第4部25章『奇跡の護り』5
3人の男達が、押し黙ったまま、おそるおそるやっとのことでそこに近づき、囲んでそれを見下ろした。
背面から墜ちたソニアの身体は、槍によって地面に釘付けにされた状態になっていた。
地に落ちた時の衝撃で、鎌の刃が彼女を更に斬り裂き、刃が地上に持ち上がっていてもよさそうなものなのだが、何故か不思議なことに鎌の刃は地中深くに潜ってしまっているようで、彼女の身体は自然な状態で大地に横たわっていた。その腹部から突き出している柄の長さを見れば、深さがかなりのものであると見て取ることができる。
その場に腰を抜かしてくずおれ、地に真っ先に伏して嘆きの叫び声を上げたのはディスカスだった。頭髪だったものはすっかり無数の蛇に戻り、黒い靄が体中から溢れ出ている。
「ああああぁ……! 何てことに……! お許しを……! お許しを……!」
彼は役目を果たせなかったことを主に詫びているのだが、他2人にはそんなことが解るはずもなく、またどうでもいいことなので気にも留めず、ディスカスが蹲って号泣する中、無言で立ち尽くしていた。
落ちる時まではしっかりと柄を握っていた彼女の両腕は、墜落時の衝撃ですっかり広げられ、標本にされた蝶の様な格好になっている。全身が鮮血で染まり、その背面からも刻一刻と紅い血の海が広がっていった。
国教会の尖塔上に立つ女神像の影がすぐ隣に射し込み、その形が今の彼女と重なって見えた。女神像もまた両腕を広げているのだ。片方の腕には剣を持ち、もう片方の手には羽を広げた鳩を乗せている。平和の象徴と、それを守る為の剣だ。
生気を失い、意志の消え失せた彼女の瞳はうっすらと天を見上げ、まるで微笑んでいるかのように薄く開かれた口からは血が溢れ、流れていく。それが一滴、一滴と地に落ち、乾いた大地を湿らせていった。ますます広がっていく紅い海はルピナス色の髪を飲み込み、沈めていく。
血の臭いが、目の前の光景が真実であると彼等に告げていた。
ずっと震えていたルークスは、更にわなわなと肩を激しく震わせ、ガクリと膝を折り、背を屈め、その無惨な血人形の脇に手をついた。そして針の山にでも触れるようにそっと手を伸ばし、指の先を彼女の手首に乗せてみた。
まだ温かい。だが、それが次第に冷えていくのが解る。残っている温もりは、生きていたことの残像のようなものだ。
あまりにおそろしくて、まだ涙すら出る余裕のないルークスは、そこに過去の思い出を重ね見ていた。デレクのことが頭を過る。『そこに母さんがいるんだ。迎えに来てくれたんだよ』と言って逝ってしまったかつての友。ソニアもまた、誰かの姿を見ていたようだった。
逝ってしまった。
彼女の声が何処にも聞こえない。
母もデレクも彼の腕の中で死んだが、今よりはまだ良かった。何故なら、彼は殺していない。
こんなに愛しいのに。愛しかったのに。まさか、この自分の手で。
『この誓いは……血の誓いです』
どちらかが必ず傷を負い、死にまで至ると彼女が言った通り、この血の誓いによって、彼女の方が命を失ってしまった。
しかも、血の海の中で。
世にも憐れな呻き声が、彼の口から漏れた。あまりに辛くて痛くて苦しくて、とても号泣なんてできない。息をするのがやっとで、その呼気にも吸気にも何万という針が含まれているかのようだった。布を裂くような嗚咽が、今の彼には精一杯だ。
そして彼は血塗れの彼女の手を取り、額に当てて突っ伏した。ようやく涙が堰を切って溢れ出し、次々と流れ伝い血を洗い流していく。
「ぁぁぁぁぁ…………死ぬなァ…………死ぬなァァ…………」
地べたに伏せってしまったディスカスとルークスのことを尻目に、セルツァは彼自身も荒い息を吐きながら激しく心乱しつつも、頭を振って懸命に冷静さを取り戻そうとした。
今この2人はイカれてしまっている。自分がしっかりしなければならない。
だが保護者として、見知った愛する乙女のおぞましい姿は、歴戦の魔術師であるとは言え、彼の思考能力を著しく低下させようとしていた。
その無の侵蝕を振り切ろうと、彼はもう一度頭を振り、声を上げた。
「……落ち着け! お前達! 嘆いたって何にもならん! 日没までにはまだ間がある! 彼女を蘇らせるんだ!」
それを聞き、地面に顔を押し付けるようにしていたディスカスが顔を上げた。涙が出ない代わりに顔の造形が少々おかしくなっている。
「そ……そうだ! 蘇生だ! 魂魄の呼び戻しを……!まだ望みはある……! だ……誰か呼び戻しのできる者をここへ……!」
「この町にはもう誰もいない。皆、逃げちまったよ。それに……お前さんは先に落ち着いて、まずその頭を何とかした方がいい」
セルツァにそう言われてハッとし、ディスカスは頭に手を当てた。
セルツァは彼女を貫く武器の柄に手を掛けると、彼女に一礼してから体を跨いだ。そして柄を握る手に力を入れて引いてみた。
「ん?」
セルツァは首を傾いだ。もう一度引いてみる。そして懸命に抑えていた動揺が少し露になった。
「…………おかしい」
この言葉で、額を血だらけにしたルークスが涙目のまま顔を上げ、セルツァと目を合わせた。
「抜けない」
「えっ……?」
「槍が……これが抜けないんだ」
もう一度、セルツァは身を低くして渾身の力で柄を引いた。歯を食い縛ってこめかみに血管が浮き上がり、かなりの力を入れているのだろうと判る姿だ。
しかし、2人に見守られながらそうして暫く唸っていたが、武器はビクとも動かなかった。セルツァは息を切らせて手を離し、一旦引き下がった。
「ダメだ……! なんてこった……」
彼は明らかに混乱し、視線を泳がせながら頭を抱える。
「どうしたんだ? まだ何か問題でも?」
ディスカスはまだ頭髪が元に戻っておらぬ頭でそう訊いた。プロミネンスのような黒い霧が不安そうに膨らんで彼の体から放たれ、また体へと戻っていく。
「……解らないのか? ……いや、お前達のような奴等は殺すばかりだから知らないのだろうな」
セルツァの顔色はどんどん蒼白になっていく。そして彼女の腹部から突き出している柄を指差し、それをなぞるように2、3度指を上下させながら彼は続けた。
「こんなものを体に残したまま、蘇生させることはできないんだよ。異物がそのままの状態で魂魄の呼び戻しをしても、生き返ることができない。戻ってきた魂魄が阻害され、肉体の中に入ることができないんだ」
「――――――そんな……!」
ディスカスが代わって柄を引こうと立ち上がり、手を掛けようとするも、そこでルークスが急に起き上がって彼を突き飛ばした。ディスカスはそのまま吹っ飛んで転がった。
ルークスはセルツァと同じように彼女を跨いで柄に手を掛け、あらん限りの力で柄を引こうとした。痩せ型の魔術師の力では無理でも、戦士である自分であれば当然引けるはずだ。
しかし、柄の先は地中深くに潜ったまま、それは本当に微動だにせず、頑としてそこに留まった。ルークスの必死さが増した。
「お前は……オレの槍なんだぞ……! 言うことを聞け……! 抜けろ……!」
彼の問いかけも虚しく、槍は全く動かなかった。下はただの土なのだから、どんなに固く踏みしめられた地面でも、刺さったばかりの物が抜けないのは本来おかしい。まるで鋼鉄の封印具で鋼鉄製の台に固定されたかのような感触だった。
一度力を抜いて息をつくと、そこで彼女の顔が目に入った。今こそ、彼女は笑っているかのように見えた。彼等の努力を嘲り、無駄だと言うように。
ルークスはゾッとし、叫びながら再び柄を引き始めた。
「――――――やめろ! 槍を離せ! 離すんだソニア! 生き返りたくないのか?!」
ルークスがこんなに引いてもダメなのなら、まず無理だろうと悟り、ディスカスはまたそこにヘタヘタと座り込んだ。
ルークスがどんなに心を込めて引いても柄は動かず、それでも彼は諦められなくて泣きながら柄を引き続けた。
顔をどんどん黒くしながら、ディスカスが呟いた。
「これじゃあ……呼び戻しができる者を連れてきても駄目だ……」
セルツァの目にも、やっと涙が光った。この冷静な魔術師がそうするということは、本当に進退極まってお手上げの状態だということを示していた。
「……連れてくる必要はなかった。私ができる。それに……私はアマランタインの滴を持っていた」
「えっ……?! あの……呼び戻しより、ずっと確実に死者をこの世に呼び戻すことができるというエルフの秘薬を?! 何故それを早く……!」
「だが……それを持ってしても……この状態では蘇らせられない……! 同じことなんだ……! 彼女の体にこれが刺さっている限りは……!」
ルークスは柄を握ったままそれに寄りかかり、首を俯けて涙を滴らせた。零れた涙は彼女の胸に点々と落ちていく。そして、微笑みかける彼女に縋るように言った。
「どうしてなんだ……! どうして離さない……! そうすれば……生き返られるんだよ……! ソニア……! お願いだから……この槍を離してくれ……! これを離すんだ……! ソニア……!」
苦々しく目を閉じ、額に手を当て、悔し涙を零しながら、セルツァが吐き捨てるように言った。
「おそらく……彼女は何か願をかけてしまったんだ。魂を込めて。それが何か……お前にはよく解っているだろう……!」
十分過ぎるほどに、ルークスはそれを理解した。彼女が今際の際、自らの体に引き寄せるようにして両手で柄を掴んでいた姿が甦る。彼女は、町と国を復讐鬼の手から守る為、そしてその復讐鬼本人の命すら奪いたくないが為に、身を持って永久に武器を封印しようとしたのだ。
ルークスは柄を持つ手をズルズルと滑らせながら、そのまま体も崩れさせていき、彼女の胸に頭を預け、体を抱いた。
「ソニア…………」
この罪の認識は、かつてない程にルークスの魂を傷つけ、痛めた。
もう、ダメだ。彼はそう思った。
気が遠退いていくディスカスはそこに倒れ込み、転がりながら泣き続けている。
「なんていうことに……! あぁ……! お許し下さい……!」
セルツァは、もっと早く、彼女の躊躇いと願いを無視してでもこの男を殺しておくべきだったと自らを責め、後悔し、それでも今でさえ、彼女の願いの故にこの男を殺せないことで、やり場のない怒りと炎に身を焼いた。自分の力及ばず愛する人を守れなかった上、その娘まで死なせてしまうなんてことは考えられない。
セルツァは亡き人を思った。
「君はまだ、こんな所で死んではならない人だ……! それなのに……どうしたというんだ……?! 天は何をしている……?!」