第4部25章『奇跡の護り』6
ディスカスとセルツァの嘆きをよそに、ルークスは首をもたげてソニアの美しい死相と向かい合っていた。竜時間をかけずとも世界は2人だけのものとなり、もはやどんな雑音も彼の耳には届かず、そこは静寂に包まれていた。
オレは……もうダメだよ。遂に愛する人まで殺してしまった。
オレは……炎で焼かれたい。全身を、粉々に打ち砕かれたい。
何十年でも……何百年でも……それでも足りないくらいだ。
君のような……尊い人を殺してしまうなんて……。
……オレは呪われている。生まれた時から。愛する人は皆、苦しんで死ぬんだ。
その呪いが……君を殺してしまったんだ。
許してくれ……。……いや、許さなくていい。
オレを許さなくていい。どうか憎んでくれ。
その方が……どんなにか楽だろう。
こんな時でも、血に塗れた彼女の顔は、彼に微笑んでいるように見えた。
憎んで欲しいのに……君は……最後までオレに笑うのか……? ソニア……。
ルークスはソニアの頬の血をそっと優しく拭い、撫でた。
……ねぇ、あの誓いを覚えているかい? ソニア。もう一つの誓いを。
君の予言通り……君は死んでしまった。
だからオレも……オレの誓いを守るよ。
ルークスは指で彼女の瞼をそっと閉じてやると、自分も目を閉じ、彼女の冷たくなった唇に最期を告げる接吻をした。
「お前……」
彼女の死体に触れるルークスの行為を不快に思ったセルツァが引き剥がそうと寄ったが、それより早くルークスが起き上がり、懐から短刀を抜き出して自分の喉元に突き当てた。
「――――――来るな!」
セルツァは目を剥いた。
「お前……!」
ルークスの表情はもう落ち着いており、覚悟した冷静なものだった。涙と血で顔が汚れており、しかもこの男のことを良く思っていないのに、セルツァはこの瞬間、その姿を美しいと思ってしまった。
とても真っ直ぐな眼差しと心のこもった声でルークスは言った。
「……オレが死ねば、槍を封じている力が失せるかもしれない……! もう一度試してみてくれ……! 後は頼んだ……!」
ルークスは両手でしっかと短刀の柄を握ると、目を閉じて最後の祈りをした。
先立つことを、どうか許して下さい、師匠……!
母さん……オレは、もうここでこの呪いを断つよ……!
ほんの一瞬のことだった。
瞬きほどの僅かな時間で彼がそう祈った時、瞼の向こうが燃え上がった。強い閃光が射し込み、瞼を通しても彼の目を眩ませる。
ふと気づくと、誰かが自分の手に触れているのを感じた。手が動かせない。
ルークスが目を開いてみると、そこは一面眩い白光の世界になっていた。
突然発生した強烈な光にディスカスは慄き、セルツァは呆然とそれを見ている。
光の源は、ソニアが纏う鎧だった。炎よりも太陽よりも眩しい超新星の輝きを放って、そこで星になろうとしている。
やがて鎧は形を失い、光そのものとなり、周囲に溶け込んでいった。彼等を含むその一帯が光の霧に包まれる。
そして皆が、水飛沫のような光の粒を肌に浴びて、何とも言えぬ清涼感と温かさを感じた。
この輝く霧の中には、もう1人別の人物の姿があった。
ルークスはその人の姿を誰よりも間近で見た。その人は彼の手を握り、喉を突かせまいとしているのだ。
それは、純白の長衣を纏い、頭上に冠の如く虹色の光輪を戴いている女神だった。
一瞬、彼はそれがソニアだと思った。
だが、よく見ると違った。彼女によく似ているのだが、その人はもっと華奢で、細長い耳を持っていたのだ。正真正銘のエルフなのだ。
そのあまりの神々しさと清い波にすっかり心奪われ、ルークスは全身の力が抜けた。
「……エア……」
セルツァが思わず呼びかけると、女神はふとそちらに顔を向けて微笑み、それからまたルークスと向き合うと、慈愛に満ちた眼差しで首を左右に振って見せた。全ての動作が、時の流れを緩めるようにゆったりとしており、この霧の中にいる者は皆が時の感覚を失った。
女神は、すんなりとルークスの手から短刀を取り上げると、ゆっくりと立ち上がった。彼女の足下には光の波紋が広がっている。まるで輝く水の上を歩いているようだった。
そして一足毎に光の波紋を広げながら後退していくと、彼女は光となって虹の光輪だけが形を残した。光は集束を始め、一所に寄り集まり、その輝きを更に強めて目を開けていられないほどのものになった。皆は顔を背けた。
そのピークを境に光は徐々に落ち着いていき、光は脈動するように強弱を繰り返しながら、その呼吸を鎮めていくように薄れていった。
強光の為に目が眩んでいた3人は、暫く辺りの様子が判らなかった。特に暗黒属性のディスカスは強い光に弱いので、閉じた瞼が開けられない。
そして彼は、もしかすると噂の、我が主の母君の御姿をこの目で見てしまったのかもしれないと思い、密かに打ち震えていた。そうだとしたら、あまりにも素晴らしい。
そして、あれほど母君に会いたがっていた主より先に自分が目撃してしまったことを申し訳なく思った。
ようやく正常な視界を取り戻した目で、ルークスとセルツァはその変化を目の当たりにした。
ソニアがそこに軍服姿で横たわっている。彼女を包んでいたあの鎧は何処にも見当たらない。そして、その彼女を囲むように3つのものが三角形を描いて地に突き刺さっていた。
1つは彼の槍で、鎌は閉じられ、先端の金属部分が見えている。もはや地中深く潜ってはいない。そしてもう1つはルークスの短刀で、もう1つは見たことのない杖だった。
不思議なことに、彼女をあれほど塗れさせていた血糊は跡形もなく消えており、その名残らしきものもなくてスッキリとキレイな肌と服をしていた。そしてルークスの体からも全ての血糊が消え失せていた。まるで、全てのことが無かったかのように。
暫くは、誰も動けなかった。
安らかに、胸元で手を重ね、ソニアは横たわっている。
ようやくセルツァが夢から醒めたように首を振って、ソニアに駆け寄った。そして彼女の首筋に手を触れた。
温かい……! そして脈がある……!
セルツァは安堵の溜め息を漏らし、そして2人に向かって言った。
「――――――生きてるぞ!」
立ち上がることのできないルークスは這いずるようにして近寄り、彼女をよく見た。ソニアの頬には赤味が差し、その胸はゆったりと上下し、確かに呼吸をしていることを示していた。
ルークスは目を閉じ、深く、深く吐息し、そこで地に伏した。
感謝します……! 感謝します……! 女神よ……!
そしてセルツァが止めようとするのも無視してルークスは彼女の身を起こし、ギュッと抱き締め、決して離さなかった。
ディスカスもといディスパイクは、あまりの安堵にそこで気が抜けてしまい、遂に正体を露にして転がった。予想以上の奇怪な姿にセルツァは驚き眉を吊り上げたが、今はそんなことより喜びの方がずっと勝っていたので気に留めなかった。
ルークスを引き剥がすのも無理そうなので、まぁいいか、とそれも許してやり、セルツァは立ち上がって天を仰ぎ、感謝の言葉を捧げた。
「感謝を……! 天に……! そしてエアに……!」
ルークスの目からは熱い涙が流れ、ソニアの肩を濡らした。
他の何を失っても、この手の中にある温もりを二度と失うことのないようにと祈る。一度失いかけたからこそ、彼にはよく解った。彼の手の中にあるものは……彼の生命だ。
彼女を取り囲む3人の者と、3本の武器。
最後の1つは、先端に女神の像が象られた青白く輝く杖だった。
《奇跡の護り》
この類稀なる防具の奇跡を初めて目の当たりにしたのは、ソニア本人ではなくこの3人の者達だった。
日が傾き、国教会のトライアス像の影は、ソニアを抱くルークスの肩に下りていた。剣持つ腕と、その剣の影が彼を貫いている。
それは癒しの腕か、或いは裁きの剣か。
その様を、杖の女神像だけが見守っていた。