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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第28章
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第4部28章『炎の戦姫』4

 ようやく自制心を効かせ始めたアーサーがまた顔を上げ、彼女に断った。

「あ……アイリス、誤解しないでくれ。あいつに男ができたわけじゃないんだ。……まだ」

「まだ? じゃあ……これからそうなるかもしれないってこと? ちょっと、嘘でしょう? だって……あんたの他に一体誰がいるって言うのよ?」

「ハハ。あんまりそう捲くし立てないでくれよ。あいつの自由なんだから」

「黙っていられないわよ! だって、あんたって人を放っておくなんて信じられないもの!」

彼女がただウン、ウンと聞いてくれるだけかと思っていたアーサーは、予想以上に彼女が憤慨しているものだから、却って自分の憂鬱が緩和されておかしくなり、赤ら顔で苦笑した。同調することが必ずしも良くないことの方が多いが、自分の代わりに誰かが本気で怒ったり喜んだりしてくれると、時としてこんな風に癒しをもたらすことがある。

 向こうのテーブルではちょうどいい話題が出たようで、改めて乾杯をしていた。遠目で見てもしょげた様子の男を女店主が慰めているのは、皆も放っておいてくれている。お陰で、アイリスは気兼ねなく一番大切な客の相手ができた。

「あいつは別に……オレのもんじゃないんだからら……あいつにとやかく言うことはできないさ」

アーサーはそう呟く。アイリスはキョトンとした。平手打ちの2発目を食らったような気になる。

 店内では乾杯後の笑い声がわんわんと響き、それを聞いた道行く若者達のグループが窓から中を覗いていった。彼等も既に何処かでひっかけてきたようで、赤い顔をしていて陽気だ。

「あんた……もしかして……あの方と、まだできちゃいなかったのかい?」

「……まぁ、将来を約束したりとか……そういうことは、まだしてない」

アイリスは目を真ん丸にして身を仰け反らせ、カウンターをピシャリと叩いた。

「あっきれた! あんた……あの方と何年の付き合いなのよ! もう、とっくに懇ろだとばかり思ってたよ! それなのに……!」

2人は一緒になってケラケラと笑った。アイリスは腹を抱えて心の底から笑い、いつまでもそうしているものだから、それが可笑しくてアーサーも更に笑う。

 酔っ払った2人は、そうしてひとりきり笑い続けた。

「あれ……? お前……」

アーサーが気づくと、彼女は笑いながら涙を零していた。拭っても拭ってもそれは止まらず、彼女はしまいにハンカチーフを頬に押し当てたままにした。

「あんまり可笑しかったからさ。気にしないどくれ。酔ってると涙が出易いんだよ」

散々笑った後で、アイリスは吐息してストンと腰掛けた。カウンター側の奥にも椅子があるのだ。

「……ゴメンよ。笑い過ぎたね」

もう一度、今度は深い溜め息をついてアイリスは改めてアーサーを見つめた。彼は「いいよ」と軽く笑っている。自分でも長年承知で、滑稽だと思っている様子だった。

「……ほら、あいつってさ、大変な奴だろ? 一生懸命だし、責任の重い仕事を早くからしてるし。だから困らせたら悪いと思って……ずっと言えなかったんだ。他に男ができる様子もなかったから、安心して見ていられたってのもあるがな」

アイリスは自分自身と世の中に呆れ返っていた。全く、人の噂というものは、どうしてこうも先走りしているのかと腹立たしく思ってしまう。勿論、それに惑わされていた自分自身にも。

 出来上がったカップルを壊すのは困難だと端から諦めていたのは間違いで、この男がソニアに振られるという展開も十分に有り得ていたのだ。

「それで……まだ、言ってないのかい? あんたの気持ちは」

「言ったよ。最近な。いろいろあって、もうハッキリさせとかなきゃマズいと思ったから」

「……で、どうだったの? 返事は」

胸がキュッと縮まるような不安を感じ、アイリスの息が止まった。そうして見守っていた彼の顔は、幸せそうな笑顔になった。

「《考えときます》ってトコかな。多分好きだって言ってくれた」

「なんだいそれ。OKってワケじゃないんだね?」

「……気持ちに正直な奴なんだよ。誰かのことに夢中になったり、相手が好いているかどうかで一日中悩んでいるような他の女の子とは全然違うからさ。もっと気にかけなきゃならないことが多いだろう? 今まで、男だ女だってようなことは気にも留めずに働いてばかりだったんだよ。でも、こないだきちんと伝えたから、やっとそういう目でオレのことを見てくれるようになった。それだけでも、オレは十分に嬉しかったんだ」

ふぅん、と溜め息混じりに、アイリスは取り上げたグラスを指で突いた。これまでの噂を抜きにして考えてみれば、あの女性から受けていた印象は、むしろ彼が言うことに近かったはのは確かだ。

「……で、考えときますってことになってたのが、何で今みたいなことになったのさ? 大体、何処のどいつなのよ? あんたという男がいると知っていて、あの方に言い寄るなんておそれ多い男は」

アーサーも鼻で深く息をつき、背を丸め、今度はカウンター台に顎を乗せた。笑い合っていた間は忘れられていたことを思い出し、やるせない気持ちと苛立ちが彼の瞳を陰らせる。見ているだけで、重傷だと彼女にも解る様子だ。

「……なぁ、アイリス。彼女は何も悪くないんだ。彼女が持つ当然の権利として、いろんな男と知り合う機会があって、男と女に限らずとも、深い仲になるのは彼女の自由なんだ。どうかこのことは内緒にしてくれ。あらぬ噂を立てて彼女を困らせたくないんだ。……この事をこの街で知っているのは、今話したお前だけだから、噂が広まったりしたらすぐに判るからさ。オレを……ガッカリさせないでくれよ」

「そりゃ……あんたの頼みなら」

2人は見つめ合い、フッと笑った。この2人もまた、確固たる友情を築いている。

 デルフィーで、ソニアの住んでいたリラばあの家は南側の波止場近くにあり、アーサーとアイリスの方は北側の、街道がある山の上に家があり、隣近所だったから、こちらの友情の方が少々長いのだ。彼女の方が1つお姉さんでもあるから、よく世話を焼いていたし、先の大戦でアーサーが父親を失ってからは、実によく面倒をみたものだった。

 彼が港で働くようになってからは一緒にいる時間が減ってしまい、少年隊に入って訓練を始めてからはますます接点が減ったものの、夜に届け物をしたり、アーサーの母親に縫い物を習いに行ったりして、隣近所らしく顔を合わせる機会は途切れなかったので、交流は続いていた。

 頼れるお姉さんとして妹のミンナにも慕われていたから、ミンナと一緒にいることも多かった。

 彼が正規の兵士になってからはもう少し余裕ができて楽しく過ごしたものだが、それもすぐに終わってしまい、彼が14歳で上京してしまったので、彼女は途方に暮れて選択を迫られ、両親の反対を押し切ってこの都にやってきたのだ。誰にも彼にも《都の生活に憧れて》と説明していたが、ただ一途に彼を追って来たのである。

 しかし、入城の道は開けず、それでも唯一雇ってくれた夜の街で働きながら城での口を狙い続け、彼の出世を見守り続け、それを密かに喜びながら時の経つうちに、気がついたらこの店の女主人になっていたのである。

 学がある訳でもなく、城で求められるような芸もない。女官として入城できるのは厳しい選抜と推薦あってのことなので、夜の街でこんなに長く働いている自分が経験上引っかかることも十分に承知していたので、彼女は入城をもはや諦めていた。

 このことを彼には一度も話したことはない。今ほどの地位にあれば、彼の口利きで簡単に入城が認められるのかもしれないし、彼は快くそれに応じてくれるだろう。だが、夜の女を城に入れたということで彼の評判に傷をつけて迷惑をかけるようなことにはなりたくなかったから、このことは一切触れないようにしていたのだ。《職に誇りを持て》と彼は言うが、望む職の妨げとなる現実は確かに存在しているのである。

 今や彼はこの国の近衛兵隊長。若くして実質上のナンバー2である。彼女の長年の祈りが通じたのか、彼の純粋な実力か、昇るところまで昇りつめてしまい、昔の好がなかったら気軽に付き合うことさえできないような存在になってしまった。

 そして残念なことに、彼女の恋敵は彼女の遥か上を行き、彼の上でさえある。同じデルフィー出身の、歴代類を見ない女戦士。そして国軍隊長。彼と同じく、若くしてナンバー1に昇りつめ、《トライアス》、《守護天使》とまで謳われている美貌の強戦士。張り合おうというライバル心を燃やす以前に、自分でさえ尊敬してしまうような、非の打ち所のない女性なのだ。彼が恋焦がれる対象を変えるようなハプニングでもなければ、まず自分が付け入る隙は何処にもない。

 彼女に出来ることと言ったら、こうして彼が偶に訪れた時に、自分にしか言えない悩みを打ち明けてもらい、それを聞いて慰め、励ましてやることくらいなのだ。それでも、十分に特権的な役割だとありがたく思わなければならないと思っている。

 しかし、昔はよく来てくれたものだが、昇格する度に忙しい身となり、訪れる回数は徐々に減っていき、近衛兵隊長になってからは年に数回来るか来ないか、という頻度にまでなってしまった。彼の昇格を喜びつつも、彼女は寂しさに何度泣いたか知れない。

 彼には彼の生活があり、彼女には彼女の生活がある。

 城と城下街。こんなに近くにありながら、その世界は遠く隔たれていたのだ。

 だが、彼女はこう考えるようにもしている。普通、男と女になってから別れてしまったり、そういう関係を求めて叶わなかった場合、そこで疎遠になるか、付き合いが切れてしまうことが多いものだ。でも、自分は少なくとも、良き姉のような存在として生涯彼の悩みを聞き、励ましてやることはできるのだ、と。そうした友人としての関係は、これからもずっとずっと続けていけるのだ、と。

 そんな彼女の心を知らず、アーサーは想い人のことだけに心馳せて吐息した。

「……お前の言う通りだな。あいつが気に懸けるんだから、確かにそれなりの奴だよ。オレも……そいつのことはどこかで認めちまってる。そして……やっぱりオレはあいつが好きだ。誰かを本当に好きになるって……そういうことなのかもしれないな」

彼がしみじみと言うその言葉に、アイリスの瞳からまた涙が零れ落ちた。もう、笑顔はどこにもない。

「……おい」

「フフフッ。あんたと私……同じだったから、ちょっと泣けちまったのさ」

「アイリス……」

彼の顔を見るともっと涙が出そうなので、彼女は涙を拭いながら店の隅に目をやり、頬杖をついた。奥のテーブルでは、酔いの回った男達がバカなことを言い合いながらカードゲームに興じている。そのうち、1人の家族が迎えに来て、いい加減にしろと耳を摘ままれて妻に引っ張って行かれてしまった。2人はそれを見て一緒に笑った。

「……オレは、あいつに言ったんだ。《例えオレを選ばなくても、お前を想い続ける》って。今でもその気持ちは少しも変わっちゃいない。だから……アイリス、オレは……お前の気持ち、よく解るぜ」

「アーサー……」

顔を背けていても、もう彼女には我慢できなかった。唇がワナワナと震え、顔が歪んでしまう。誰からも見られぬよう、カウンターの奥に向きを変え、彼女は顔を手で覆い隠した。

「そこまで想える奴がいるのって……幸せだと思わないか?」

アイリスは、彼に背を向けたままで頷いた。

「……頑張ろうな、お互い。こんな時代だけど……いつかきっと、もっと幸せになろうぜ。オレも、お前のこと応援してるよ。アイリス」

声に出せず、この残酷な仕打ちに肩を震わせて耐えながら、ひたすらアイリスは頷いた。この不条理を何に訴えればいいのだろう。決して叶わぬ相手に恋をさせた神なのか。それとも、諦められぬ自分自身なのか。他のことには察しがいいのに、この事についてだけはおそろしいほどに鈍感で、未だに自分の想いに気づかぬこの男なのか。

 だが、彼を恨むことは有り得なかった。どんな目に遭っても、気づかれなくても、彼のことはただひたすらに愛しかった。

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