第4部25章『奇跡の護り』7
「――――――ご無事ですか?! 閣下!」
町民の避難誘導に従事していた町の兵士3人が駆けつけた時、戦闘はすっかり終わった様子で、国教会の下に軍隊長が立っていた。何事もなかったかのような涼しい顔をしており、纏う鎧には傷一つ無い。
兵士の姿を見ると、軍隊長は微笑んだ。
「敵は退散した。もう大丈夫だ」
「退散?! 凄い! 良かった!」
「ありがとうございます! 軍隊長様!」
「もう戻ってくる様子もないから、町の人を呼び戻してもいいよ。家屋の被害や怪我人の状態などを後で報告するように。私は城に戻って人員を手配しよう」
「はい! お願いします! こちらのことはお任せ下さい!」
3人は揃って敬礼し、すぐさま実行に移って走り去っていった。
軍隊長はそれを見届けると、崖の道を登り、森へと入っていった。
商道沿いの木立の中に戻ると、そこには木の下でルークスが座っており、腕の中のソニアをひたすらに眺めていた。その様子を、全装甲姿の軍隊長が見下ろし、溜め息をつく。
「……参ったな……」
ディスカスは杖状の奇跡の護りを預かって背に負い、自分の馬とソニアの馬両方の手綱を引いている。アトラスはソニアのことを心配そうに見守り、首を下げては息を吹きかけていた。
実はあの後、すぐに問題が起こったのだった。ソニアは目覚めなかったのである。肉体の傷はすっかり消え、生気も戻ってきているというのに、幾ら呼びかけても反応が見られず、覚醒呪文でもその眠りを解くことができなかったのだ。
すぐに対処しなければ人に見られてしまうので、取り急ぎセルツァが魔法で変化してソニアになりすましているところなのである。
今尚、彼女はルークスの腕に抱かれ、瞼を閉じたままである。
「どうしたものか……」
はっきり言って、途方に暮れていた。この場の誰も、彼女を目覚めさせる術が思いつかないのだ。セルツァはソニアの姿を模したまま頭を掻き、ウロウロと歩き回る。
ソニアの髪をそっと撫でながら、ルークスはひたすら彼女の身を案じていた。確かに彼女の体は温かく、傷も癒えて、その傷痕は軍服に残る斜めの裂け目だけなのだが、一体何が悪いというのか。
「彼女は……大丈夫なんだろうか……」
3人は3人ともが複雑な事情で姿を偽ったり消したりしていたところを、こうして思わぬ形で鉢合わせすることになったのだが、なんとなく成り行き上、今の所は行動を共にしているだけで、きちんと互いの自己紹介もしていなかった。そんな事をするまでもなくハッキリとしていることは、皆がソニアを守ることを目的としており、人間ではないということだ。今はそれだけ解れば十分だった。
セルツァは、実に久々に見たエアの麗しい姿にまだ感動しており、エアがあのようにして娘を助けたのだから問題はないはずだと信じているのだが、この状況をどう捉えればいいのかだけは、どうにも頭を悩ませた。呼び戻しに関する知識が他の2人は薄かったように、この現象をセルツァが理解できないのであれば、他2人はまず解るわけがない。
「思い当たることと言えば……」
セルツァがそう言うと、2人はハッとして彼を見た。しかし、そこに立つ軍隊長姿があまりに完璧だから、何度目か知れず、またドキリとしてしまう。ソニアがしないような仕草で腰に手を当て、口元にも手を添えながらその辺を徘徊し眉根を顰めているので、そこにだけ彼らしさが表れている。
同じ術者として、これだけ見事な変化術ができたらどんなにいいだろうと、ディスカスは憧れの目でそれを眺めた。今の自分がソニアに変化したとしても、この半分も巧くはいかないだろう。エルフが、エルフの血を引く娘を演じているのだから、それもいいのかもしれない。
セルツァは立ち止まってソニアの脇にしゃがみ、その様子をもう一度よく見た。手を顔の前に翳すなどして、何かを感じ取ろうとしている。
「……そうか。そうなのかもしれない」
不安一杯の顔で、ルークスが彼を見上げる。
「……何なんだ?」
「生気はある。肉体は確かに生きているんだが……どうやら、魂が戻ってきていないらしい」
「魂?」
「……生きている者が、術などによって魂抜けすることがあるんだが、その状態によく似ているんだ」
「彼女の魂が……まだ何処かに行ってしまったままだと……?」
「ああ」
セルツァは頷くと立ち上がり、少し考えてから、まずディスカスに目をやった。もう日は傾いているから、早く行動しなければならない。
「とにかく、この状態がいつまで続くか判らないから、まずは人間達に怪しまれないよう、彼女を連れ帰る必要がある。このままでは人目に触れさせるわけにいかないから、今日のところは私がこの姿で城に帰ることにする。おい、ディスカスだったな。彼女の供として一緒に戻れるな? そうしないと、いろいろ怪しまれることになる」
ディスカスは少しの迷いもなく頷いた。
「私の方が幾分かあの城の内情を心得ている。君を補佐しよう」
彼としては、未だ目覚めぬ彼女の身が一番の気懸かりであるのだが、事の隠蔽もまた重要であった。誰にも気づかれずに彼女を元の生活に戻せるのなら、今回起きたことを主に報告しないで済むからだ。
そこで、セルツァとディスカスの2人は、彼女を無理のない形で元の生活に戻すということで意見を一致させ、協力を約束し合った。それが彼等2人のそもそもの使命でもある。その使命遂行の障害があるとすれば、今そこに座って木に寄りかかり、彼女を腕に抱いている厄介者だけだった。
セルツァはルークスを改めて値踏みした。ルークスの姿からはすっかり牙が抜け、殺意や攻撃性の欠片はどこにも見当たらない。超常的な神秘を体験し、女神によって全ての負のものを吹き飛ばされたかのように、清々とした顔をしている。違う格好をしていたら詩人や音楽家なのではないかと思える程に、今の彼には繊細さと優しさばかりが表れていた。実はこれが、この男本来の姿なのではないだろうか?
セルツァは目を細めた。先程自害しかけた時に彼に見えた美しさは、確かに備わっているようだ。
エアはこの男を救った。死なせまいと、自らの手で短刀を奪った。そしてソニアもまた、身をもってこの男を止めようとした。どちらともが、彼の死を望んでいない。
そしてこの様子なら……二度とこの男は彼女にもこの国にも刃を向けないだろう。他の国のことは知らないが、それはどうだっていい。
「……おい、ルークスとやら。事情はよく知らんが……お前の起こした騒ぎで、危うく彼女を永久に葬るところだった。本来ならば……我等一族総出でお前を屠るところだ。だが……お前を殺すなという彼女のたっての願いと、お前を救った彼女の母親の霊魂に免じて、今日のところは見逃してやる。もう、二度とこの国で人間に刃を振るうな。それが結局彼女を傷つけるのだから。もしもの時は……その命、ないものと思え」
ルークスは黙ってそれを聞き、ほんの少しの怒りも見せずに、ただ彼女を傷つけることをおそれる繊細さだけをその眼差しに表して、ひたすら彼女を見ていた。彼の服も彼女の軍服も黒いのだが、陽射しの中にいるせいか、ソニアの白さと彼の金髪がやけに映えて、その姿が眩しく感じられる。
「……もう、沢山だ。オレは……何もしない」
その呟きが、彼の心を全て物語っていた。《何もしない》という言葉は、セルツァには《何もできない》という風に聞こえた。
セルツァはフッと笑むと、ソニアよりはやや不慣れな調子でアトラスに乗った。アトラスは全ての事情を心得ているようで、抵抗することなく彼に騎乗を許した。そしてセルツァがアトラスの耳元で何か囁くと、白馬はますます落ち着いたようだった。エルフは動植物との疎通に長けているのだ。
「その言葉を信じよう。今しばらく、彼女をお前に託しておく。城のことを片付けたらすぐに飛んでくるから、それまで彼女を護っていてくれないか?」
「……ああ。だが、心配無用だ。受け取りに来る必要はない。オレが城まで彼女を運んでいく」
それについて、セルツァは暫く考え込んだ。完全に信頼していいものか、少々迷う。
そこへ、ディスカスが近づいて来てセルツァに耳打ちした。
「彼がどうしているかは、いつでも私に解る。様子がおかしければすぐに知らせよう。城に近づけばそれも判るから、後は私が誘導する」
それなら問題あるまいと考え、セルツァは頷いた。
「わかった。お前に任せる。彼女の部屋は、城の南側にある。南側の城壁に近い森まで来たら、そこで待機していてくれ」
そしてアトラスをルークスの目の前にまで歩ませると、そこで止まり、ルークスをジッと見た。
「頼んだぞ。その方は……お前さんだけでなく、多くの者にとって大切な方なんだからな」
ルークスは無言で目を閉じ、承諾の意を示した。
セルツァとディスカスは馬を城下街に向けて進め始めた。日の沈まぬうちにいろいろと片付けなければならない。軍隊長と、その従者として、できるだけ堂々として見せながら道を歩んでいく。その姿は、クローグに彩られた白い商道へと消えていった。
小鳥の囀りと風のそよぎが心地いい静かな木陰で、ルークスは腕の中のソニアをずっと見つめていた。
起きた出来事があまりに衝撃的だったから、本当に彼女が助かったのか度々信じられなくなり、そうして腕に抱き温かみと鼓動を感じていないと、また恐怖にかられそうだった。
苦しみも悲しみもない彼女の寝顔はとても安らかで、陽射しの中にあっては、まるであの女神のようだった。
これほど温かくて、愛しくて、貴重なものは他にはない。
彼女の重みは彼に罪悪感を思い起こさせたが、それと同時に胸が絞めつけられるほどの喜びも感じていた。
この重みは、そのまま彼の負債である。彼はどこまでも、それを負うつもりでいた。
《負債》と書いて、本当は《あい》や《よろこび》と読むのではないだろうか。
そんなことを思いながら、彼は美しき負債を抱き続け、嵐が過ぎ去った後の凪いだ海原のように穏やかな心持ちで一時を味わった。
彼に神はなかった。
だが、今では光輪を戴く女神と、その娘を崇拝し、深く愛していた。