第4部25章『奇跡の護り』13
ルークスは、緑深い樹上から彼女を見ていた。息を潜め、気配を消して。彼は、彼女が目覚めるのを城に近い森の中で待ち、その姿を一目でも見ることができたら立ち去るつもりでいたのである。
だが驚いたことに、夜明けと共に彼女は目覚めただけでなく、突然城から飛び出して自分を必死で探し始めた。名を呼ばわり、出て来てくれと叫ぶ。
彼はそれから逃げるように、しかし距離が開けば後を追うようにして彼女の姿を見失わないようにし、彼女を観察し続けた。
今や彼女は樹下に倒れ、哀れに1人泣きしている。
彼女を心から愛し、大切に思う。だからこそ、彼女を見る度、彼は昨日のおぞましい惨劇を思い出してしまい、臆病なまでに姿を現すことができずにいた。どんなに彼女が望んでも、側に行って視線を交わす資格すら自分にはないと思うのだ。
でも、彼女はひたすら自分の名を呼び続け、走り回り、彼が現れぬ嘆きで哀れなすすり泣きまでしている。
その姿は不思議でおそろしくて、でも、あんまり哀れで心痛むから、彼はそれ以上見ていられなくなった。自分のせいでこの人が泣くのは、もう耐えられない。
「……どうして……どうして泣くんだい」
葉擦れの音に混じって彼の声がようやく聞こえると、ソニアは泣くのを止めて顔を上げた。声は、何処か高い所から響いてきた。彼は樹の上にいるらしい。
ソニアは立ち上がり、彼がまだ自分の声の届く所にいてくれたことを感謝して辺りを見回した。相変わらず気配は消されており、鬱蒼と茂る緑に阻まれて姿を見ることもできない。
「あなたが……行ってしまうからよ。ルークス」
彼が気配を消しているのは、見つけて欲しくないからだ。それを解ったソニアは、無理に姿を探そうとはせずに、ただそこに立って答えを待った。
傷を負った者の、痛みに耐える繊細な声が返ってきた。
「オレは……いてはいけない。君を傷つけてしまった。体も……心も。君の側にいる資格はない」
「あれは事故よ! あなたが望んでそうしたのではないわ! 私がそうなるようにしただけ。あなたのせいじゃない!」
「…………」
「お願い! 出て来て! 何処にいるの?」
彼は尚も緑の塞の中に身を潜め、緑風までが彼の気配を遮り隠した。彼が少しも納得していないことが伝わってくる。
やがて、彼は言った。
「……体は……そうかもしれない。でも、心は……君の心は……オレが望んで傷つけた! 君が悲しむことも、苦しむことも承知で……解っていて傷つけた!」
「心……? 何のこと?」
「君の兄さ! 英雄アイアスだ!」
ソニアは愕然と風に靡かれ、そこに立ち尽くした。そして彼の繊細なまでの心優しさを改めて思い知らされた。
彼がどれ程、自分を人間の世界から引き離そうとしていたかはよく知っている。そんな彼が、情報として知り得ていたのであれば、アイアスの死を最後の武器として使ったのは当然のことだった。本当に相手の命を助けたいと思っていたら、遭えてこれくらいの傷は与えようとするだろう。それで決心してくれるだろうと期待するのなら、憎まれるリスクを負ってでもそうするだろう。
だが彼は、そのことすらも己の罪と認識し、自己を責めているのだ。怒りに任せた暴力でもなく、考慮した上での一撃だったのだが、それを今でも咎と捉えているのだ。それは、そこまでして彼女を大切に思い、助けたかったことの表れでもある。
ソニアの胸が熱くなった。
「そいつと一緒に逝ってしまって……もう二度と戻ってこないのではないかと……オレはおそろしくなった。でも……君は今、そうして無事でいる。……良かった。本当に」
彼がこのまま言葉を続けるとしたら、次の言葉は『さようなら』だとソニアは思った。その途端、彼女の心は彼を失う恐怖に震えた。
自分こそ、彼を傷つけたのだ。その償いをまだ何もしていない。彼にしようと思っていたことの何一つも、まだ実現していない。
「――――――お兄様のことはいいの! あれは本当にもういいの! これまで、何処でどうしているのかさえずっと知らなかったから、お兄様のことを知って、そのお陰で踏ん切りがついたもの! お兄様のことばかり考えちゃいけないって! もっと、生きて周りにいる人達を大切にしなきゃいけないって! だから、感謝しているくらいよ! 逆の立場なら、きっと私も同じようにしてたもの! このことはもう気に病まないで! お願いだから、どうか出て来てちょうだい!」
答えはない。さよならを言うタイミングを探しているように感じられて、焦りと不安が広がっていく。彼を引き止め繋ぎ止める為には、もはやひたすら本心を打ち明けて懇願するしかなくなった。
「私だって……あなたが傷つくと解っていて騙し続けたのよ……! そしてあなたは傷ついてしまった……! どうか許して……! あなたが私に言ったことを気に病むのなら……そして私を許してくれるのなら……どうか私に償いをさせてちょうだい! お願い!」
己の非力さと絶望感に凍えるようにして、ソニアは己が肩を抱き、涙を零して搾り出すように言った。
「あなたが……大切なの……! あなたが行ってしまったら……私……」
罪の意識や義務感だけでなく、深い同情から生まれた、胸からこみ上げてくる熱いものが彼女を突き動かしていた。彼と彼女を結ぶ空間以外は闇となり、その間を光の矢が通り抜けて行ったあの時のように。彼女を飛び込ませようとした、あの力。他の誰にでもそうしようと思えるわけではない、彼の為だからこそ生まれた力。
「オレが大切……? オレがこれ以上君の側にいても……何の役にも立たないぞ。皇帝軍は止められない」
「それは解っているわ! この国が攻められることは覚悟している! あなたに居て欲しいのは……この国の為じゃない! あなたの為……そして……私の為……!」
「オレと君の為……? 国を守ろうと命を捨てる君が……?」
この国を守る為に騙されただけに、彼にも彼女の心の真実は完全に理解できてはいなかった。
「私が飛んだのは……国を守る為にあなたを止めたかっただけじゃない……! あなたが大切だったから……絶対に殺したくなかったから……命を懸けてもいいと思ったの」
彼女の心が光の粒を生み、それを風が乗せて木々を揺らした。その風を浴びた彼の心が和む。
「お願い……! 行かないで……!」
ふいに、乾期独特の突風が吹き過ぎていき、木々が大きく揺れ動き、滝の近くにいるような轟音が辺りに満ち、やがておさまった。
風が、彼を隠していた塞を取り払ったかのように気配が背後に感じられ、ソニアは振り返った。離れた所にある大木の下に、そうしていいのかまだ戸惑っている様子で彼が立っていた。太陽の下に出てはいけない闇の生き物が、光の中にいることを躊躇うように。
そして彼女を見るその目は、今も熱く震えていた。
「ルークス!」
ソニアは駆け出し、木の根を飛び越え、彼の心の境界を飛び越えて彼に飛びついた。そして逃げないように、しっかりと彼の背を抱いた。
「良かった……! あなたが本当に行ってしまったら……どうしようかと思った……!」
愛しい者が自分を探し求め、この胸に飛び込んでくるということの素晴らしさを、生まれて初めて彼はかみしめていた。その資格があるかどうかという迷いは未だにあるものの、体も心もその悦びを素直に味わい、思わず溜め息が漏れる。
そして彼も手の中の槍を放り出し、彼女を両腕で抱き締めた。もう二度と傷つけることのないようにと祈りながら、ゆっくりと。
「ソニア……」
もう自分は完全に彼女の虜であり、彼女が望む限り、彼女から離れることはできないと悟った。そして、自分に命を懸けてくれたこの娘が存在する喜びと、その命を救ってくれた奇跡をあの女神に感謝した。
「君は……あの時兄の姿を見ているようだった。本当に……彼が迎えに来ていたのか?」
「……いいえ。私が見たのは幻だったわ。兄を探して彷徨って……こんなに帰りが遅れたの」
「……見つかったかい?」
「……いいえ」
彼は、これで少しは償いができるのではないかと安堵の吐息を漏らし、そして言った。
「本当は……皇帝軍にはもう一つ別の情報が入っているんだ。どうやらアイアスが甦ったらしい、と。それを……君に言わなかった。どうかオレを許してくれ。望みを……捨てないでくれ」
それを聞き、ソニアは瞳を輝かせて彼を見上げた。アイアスが生きているかもしれない喜びだけでなく、あの夢の中で母が言っていたことと符号する驚きと、彼の優しさへの感動が綯い交ぜになり、一気に胸膨らんだのだ。ソニアは彼の胸に顔を埋めた。
「オレは……主を裏切れない。皇帝軍の一員だ。この国に他の大隊が攻め入ることが判れば、事前連絡くらいはできるが……手は出せない」
「それでいいわ。……あなたの立場はよく解ってる。善いとか悪いとか……そういう問題じゃないもの。誰かに仕えるというのは……そういうものよ」
「……君を守れない」
「……いいの。あなたと戦うよりよっぽどマシよ。私は、私の役目を果たすだけ」
主に対する忠誠と同じくらい強い力で、彼はソニアのことを守りたいと切望していた。だが、彼女が今の立場を変えない限り、それはできない。そして、力や説得で彼女に立場を変えさせることができないことも、もう身に染みてよく解っていた。
彼女を守るということは、属する人間世界も守るということに他ならない。それは決して……有り得なかった。彼が心に負う憎しみと悲しみの故に。それはあまりに巨大で獰猛な魔物であり、いくら彼女の為とは言え、易々と退き消え去るようなものではないのだ。
その不条理な切なさを身の内に抱えつつも、彼は今この瞬間の光を心の底から味わった。光の帯が幾筋も森に射し込み、朝靄が立ち上っていく静寂の中で、2人はそうして長いこと抱き合っていた。
風に運ばれ漂ってくるクローグの香りは、今の彼にはどこまでも甘く、愛しかった。
暗い夜の部屋で、彼は1人物思いに耽っていた。
山と並べた本に向き合う気にはなれず、昼間見た幻のことが忘れられなくて、ずっとそのことばかり考えていた。あの強烈な痛みは、心の奥底に秘めた彼女への想いが声の代わりに上げた叫びだったのではないだろうか。今となっては、彼はそう思う。天真爛漫で失礼この上ない人間の娘のことは、すっかり忘れていた。
今行っていることは、以前から計画されていた極秘のものであるが、それとは別に、彼にはつい最近生じたある挑戦を実行することへの願望が育っていた。
できるだけ早く実行してみたいと思うのだが、それについても知識的な準備が必要だったこともあり、すぐには取り掛かることができず、ズルズルと時機を見る結果となってしまった。
だが、昼間あの痛みに襲われ、その後で幻を見てから、彼は行動に移す時が来たことを悟った。それが叶えば、他の事は全てどうでも良くなるのだ。無かったことになるのだ。
そこで彼は、身支度を整えるとその部屋を出、薄暗い廊下を歩き庭園に出ると、人目がないことを確かめてから夜空に飛翔した。人里を離れるまでは、目立つから流星術は使わない方がいい。
そして十分に都市を離れてから、彼は流星となり、遠く彼方へと飛び立っていった。
行く先は、地下世界の秘境である。