第4部26章『時空回廊』4
光の先は、森の中だった。何処かは知らないが、南方でも北方でもない植生だ。おそらく中部地方であろう。陽射しのこの眩しさと頭上からの射し込み方からして、地上世界であることは間違いないようだ。木々はどれも皆丈高く、幹が太い。年季の入った森なのである。
すぐそこに番人がいて、辺りの様子を窺っていた。ここでは彼の姿はもっと透けて見え、そのまま光の中に溶けて消えてしまいそうである。
振り返ると、今通ってきた扉がそこにあり、光る一枚板となって宙に浮かんでいた。
『こっちだ』
番人はチラリと振り返るとそう言い、森の中を歩き始めた。
これが本当に過去の世界なのか、見た目では全く判らないが、少なくとも世界が本物であるのは確かなようだ。番人や自分の動きに合わせて下草が擦れ、倒れる。風も彼の肌を撫でていった。
『目的の場所に直接繋がると目撃される危険があるから、少し離れた安全な場所にした。お望みの人物の所まではもう少しかかる』
もしここが本当の過去で、一切干渉してはならないというのなら、こうして草が脇に避けさせられていくのも、過去の空気を吸うのも干渉ではないのだろうか。そう思いながら、彼は番人の後についていった。
やがて木立の向こうに少々開けた所が見えてきて、そこに1人の人物と3体の魔物がいるのが解った。遠目でも、身内の姿というものはすぐに判るもので、それがゲオムンドであると彼には見て取れた。今よりは少し若い。確かに、ここは過去の世界のようである。
ゲオムンドは倒木に腰掛けて、何やら手帳に書き込んでいた。左目に拡大用のレンズを装着している。この頃、彼は地上世界の調査を長期間に渡って行ってきたというから、今はまさにその最中なのだろう。見たこと、気がついたことを手帳に書き留めておいて、後で宮殿に戻ってから整理するのだ。
生粋のヌスフェラートであるゲオムンドは太陽の光を好まないのだが、こうして日中の調査をしているところを見ると、今は日中に起きる種々の自然現象について調べているらしい。
ゲオムンドがいる辺りだけ見通しが開けているのは、そこに大きな木が倒れているからだ。森の一番眩しい所で小休止をしているのだから、余程くたびれたのだろう。今より若いと言っても、この時点で彼の背は曲がり始めていた。
ゲオムンドの周辺に侍っている魔物は、地上世界が生活域である暗鬼族達だった。言葉が通じるし賢いから、ゲオムンドが好んでよく用いる者達である。今、ここにいるのが彼等だけなら何とかなるだろう。
『……さぁ、辿り着いた。して……お主が確かめたいことは何なのだ?』
番人は彼を振り返り言った。
「この頃……起こったとされる事件が真実であるのか……確かめたい」
番人は尾を揺らし、目を薄くして何故かニヤリと笑った。
『ならば……ちょうどいいタイミングだろう』
番人は《来い》と言うように手を振って見せ、体をもっと透けさせた。彼も再びマキシマになって後を追った。体表を周辺の色にカムフラージュさせる魔物の特質を発現させたので、透明とはいかないが、姿が見え難くなる。
もっと近づいてよく見てみると、やがてゲオムンドは筆記用具を腰のポーチにしまい、立ち上がった。そして部下の暗鬼達に言った。
「今日はもう、これでよい。先に宮殿に戻っていろ」
暗鬼達は一礼すると、言われた通りにその場を飛び去っていった。それを確かめてから、ゲオムンドは何処かに移動を始めた。体を浮かせ、木立を縫うようにして飛んでいく。
番人と彼も後に続いた。この森の何処かに、目的地があるらしい。
やがてゲオムンドは、ある野原の手前で降り立った。野原には花が咲き乱れており、ここだけが周辺と少し違う世界を築き上げている。そこに小さな小屋があり、壁にも屋根にも植物が這い上がって美しい花を咲かせていた。
ゲオムンドは周囲の様子を窺う。目的の人物を探すのではなく、その他に邪魔者がいないか探っている目つきである。沢山の小鳥が侵入者に気づいて、すぐ側の木の枝に下り、警戒を促すようなチッチという高い音を盛んに上げていた。明らかに、招かざる客への反応である。
特に誰もいないと見て取ったゲオムンドは小屋に近づき、正面の戸を叩いた。返事はない。小屋の裏の方にまで回り、気配を探していた。
どうもこの小屋にはいないらしいと判るや、ゲオムンドは違う場所へと足を運んだ。この小屋からほど近い所にある沼である。その水辺に、1人の人影があった。座って水面を見ている。頭からベールを被り、それを金色の輪で留めている。後ろ姿なので、番人や彼にはその人の容姿がよく見えなかった。
でも、彼の胸はズキンと大きく鼓動した。場所、状況、この人に間違いないように思う。
ゲオムンドはその人に近寄り、声をかけた。残念ながら水際まで距離があるので、ゲオムンドが何を話しているのか聞こえない。そこで彼は聴力を上げて何とか聞こうとした。
「またあなたですか……。どうか、もう諦めになって」
彼の胸の高鳴りが増し、一気に痛みにまで達した。
あぁ……何て声が似ているんだ。ソニアに。
彼は自らの胸を押さえた。マキシマの体では、体表が硬過ぎて掴むことができない。
「こんな場所で1人暮らすなど、貴女に相応しくない。私の屋敷に来い。もっと沢山の召し使いを付けてやる。全て、貴女の自由にしていい」
何て台詞だろうと彼は思った。いかにもあの父らしいが、母に限らず、このような台詞でなびく女がいるとしたら、それは物欲に駆られた者だけだろう。恋愛感情を抱く経験がこの時まで皆無であったということだから、女性の扱いについては全くの素人のようである。傍目から見ていても、こんな世界で暮らす女性が、こんな傲慢そうなヌスフェラートに心開くわけがないと思う。
「ですから……私は1人ではないのです。沢山の仲間に見守られているのです。その点は心配なさらないで。それに、前にも言いましたが、私には心に決めた方がいるのです。あなたが幾ら私のことを望まれても、決してお答えできません。本当に諦めて下さい」
この時点で、既に何度も彼女を訪れているのだ。この日、日中の調査を行っていたのは、どちらかというとこの目的の為だったのではないだろうか。
「……その男は、何故ここにいないのだ? その男が貴女のことを大切に思っているのなら、側にいるか、もっと安全な場所に貴女を住まわせるものではないかと思うが?」
「それは、あなたには関係のないことです」
男と女というものは、家族と違ってただの他人だ。他人としての礼儀を持って接さねばならない。それなのに、この人ときたら、ただ強引に押し切ろうとしている。血を引く息子として、彼は恥ずかしかった。余程頭の鈍い女でなければ、この人物が自分を幸せにできるわけがないことにすぐ気づくだろう。
あぁ、きっと、早く立ち去って欲しい厄介な邪魔者でしかないはずだ。どうかそれに気づいて自分の領土にでも帰ってくれ……!
ベールの人は立ち上がり、水辺から離れようと歩き始めた。その腕を、ゲオムンドが取る。その引き止め方が乱暴だったから、ベールの人の前面がこちら向きにされ、ベールごと髪の毛が翻った。美しいルピナス色の髪。宵色の瞳。
彼はそこで感極まった。マキシマの体で涙を流すことはできないが、全身が震えた。気の遠くなるほど長い年月望んでいた女性の姿を、今ようやく目にしているのだ。
以前に捕らえたエルフの娘のように、精巧な刺繍がされた長い衣を身に纏い、腰に金色の帯を巻いて前に長く垂らしている。耳も純血のエルフらしく天に向かって伸びており、体格は戦士として鍛えているソニアと違い、華奢な体つきをしているから、全体的に流れるようなシルエットで、細身の蝋燭のようであった。
あぁ、そして何と、確かにソニアに似ていることか。
この人が自分を捨てたのだとしても、彼に全く恨みはなかった。ただ恋しさばかりが募り、この女性も、そして娘であるソニアのことも愛しくてたまらなくなった。
もうこの時、この女性の腹の中にソニアはいたのだろうか? 村の外で暮らすようになったのは、ソニアを身篭ったことが原因で追放されたからだと聞いている。そうならば、この女性は既に妊婦だ。
女性はゲオムンドの手を振り払った。
「――――止めて下さい! お願いですから帰って!」
水辺で1人物憂げに座り水面を眺めていたのといい、彼女は何かを悲しんでいるようだった。1人で考えたり寛いだりしたい時に邪魔者が来たといった様子だ。
女性に、そのように扱われたのは初めてなのだろう。ゲオムンドは硬直した。何せヴァイゲンツォルトでは大領地の主であるし、誰もが皆、彼を畏れて平伏すからだ。別に、彼女が対応を誤ったわけではない。きっぱりと拒否姿勢を取らないと、この男のように他者の感情理解に欠ける者はきちんと解らないのだ。思い知らせることが、結局双方の為になる。
ゲオムンドの顔色がみるみるどす黒くなっていった。彼のおそろしさを誰よりよく知っている者として、ゾクリと悪寒が走る。こんな顔をしたら、まずその相手はこれまで生きていた例がない。
彼女が危ない!
何が起きるのか知っているはずなのに、それでも彼は瞬間的にゲオムンドか彼女を殺しはしないかとおそれた。
しかし、ゲオムンドは非常に珍しいことにそこで堪え、杖を振り上げることはしなかった。
本当に欲しいのだ。この人は。彼はそう思った。信じられなかった。
「……私が持っているものを、全て半分貴女にやる。好きなようにしていい。私と来てくれ」
これが例の台詞かと、彼はやはり失望した。ここでは《全て》と言わなければならないのに。そう言ったとしても、どうせ成就することはないのだが。
「いいえ。無理です。帰って下さい。そして二度と来ないで」
身振りで解ってもらえなかったので、彼女は言葉で強く言った。押して引いての駆け引きではない。本当に拒絶されているのだ。それを解ってくれ。退散してくれ。
彼女は1人、小屋に向かって歩き始めた。断固とした拒否姿勢を保つ為に一切振り返らず。
ゲオムンドの目が細められ、顔はますますどす黒くなり、怪しくギラギラと光った。そして杖を上げる。杖先の宝玉が光り―――――――――――――
彼は禁呪を唱えた。
マキシマは飛び出した。番人の許可など得ずに姿を現して突進し、星の速さでゲオムンドの脇に達すると、鋭い刃に変形させた右腕で深く突き刺した。
彼は父を刺した。
その瞬間、世界が弾け、あらゆる所に亀裂が走り、全て破片となって砕け散り、粉々になった。
自分が消えるのか、或いは、世界が消えるのかと思った。
そのどちらでも良かった。