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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第7章
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第2部第7章『テクト城決戦』その2

 商人の馬車が踏み固めていった轍がくっきりと伸びるこの商道は、進み続ければテクトの首都に至る、トライアとテクトの交易の為に築かれたものだった。トライアから見れば南下する道なので、トライア民は主に『南の道』と呼んでおり、片やテクト民は『北の道』と呼んでいる。

 実際の名称は『カーマイオン同盟街道』で、カーマイオンとは2国の中間点にあるトライア領の地名であり、かつてその村で同盟を結ぶ儀式が行われた為、その名称が使われているのだが、この名を使う人はあまりいないようだ。

 そのカーマイオン同盟街道を、ソニア等派遣部隊は進んで行った。

 トライア――テクト間には大きな森が途中に幾つもあり、それらを全て通り抜けて行かなければならない。早い到着が望まれてはいるが、何分危険な道でもあるし、あまり馬を急かして潰してしまってもならないので、ソニアは慎重に兵士達や馬達の様子を見つつ、駆け足を続けた。

 出発が早かった為、太陽が真上に来る頃には2つ目の森を抜けて、開けた草原に出た。

 気温と地形とを考えて一団はここで小休止を取り、馬の世話をして自分達も食事をした。のんびりと火を焚いていられる行軍ではないので、硬く焼き絞めたパンをガブリと齧り、干した肉や魚や、持ち運び易くて皮の厚い果実を黙々と詰め込んでいった。

 そして、問題が無ければまたすぐに行軍を始めた。馬歩で通常7日かかる道程を、3日間で着こうという計画だ。馬の足が持つ限り、常に歩を進めていなければならない。

 使者が既にテクトに飛び、援軍出発の旨と現在位置を知らせて戻って来ていた。現在、テクトは次の攻撃に備えて冷静に構えているらしい。今のところ攻撃の兆しはないようなので、このまま馬による進軍が続けられそうだった。いざ危機的襲撃を受けるようになったら、数名でも流星呪文で駆け付けねばならなくなる。

 そもそも、何故始めから流星呪文で戦地に向かわないのかというと、これには諸事情があった。

 まず挙げるとしたら、馬欲しさ(・・・・)である。流星呪文によって人を容易く運ぶことが出来ても、馬はたった1頭でも人を運ぶ何倍もの力を必要とする為、かなりの術力を要する。光に置換して移動するにもかかわらず、元の重量というものがかなり影響するのだ。

 また、流星移動自体が大抵の動物には合わず、移動直後から数日間は混乱して暴れてしまい、使いものにならなくなることが多かった。これを理由に、人は動物より優れているのだとする考えが一般的である。

 だから、馬を人数分確保したければ、可能な限り地道に行く必要があるのだ。戦場に馬は欠かせないので、おのずとこうした行軍が生じるのである。

 他にも理由はあり、かつて異大陸における歴史的な戦において、流星術で大移動した軍勢が負けたジンクスから、多くの国が二の次の手段にすることが多かった。現実的にも、戦場にいきなり飛び込むのは危険であるので、好ましい方法とは言えないのだ。

 テクトの状況を知る為に、その後何度も魔術師が飛び、テクト、トライア双方が無事であることを確かめた。トライアは相変わらず平穏な状態で、テクトの方も敵軍が休戦期に入ったのか、新たな襲撃はまだない。

 道中は幾度も魔物に遭遇し、その都度、先頭のソニアが馬上から一発で仕留めて道を空けさせるか、或いは側面攻撃には各兵士が応戦して、なるべく騎馬のまま戦い倒した。余程の事がなければ下馬したり足を止めたりはせず、前進を最優先させた。

 日の傾いた午後半ばには、ここを曲がればデルフィーに行けるという海岸沿いの国道分岐点も現れて、案内の看板だけを横目にして通り過ぎ、主道を進み続けた。


 行軍には危険な闇が訪れるギリギリまで南下を続けた後、街道脇の野原に野営地を決めて、一行はテントを張った。

 そして、徹底して馬の面倒を優先し、十分な飼い葉と人参を与え、ブラッシングやマッサージをしてやり、その後になってようやく兵士も体を休めることができた。

 夜だけは火を起こして温かい食事にありつけ、鎧や武具の具合を確かめ、手入れをしながら少しだけ語らい、そして翌朝早い出発の為にすぐに眠りについた。

 交替で見張りが立ち、魔物達の夜襲に備え、眠る者も多くが剣を手にしたままで、何時でも飛び出せるようにしていた。

 その夜、通常の見張りの者と同じく、ソニアと交替で起きているアーサーは、森の彼方から響いてくる歌声を耳にした。アーサーにだけはその歌声の主が解った。

 見張りの兵士は、陶酔しつつも不思議を言葉にした。

「わぁ……森の魔物か……?」

「……森の何処かから流れて来るのかもな」

アーサーは何食わぬ顔でそう言い、浴びているだけで不安を和らげてくれる爽やかな風と美声にウットリと目を閉じて、心の中で女神の名を讃え、明日の無事を祈った。


 日の出前に準備を整え出発した一行は、またまっしぐらにカーマイオン同盟街道を南下し続けた。休憩と食事を小刻みに入れつつ進む森の道は、よりテクトに近づいているのにもかかわらず、昨日より魔物の出現頻度が少なくなって皆を驚かせた。

 殿にいたアーサーが馬を速めて先頭にやって来て並び、走りながらソニアに言った。

「――――効いてるみたいだな!」

ソニアの顔は複雑そうだった。

「わからないよ。首都に偏っているだけなのかもしれないし」

 現場に着いてみるまで明らかにはならないことだが、その後も暫く順調な行軍が続き、大いに距離を稼ぐことが出来た。

 しかし、昨夜の風が届かなかった範囲に入ったのか、或いは単に危険地帯なのか、突如強力な魔物が現れて一行の歩みは止まった。この大陸では見ることのない巨大甲殻類だ。大きな体で街道を塞ぐように立ちはだかったので、止まらざるを得なかった。

 馬は嘶き尻込みする。この国の最強戦士団である110隊の者ですら、こんな魔物を目にするのは初めてで硬直した。そして同じように国軍隊長までもが固まっているので、尚のこと彼等は戸惑った。

 巨大甲殻類はハサミをカチカチと打ち鳴らして激しく一行を威嚇している。

 いつもなら素早く対応するソニアが何やら様子がおかしいのを見て取ったアーサーは、最後尾から馬を駆り、110隊は剣を抜いて自分達が攻撃しようと構えた。

 馬上のソニアは、110隊員が魔物を取り囲んで急所らしき急所を探す姿を目に入れると、突然雷鳴のような声を轟かせた。追いついたアーサーまでもがビクンと痺れてしまうほどだった。

「――――――やめろ!! 私がやる!!」

 110隊員は剣を引いて数歩後退し道を開け、アトラスから降りたソニアが剣も抜かずに巨大甲殻類に向かって行くのを見た。その顔に鬼気迫る恐ろしさがあって、隊員達は息を呑んだ。

 カチカチと歯を打ち鳴らして威嚇し、ハサミを振り回して攻撃する魔物にソニアは素早く近づいて、あっという間に腹の下に潜り込んでしまった。

 向かってくる敵が突如姿を消したので見失ってしまった魔物は、辺りをキョロキョロと見回すが、死角にいて見つけられず、急に下から突き上げてくる力を感じて、次の瞬間には放り投げられ、ひっくり返されてしまった。潜り込んだソニアが、巨大な腹を持ち上げて街道の脇に放ったのだ。彼女が普段あまり見せない力技だった。剣も抜かないなんて。

 ソニアは仰向けになった魔物にすかさず寄って、触角をギュッと握り、真っ黒い円らな瞳を睨み付けた。

 二度と出てくるな!!

 その心の叫びが電流の様にドッと魔物に伝わるや、魔物は慌てふためき、どうにかこうにか身を起こして森の中へと退散して行ったのだった。

 呆気に取られていた仲間達はそのまま暫く放心して、魔物が遠ざかって行く音を耳にしていた。

逸早く彼女の下に寄ったのはアーサーだった。

「――――大丈夫か?」

 たった今の武勇の後なのに、横から覗き込んで見た彼女の顔が今にも泣きそうに歪んでいたので、アーサーは閉口した。落ち着きを取り戻したディランとジマーも近づいて来る。

「お見事でした……! さすがソニア様……! しかし、何故殺さなかったのです?」

「あんな化物は初めて見た……!」

 小さな溜め息をついて目を閉じたソニアは、哀しみを隠してから皆を振り返り、アトラスの所に戻って行った。

「あれは、大蠍(スカルピア)……。この大陸にはいない魔物まで出て来てるんだね。この先も気を付けて行こう」

「ソニア様はあの化物をご存知だったのですか? 戦ったことが……?」

ソニアは遠い目で前方を見据えて「ああ、知っている」とだけ言うと、再び隊列を率い始めた。アーサーはまだ心配そうに見守りつつも、最後尾に戻り殿を務めた。


 その後も、異大陸の強力な魔物が現れて道を塞がれるようになり、その都度、戦闘を余儀なくされて足が止まり、今までのように易々とは進めなくなってしまった。

 ソニアはこれからの戦の為に、かつて戦ったことがある魔物や、知識として知っている魔物の急所や弱点や戦い方を走りながら教え、戦いながらも教えた。ディラン以下110隊員もその他の兵士も魔術師も、この若い女戦士が何故トライアの頂点に上り詰めたのかを今更ながらに思い知ったのだった。

 3匹の大蠍が出て来た時には、どうにも倒すしか方法がなく、ソニアは110隊に援護させつつも止めは自分にやらせて、長く苦しまぬよう腹部から心臓を一撃で貫いて大蠍達を果てさせた。部下の練習の為には戦わせるべきだったが、これだけはとても見ていられそうになかった。

 大蠍の絶叫が彼女の耳を刺し、胸を裂いて、心を血色に染めていった。


 今日も進める所まで進んだ一行は、ベイルーンの森を抜けた野原に野営し、馬を十分に労ってからようやく体を休めた。

 幸いテクトは、今日一度だけ魔物集団の襲撃にあったものの、規模が小さかった為に持ち堪えたらしい。明日中には着く予定のトライア兵を無理に魔法で急かせるほどではあるまいとテクト王が判断し、急行要請はしなかったのだそうだ。

 ここは既にテクト王国の領域に入っている。この分なら、明日はこのまま騎馬で入城となりそうだった。

 食事を終えたソニアに、アーサーが肩を取って言った。

「……お前は今日、先頭で戦い通しだった。後の指示は俺に任せて、早く休んでくれ」

彼を見上げるソニアの顔には、まだ哀しい影が差している。それでも、焚き火の明かりに照らされた黄昏色の顔と瞳は美しく、彼を安らがせた。

「……ありがとう。アーサーも早く休んでね」

瞳を揺らがせ微笑し、ソニアは彼の肩を叩くと、テントの中へと入って行った。

 皆が眠りにつくまで、彼女はテントの中で蝋燭の炎を見つめて、ただ座っていた。

 かつての大戦のことは知らないが、それが後にもたらした影響と哀しき運命を、彼女は知っている。それを思い出させられ、胸が痛み、涙が出そうになった。

 今も、世界の何処かで人々が死に、国が滅びている。そして、例えこの大戦が終わったとしても、今度は世界の何処かでまたトゥーロンやダンカンのような者が殺されるのだろう。自分によく似た境遇の子も生まれるのかもしれない。たった1人ぼっちの。

 ああ……! 魔物が皆、トゥーロンやダンカンのように正気で穏やかにいられたら……こんなに憎しみ合うこともなく、共存できるかもしれないのに……!


 辺りが静まり、起きているのは見張りの者だけとなった頃、ソニアはテントからこっそりと出て、森の中へ入って行った。

 月明かりに任せて道無き道を進んで行くと、やがて少し隆起した高台に巨木を見つけ、それが登っておいでよと言わんばかりに太い腕を四方に差し伸べていたので、甲冑姿ながらソニアはスルスルと軽く登っていき、月明かりのよく射し込む高みにまで上がって行った。

 周辺の木々より抜きん出ているので、そこまで来ると葉と葉の隙間から星や月光に照らされる樹冠の広がりが見え、ソニアはその枝に腰を下ろして、クローグの花が一際月光に照らされて風にそよいでいるのを眺めた。テクト領でもクローグは街道に咲いている。まだ咲き始めで数は少なくチラホラとだが、後一月もすれば満開になるだろう。

 ここに来て、追憶の哀しみと苦しみにソニアの目から涙が零れ、弦が細く震えるような歌声が胸の奥底から流れ出てきた。苦しみを解き放つことと、歌うことは、彼女にとって同じことだった。

 蒼白いベールに覆われた森の空気が微弱な波に撫で清められていき、一層清涼感を増して、風と共に森の奥にまで伝わって行く。決して声を張り上げていないのに、彼女の心の波は風に乗って何処までも届けられて行った。

 まどろみの中にいた鳥達は夢現に目を開き、その音に耳を澄まし、樹液に寄り集まっていた虫達も、その動きを一時止めた。危険と恐ろしさが何より勝っていた夜の森なのに、風が通った後には何とも落ち着いた幻想的な雰囲気に包まれていく。

 ソニアは森の仲間達を想い、アイアスを想い、この現状に心痛め、夜に細く細く訴えた。独りの部屋で神に祈りを捧げる人のようなささやかさだった。

 見張りの兵士は、何処からともなく響いてくるその美声にウットリと目を細め、テントの中で眠る者は、夢の中で更なる安らぎの深みに潜っていき、馬達はピクリと耳を動かして深い鼻息をつくと、恍惚と眠りの海に沈んでいった。

 この歌の主を知るただ1人の男、アーサーは、馬車に寄りかかって見張りをしながら星空を眺め、愛しい声を聴いていた。

 まだ触れることの出来ない彼女の謎に、この哀しみの秘密があることを感じ、それを何故か憐れに思い、哀しい歌を歌う彼女を哀しんだ。


 吹き抜ける風は、哀しみの強さの故か遥か遠くにまで届き、長窪の森もテクトルの森も抜けて、ハニバル山脈の南端の麓、テクトの都にまでささやかながらにも伝わって行った。


 夜間の襲撃に備えて沢山の篝火を焚いているテクト城。闇の中に浮かぶ落日色の島の如き姿には破壊の跡も生々しく、城壁の3割が崩されて、今も夜を徹しての再建作業をしている。

 城塞外に住まう民は既に城壁の中に避難しており、森と街とを隔てている壁の外側には、もはや生きた人の姿はなかった。2度の大きな襲撃と小規模の奇襲によって民も兵も死に、今やこの城塞都市だけが頼みの砦である。

 謁見室である広いホールが常時王室と作戦室とを兼ねるようになってしまい、この時分でも残兵と将軍、そして王や幹部等が尚も顔をつき合わせて会議を重ね、戦の体勢を整えていた。

 そんな会議が一段落ついたところで王はテラスに出て、風を浴び涼んでいたのだが、ふと耳に入った波に気がついて息を潜め、彼方を見た。

「……美しい……何処ぞで歌っておるのじゃろう、この君は」

 積極的に屋外で指示を出していた王は襲撃時に腕に怪我を負い、巾帯をして、その上から臙脂色のガウンを羽織っている。気遣う侍女と王女の見守る中、王はその音色に目を閉じて、芳しい花の香でも味わうように鼻から深く夜気を吸い込み、首を揺すった。

「お父様、どうかもうお休みになって。こんな美しい()がしているんですもの。魔物達もきっと、この音が続く間はやって来たりなどしませんわ」

 波打つ栗毛と薔薇色の頬が愛らしい王女ロリア姫は、父である王の手を取り、ホールのカウチで横になるよう勧めた。王はわかった、わかったと頷きつつも、もう少しだけここで聴いていたいと言って、また夜気で胸を満たした。並んで立つロリア姫は仕方なさそうに笑い、一緒に耳を澄ませた。

「本当に……何処から聞こえて来るのでしょうね、この歌声は。人間なのかしら」

 侍女も胸に手を当てて天を仰ぎ、歌声の妨げにならぬ囁き声で言った。

「まるで、天からこちらを見下ろして歌ってらっしゃる精霊のようですわ……」

 姫は機転を利かせてそっと指示を出し、ホール内にあるカウチを兵士にテラスまで運ばせた。

 王は大層喜んでニッコリ顔でようやく腰を下ろし、ゆっくりとクッションに凭れて息をつき、ロリア姫が上掛けを被せるのを、まるで子供のようにされるがままにした。

「これなら、歌を聴きながら眠れましてよ」

「ありがとう、ロリア」

困窮の時にあるからこそ、亡き母譲りの細やかさと聡明さを持つ愛しい娘の労わりが胸に染みて、テクト王は満足そうに目を閉じ、また夜気を味わった。ロリア姫はその場に座り込んでカウチに寄り掛かり、一緒に歌を聴き続けた。

「……確かに……まるで精霊のようじゃな。……ワシも、今は亡き母から聞いたのじゃが、人間でもヌスフェラートでも魔物でもない、……いや、人間とヌスフェラートの中間とでも言うべき、ある特殊な種族がいるという言い伝えがあってな。何処ぞの森の奥深くに暮らしているらしいのじゃが……もしかするとこの歌声は、そのような稀なる者達の御業なのかもしれんのう。……何でも、歌や音楽を好む、とても温厚な人々だそうじゃから……」

 吐息し、もう一度だけ身を揺すると、王の体はカウチに沈みこんでしっくりと納まり、実に気持ち良さそうだった。

 兵士達も、聴こえる者は皆、静かに謎の美声に聴き入っていた。

 そして、テクトルの森の魔物達も静かに大人しくその風を浴び、牙も爪も体の中に隠して、まるで無害な毛玉か岩のように丸まり、眠った。

 天に瞬く無数の星々のさざめきは、清い風を讃えて共に歌っているかのようで、波に合わせて光を躍らせた。

 風の中にあるこの世の何もかもが、その瞬間だけ美しさを取り戻した。

「……まあ、お父様、本当にお休みになったわ。……良かった……」

心労の為に長らく休養を取れていなかった王が立てる寝息を耳にしてロリア姫は微笑し、そう言うと姫も、細く長い溜め息をついて、そのまま眠ってしまったのだった。


 ソニアが野営地に戻ってみると、彼女のテントの前でアーサーが待っていた。

「……! アーサー、まだ起きていたの? 皆、疲れて寝ちゃってるのに」

「……それはお互い様だろう?」

アーサーは月明かりの中で優しい笑みを浮かべていた。ソニアも微笑んだ。

「お前の歌を聴いてたら、疲れなんか飛んだよ」

「……ありがとう」

彼女の瞳の繊細な煌き、神秘的な歌声、微風になびく結い髪。彼にとっては、その全てが神に感謝すべき尊いものだった。改めて彼は、この戦いで決して彼女を失うことのないよう、全力で守り抜きたいと願うのだった。

「……ソニア」

彼女は首を傾いで言葉を待ったが、アーサーは何だかはにかんでいるばかりで、やがて視線を落としてしまった。

「……明日もまた……いや、明日は特に気を付けてくれな。本陣へ入って行くんだ」

「ええ、わかってる。後衛もあなたが頼りだから、よろしく頼むよ」

アーサーは頷くと、「おやすみ」と言って自分のテントの方へと戻って行った。

 ソニアはもう一度虹のかかる朧な月を見上げ、明日の自軍の運をトライアスに祈ると、静かにテントの中に入って行った。


 地平線が薄っすらと白み始め、天の中腹にまで光の帯が伸びてきた。まだひんやりとした空気が横たわる森の中では、既に兵士達が準備を整い終えて各自の馬の脇に立ち、鞍のベルトや甲冑の関節の動き具合をもう一度確認しながら、指揮官の命を待っている。

 兵士達の間をゆっくりと歩み出て、ソニアはアトラスの隣に立ち、首筋を撫でてやった。彼女の準備もアトラスの準備も万端整っている。

「おはよう。そろそろ出発するよ」

 兵士達は次々に騎乗し、御者と魔術師は馬車に乗り込んだ。アーサーが騎馬で全兵士の周りを一巡し、一騎ずつ目で点検をした。そして《異常なし》と目でソニアに合図をすると、自分は後衛として馬車の後ろに戻り、ソニアがアトラスに跨った。

「――――今日、遂に我々はテクト戦線の本陣へと入る! 敵と遭遇しようとも、夜が来るまでにはテクト城に到着したい! しかし、昨日以上に困難な敵と戦わねばならないだろう! 皆、心して進むように!」

「オ――――――ッ!」

 いよいよ最後の日らしく、ソニアは天を指し女神の名を叫んだ。アトラスが2本立ちになって嘶き、皆も女神に祈って拳を突き上げた。

 ソニアが先頭でカーマイオン同盟街道に入り、2列縦隊がその後に続く。蹄の音が轟く森の中は、まだ紫色の薄闇の中だ。

 乾期の始まりでも、夜露の降りた朝の空気は濡れており、鎧をすり抜けて体から僅かに体温を奪っていく。商道も若干柔らかくなっていた。蹄の沈み込み深い道を、ソニアは慎重かつ大胆に最適速度を選んでアトラスを駆り、軍を率いて行った。

 日が出て気温が上昇し始め、動物達が活発に動きだした頃になっても、昨晩の歌の影響なのか魔物は一匹も姿を現さず、一行は順調に距離を伸ばしていった。魔物の少ないことをアーサーは1人ほくそえんで得意がり、この状態が続くように祈った。

 木々が高く生い茂っているので見通しはきかないが、着実に首都へ近づいているはずだ。このまま問題なく進めれば、夕刻にはテクト城の姿が捉えられるだろう。


 テクト城は今日も敵軍の襲撃に備えていたが、いつになく魔物達の出現が少なくて、まるで大戦前の平時のように和やかな空気が流れていた。

 城壁の見張り兵は不思議に思いながらも広大な森を見渡して警戒を続け、傷つき城内で看護を受けている者達や、忙しなく行き交う女中達も今日は何故か恐怖心が薄らいでいることを感じながら治療と回復に務めた。午後の時を告げる兵士のラッパが響く。

 城下町では、破損した家屋の壁や屋根を修理する民の姿が幾つも目についた。少年達は道具や土をせっせと運び、少女達は荒らされた植木や花を丁寧に直し、洗濯物は連なってはためき、パンを焼く煙が立ち昇り流れていく。他国の首都と比べれば、この国はまだ被害が少ない方かもしれなかった。誰もがまだ、この戦いに負けまいという意欲を見せているのだから。

 そして、今日には隣国トライアからの援軍が到着する見込みとあって、城内も城下町も心強くしていた。ホルプ・センダーはもっと危機的状況にある国に掛かりきりなので、こちらには手が回らず、外からの援助はトライアだけが頼みなのだ。使者の言葉で精鋭部隊が送られて来ると聞いているので、皆の期待は膨らんでいた。

 活発に蠢く人々の姿をテラスから眺めながら、テクト王は満足そうにロリア姫と語らった。

「人間とは、前向きで強いものだ……。この困窮の時にあっても、このように健気に生きられるのだから。ロリア、よく見ておくのじゃぞ。いずれ、お前が統べる人々の生き様を」

 父王の傷を労わりながら並んで立つロリア姫は、同じように活きている町を見ていたが、その目は父王と違ってどこか沈んでいた。王がこんなことを言うのも、彼女が長年王権を避けていることが理由にあった。1人娘であり、唯一の正当なる王位継承者なのだが、彼女自身は常々戴冠を恐れ、それを口にしていたのだ。

 案の定、姫は言った。

「……お父様、私……やはり女王にはなりたくありません」

「またそんなことを言いおって! お前以外に誰が継ぐというのだ?」

急に声を荒げた為に王は少々咳き込んで、姫の手を掴んだ。

「あぁ……そんなに興奮なさらないで、お父様! お体に障りますわ!」

背を摩って宥めながら、ロリア姫はそれでも首を横に振った。

「私……この頃、特に実感するんです。私には、こんな戦時に人々を率いられるほどの才も格もありませんわ。どんどん自信がなくなるばかり。これだけは……やはり持って生まれた資質というものがあるのではないでしょうか、お父様」

テクト王は、愛娘の琥珀色の瞳(王は赤子の時分より、これを糖蜜色と呼んで可愛がっていた)を憂いたっぷりの眼差しで見つめ、そして俯き、溜め息をついた。

「……ワシでも、あまりのことに参っているのじゃ。お前がそう思うのも無理はないかもしれぬ。だが……おそらく今、世界中の指導者達が同じ苦痛を味わっておろう。今は忍耐の時なのじゃ。お前はまだ若い。……だからそのことは、そっと胸に留めておいておくれ。この戦いを生き延びて静かなる時が来たら、またその時に考えようではないか。年月がその考えを変えてくれるやもしれぬ」

ロリア姫は薔薇色の頬で微笑し、王の差し出した手を取って、引かれるままに腕の中に入った。王は娘をひしと抱き寄せ、皺の刻まれた顔で栗色の髪に頬摺りした。

「必ずや生き残ろうぞ……! そして、元の豊かな国に立て直してからお前に渡したい」

「フフフッ、でも、あまり長いこと待ってはいられませんわ。お父様もそろそろ引退しなければお体に障る歳ですもの」

「おお、言ったな!」

2人は笑い合って互いを強く抱き締めた。何時敵が襲って来るかもしれない緊張の日々にあったが、再生と活動に息づく町を見ている今は、こうして未来を語り合うことが出来た。こんな慎ましく良い国を滅ぼす神がいるとしたら、余程無常な神であるに違いないと2人は思った。


 然したる襲撃も魔物の姿も見られなかった昼が過ぎ、太陽が傾いてハニバル山脈の稜線に姿を隠し始めた。乾期らしい澄んだ朱に一帯が染まる。

 今日の日の終わりというその時、人々の平穏の期待を裏切るかの如く、雄叫びが城塞都市に響き渡った。落日を待っていたかのように、今までなりを潜め隠れていた魔物達が四方の森から押し寄せて来たのである。

 見張りの兵は即座に警戒の花火を打ち上げて、2連式の破裂音で警報を告げた。民は悲鳴を上げて家の中に飛び込み、堅く戸締りをして内側から閂をかけ、棚やテーブルで更に塞ぎ、部屋の奥で一塊になって縮み震え上がった。

 謁見室の王はテラスに飛び出て、衛兵達にガードされながら何が起きているのかをその目で見た。

 最外周の城壁を乗り越えて、身軽な魔物が次々と侵入して来る。獣もいれば甲殻類もいるし、幽鬼や暗鬼らしきものまでいた。特に大型のものは、既に破壊されている城壁の穴を狙ってそこに殺到し、集中攻撃を仕掛けて穴を大きくしてから入り込もうと企んでいる。先日の奇襲より規模が大きい。

「――――――戦え――――――っ!! それ以上侵入を許すな――――――っ!!」

王の怒号と共に兵士と魔術師が城壁の穴に結集して、穴を広げようとする巨大な魔物達に矢や槍や魔法で攻撃を浴びせた。魔物は喚き後退るが、なかなか致命傷にはならず、攻撃の切れ目があるとすぐに最突進した。

 ロリア姫は衛兵に連れられて城の奥深い部屋へと避難に向かった。しかし、いつものように大人しく従わずに、今回に限って彼女は突然踵を返してドレスの裾を掴み、回廊を駆けて作戦室たる謁見の間に戻った。

「何をしているロリア! 早く避難なさい!」

「――――嫌です! 私にも見届けさせて下さい!」

 衛兵が連れて行こうと腕を取るが、姫は毅然とした顔でそれを払い除けて王の側に留まった。

 そうしている間にも、先に城壁を越えて侵入した魔物達が方々で兵士と戦闘を繰り広げ、町に火の手が上がりだした。暗鬼族が火炎魔法を放っているのだ。

 王の制止を無視して姫はテラスから身を乗り出し、攻められる町を目にした。今まで早々と避難させられていたので、我が町がまさに攻撃を受けている光景を見たのはこれが初めてだった。

 これまで言われるままに奥に閉じ篭っていた彼女が、こうして言いつけを破ったことが既にその表れであったが、兵士が裂かれ、吹き飛び、剣と牙の噛み合う音が響く戦場を目にした姫は、自分自身でも驚いたことに、恐怖より先に怒りが沸き立って、王にこう言った。

「私にもお手伝いさせて下さい! 負傷兵の回収と治療なら出来ます!」

 承諾を待たずにロリア姫はスカートをたくし上げて腰でギュッと結びながら走り出し、スリップのレース細工を覗かせる程にして、動き易くなった格好で謁見の間を飛び出した。

 姫の大胆な行動に王は目を白黒させ、衛兵達は普段目にすることのない姫君の滑らかな足に紅潮し、戸惑いながら後を追った。

「――――ロリア! ロリア!」


 姫は回廊伝いに、出来るだけ屋内から戦闘区域に近づいて行った。恐れ、慌てふためく女官や兵士達と幾人もすれ違うが、驚かれようとも呼び止められようとも一切取り合わないでまっしぐらに駆け抜け、途中に立て掛けられてあった長箒を手に取り、頼りないがそれを武器にして城外に飛び出して行った。

 小柄で、昔から足だけは速かった姫を誰も捕まえられず、衛兵達は全装甲の重い体で甲冑をガチャガチャいわせながら後を追い続けて、結局一緒に城外に出てしまったのだった。

 襲撃慣れした民は家の中に閉じ篭っているので一般市民の姿は目につかず、兵士の他には犬猫、収容し遅れた馬や牛などの家畜ばかりが、怯えて鳴き声を上げながらウロウロとさ迷っている。

 猟犬の血を引く勇敢な気性の犬だけは戦闘の近くにまで行って激しく吠え、兵士に加わり魔物に飛び掛からんとしていた。

 姫は、助けられる余裕もなくその辺に転がされている負傷兵を見つけて、脇から腕を差し入れ、小さな体で懸命に引き始めた。その頃、ようやく衛兵が追いついた。

「――――姫! なりません! お戻り下さい!」

「――――お黙り! いいから手をお貸しなさい!」

これまでの姫らしくない鋭い目で、しかし王族らしい威厳を持ってそうピシャリと言われると、衛兵達はもはや従うしかなかった。そして、姫にだけは怪我をさせない覚悟で各々剣を抜いて敵に構えた。

 物陰に運ばれた負傷兵は、姫に治療呪文を施されると立ち上がれるようになり、意識がはっきりとして、治療者が姫君であることを知ると、ひどく恐縮して盛んに礼を言った。

 姫は治療が済むや、即座に次なる救出の為に駆け出した。優秀な衛兵達は、飛び掛かって来たブラック・パンサーを槍と剣で仕留めて姫の警護に務めた。

 燃える家屋の消火にも当たらねばならない。負傷者も増え続ける一方だ。

「――――じきにトライアの援軍が来ます! それまで持ち堪えるのです!」

日はもう沈んでいて空は薄闇に移り変わり、星が1つ、2つと顔を出していた。

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