切れ端は遠く遠く飛ぶものの、それほど民家のある所には飛ばず、殆どが再び川の中に落ちた。
そして、見えなかったにしろ原因となる物を壊すか動かすことができたようで、それきり水は溢れなくなり、元通り川を流れていった。
伏せていた兵士達は、その様を見るとワアッと歓声を上げて立ち上がった。
「――――やったぁ!」
「さすがだ! すげえや!」
兵士達は元の水流に戻った川を見に堤防沿いに集まった。そんなに濁っていない川なのだが、覗き込んでも、やはり原因となっていた障害物の残骸を見つけることはできなかった。
ソニアは剣を鞘に納めながら、指示を仰ぎにやって来た第2中隊長に言った。
「様子を見て、もう溢れないようなら川を調べて、何が沈んでいたのか突き止めるように。放っておくと、また堰き止めてしまうかもしれないから。必要があれば撤去してくれ」
「はっ!」
「あと、溢れた水をできるだけ早く取り除くように。家屋が傷むといけないから」
「はっ! 承知しました!」
命を受けた中隊長は走り去っていった。
水浸しの家屋の中を実際に見ておいた方がいいだろうか、それともあまり城を空けない方がいいだろうか、とソニアは束の間悩んだ。大切な時期であるから、不在にしているのは良くない。しかし、被害の程度をこの目で見ておいた方が指示し易いのは確かだ。
足を濡らさないよう、アトラスから降りずに軽く見て回ってみるか。
そう思いかけた、その時である。
ソニアはふいに、背筋を舐めるように走り抜けていく悪寒を感じた。
確かな意志のある、気配。悪意のこもった負の刃。
驚き、振り返り見ても、街並みと川、兵士、森、湖など沢山のものが目に映るので、何処にこの気配の主がいるのかは判らなかった。
セルツァの警告鈴も鳴っていたくらいだから、刺客か? だが、刺客なら単に殺意だけを持ってやって来るので、悪意を抱く道理がない。
そうして戸惑っていると、すぐに新たな変化が起こった。
今度は同じ川の別地点と、もう1つ隣の川から同時に大きな水飛沫が上がり、先ほど以上の水が川から溢れ出した。よく見ていたソニアは、そこに何かが落下したわけでもないことが解っている。まるで、見えない何かがそこに発生して、川を堰き止めようとしているかのようであった。
その2地点は、ここからの攻撃では堤防を傷つけてしまうおそれがある。下手に動けない。
そしてソニアは、先程感じた悪寒とこの現象が結び付いていることを悟り、何者かが起こしている災害なのだと勘付いた。そうだとしたら、まず真っ先にその正体を突き止めて、張本人を叩かなければ災害は終わらない。
ソニアは注意して目を凝らし、全ての視界にあるもの内、どれがそれなのかを探った。相手が身を隠そうとしている時は別だが、この気配は挑戦的だ。集中して辿れば、きっと見つけられる。
そう思い、感覚を頼りにある方向に視線が引き寄せられ、それを探り当てた時、ソニアはまるでその対象が自分の顔面にグッと迫って来るかのような圧倒感を覚えた。距離など一気に縮まって、意味が無くなってしまったかのようだ。
鏡のように凪いでいるミラル湖の中央、その湖面に立つ人の影。そこがまるで水ではないように自然にその人物は立っている。こんなに距離があるのに、視線と視線が絡み合ったせいか、ソニアはその人物の姿がよく見えた。
青灰色の肌。炎のように紅い髪。腕を組み、こちらのことをジッと見ているその目には影が落ち、瞳の部分がギラギラと日の光に輝いていた。
あんなに紅い髪をしたヌスフェラートを見たことはないが、ヌスフェラートなのだろうか。ともかく、明らかに人間ではない。
ほんの一瞬のことだったのだろうが、ソニアはこの視線の絡み合いをとても長いものに感じた。
これまでとは全く異質な力を感じる。どんな者が睨まれても蛙のように居竦んでしまうのではないかというような、蛇の如き鋭い眼光だ。
こんな人に見覚えはない。では、やはり刺客なのか?