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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第2章
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第1部第2章『アイアス』前編

 2.アイアス(前編)


 世界から隔絶されたかのようなその森の外では、その頃、戦乱の雰囲気が強まり始めていた。

 この地上では、人々の国々を滅ぼして支配権を得んとする暗鬼貴族ヌスフェラートと、それを阻止しようとする人間の長い戦いの歴史が繰り返されてきている。

 ヌスフェラートとは、人間よりも長寿で賢く、肉体も強く、蒼褪めた肌色と先の尖った大きな耳を持つ者達の総称である。それだけ生物として優秀でありながら、彼等のテリトリーとされている不毛の火山地帯ヴィア・セラーゴの奥地に押し込められるようにして棲息し、それが故に人間の住む大地を羨み、狙っていたのである。

 実は、ヌスフェラートがそのような根拠で戦を起こすと、人間が勝手に解釈しているだけで、本当の所は少し違っていた。人間はあまりに弱かったし、あまりに無知だったので知る由もなかったが、ヌスフェラート達の王国は別の場所に存在しており、ここはあくまで人間世界進出の為の足掛かりとする出城に過ぎなかったのである。だが、侵略されることに変わりはないので、人間達にとっては結局どちらでも良かったろう。

 ヌスフェラート達は長寿を生かして、勝ち戦からも負け戦からも多くを学び、それを次回に反映させて臨める時間的余裕があったのだが、それでも、どれだけ時間をかけて力を蓄え、準備をしても、今まで本当に人間を滅ぼして世界を支配できた例はなかった。彼らが行動を起こす度に、決まってそれに立ち向かう強者が人間世界に現れ、時には彼等が『天使』と呼んでいる万能戦士までが出現してその後押しをし、彼等の企てを阻止してきたのである。

 伝承に拠れば『天使』とは、世界の均衡を保つ為に神が遣わした者だとされていた。

 それでもヌスフェラート達は人間の住まう世界を決して諦めなかった。それ程に、陽の降り注ぐ肥沃な大地は魅力的だったのだ。

 ヌスフェラート達は個々にプライドが高く、それ故に、余程強力な支配者でも現れなければ、国を挙げて一斉攻撃を仕掛けてくるような連帯行動はしなかった。だから過去の例を見ても、一貴族や一幹部の私軍が名を上げようと出征してくる程度で、王自らが軍を率いて出向いて来たことは、過去数百年の間なかった。

 その例に漏れず、今回再び人間世界に挑んで来たのは、ヌスフェラートの一有力者率いる私立軍だった。首領の名はバル=バラ=タン。彼等一族にとっては暫くぶりの戦争でも、60年も間が空いていれば人間の方は2世代も入れ替わって、初の異種族間戦争に怯える者が大半だった。

 ヌスフェラートは獣も魔物も配下にして世界中を徘徊させ、恐れた人々が村から出られぬようにし、物資が底をついて飢えてゆく様を眺めつつ、時に村々を直接襲撃して徐々に人の数を減らしていき、存分に苦しめてから最後の仕上げを行うという悪趣味な戦法を取ることが多かった。

 それが故に、その長い時間の内に反乱軍が決起し、天使も登場するなどして困難な戦模様となるのに、その流儀だけはどうにも止められないようだった。人間世界の貴族が狩りを楽しむ時の感覚と似ているのかもしれない。突然来襲して一斉攻撃をかけるのは無粋だと考えられているのか、それともこのサディスティックな嗜好はどうにも止められぬのか、人間には解らなかった。

 バル=バラ=タンの工作により、人々は野に放たれた魔物達に殺され、ヌスフェラート達に弄ばれていき、幾多の戦士が生命を賭して戦いを挑んでも対等に渡り合うことは出来ず、無残に殺されていった。


 だが、1年近くに及ぶ虐殺の後、遂に人間の中から優秀な若者が台頭し、各地の魔物やバル=バラ=タン配下のヌスフェラートを掃討して、呼応した若者達と手を組んで一団を築いていった。これこそが、ヌスフェラートが苦手としていながら、人間には出来る芸当――――協力、支え合いという技だった。

 きっかけとなった若者の名はアイアス。

 世界一と謳われる強国にして大国アルファブラの育ちで、世に隠されてはいたが、子のない貴族の夫婦が、ある時拾って我が子として育て始めた捨て子の身の上だった。成長後に両親から打ち明けられてはいたが、実の子ではなくとも、実の子同然に育ててくれた夫婦と彼との間には親子の情愛が生まれていたので、この事は彼らだけの秘密にして、その後も息子として生活していた。

 アイアスはとても頭が良く、探求心も強く、王宮の武術指南役の教師を雇って訓練すれば、たちまちあらゆる技を身に付け、何年も経たぬうちに指南役が教えることは無くなってしまい、彼独自に技や戦法を開発していったので、やがて隣国でも何処でも彼に敵う者はいなくなってしまったのだった。

 名家の跡取りとして申し分のない若者に成長したアイアスは、育ての両親の誇りであり、早くから王宮に仕えて、文武両道の天才として家名を上げていった。

 そんなアイアスがアルファブラ国内の惨状を見兼ねて、国王が命じるよりも先に自分の意志で戦いの旅に赴いたのは自然な成り行きだった。残された国民も王も両親も彼の身を案じはしたが、同時に、彼なら出来るかもしれないという期待もあって、後を追って止めるようなことはしなかった。

 これほど出来た若者が憧れられぬはずもなく、第一王女はずっと想いを寄せていたし、国王自身も未来の指導者として彼に期待をかけていたので、皆は彼の無事帰還を切に願った。

 アイアスが魔物達を打ち払い、ヌスフェラートを一人倒していく毎に、優れた者の噂はたちまちに広がり、各地で燻っていた腕に覚えのある若者が次々と彼を探して旅立ち、出会い、合流するようになっていった。若くして人格者であり、柔和で人好きのする雰囲気を持っていたアイアスは、彼等の合流を拒まず受け入れ、皆にもすぐ慕われて集団のリーダー的存在になっていった。

 優秀な指導者を得た人間の団体行動というものは相乗効果を生み出して、ヌスフェラート達には決して出来ないであろう高度な連帯行動を見せたし、仲間のいる励みで、自分でも驚くほどの活躍を各々が見せて侵略者たちを撃破していった。

 そして、彼の噂が耳に入ったヌスフェラート側の方でも、またしても『天使』が出現したのだろうかと考えるようになった。


 バル=バラ=タンの一番の部下である、ヴィルフリートが占拠していた城塞都市の戦いで、アイアスは初めてその伝説を知った。ヌスフェラートの中には様々な特徴の者がいるが、このヴィルフリートは血食嗜好があり、断てば禁断症状が出るほどの吸血鬼で、彼の手にかかった者は、そのまま生きながら操られてしまうという恐ろしい力を持つ男だった。

 操られて再起不能となった哀れな人間達を次々と呪いから解き放ち、魔物達もなぎ払って、アイアスが全身傷だらけでヴィルフリートと対峙した時、若く輝けるその様を見て、長身痩躯の蒼褪めた肌の男はこう言ったのである。

「……君は天使なのか?」

国教会聖堂の壁画に見られるような、伝統的な神の遣いのことしか知らぬアイアスはこう返した。

「あなた方を全て討ち果たせば、人々からそう呼ばれるでしょうね」

ヴィルフリートは暗い笑みを口元に浮かべると、危機感のない優雅な仕草で、凝固防止の為にワインと混ぜてある血の入ったグラスから一口、二口と喉に流し込み、興味深げにアイアスの金褐色の髪やブルー・グレーの瞳を眺めた。

「天使は役目を終えると命も尽きると聞く。君は……我々との戦いが終われば死んでしまうのではないかな?」

アイアスは、敵が他愛もない脅し文句で己を動揺させようとしているのだと思った。だが、言葉は妙に心を離れず、彼の中に残ってしがみついた。

「一度、本物の天使と話がしてみたかったのだ。長年我等が遠征を阻止し、打ち砕いてくれた伝説の一族……。死ぬと解っていて、何故そのように戦うことが出来るのだ?」

アイアスには何も言えなかった。そんな一族の話を屋敷の書庫で見たことがあったが、まさか現実とは思っていないし、こんな話に惑わされるより、目の前の吸血鬼を倒すことの方が、乗り越えねばならぬ明らかな現実だったのである。

 時が来たことを悟った2人は、互いの剣と牙とで闘い合った。心波立つアイアスは始め不利のように思われたが、駆け付けた仲間達の援護により、齢500歳を越える吸血鬼を玉座背後の壁に串刺しにすることに成功し、まさかここで敗れるとは思っていなかった男を灰にして、滅ぼしたのだった。


 それからのアイアスは、自分の出生について少なからず疑問を抱くようになっていった。立ち寄った国の書庫を見せてもらい、一人で天使に関する文献を探し、仲間に不思議に思われながらも決して訳を教えず、ヴィルフリートの言葉を反芻していった。

 伝説と古きものを大切にする森林小国で、遂に彼はそれらしきものを見つけた。

《天から遣わされしその勇士は背に翼を持ち、或いは背にその痕跡を残す。天命を全うした後、直ちに天に召される》

天使を世界調和の戦士として描いているその古文書の記述に、アイアスは釘付けになってしまった。彼の背、肩甲骨の辺りには、幼少時に負った怪我の為だと両親から聞かされている、傷跡のような赤いあざが残っていた。それを疑ったことは一度もなかったが、ここに来て彼を惑わせる要素としては十分だった。決定的な証拠は何もなかったが、人並み外れている彼の能力全てが、それを裏付けているようだった。

 仲間にそれを隠しつつ、残る侵略軍の拠点を1つずつ崩していき、腕を上げ、皆それぞれに成長していき、ますます結束力は高まっていった。かつては、自分たち人間はヌスフェラートに滅ぼされてしまうのではないかと考えていた者も、明るい未来を夢に描けるようになり、アイアスにそれを語ったりもした。

「戦いが終わったら、きっと俺の故郷に来てくれ」

親友といえる快活な若者カムイは、戦士らしくガッシリ彼の肩を抱いてそう言い、

「もし子供が出来たら、名付け親になって欲しいの」

冷静で知的な魔術師の娘マイアは大人っぽくそう言い、

「新しい時代が来たら、あなたは王となるべきです」

真面目で穏やかな賢者ロドリオは年長者らしくそう言った。

 他の仲間も、明るい未来の展望を口々に表現した。アイアスはそれらににこやかに応えて一片の翳りも見せなかったが、人知れず心の中では、例え戦いが終わったとして、その後、皆の願いに自分が応えられるのかを不安に思っていた。

 しかし自分が何者であれ、それが真実かどうか定かでなくとも、この戦いを終わらせなければならないことだけはハッキリとしていた。


 残るはバル=バラ=タンの本拠地のみとなった時、彼等は一丸となってヴィア・セラーゴ城塞都市に乗り込んでいった。

 都市に生活感はなく、彼等が想像していたヌスフェラートだらけの都とは全く違っていた。番兵には魔物や獣が多く、そこにいるヌスフェラートはバル=バラ=タンとその幹部数名だけで、広大な敷地内は幽霊城の如く閑散としていた。

 ここがヌスフェラートの王国だと思っていた彼等には軽い衝撃だったが、多くの敵と戦わずして早くバル=バラ=タン本人と渡り合えることは願ってもなかったので、それほど深く心には留めず、皆で戦闘に専念した。

 彼等の希望のリーダーであるアイアスを少しでも先に進める為に、仲間達は次々と幹部達との直接対決を自ら引き受けて先を急がせ、暗鬼貴族王の城と呼ばれる、このヌスフェラートの城深部に位置する玉座の間に辿り着いた時、アイアスはたった一人で、待ち受けていた暗鬼貴族バル=バラ=タンと対面した。

 バル=バラ=タンは、ヴィルフリートよりも更に上背が高く体格のいい、強靭な鬼そのものの姿をしていた。紫色の膚には幾筋も稲妻状の血管が浮き上がり、恐ろしげな模様を描いていたし、大きな耳は兜の羽飾りのように勇ましく天を指しており、黒い髪は乱れ伸びてうねっていた。そして目は闇色にギラリと輝いていた。鋭い牙も、荒々しく分厚い爪も、ヌスフェラートの典型的な特徴である。

 アイアスは、各国の王に見込まれて託された貴重な鎧に身を包み、200年に一度の名剣を手にして、堂々とバル=バラ=タンの殺気を跳ね返した。

「お前の名はアイアスだそうだな。……天使アイアス、天は再び我等の試みを打ち砕こうというわけか」

アイアスは王宮の剣士らしく礼儀正しい作法で剣を胸につがえた。

「――――私はアルファブラ王国パンザグロス家、アルカディアスとヘレナムの息子アイアスだ。人間であり、人間の代表として侵略者を阻止する為に参上した」

バル=バラ=タンは歪んだ笑みを広げて首を傾いだ。

「人間だと……? 嘘をつけ。ただの人間にそれ程の能力があるものか。我輩を倒し、見事使命を果たした暁に、お前は共に息絶えるのだ。全く……それでありながらどいつもこいつも献身的に戦うものだ、天使という奴は。どんな戦であろうと。それがとんと理解できんよ」

それ以上の戦前交渉はもはや無意味と見て、アイアスは剣を振り下ろしてゆっくりと構えた。バル=バラ=タンもそれに応じて魔法の火炎球を掌に生み出し凝縮させ、眩しい閃熱球に変化させた。

 後に『英雄アイアスの戦い』と人間に呼ばれる、この大戦の最終決戦は、こうして始まった。

 石造りの暗い城内で繰り広げられる戦いは、爆発音と振動で古びた柱や壁を震わせ、砂埃を落として閃光で照らした。飛び交う剣圧や破壊魔法は魔物の彫像を次々と崩し、やがては壁も天井も剥がれ落ちていった。

 そして長い応酬の末、絶叫が響き渡り、城内は静まり返った。

 アイアスに深々と胸を刺し貫かれたバル=バラ=タンは仰向けに横たわり、どす黒い血を口からゴボゴボと吐き出しながら、600年に及ぶ長き生に終止符を打った男を見上げた。

 アイアスの顔に勝利の喜びの色はなかった。まだ10代の若者とは思えぬ、どこか深みのある悲哀がそこに表れていた。むしろバル=バラ=タンの方が笑っていた。

「……お前も……死ぬのかと思うと……愉快なものだ……」

そして大きく血を吐き出すと、もう少し口が利き易くなった舌で最期にこう言った。

「だが……我輩の後にも挑む者は……必ずや現れる。……それに備えて……まだまだ天に使われるやも……しれんなぁ……」

バル=バラ=タンは擦れた笑いと共に血を大量に吐いて、その目をアイアスに向けて見開いたまま、絶命した。

 アイアスはただ黙って、その様をいつまでも見下ろしていた。


 人知れぬ不安をよそに感極まり勝利の雄叫びを上げる仲間達の下に、アイアスは何事もなかったかのように帰還した。人々の前では彼も笑っていた。報告の為にアルファブラにも戻り、国王に大戦の終結を告げ、両親にも無事な姿を見せた。

 そして、たった一つだけ、彼は両親に尋ねた。

「父上、母上、私の背の傷跡は……本当に怪我のせいなのですか?」

それが何を示すのか知らないはずだろうが、2人ともが何やら躊躇した。それだけで、アイアスには十分だった。

 国王から晴れて勲章と英雄の称号を授かり、王女との結婚話まで持ち上がったが、彼はキッパリと「まだ解明と解決を果たさねばならぬ問題があるので旅に出る」と宣言し、本当の所は相思相愛の仲であった王女とも今再び別れて、一人、長い旅に出て行ったのだった。


 

 大戦の間も、大森林の中にいたソニア達は戦火の影響を受けなかったし、トゥーロンの発生させた幻の霧によって、バル=バラ=タンに支配されている魔物が彼等の領域の中に入って来ることもなかった。何やら不穏な事が外の世界で起きているらしいことは伝わってきていたが、彼等に出来るのはここに暮らし続けることだけであったし、幸せな彼等にとって、外世界の出来事は無関係なもののように思われた。

 ソニアはすくすくと成長し、もうすぐ4度目の記念日を迎えようとしていた。この森に彼女が来た日を尊い日と定め、律儀なトゥーロンが毎年のようにお祝いをしたのである。

 これまで、彼女は沢山の仲間に囲まれ、愛されて、何不自由なく育ち、とても幸せな日々を送っていた。子供らしい活発な遊戯欲も、未知なるものへの好奇心も常に満たされ、全てが彼女の糧となっていった。ごく一般的な人間がその生活ぶりを見れば恐ろしいと思うのだろうが、種族間のしがらみや偏見に捕らわれておらぬ者から見れば、これほど充実した知育はないと思ったことだろう。毎日のように、獣の剛毛にも甲殻類の硬い鎧にも触れ、泥や土くれにまみれ、木に登り、空を飛び、泳ぎ、歌い、色んなものを口にし、とにかく笑った。

 これからの歩みを思うに、この4年間足らずの時代が、彼女にとって一番幸せな時代であったと言えるかもしれない。幼さ故、まだ世界を知らぬ故でもあるが、一点の曇りもない、温もりと喜びと笑いとでできていた日々だった。

 だが、大戦の影響は結果的にこれから彼女達の身に降りかかることになり、この頃を境に、森の事情は一変してくるのであった。


 長期間に渡るヌスフェラートの無差別な虐殺と魔物による被害は、人々の心に憎しみと恐怖を根深く刻み込み、終戦後も消え去ることはなかった。

 そこで、未だ狂暴な魔物が残る地域が幾つも掃討作戦の対象になり、大戦によって腕を磨かれた戦士達が各国から集められて、大規模な魔物狩りが始まった。世界は広いので全てを廻ることは到底出来ず、まず初めに着手したのは既存の商道の安全回復で、その付近の森や山が対象地域となった。そしてその次には、新たに道を切り開く予定であった場所の総ざらいが始まった。

 ソニア達の生活していた、中央大陸ガラマンジャの中部に位置する大森林はこれまで手付かずだったのだが、今回の戦時中、その近隣の村々は連絡や物流を行うのが非常に困難だったことから、それを教訓に周辺各国共同で道を敷くことになっていた。

 そんな理由がなくても、人里付近で魔物の姿がチラとでも目撃されれば、村人総出で退治に出掛けるようになったし、プロの手でなければ難しい種類の魔物の場合は、経験豊富なハンターを雇って仕留めてきてもらった。

 そうした流れの中で、ソニア達の暮らす森に人間が侵入してきたのは、もはや自然の成り行きであった。

 討伐隊が森に入り込んで来た知らせは、やがてトゥーロンの耳にも届いた。更に森の奥深くまで逃げるしか、彼等に取れる選択肢はなかった。それぞれが強力なメンバーではあったが、まともに人間の戦士集団と闘って無事に済むほどの大人数ではない。それに何より、ソニアを守ることこそが彼等の一番の使命だった。

 トゥーロンの説明を聞き入れ、ダンカンの大きな甲羅の背中に乗って逃走するソニアは、未だ見たことのない『人間』というものが、一体どんなものなのだろうと思った。

 彼女は生まれてこの方、悪意による行動や憎しみや殺意というものを見たことがない。この幼さでは当たり前であったが、これまでそんな概念すら知らなかったのである。せいぜいトゥーロンのお仕置きや小言が皆に恐れられていた程度で、それも負の感情による行動ではなかった。だから、彼等を殺そうとやって来るという『人間』は、彼女にとって未知なる存在だった。

 ソニアは、これまでの自分の生活が変わってしまうことを、小さな胸で予感していた。

 この森が豊かで有用であることを知った人間達は、開拓を兼ねて探検の足を更に奥に伸ばしていった。戦が終わってしまった今、人間達全般の望む平和が到来してはいたが、特に戦士等は血を求める性質を鎮められずにそのまま引きずっていたので、森中の魔物を何年かかっても殺し尽くしたい欲望に駆られていたのだ。例え行き過ぎた狩りになってしまっても、大戦終結後間もない今は大義名文が成立したし、支持する風潮の方が強かったこともまた、虐殺を助長してしまっていた。

 腕試しの喜びも名を上げる欲望もハンティングは満たしてくれ、一種の中毒状態となり、人間の戦士は何処までも魔物達を追い、殺していった。

 どんなに弱い種族だからといって、人間は、総じて優しい一族ではなかったのだ。弱さ故に余分に吠え、余分に警戒し、行き過ぎて痛みを味わい、後悔するまでなかなか学ぶことが出来ない性質を持っていた。


 逃げ続けていたソニア達は、ある日、遂に討伐隊に出くわしてしまった。まだまだ残っていた強力な種類の魔物を目にして戦士達は湧き上がり、手柄を立てようと熱狂的に後を追って来た。トゥーロンが幻の霧を発生させていたはずなのだが、討伐隊の中には魔術師達もいるので、霧払いの呪文をされてしまったのである。

 状況が切迫していることを悟ったマンモが、トゥーロンと目だけで通じ合って、たった一頭で飛び出して行った。大きなゴリラの黒い背中が遠ざかって行き、その先で戦闘が始まったのをソニアは呆然と見ていた。

 幼い彼女に、今一体何が起きているのかなどとても理解できなかったし、ただ、ただ、闘いの音とマンモの叫びが耳に残って、どうしてかこれがマンモとの別れであることだけを悟って、胸が張り裂けそうになったのだった。

 どうにか逃げ切ったものの、仲間達も沈んで、元の暮らしが送れると思っていた淡い期待が、叶わぬかもしれない恐怖に変わっていくのを感じた。

 個々に単独で生きていたら、ここまで逃げてくることもなかったかもしれないが、トゥーロンという賢明なリーダーがいることと、ソニアという存在を介して結ばれている仲間意識のお陰で、一行はここまで適当な逃走路を選んで迅速に移動して来ることができた。

 しかし、一度人間達に追跡され始めると、逃げ切るのはますます困難になっていった。ダンカンのように足跡を残し易い大型の魔物がいるので、それを辿って追われてしまうのだ。森の仲間は動物的追跡に長けてはいても、逃走に優れた者達ではなかったので、トゥーロンですら、どうして人間達が易々とついて来られるのかになかなか気づかなかったほどだった。そもそも、トゥーロンも平均的な人間以上に賢い魔術師ではないのだ。

 ダンカンのような大型の仲間や、特徴的な痕跡を残しやすい蹄を持つ仲間の存在が原因ではないかと皆が気づいた後も、だからといって彼等と別れる訳にはいかなかった。ダンカンがそうであるように、彼等の戦闘力も重要だったのである。

 逃走と追跡の日々が経過するにつれて、一匹、また一匹と仲間が減っていき、その頃にはもうソニアは全く笑わなくなってしまっていた。涙に暮れるか、ボンヤリとしていた。

 ある夜、仲間達と身を寄せ合いながらソニアはトゥーロンに尋ねた。

「……わたしたち……わるいことしたの……?」

トゥーロンは、血管の網目模様走る蒼褪めた冷たい手でソニアを抱き寄せ、真紅の目で彼女を見下ろし、そっと(かぶり)を振った。

「……何も。我々は……ましてやソニアは……何も悪いことはしていないんだよ。ソニアはいい子だ」

ソニアは涙に濡れながらトゥーロンの体に顔を埋めた。

「なんで……なんで……」

トゥーロンに大した説明は出来なかった。世界情勢と世の(ことわり)を解するほど賢くはなかったし、さりとて『人間は非道な種族なのだ。憎め』と簡単に言えるほど愚かでもなかったのだ。ただ、「こういう事もある」としか言えず、ソニアはいい子で、今でも皆がソニアを好きであるということしかハッキリ告げてやれることはなかった。


 逃げる一行は、他の魔物集団に遭遇することもあった。人間に追い立てられている同じ身として、一時的に一種の連帯感があり、情報交換などして協力しようとするのだが、今度は逆にソニアがいることで彼等から仲間が非難され、何故そんな奴を一緒に連れているのだと責め立てられた。その非難が直接ソニアの身に降りかからぬよう仲間達は守ったが、魔物達と意見を戦わせようとはしなかった。結局早々に別れ、彼等の領域を侵さぬように進路を取るしかなかった。

 幼いながら、自分がその原因であることを理解したソニアは訊いた。

「……わたしがいるのは……いけないの?」

トゥーロンはダンカンの背上で移動しながら、これだけは言った。

「……彼等が人間を嫌って、憎んでいるからだよ」

自分が皆の中でもトゥーロンに近い体を持ち、それでも同族ではないらしいことはソニアにも自然と解っていた。そして一瞬だけ見た人間の戦士たちの姿は、自分やトゥーロンの方に近いものがあった。

「わたしは……にんげん(・・・・)なの?」

今まで、仲間それぞれに個性があるという程度にしか種族というものを意識していなかったソニアが、初めて自分の属す種類を考え始めた瞬間だった。

人間というものは自分達の脅威であり、魔物達に憎まれていると知った今、トゥーロンに安易な発言は出来なかった。考慮して彼はこう言った。

「……そう見られる姿をしているのは確かだよ」

「……トゥーロンは……にんげんじゃないの?」

彼は優しく笑みを浮かべて頭を振った。

「いや、私は暗鬼族という一族に近い種類だ。人間は私より肌が白いんだよ。ソニアのように。ソニアの肌が綺麗な色をしているから、人間だと思われるんだ」

その言いぶりには何の責めもなく、友愛だけがこもっていたが、ソニアは哀しくなった。

「トゥーロンのようになれたらいいのに……」

トゥーロンは「そんなことを言ってはいけない」と優しく窘めてソニアの頭を撫でてやった。口にこそ出さなかったが、彼は、自分達こそソニアのようになりたいと思っているのだと告げてやりたかった。


 長い逃走期間を経て、ソニア達は砂漠越えもしたし、大河も越えた。しかし魔物退治の風潮は治まっておらず、行く先々で血気盛んな人間の戦士と戦わなければならなかった。

 度重なる戦闘の中で観察したソニアは、本当に自分が誰より人間に近い姿をしていることを思い知った。トゥーロンの言う通り、彼のような肌色の者は人間の中に一人として見られなかったし、人間の肌色はソニアの方に近かった。そしてトゥーロンの耳は先が尖っていて長いのだが、人間のそれは丸くて存在感はあまりなく、ソニアのものも、そのような形をしていたのだ。

 ソニアは笑わなくなっただけでなく、口数も減っていった。


 ある日、彼女の姿が消えてしまい、皆は森中を必死で探した。

 彼女とよく隠れんぼをして遊んでいたナキーマは、幼子の足取りを容易に捉えて彼女を見つけた。ソニアは木の上に隠れて一人泣いていた。トゥーロンに降りて来るように言われても彼女は従わず、言葉の話せるナキーマが代わりに話を聞いてやった。

 ソニアの言うことには、自分が皆といる限り、皆は魔物達のいるもう少し安全な森へ入って行くことが出来ず危険な目に遭うから、ここで別れようということだった。

 トゥーロンはパッチに木の上まで上げてもらい、自らソニアを迎えに行って抱き上げてやった。以前なら自分の言うことに従わなかった時には小言を言ったものだが、彼はそうせず、涙の出ぬ真紅の瞳を震わせて彼女をただあやした。

 こんな幼い少女がここまでのことを言うのに、どれほどの苦悩があったのだろうと思うと、とてもいたたまれなかった。こんな少女が一人でどうやって生きようというのか。あれほど快活で輝いていた子が、どうしてこれほど苦しまなければならぬというのか。

 そして、彼女の意図を知った仲間達は改めて、彼女無しで生きることなど考えられない自分に気づかされたのだった。トゥーロンはじめ皆は、ソニアに離れるつもりはないことを言って聞かせ、少しばかり安全な森へ行くより、ソニアと一緒にいる方がずっといいのだということを教えてやった。


 それから間もなく、彼等はとある森でハンターの大集団に出くわしてしまった。慌てて逃げる間にパッチは射られ、ナキーマも射られ、ダンカンの体の陰にいたソニアとトゥーロンだけが矢の攻撃から助かり、そうしている間にもハンター達は集まってきて、とても逃げ切れぬ状態になってしまった。

 トゥーロンは決断し、ダンカンにソニアを連れて逃げ切るよう命ずると、幻の霧を発生させて一人足止め役となって飛び出し、最後に一度だけソニアに腕を掲げて愛を一杯に表現した。

「トゥーロン!」

ソニアの叫びの中、彼は霧の中に姿を消し、ダンカンは泣きじゃくる彼女を乗せて全速力で走り抜けて行った。


 それから、遂に2人きりとなってしまった大蠍と少女だけの旅が始まった。

 ダンカンを倒せるほどの戦士は然々(そうそう)いないので、遭遇しても逃げ切ればどうにかなったし、出遭わないよう気をつけて進んで行く限り、簡単に死ぬことはなさそうだった。もはや身代わりになる誰もいないので、ダンカンは責任の重さを実感して必死で逃げ続けた。

 小さな少女は、親代わりだったトゥーロンも失ったことで、遂に《戸惑い》は《怒り》と呼べるものに変わって積極的に闘いに参加し、魔法で追跡者を攻撃するようになり、最後の仲間であるダンカンを守る為に力の限り人間に火炎を投げつけた。

 砂漠で大嵐に見舞われ一歩も身動きが出来なくなり、ダンカンの関節に砂が溜まり込んでどうにもならなくなった時、あまりの悔しさにソニアは嵐が止まることを必死で願った。

 すると、2人の周りだけ風が穏やかになって砂の打ち付けも弱まり、見えない壁が出来たかのように守られて助かった。ソニアが、風を操るということを覚え始めた最初の出来事がこれだった。

 それからは、山火事に出遭っても2人はうまく風で炎を退散させて回避することが出来たし、荒野の熱波からも身を守ることが出来た。

 目撃されることは少なくなり、稀に出会う人間は大概戦士で、彼等に闘いを挑んでくるので殺してしまった為、大蠍と、その背に乗り魔法を使う少女の噂は、極一部でしか流れなかった。年端もいかない小さな少女が狂暴な魔物と共に行動しているなんて、どうせホラ話だと思われて誰も信じなかったのだ。

 山を越え、谷を越え、安住の地を探して旅をする2人だったが、何処に行っても討伐隊はいるし、大蠍の足跡と見るや生かしてはおけぬと後を尾けてくるので、足を休められる日はなかった。


 ある夜、いつものようにダンカンの傍らで寄り添ってソニアが寝ていると、追跡してきた戦士3人の集団が突如現れ、無防備な所を狙ったのが功を奏して、硬い殻のないダンカンの足の付け根関節部分に剣を突き刺すことに成功した。ダンカンは絶叫し、ソニアはパニックを起こして辺り構わず滅多やたらに火炎や氷炎を投げつけて戦士達をたじろがせた。

 ダンカンは剣が刺さったままの体で立ち上がり、前足でソニアを摘み上げると残る足で闇雲に森の中を走り、追う戦士をソニアが尚も魔法で撃退して足止めをさせた。あまりに立て続けに火炎を投げつけたので森は燃え出し、ソニアが恐怖から後方に向かって風を起こしたこともあって、あっという間に森中に火が広がり、山火事から脱出するように2人は火を背に走り続けた。

 ソニアが止まってと言ってもダンカンは決して止まらず、未だ剣の突き刺さる体で血を流しながら、避難場所を探して逃走し続けた。

 そんなダンカンがようやく足を止めたのは、傾斜の高い山を目の前にした時で、この足ではこれ以上進めないと悟った時だった。

 ソニアはすぐに地に降り立ち、泣きながら剣を両手でしっかりと握って、ダンカンの甲羅に足を掛け、幼子の非力な力で引き抜こうと奮闘した。ダンカンは座り込んで低い唸り声を苦しそうに上げている。彼女の、不運に挑む叫びと共に剣はどうにか抜け、ダンカンが痛みの悲鳴を上げた。その声がソニアの心を裂いた。

「ダンカン……ダンカン……」

ソニアは夢中で攻撃し続けた為に、魔法の余力が残り少なく、それでもその全てを使って彼の傷を治療した。こんな酷い傷は見たことがなかった。血が止まり、どうにか傷が塞がって、そのまま2人してそこで泣きながら眠った。

 翌朝、集中力が戻って再び彼の傷を治療したが、もはやそれ以上回復することはなかった。毒が塗られていたのか、傷口から感染したのか、ダンカンの体内はゆっくり蝕まれていった。

 血痕が地表にあるのでその場を離れなければならず、ダンカンは病んだ体を引きずって山を登り、越えて行った。

 ソニアは、もうその頃には人間を憎み、呪い始めていた。そして同じ姿をしている自分のことも呪わしく思った。しかも、そんな自分だけがこうして無事で生き残っていることが腹立たしくてならなかった。

 小川の近くに来て、ソニアが手ずからその水をダンカンに飲ませた時、水の旨さにホッとするようにダンカンはそこに崩れ、一歩も動けなくなった。言葉の話せない彼だったが、大きな頭の両端にある円らな黒い瞳はソニアの姿をジッと捉え、しきりに謝っているのが感じられた。

 ソニアは泣きながらずっと彼に寄り添っていることしか出来ず、横たわるダンカンの右隣で寄り掛かり、背に乗ってみたり、左隣で寝たりと決して彼から離れず、何度も回復を試みたり話しかけたりした。余力のある内は微かな声を出して時々応えてくれていたのだが、それもやがて聞こえなくなった。

 そしてある朝、ソニアが眠りから目覚めた時、彼はピクリとも動かなくなっていた。

 体を揺すっても起きず、触覚をいくら乱暴に動かしても何の反応もなかった。彼女が追いつめられてくると呼び掛けと動きは激しくなり、その時、触角の先がポキリと折れてしまった。悪ふざけをしていて前にもこんなことがあったが、ダンカンは痛がったし、トゥーロンが治してくれた。しかし今はもう、身じろぎ一つなかった。痛いという声も出ない。

 ソニアはその触角を握り締めたまま呆然とし、何の声も出なくなり、ただ涙だけが止めど無く流れて、力が抜けていき、そこに座り込んだ。そしてダンカンの体に寄り掛かり、見るともなしに森に目をやった。

 これから何をすれば良いのかなど、たった4つの子に何が判るだろう?

 ソニアは頭の中が真っ白になって、そこにいることに気づいた小枝の青い鳥を見た。尾の長い綺麗な鳥が森の珍客を見下ろしている。前だったら、そんな鳥を見つけた時にはきっと追いかけていたソニアだったが、今は何も感じなかった。その余地が何処にもなかった。

 ソニアは泣いて、泣いて、泣き疲れてそのままダンカンの遺体と共に眠った。

 ダンカンの体は半日で冷たくなり、一日が経ち、二日が経ち、それでもソニアは呆然とただ死体と共にいた。時折小川の水だけは飲んだが、後は何も口にする気力がなかった。幼子の顔は青ざめ、目からは光が失せていった。



 アイアスは、自分の疑問を解く為の旅を続けていた。

 文献を求めたり史跡を訪れたりしているうちに、彼は自然に世界中を廻る道を辿っていた。人間世界の知識だけでは限界があるので、ヌスフェラートの文字や言葉も研究して、ヴィア・セラーゴに再び侵入しては書物を探したり、ヌスフェラートを装って同族に近づき話を聞いてみたりもした。

 『天使』というものを知れば知るほど世界の知識は深まり、彼の博識さに磨きがかかっていった。だが、どんなに『天使』のことを知っても、自分が実際にそれなのか、ただの人間なのかは結局判らず、悩みは晴れず、彼は孤独なままだった。

 大戦から立ち直ろうと人々は新生活に励み、土を耕し、家を建てている。彼は戦士アイアスと知れると面倒なので、いつもフード付きのマントで身を隠してその光景を眺めていた。どんなに悩みが晴れずとも、人々に平和や笑いが戻ってきたことは、彼のしてきたことに意味が感じられる嬉しいものだった。例え自分が『天使』であって、もうすぐ天に召される運命だったとしても、この点においては悔いがない。


 中央大陸ガラマンジャ中西部の森林地帯の村を訪れた時、彼はそこである村人に声を掛けられ、今後のちょっとした転機を迎えることになった。農夫や漁師というより、城勤めの学者風の男がアイアスを呼び止め、こう言った。

「戦士の方とお見受けします。しかも若いなりで単独の旅とあっては、かなりの腕をお持ちなのでは? その腕を見込んでぜひお願いがあるのですが、聞いて頂けますかな?」

何時でもさしたる急ぎの用はないアイアスだったので、いきなり邪険にはせず、礼儀正しいその男の話を一応聞いた。

「この先の商道から外れたクレオ山の方へ、大きな蠍の魔物が子供を攫って行ったのが目撃されているんです。そんな魔物がこのまま野放しにされていたら、人の味を覚えてきっとまた人里にやって来ます。何とか探し出して退治してもらえないでしょうか」

それは確かに良くない話だ、とアイアスも思った。ただ魔物を目にしただけで大騒ぎする人間も多いので、それだったら引き受けなかったかもしれないが、この話が本当なら、それは真に性質(たち)の悪い魔物と言えた。それに、まだその子供が生きていることもあり得る。

 男は謝礼を払うと言ったが、アイアスは受け取るつもりのないままに話を引き受けた。

 手荷物は肩に下げた革袋と背に負う剣だけの軽装のアイアスは、村の外れからすぐ始まっている商道を北に進み、半日近く歩き進んでクレオ山が見えてきた所で商道を外れ、そこから道なき道を森の中へと入って行った。

 大蠍などの重量のある甲殻類が本当にこの辺りを通ったのなら、彼に判らぬはずがなかったので懸命にその痕跡を探した。足跡は地中深く穿たれているだろうし、森などでは低木や下生えが折れて巨体の通り道を明らかにしているだろう。

 しかし、そういったものは一向に見当たらなかった。まさかこんな時に人騒がせな嘘をつくわけもあるまいし、何より話をした男は至極まともで真面目にものを言っていた。誰かが見たというのなら、子供のことは見間違いだったとしても、大きな魔物がいたのは本当のはずである。だが、種類が違っていたとしても、それらしき足跡はなかった。

 一体どういうことなのだろうと思った時、目の前を青い鳥が横切り、鳴きながらクレオ山の斜面に向かって飛んで行った。通り過ぎる際、その鳥の黒い目と目が合ってそれが印象に残り、アイアスは気の向くまま鳥の飛んで行った方角へと足を運んで行った。途中、何度もその鳥を見つけ、森の濃い緑と幹の黒さばかりの暗色の中に、枝に留まる鮮やかな青い姿を認める度にそちらへと進んで行った。

 そして最後に、ここだと言わんばかりにアイアスを見据えて鳥が留まっていた枝の下に、それを発見した。これまでにもそういった不思議な導きを幾度となく受けてきた人だったので、今回もその流れを察知して従ったまでなのだが、まさしくこの鳥はここを案内しようとしていたようだ。

 男の話通りの大蠍がそこで寝ている。

 だが、アイアスは一目でそれが既に亡き者となっていることを判別した。このような甲殻類の魔物は、生きている限りここまで胴体が地に馴染んでいることはない。死後何日か経って内側の腱が朽ち、しかも長くここに居た為に重量で沈み込んでいったのだろう。

 これが話の大蠍かどうかは判らないし、まだ他に個体がいるのかもしれないので、これで仕事が済んだわけではない。だが、その死骸があまりに物悲しかった為か、彼はこれ以上の探索をする気が失せてしまった。多くの戦闘と死を目にしてきたせいで、これが自然死ではないことの見分けがついたし、必死に逃走した末の無念の死であることが読み取れていたのだ。アイアスはいかなる死にも尊厳を持ち、哀れな死者には心痛む優しい男だった。彼はそこで目を伏して、ほんの一時この大蠍を悼んだ。

 そうして、そこで初めて彼はそこにいる別のものに気づいた。大蠍の、巻き込むように折り曲げられた前足の陰に、小さな子供が寄りかかっていたのである。アイアスは目を見開いた。やはりこれが話の大蠍と子供なのだ!

 だが、冷静で柔らかい頭を持つ彼は、一秒ごとにそれがどうやら聞いた話と微妙に違っていることに気づいた。この大蠍の朽ち様から比べると、この子供はまだ生ける者の体をしている。攫われ、殺された後でこの大蠍が死んだのなら、この子供の姿はもっと悲惨なものになっているだろう。だが、そうではない。衰えてはいるが、死んでいたとしてもせいぜい昨日今日のことに見える姿だ。

 アイアスはゴクリと喉を鳴らして恐る恐る近づき、その子供の鼻と口元の前に軽く濡らした指を差し出した。

 息をしている。――――――この子は生きているのだ。

 アイアスはこの事実に驚いて、すぐには手を出せず考え込んでしまった。動けない訳ではないような、怪我の様子も死体に挟まれている所も見受けられない子供なのに、この少女はここにいる。自ら望んでこの死体の傍にいるのだ。そうとしか思えなかった。

 そして、最近別の村で耳にした小さな噂を思い出した。人が話しているのを一度聞いただけで、その者達も会話の中では本気にせず、それ以降何処の場所でも聞くことのなかった、あまりに些細な噂。巨大な蠍に乗り、自らも魔法で応戦するという子供の話を。

 これはきっと、その噂が本物であった証なのだ。この子供は拉致されたのではなく、心からこの魔物と行動を共にしていたのだ。そうでなければ、こんな風に縋りつくように寄り添って離れぬことなどあるだろうか? この大蠍は、この少女にとって家族同然であったのに違いない。こんなに衰弱して、一体どの位ここで過ごしていたのだろう。

 アイアスは感動に胸震わせながら、一目で少女と判る美しい顔立ちをした、髪の長いその子供をそっと腕に抱いて、蠍の腕の中から体を出してやった。この大蠍から引き離すのは可哀想にも思えたが、体の無事を確かめねばならない。

 一通り調べたが、傷も目立った打撲もないようだし、病気を患っているような肌の発疹もない。食事を摂らぬことが主な衰弱の原因のようだ。家族を失った悲しみも、さぞかしこの小さな子の全てを痛めつけたことだろう。

 アイアスはマントを脱いで敷き、その上に少女を寝かせて包んでやり、枝を集めて火を起こした。彼が抱き上げても少女は目を覚まさなかったので、衰弱はかなり酷いようだ。

 アイアスは野宿用の鉄製のコップ類を取り出して小川の水を火で温め、持参している固いパンを戻してドロドロにし、その中に乾し肉を出来るだけ細かくちぎって掻き混ぜていった。

 そして、出来あがったそれを人肌に冷ましてから少女の口元に運び、そっと唇を濡らしてやった。そうすると、まだ意識のないままに少女は自然に唇を動かしてそれを嘗めた。それを見てアイアスは安心し、少しずつ口の中に泥状の食事を流し込んでやった。寝ながらでも呼吸をするように、少女は欠伸を飲みこむ要領でゆっくりと口を動かして療養食を受け入れていった。自力で食べられるのなら、大丈夫だ。アイアスは微笑んだ。

 なかなか目を覚まさぬ子供を眺めながら、彼は様々なことを考えた。この子供はどうしてか幼子の時分にこの魔物と暮らし始めたらしい。こんな魔物が人間の子供を可愛がることがあるなんて、思ってもみなかった。だが、狼に育てられた子供の話や、ゴリラに育てられた子供の話は文献で目にしたことがある。この子もそういった事情でここまでやって来たのだろうか?

 最初は人間と思ったが、汚れの下に見える髪色はこれまでに見たことがない。このような人間もいるのだろうか? しかし、気になるのはその色だけで、後はいたって普通の人間の体つきをしている。間違ってもヌスフェラートの類ではない。

 この大蠍に致命傷を与えたのは、世の状況から察せば人間のはずなので、この少女が小さな体に人間への憎しみをどれほど蓄積させているかを考えると、胸が痛んだ。

 この現場から読み取れる様々な事情が一つ一つ強烈でアイアスの心を刺激し、彼はその場から動かず、ただ少女の目覚めを待った。多少人間離れした色彩を持つ少女の事情に、謎に悩む自分の孤独な心が反応して共鳴しているのを知り、まだ瞳の色も声も知らぬ美しい幼子を、自分の手で助けてやりたいものだと思うようになった。


 夜半、闇の中で焚き火の炎に照らされ橙色に浮かび上がる世界で、少女はようやくボンヤリと目を開けた。アイアスの姿に目を留めたが、完全に覚醒してはいないようで、恐れも身構えもせず、ただ彼のことを見ていた。

 アイアスは、これが彼の一番の魅力なのだが、誰が見てもホッとするような柔らかで温かい笑顔を見せて、少女に言った。

「……もう大丈夫ですよ。何も心配することはない。安心して……ゆっくりおやすみなさい」

その魔法は少女にも効いたようで、アイアスが手を伸ばしても逃げようとはせず、彼に頭を撫でられていると、再び目を閉じて眠りについたのだった。


 翌朝、ソニアがハッキリと目を覚ました時、彼女はすぐそこに若い男がいるのに気がついた。まだ心の方は麻痺していて体以上に重かったが、男がずっとそこに居たのはどこかで覚えていた。

 男は、今までどの人間の戦士も見せたことがないような瞳の輝きをソニアに向けた。それを見ていると、あれほど人間を敵として戦ってきた後でも、不思議と警戒心は起こらなかった。男が漂わせている穏やかな雰囲気も、目に見えぬ肌触りのいいコートを羽織らせたように、ソニアの体を柔らかく包んで安心させた。

 男は焚き火の傍に座り、ソニアから程よく距離を開けて微笑みながら言った。

「おはよう、やっと目を覚ましましたね」

男は急に沢山は語らず、ソニアの反応を見ていた。ソニアは男の方に気を取られていたが、やがて周りを見るようになり、すぐそこにダンカンの遺体を発見した。

 ソニアは呆然と亡骸を見続けた。涙はもう出なかった。喪失感があまりに大きかったので、その嵐が過ぎ去った後の荒れ野の状態だった。そこにまだ遺体があることで、ややもするとこれを幻と倒錯させかねない精神に、やはり現実だったのだと思い知らせる役に立ち、ソニアは今一度惨劇をフラッシュバックさせた。一人ここで途方に暮れていた時は、その繰り返しだった。

 だが、今はここに見知らぬ人間の若者がいて、彼女に話しかけてきた。

「……その大蠍(スカルピア)は……あなたの家族だったのですか?」

ソニアは何も言えず、首を振ることさえ出来なかった。言葉や、コミュニケーションに必要な動作の一切を失ってしまったかのようだった。『スカルピア』とは何なのか知らなかったが、彼がどうやらダンカンのことを言っているらしいのは解ったし、話していることを理解していたのだが、頭が働いても、体を正しく動かす命令がそこからうまく伝わらないようで、無反応のままだった。

「あなたに私の話が解るといいのですが……」

男はそう言いながら、驚かせないようにゆっくりとソニアの側に寄って来た。そして隣に座り、鉄製のカップの中に入っている温かいドロドロのものを匙ですくって彼女の口元に運んだ。ソニアは、夢現の中でその匂いを嗅いだ覚えがあった。味も知っている気がした。男はまた優しい目で頷き、「食べてごらん」と言い、それから口を動かして身振りでそれを伝えようとした。ソニアは自分からは動けなかったが、匙が唇に当たってそっと流し込まれると、後は口の中が勝手に動いて、暫く舌で転がされた後、喉を下っていった。

 男は笑みを広げて、実に温かな声で誉めてやった。彼女が良いことをした時、うまく何かを成し遂げた時、彼が変わらず与えつづけることになるものだった。

 男はソニアの様子を窺いながらゆっくりと食事を与え、話し掛けることを続けた。

「私はアイアス。……あなたは自分の名前が言えますか? ……………………そう、それならば、暫く何か別の名であなたを呼びましょう。この大蠍(スカルピア)と一緒にいたあなたは……まるでこの大蠍の子供のように見えてビックリしましたよ。だから『ナル・スカルピア』なんてのが面白いかもしれませんね。『ナル』は子供という意味です。大蠍の子、『ナル・スカルピア』。『ナルス』です。どうですか?」

男は、話し掛けていた方が沈黙よりいい刺激になると考えて喋っていたので、ソニアが理解することは然程求めていなかった。だが、一向に殺意も嫌悪感も見せぬ男にソニアが慣れ、ジッと目を合わせた時、やっと一つ頷くことが出来ると、男はそれを見て、今は口が利けずとも、この子が言葉を理解できるらしいことを知り、満足そうにまた笑った。


 ソニアの体の回復を待って男はそこに留まり、彼女の面倒を見続けた。遺体からは腐臭が漂い始めていたので、とりあえず場所を離れさせたが、彼女の心情を察して遺体が見えぬほど遠くには行かず、そこで野宿をした。

 男はよく話し掛け、彼女が口を利けないので自分のことを多く語り、彼女のことが知りたい時には誘導的に質問して、頷いたり、首を振ったりすればいいようにした。それで、彼女がこれまであの大蠍の他に沢山の魔物らしき仲間と暮らしていたこと、その生活が人間の手によって壊されてしまったことを知った。ソニアの方も、男が旅をしている身の上で、アルファブラという国(この概念を彼女はまだ知らない)から来た人であるということを知った。

 男が、魔法は使えるかと訊くのでソニアが頷くと、彼も何度か頷きながら同情的な眼差しで「そうですか」とだけ言った。魔法というものは、余程修練を積んで極めない限り、念ずるだけで発動させることは出来ず、呪文詠唱による発動宣言が重要なのである。つまり、魔法が出来るということは、彼女が本当は口を利くことができる証拠なのだ。それが、一時的か永続的か解らぬものの、このように失語症に陥るほどのショックに見舞われたのである。男は度々ソニアの肩を抱き、頭を撫で、慰めては、安心させてやろうとした。

 同じ人間の戦士でも、彼でなければこうも早くは回復しなかったろうが、次第に心を開き始めたソニアは、目覚めて2日目の朝、遂に言葉を口にした。

「……ソニア」

男はハッとして、枝を削っていた手を止めた。

「……それはあなたの名前ですか?」

ソニアの頷きを見て彼は喜び、早速『ナルス』に変わってその名で彼女を呼ぶことにした。

「ソニア……良かった。よく頑張ったね。これからは私が一緒だよ」

「……アイアス」

「ああ、アイアスが一緒だ」


 翌朝、アイアスに促されてソニアはその場を離れることを決断した。ダンカンはもはや腐りゆく塊でしかなく、二度と帰ってこないことはソニアの胸によく刻み込まれていた。

 臭気と、集まりだした腐食動物や菌類に取り巻かれているが、比較的まだ綺麗なダンカンの背にソニアはもう一度だけ乗り、顔を寄せて伏せながら最後のお別れをした。回復した証にもう一度だけ涙が零れ、赤土色の甲羅の上に落ちて鮮やかに発色した。

 折って以来片時も離さず持っていた彼の触角の欠片は形見にすることにして、アイアスから貰った小さな巾着にしまい、腰に下げた。

 ソニアはアイアスに手を引かれて、ゆっくりと山を降りていった。

 この時代、同じように家族を失い、憎しみと復讐の岐路に立たされている子供は幾人もいたが、アイアスと出遭ったことで、ソニアは人間を憎む運命から逃れることが出来たのだった。この出遭いと、これからの旅が、彼女の後の生き方を決めることになる。そしてアイアスもまた、ソニアと出遭ったことで少なからず影響を受けることになるのだ。

 ようやく20歳にならんという若き英雄と、たった4つの幼い少女は、こうして朝霧立ちこめる森の中、旅立って行ったのだった。


 子連れの旅はアイアスの歩みの速さを損なわせたが、それでも回復すれば、ソニアは足のしっかりしたすばしこい頑強な子供だった。生い立ちから納得はいったが、それでもアイアスにとっては日々驚きの連続だった。彼女は1つだけでなく8つもの魔法が使えたし、強風に飛ばされぬよう岩棚に身を隠そうとした時には「大丈夫」と言って行軍を続け、未知の技で風を遮ったのだ。彼女はそれを自分でやったと説明した。

 ソニアの方も、良き教師がいることで、自分達が人間のハンターに追い詰められるに至った背景を徐々に理解していった。彼女にとっては、これこそが仲間の理不尽な死に対する心の整理の助けとなった。

 まず、ヌスフェラートという一族がいて、それが人間達を酷い目に合わせ、魔物達も人間を沢山殺した。だから人間は、ヌスフェラートのことも魔物のことも大層憎んでいる。今度は、怒れる人間達が、これ以上仲間を殺されぬよう反撃しているのだ、という簡潔な構図にしてアイアスはソニアを納得させた。

 彼と一緒に初めて人間の村を訪れた時、そこで戦士――――大概は体格のいいヒゲ面男――――以外の普通の人間達をソニアは目にした。老人、子供、女性、戦闘向きでないヒョロリとした男。アイアスがいたから落ち着いていられ、観察するうちに、確かに人間の皆が皆、戦士の男達のように狂暴でないことは解るようになった。

 ちょっと変わった髪色に目を止め、その顔の愛らしさに気づいた婦人や老人が「あら、可愛い子だこと」と笑顔を見せたりする。それはソニアを見る時に森の仲間達がする反応に似ていた。彼女のなりがあまりに薄汚れていたので、始めのうちはアイアスが人攫いの男なのではないかと訝しげに見られたのだが、ソニアがよく懐いているのを見ると疑いは晴れていった。

 予想以上にソニアが人目を引くことを知ったアイアスは、彼女にこう言った。

「私のことを名前で呼ばないように。『お兄さん』と言うんだよ」

「……『おにいさん』てなに?」

「……家族……一緒に暮らしている仲良しのことを言うんだよ。ダンカン達のように」

そう言うと、ソニアはよく解ったようで、見事にそれ以降彼を『おにいさん』と呼んだ。アイアスはまだ身分を知られたくなかったし、彼女との間柄を人々に理解させるのにもその方が好都合であった。幸い、似てはいないがアイアスもいい顔立ちをした若者だったので、どちらか一方が醜面であるよりはしっくりいった。

 アイアスはこれまで通りの旅をすることで、ソニアに人間世界をゆっくりと教えていった。食べ物の違い、住処の違い、生まれて初めて見る煉瓦造りの直線的な建物や、扉という動くもの。馬車、水車、ベッド、色んな服、加工された穀物、お菓子という果物よりも甘いもの。

 大きめの街で彼は湯屋を訪れ、水浴びしか知らなかったソニアに温かい水に浸かる風呂というものに入らせた。石鹸という、植物の油から作られた不思議なもので体中を擦られ泡が立ち、それがフワリと宙に浮いて飛ぶのを見るとソニアは笑った。彼女の心の回復をアイアスも喜んだ。 

 地方によって多少入り方は違うものだが、中央大陸海岸沿いのそこでは大きな木だらいに湯をはってその中で体を洗い、最後に汚れていない湯で頭の上から全部流して落とすというのが一般的だった。

 色々教えるアイアスも一緒で、裸の付き合いはソニアの心を開かせるのにも役立った。ずっと兄弟姉妹のいなかったアイアスも、日に日に歳の離れたその幼子に他人以上の情が湧いてくるのを感じていた。

 ふと、アイアスの背にある赤いシミのような痕に気づいてソニアは尋ねた。ギクリとしたアイアスだったが、彼女との特殊な関係のせいか、隠さずに初めて本当のことを他人に教えた。

「……解らないんだ。怪我をしたのかと思っていたけど、違うらしい。だから、今調べているんだよ。でも、内緒だよ」

ソニアは、この願いをよく守った。

 服も洗って身なりの整ったソニアは、ますます人目を引いた。焼けていても地の白い肌は普通の人々より明るい色をしていたし、ルピナス色の直毛も流れるようで美しかった。変わった色である為に遠方の外人かと思われることが度々で、中にはやはり異種族なのではないかという警戒の色を覗かせる者もいたのだが、彼女のあどけなさと美貌がその反応を和らげていたし、アイアスと2人は兄妹であると知ると、あぁそうなのかと皆すぐに安心した。警戒心も人間の特徴だが、見たいように物を見ることも人間の特徴の一つだったのだ。

 そして、己の抱いている不安に近しいものをいずれ彼女も持つに違いないとアイアスは思うようになり、そんな時の為に彼女を守る方法を見つけておかなければならないと考え始めたのだった。

 ある時驚いたことには、一夜の宿を提供してくれた僻村の夫婦が、ソニアのあまりの愛らしさに、ぜひ引き取らせてくれないかと申し出てきた。彼等は大戦で子供を失っており、ソニアもまた家族はお兄さん一人だけだと言ったので、若い身空で子連れの旅の生活も大変だろう、と提案したのである。

 瞬間的にソニアはアイアスと離れたくない気持ちで一杯の瞳を震わせて彼を見たし、彼の方も自分にそんな気が更々ないことを知って軽く衝撃を受けていた。冷静で分析的な面の彼は、どう考えても普通の子ではない彼女を普通の家に預けてしまうのはまだ早く、色々な事を教え、学ばせてやらなければならないと思っていたし、感情的な、気持ちそのものの面を素直に見れば、そちらの彼はまだ彼女を失いたくないと思っていた。幼子とは言え、特殊な悩みと孤独を抱えていた彼が、初めて見つけた真の兄妹なのである。

 アイアスは丁重に断って夫婦に謝り、ソニアには「一緒だよ」と言って安心させてやった。


 村から村への旅で戦いが起きれば2人は闘い、その中でソニアは多くを学んだ。魔物と戦うことには抵抗のあった彼女も、本当に手のつけられないほど狂暴な魔物が向こうから襲いかかってくるのを何度も目にするうちにアイアスを援護するようになったし、それによって、人々が魔物を恐れるのを本当に納得していった。彼女が知っていた仲間達は本当に特殊で、殆どの魔物は皆、狂暴で危険だったのだ。人間の盗賊にも出会ったし、そんな時にはアイアスと共に勇敢に敵を退散させた。

 アイアスは様々な戦術に対応できる動きの基礎を教え、いずれ使えるに違いないと、あらゆる魔法を見せて使い方や危険を説明し、ソニアは次々と吸収していった。

 ソニアは既に、この世にたった一人の家族としてアイアスを愛していて、彼に誉められる為にはあらゆる事をしたし、努力を惜しまなかった。そして、夜眠る時には野外でもベッドの中でも縋りつくように彼に寄り添って、服を掴んだまま寝た。彼の腰ほども身長のない幼い子供がそうして彼を頼りとして健気にくっついているのは、なんとも愛らしいものだった。

 だが、自分の謎と未来を考えた時、いつまでもこうしてはいられないと解っていたし、いつか別れなければならない時が来るので、あまり情が移りすぎると後々双方辛くなると、アイアスは自分を戒めるようにした。

 しかし、これほど自分に懐いた子が別れる時、この子は一体どれほど悲しむのだろう。

 自分にはずっと世話をしてくれた父、母がいたから辛い目に遭わずに育ってこられたので、この子の不運と幼さと孤独を思うと、アイアスは実際に踏み切れるか心配になった。

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