第4部27章『獅子の紅』2
パンザグロス邸は高台の一等地にあり、そこに辿り着くまでには長い長い階段がある。馬車が通る為のなだらかな道は別にあるが、徒歩の人間はこちらの方が早くて便利だ。しかもただの階段ではなく、全てが白い石で舗装されており、とても美しくて幅も広い。公道並みである。これが、世界で一番豊かな国の名士の家というものかと驚かされるばかりだ。
しかも、どんどん上に上がって邸宅に近くなると、階段の両脇に石の彫像が並ぶようになった。
「まるでここが城のようね」
「そうですな」
息を切らせながら、フィンデリアとカルバックスはそう言った。新参者の礼儀として、飛天術は使わないと決めていたので、立派な登山となった。
頂上部の豪邸は襲撃によって所々破壊されていたが、修復可能な範囲だったので、技師達が窓や扉を直しているところであった。
正面庭園も屋敷も実に見事だ。これほどの財力があると、この一族の人間の意見がかなり国政を左右するのではないかと思われる。
「このパンザグロス家というのは、財のある代わりに氏族の縁がないと聞いております。兄弟が少なかったり、早死にだったりなどで、どうも身内の数が増えないとか。考えさせられますな」
裕福であるのと、家族に恵まれるのと、果たしてどちらがいいのだろうか。
実はこの2人の知らぬところではあるが、現当主アルカディアスとその妻ヘレナムの間に子はできなかった。アイアスは、赤子の時分に街道の木の下に捨てられていたのを、この夫婦が偶然にも見つけて、天からの授かりものだと拾われたのである。彼がもし生きて現れ、パンザグロス家を継がなかったとしても、血統はとうに絶えているのだ。
しかし、この当主も大したもので、決して他の女にそれ以上の子供を産ませようとはしなかった。財と繁栄、そして家系というものに非常に達観したところのある哲学者なのである。そんな家だからこそ、天使はこの夫婦の前に降り立ったのかもしれなかった。
大きな危機の後とあって、其処彼処にパンザグロス邸の衛兵が巡回していた。
「これは、ますます城のようですな」
白いズボンに赤い上着の制服が、白亜の豪邸にとてもよく映えている。背に刺繍させれている牡鹿の紋章を見て、あれがパンザグロス家の家紋なのかと、フィンデリアは記憶に刻んだ。
2人の姿を見るや、用件を窺いに衛兵の1人がやって来た。フィンデリアは身分を名乗ると、何の約束もしていないが、目通りが叶うかどうかと尋ねた。相手が相手であるから衛兵は驚いて、まず上官らしき者に伝えに行った。そして、その上官の指示で、その衛兵が屋敷の中に走って行く。上官が2人の方にやってきて、代わりに案内をした。
「これは、これは、ようこそお出で下さいました。どうぞこちらへ」
上官の導きでゆっくりと進むうちに先程の衛兵がまた現れ、手振りで何かを示した。
「お待たせせずに、すぐご案内できそうです」
大きな正面玄関から邸内に入ると、2人はそのまま奥にまで導かれ、サンルームにいた夫妻と面会できた。しかもそこには、別の客がもう1人いた。3人ともが一斉にこちらを向き、立ち上がる。接待慣れした夫妻はともかく、もう1人の客はやけに驚いた様子で2人のことを見ていた。クセのある赤毛の男だ。琥珀色の目との組み合せが印象的で、これまでに会ったことはないとすぐに判る。
「我が屋敷へようこそ、姫君。遠い所をよくぞ参られました」
「ご来客中のところを、突然お邪魔いたしまして申し訳ございません。すぐに済みますので」
「まぁまぁ、お急ぎでなければ、どうぞごゆっくりなさって下さい」
赤毛の男は上席を空けて少々移動し、フィンデリアをそこに座らせた。カルバックスは従者らしく、座らずに後ろに立って控えた。トライアですっかり衣服を綺麗にしてもらえたから、このような屋敷に来ても遜色ない身なりになっており、良かったと思った。
そしてもう1人の客のことが紹介された。この男も初めてここを訪れたとのことで、何でもアイアスの古い知り合いらしい。彼の消息を尋ねてここに来たのだそうである。2人は握手し合った。
「ヴォルトと申す」
「フィンデリアです。よろしく」
握手した瞬間、フィンデリアはビリッと電気のような刺激を感じたのだが、静電気のせいかもしれないので深くは気に留めないようにした。ただ、アイアスの知り合いというだけあって、どこか油断のならない不敵さを感じてはいた。
お先にどうぞと譲られ、フィンデリアは礼を言って用件を述べた。
「先日、この都が襲撃に遭った際に、お2人をお守りするべく縁者の方が駆けつけたかと思われます。その後の消息をご存知ないのではないかと思いまして、私が代わってご連絡に上がりました」
「おお、おお、そうです。養女が参りました。そしてその後、何処に行ったのかも解らないままで心配をしておりました」
赤毛の男がピクリと眉を動かす。
「ホゥ……養女がおいでだったのですか」
「縁あって、そうなった者です。普段は外国に住んでおるのですよ。それで……彼女は今どうしているのですか?」
「当時は軍の撤退に巻き込まれて色々あったようで、連絡もままならなかったようなのですが、今は無事お郷に帰り着かれて務めに励んでおられます」
夫妻は両人ともがそれを喜んだ。いかに接触する機会の薄い名目上の家族ではあっても、大切なようである。アイアスが望んで妹にした娘を、自分達の為に失うようなことがあったら、彼に申し訳ないと思っていたのだ。
「あなた方は大変に豊かであられる。世界中に養子にしておられる者がいるのでは?」
ヴォルトの質問に、主が敏感に反応した。あまり突っ込んで訊かない方が無難な話題であるのだが、彼女達が来る前にどのような会話をしていたのか、ということも相俟って失礼には当たらないようで、ただ答えを慎重に選ぼうとしている様子だった。
「いいえ。養子はその娘だけです。他にはおりません」
「このパンザグロス家の名を名乗れるとは……何と幸運な娘さんでしょうな」
「まぁ……いろいろあるのですよ。世の中には」
雰囲気を察したフィンデリアがそう言って、それ以上深く探れないようにした。ヴォルトという男はそれでもまだ興味を示していたが、それ以上訊くことはしなかった。
「取り急ぎ、このことだけでもお伝えしたいと思い、本日は参りました。彼女も、帰国されてからは大変にお忙しい毎日を過ごされていますので、ご連絡する余裕がないかもしれません」
「そうでしょうな。よく解ります」
事情のある養子縁組であるから、双方ともが語る内容をぼやかしていた。フィンデリアがそのように語るということが、かなり事情を知っていることを示し、それだから夫妻は彼女のことを信用した。
「私も、この後また城に参りまして、新女王であらせられるフェリシテ様と会談をする予定でおりますので、今日はこれにて失礼致します」
「そんなにお急ぎですか。お引止めして悪いのでなければ、もう少しお話したいのですが」
「女王をお待たせしてしまっておりますので」
無難に余所者が立ち去る口実が必要だったので、敢えて姫はこのパンザグロス邸訪問を先にしていた。どう考えても襲撃直後で忙しいはずであるから、相手の方も早期退散を願っている場合には助かるのだ。もし本格的な会談を望むのであれば、後で正式に招待されるものだ。そして、夫妻は既にそれを考えていた。遠い異国の養女のことについて詳しく語れる者と出会ったのは久々のことであるし、以前に会ったのは、身元確認の為に訪れたトライア国の密使だったので、ゆっくりと話をすることもできなかったのだ。そして、滅びた国の姫という、彼女自身のことも大変興味深かった。
立ち上がり、あまりに早い退出の挨拶を交し合いながら、主はこう言った。
「是非、女王陛下との会談の後に、その他のご用事がなければ、改めてここへいらして下さい。できれば、ゆっくりとお話を伺いたいのです」
「ええ、本当に。いろいろ訊いてみたいのですよ。どうぞいらして下さいな。ご都合を伺いに、後で城へ使いの者を出しますから」
これは社交辞令でなく本当の招待であると見て、フィンデリアは微笑で返した。
「ホルプ・センダーからの急な要請などがなければ、お言葉に甘えさせていただきます」
その返事を聞いて夫妻は喜んだ。そしてこのタイミングでヴォルトという男も立ち上がった。
「私もこの辺でお暇させていただきます。随分と長居をさせていただきました」
夫妻はこの男に対しても、何やら引き止めたいような、そうでないような躊躇を見せた。とても敏感な者が見なければ解らないほどの、微かなものであったが。
「まぁ、あなたまで」
「何か解りましたら、またご連絡に伺います。もし彼が姿を見せたら、先程の言伝をよろしくお伝え下さい」
「承知しました」
一体、この人達は何を話していたのだろう。フィンデリアはふとそう思った。
衛兵の案内によって、フィンデリアとカルバックス、そしてヴォルトの3人は揃ってサンルームを退出していった。夫妻は老いているので、入口まで見送ることはしなかった。
広い廊下を歩きながら、ヴォルトは姫に話しかけた。
「このような所で、噂の姫君にお会いできるとは、奇遇ですな」
「まぁ、噂とは?」
「勇猛果敢にして、故国の仇討ちを果たす為であれば命をも顧みないと聞いております」
フィンデリアは謙遜せずにただ笑った。そこがまた、何とも凛々しい。
「……仇討ちは果たされたのですかな?」
「いえ、まだ。この大戦が終わる時まで、戦いは続きます」
「ほぅ……実にご立派なことですな。お若いのに。ホルプ・センダーに所属されていると聞いております。今後もそこで活動をされるご予定で?」
「ええ、基本的には」
そうして話すうちに、屋敷の外に出た。今度は飛天術で城に向かうつもりなので、ここでお別れである。するとここで、ヴォルトはこのようなことを言った。
「実は奇遇と申しましたのは……一度貴女にお会いしてみたいと強く望んでおられる御仁がおりましてな。ご迷惑でなければ是非、私に取次ぎをさせていただきたいのです」
そのようなことを言われるのはこれが初めてではないので、特に驚きはしなかったが、いろいろ用事もあるので簡単に返事はできなかった。
「それは構いませんが……私はこの通り方々を飛び回っているのものですから、そちらのご都合を合わせられるのが大変かもしれませんよ」
「いや、それは何とでもなります。ちなみに、またここに参られるということでしたな。その時、ご都合を伺いに改めて参ります。よろしいですかな?」
「わかりました」
それで、フィンデリアは軽く会釈してカルバックスと庭園の中央に向かって歩いた。そしてカルバックスが手を差し出すと、それを取り、2人は空に舞い上がった。ヴォルトはそれを眺めていた。姫君と従者はあっという間に城の方へ飛んでいく。
この時彼が浮かべた笑みの意味を、衛兵の誰も理解できなかったであろう。
そもそも彼は、アイアスを探してこのグレナドを再び訪れていた。襲撃時にこの都にいたのだから、まだ何処かに潜伏しているのかもしれないし、何処かに姿を消しているとしても、またやって来る可能性は高いと思ったのだ。
そこで彼は一通り都を見て、アイアスの気配が感じられなかったので、このパンザグロス家を訪問したのである。アイアスの両親にメッセージを託す為に。
彼は、アイアスの古い友人で、アイアスを探して来たのだと告げ、夫妻に面会を求めた。そのような用向きの者を無下にできるわけもなく、夫妻は丁重に彼を迎え、対面した。そして彼は、夫妻が驚くであろうことを解っていて、いきなり核心に触れたのだ。
《自分は、彼が捨て子であることを知っている。彼がずっと旅を続けているのは、己の出生の謎を解明する為だ》と。そんなことを言う者がアイアスと深い仲でないわけがないから、夫妻はひどく驚き、彼にもっと詳しい話を聞かせてもらえるよう頼んだのだった。
アイアスを育て、その後長い間彼の帰りを待ち続けているこの夫妻のことをヴォルトは悪く思っておらず、むしろ天使と関わる羽目になったことの不運に対する同情を抱いていたので、彼は天使という伝説の存在に関する説明までした。
自分はそのような伝説に詳しい者で、ヌスフェラートに伝わるようなものまで知っているので、アイアスの苦悩がよく解る。アイアスは自分がその伝説の天使で、すぐに死すべき運命なのではないかとおそれていたのだ。ヴォルトのその説明に、夫妻は実に真剣に聞き入った。そして、これまでの全てのことから、彼の説明に大いに納得したようだった。
彼は言った。アイアスのその後が心配だから会いたいのだが、消息が知れないのだと。そこで、あなた方の所にもし彼が現れるようなことがあったら、《ヴォルトが会いたがって探している》と伝えて欲しいと頼んだのだ。夫妻は承知した。
この不在の十数年はあまりに長い。もう20年近くになる。その間、アイアスが何処でどのように暮らしていたのかを、知る範囲でいいから教えて欲しいと夫妻はヴォルトに願った。
アイアスを知っていると言っても、彼の長い旅の全容を自分が知っているわけではないと断った上で、ヴォルトは語った。この人間達の世界だけではなく、ヌスフェラートの領域などにも足を運んで他の種族と接触していたようである、と。夫妻はやはり驚いたが、それでも、これほどに長い期間の不在を納得させるにはこのくらいの理由が尤もであるとも考えたようで、すぐに受け入れた。
そして言えるだけのことをちょうど言い切った辺りで、新たな訪問者の知らせが入ったのである。夫妻の方がもう少し話を聞きたそうにしていたので、そこに残ったところ、先日見たばかりの姫君が入ってきたのだ。
姫君との取り次ぎをしたい相手は、獣王大隊長ラジャマハリオンである。
普段はそのような頼まれ事をしない方であるし、彼を畏れて頼み事をしてくる者自体が少ないのだが、今回に限っては、このヴォルトも大いに感心があったので、この役目を請け負っていた。
負傷し治療が済んだ後日、ヴォルトはラジャマハリオンを尋ねて、傷はもう何ともないか訊いた。頭を貫通していた傷だったので、それなりに気遣ったのである。全ての大隊の中で、彼はこの獅子人を好んでいた。どの大隊長より人情に厚く、部下を大切にし、優雅で誇り高く、強い。彼は本当に王者なのだ。
あの娘はなかなか勇敢であり、お前に傷を負わせた上、無事に逃げ果せた。獣王大隊としては面目丸潰れであるし、人間側はさぞ拍手喝采しているであろう。どうするのだ? とヴォルトは彼に尋ねた。すると、彼は逆に質問を返してきたのだった。『近く、人間社会を偵察する予定はあるか』と。ヴォルトはそのつもりだと答えた。
そこで、こう頼まれたのだ。『あの娘ともう一度会って話がしたいので、もし居場所を知ったら知らせるか、取り次いで欲しい』と。彼の大隊には、人間に化けるのが得意な者は少ない上、身内では逆に頼み辛いのだそうだ。何しろ皆が殺気立っているので、あの姫君に会ったら話ができる前に殺してしまうおそれが高いのだという。成る程、とヴォルトは納得してそれを請け負ったのだった。
一体、獅子王が何を話すつもりなのかは特に訊かなかった。互いの口上を述べ合ってから決闘に応じる気なのにせよ、恨み言を言ってからさっさと殺すのにせよ、ヴォルトにとっては面白いからだ。
そして、あまりに意外にも早く、それが実現する運びとなったのである。
ヴォルトもまた飛翔し、それから流星になって飛んでいった。このことを獅子王に伝える為に。