第4部25章『奇跡の護り』1
ビヨルク派遣隊も無事出発し、幹部一同は王室に集合した。国王、王妃、軍隊長、副軍隊長、近衛兵隊長、近衛兵副隊長、参謀長、祭の実行庁長官、国務長官、財務長官である。
派遣隊はまた暫く帰って来ないから、その間は祭の準備に専念できる。面々の様子を見てみると、あの巨大な竜がいなくなってまたホッとした、という安堵感丸出しの者が多かった。おそらく今朝などは、いつまたあの雄叫びが轟くのかと身構えていたに違いない。
「いよいよ、一週間後に迫ったな。今日からは特別体制となる。皆、よろしく頼むぞ」
トライアスを描いた美しいステンドグラスを背に玉座で王がそう発すると、皆は承知を示して胸に手を添え、軽く頷いた。
そんな中、逸早くソニアが前に進み出て発言した。
「王様、今日は周辺を視察して回ろうかと考えております。よろしいでしょうか」
アーサーはギクリとして彼女を見た。彼女は何の迷いもなしに清々しい顔でそう言っている。だが、今一瞬、彼の体を言い知れぬ嫌な予感が走り抜けていったのだ。アルエス湖畔で謎の竜騎士と出会ったという話を聞いた時のように。
しかし、彼女が不安の欠片など微塵も表さずに輝くばかりの精悍な立ち姿でそこにいるのを見ると、気のせいだろうかと思わずにはいられなかった。
「そうか。それはいい。民も喜ぶじゃろう。行って参れ」
「はっ」
承諾を得ると、ソニアは王に敬礼して下がった。
他の者も、それぞれに祭に向けての体制案と報告を王に伝え、程なくして会合は終了となった。
近衛として城に残るアーサーは、これから部下の待機する広場へ向かわねばならない。そこで、道を分かつまでの間をソニアと並んで歩いた。ディスカスはその2人の後を歩いている。アーサーはまだ不安が拭えず、それが顔にも現れていた。
「……どの辺りを廻るつもりなんだ?」
「城下街を出て、周辺の村を見てくるよ」
「心配だな……どうしてまた……」
「こないだだって、アルエス湖の方にまで行ったのよ?」
「あれは休暇だろう? お前の好きにすることが出来た。でも、仕事で行かなくたっていいじゃないか。例年はともかく、今年は普通じゃないんだから」
アーサーはひたすら心配するのだが、ソニアは少しも考えを変えなかった。そんな2人の後を追って歩くディスカスは、いつにも増して不気味に暗く、足下ばかりを見ている。すれ違う者たちにとっては、それは何とも異様な雰囲気だった。
あんまりアーサーが食い下がるものだから、ソニアは立ち止まって彼と面と向かい、その目をジッと見た。
「ディスカスもいるから、心配しないで。私は外に行ってくる。あなたは、あなたの仕事をして」
どうしてか解らないが、彼女があんまり頑なに今日の予定を変えないものだから、アーサーは肩を落とした。
「……早く帰って来いよ。頼むから、あまりオレを心配させないでくれ」
ごめんなさい。アーサー。本当にごめんなさい。
ソニアは心の中で何度も謝った。
アーサーは振り返ると、後ろで何やら沈んでいる様子のディスカスに声をかけた。
「ソニアを頼んだぞ、ディスカス。決して離れるな」
彼はギョロリと目を向けると、無言で頷いた。
近衛隊の集合広場と厩舎との岐路で、ソニアはアーサーの肩を取り、笑顔で言った。
「後を……頼んだよ。アーサー」
厩舎の方へと向かって行く彼女の後ろ姿を見送るアーサーの胸から不安は消えず、近衛兵の待つ広場へと歩み出しても、彼の頭からは彼女の笑顔が消えないのだった。
今日の段取りについて既に副軍隊長に一任していたソニアは、そのまま一兵も付けずに、ディスカスだけを共として従え、城を出た。
お忍びの場合は裏手の小門から出ることが多いが、今日は敢えて正門から姿を現し、道行く民に国軍隊長の外出を披露した。それに気づいた民はこぞって声を掛け、手を振る。
馬に乗り慣れていない上、馬の方が彼をとても嫌がるので、とても乗り難そうにしているディスカスであったが、それでもどうにかこうにか馬を支配して彼女の後を追った。
ソニアは街中では手を振り返すなどのサービスをしていたが、商道に入ると笑顔もなくなり、北のアルエス湖に行く時と同じルートを進んだ。黙ってついて行くディスカスには、彼女が何処へ行こうとしているのか全く見当がつかない。
ソニアは徒歩の者が無理なく後を追って来れる程度の速度で休みなくアトラスを進め続け、十分に城都市から離れたと思われる距離にまで来ると、今度は道を外れてずっと奥にまで入り、馬を降りて傍らの木に繋いで休ませた。そして兜を脱ぎ、鞍に掛けた。
クローグの甘い香りが辺りを満たしている。何処に目をやっても森は美しく、豊かだった。
「……ディスカス、少し、外してくれないか?」
同じように馬を降りて側にピッタリとくっついている彼は、そう言われると明らかに動揺した。
「い……嫌です! それはできません!」
アーサーに頼まれた、ということ以上の危機感が彼から放たれていた。どうやって知ったのかは解らないが、ディスカスは自分がしようとしていることを察知しているのだとソニアは理解し、それだけに引き離すのには大変な苦労をした。何度頼んでも、それだけはできないと言って彼は断り続ける。
ソニアは溜め息をつき、仕方なくディスカスを吊るし上げると無理矢理馬に乗せ、手綱で縛り付けた。
「なっ……何をなさいます?!」
ごめんよ、と小さく言うと、ソニアは剣の柄で馬の尻を強く突いた。馬は痛みに驚いて嘶き、猛スピードで駆け出した。
「――――――ソニア様!!」
彼がすぐに戻ってくることは解っていたが、それでもこの少しの時間がソニアには欲しかった。ディスカスを乗せた馬の蹄の音が遠ざかっていく。
セルツァが早くも小鳥の姿で肩の上に降りて来たから、ソニアが先に囁いて聞かせた。
「……セルツァ、これから何があっても、お願いだから何もしないで。そのままの姿でいて」
「何をする気なんだ? ソニア。君は……」
彼女は答えず、ジッとそこに立って待った。
すると程なくして、期待通りに彼が現れた。少し離れた木の脇に立ち、こちらを見ている。大いに驚いた様子のセルツァは、喋るのも囀るのもピタリと止めて彼の姿を凝視した。
そうして、槍を伸ばしても届かぬ距離を開けたまま、2人はただそこに立ち、互いを見続けた。あの時と違い、ソニアは兜を脱いで顔を露にしているし、彼には翼竜がない。
ソニアの視線は真っ直ぐだが哀しく、彼の方は全てを責めるような苦々しさで顔を歪めていた。沈黙の長さだけ、2人の負う苦しみもまた、重くて深い。
やがて、彼は吐き捨てるように言った。
「……バカだったよ」
自嘲する引き攣った笑いが、彼の口から漏れる。
「どうして……気がつかなかったんだろう」
クローグの甘い香りはルークスをも包んでいる。彼にとっては、その芳しさが今となっては憎らしいほどだった。
白く輝き、甘く芳香する花。
はじめは、それは水面に咲く蓮や、たおやかな茎や蔓の先に咲く鉄仙の類だと思われた。しかし本当は、大地にしっかりと根を張り、天に向かって枝葉を伸ばして屈強に茂る守りの大木だったのだ。蒼き鋼鉄の鎧を身に纏い、長くて鋭い剣を腰に差し、飛竜を従え軍の頂点に立つ大木。
だが、それは夜に姿を変え、歌声で男の心を惑わす。
怒りの中にありながら、彼の顔は青みを増していた。彼が痛む分だけ、ソニアにも同じ苦痛が心に圧し掛かった。
「……あなたを騙すつもりなんかなかったわ。でも……言えなかったの。言えば……普通にお話しすることができなくなると思ったから」
彼は鼻で笑った。
「確かに……言われても最初は信じられなかっただろうな。それに……あんな風には語らえなかっただろうさ」
セルツァは、2人が言葉のやり取りを始めたものだから、状況が見えてくるまではひたすら小鳥のフリをしてくれるようだった。2人の語る内容に集中して聞き入っている。そんな小鳥に全く注意を払っていないルークスは、2人きりだと思っている様子で続けた。
「……オレの目的を探ろうとしてたのか?」
「それは……確かにあるわ。私はこの国を守らなければならないから」
彼は初めてソニアに槍を向け、一歩一歩近づいてきた。先日のように鎌を出していないから、鋭い人差し指を突きつけられているような気がする。彼は罪状を刻印していくが如く、ゆっくりと一足一足大地を踏み締め、彼女を睨み付けた。
ソニアは左肩にそっと手を翳し、セルツァに動かぬよう無言のお願いをした。肩の小鳥からは緊張感がピリピリと伝わってくる。
「君は二言目には国だ……! 全ては国の為だったのか? オレを利用し……国を守ろうと……! だからオレを途中から拒まなかったんだな?」
「――――――違う! それは違うわ! 最初は、正体を知られて戦いになるのが嫌であなたを遠ざけた。でも……次からあなたを待っていたのは、本当にあなたという人を知りたかったからよ! だって……私……戦なんてものがなかったら、どんな種族の人とも付き合っていきたいんだもの! いろんな種族の人達と一緒に暮らせるような世界になるのが、私の夢なんだもの! だから……本当のことを言わなかったのは悪かったけど……普通にお友達としてお喋りできるのなら、してみたいって……そう思ったのよ! これは本当よ!」
彼は苦しくて荒い息を吐いている。ソニアは俯いた。
「でも……途中からは、もう言わなければあなたに申し訳ないことになるって思って……早く打ち明けようとしたの……! でも……言えなかった! あなたが言わせなかったのよ!」
ソニアの手が口元を触るのを見て、彼は狂おしく歯を食い縛り、目を閉じた。
今でも血の味と鼓動が甦り、全身を熱くさせる。
憎らしいのは、本当は愚かな自分ばかりだった。彼女のことは、憎もうとしてもできなかった。そうしようとすればするほど、彼女を想う心は燃え立ち、その炎がさらに彼を責め苛むのだ。理解したくなくても、彼にも十分、彼女の苦悩や当時の迷い、葛藤が解っていたのだ。
ソニアは瞳を震わせながら、再び真っ直ぐに彼を見た。
「それでも……今まで本当のことが言えなかった私が一番悪かった。あなたには……どんなに謝っても済まないことをしたと思っている」
彼の突き出す槍の切っ先は、彼女の目の前にまで来ていた。そこに殺気が見えたら、とっくにセルツァが動いていたのだろうが、どんな仕草も、今この瞬間でさえ彼女を求めていることを体現しているだけだった。
ソニアは少しも怯まず、目を逸らさず、気高く、自分の罪を真っ向から受け止めようとしていた。ルークスの方が、眩しさに顔を背けるような素振りを度々している。
初めて太陽の光の下で見るソニアの姿は、黄金色の光に映えて燦然と輝き、夜のそれより彼を眩ませていた。
彼女を憎むことなんて、できるのか……?
その姿、その心、歌……。あまりに奇跡だ。
ルークスの目は潤み、そこには愛しさしか映っていなかった。
「……君は……友人と言ったな。だが……オレにはそれ以上だったんだ! クソッ……! 今でも……今でも……君に命が懸けられるなんて……! どうしてなんだ……! こんな出会いに打ちのめされたというのに……!」
彼は手を振るわせながら槍を下ろした。俯いたまま、それを地に立てる。セルツァの警戒が下がったのが判った。
「……《戦場で会うこともないのなら》……と言ったわけだ。この国の防衛のトップか……。そこまで人間達を守りたいなんて……君は……本当に人間に心奪われてしまったんだな……!」
彼はもう片方の手で空を掴み、握り潰した。その拳が震えている。
「一体……君が語ったことは、どこまでが本当なんだ……?」
「この地位にあることを知られないように伏せたりしたこと以外は、全て本当よ。私はエルフの血を引き……仲間を殺され、兄に助けられ、この国に置いていかれた」
再び上げた彼の顔は、苦しさと切なさに歪んでいた。
「どうして……君は戦士になんかなったんだ? このままでは、君は最前線で戦うことになるんじゃないか……!」
愛しさと優しさからそう言ってくれるのが解るから、ソニアも辛くて眉根を寄せた。
「……兄を待つ為だったの。彼は、旅の足手纏いになってしまうし、私にとって危険だからと、私をこの国に預けていった。強くなったら迎えに来ると約束してくれていたから……私はそれを信じて、どうしても兄ともう一度旅に出たくて、来る日も来る日も血の滲むような修行をしてきたわ。だけど……幾ら待っても来なくて、気がついたらこの国で目指せる限りの一番上に来ていた。そして……この国にも愛情を持つようになった。だから……今ではこの国を守ることに全てを捧げているの」
「何て罪な男だ……!」
「どうか……お兄様のことは悪く言わないで!」
今でも、彼女が兄を庇うと彼は嫉妬に身を焼かれた。彼女の、その人に対する崇拝ぶりは、今ここに現れて命じたら何でもしそうなほどである。大いに年の離れたその男に、身体まで捧げてしまうのではないかと思われた。
「そいつが憎い……! 君を置き去りにしてそんなに悲しませた上……こんなに長い間君の心を縛って、揚句の果てにこれから君を死なせようとしている……! そいつが君を人間世界に置いていったのは間違いだ!」
ソニアは首を振って必死に否定した。
「お兄様は……本当に素晴らしい方だったのよ! 彼の正体を知られたくなくて、旅のことはあまり詳しく話さなかったけれど、聞いてもらえるなら、あなたにも解ると思う! 名前を教えてくれなかったと言ったのは……本当は嘘よ。あなたと穏便にお話ししたかったから伏せていたの。何故なら、皇帝軍は彼のことを今でも狙っているはずだから。彼のことは……あなたもきっと知っているはずよ。彼の名は、アイアス=パンザグロス。先の大戦でバル=バラ=タンを破った英雄よ!」
その名を聞くと、ルークスの目つきが変わった。そして彼の頭の中で、ソニアには解らぬ思考の渦が逆巻いた。
繋がりがあった! 彼女は母親のことが解っているから、両親を知らずに生じる天使の伝説に当てはまらず、天使でないことが解っている。だが、天使とは関わりがあったのだ!
これまで各地で起きている出来事とこの事をどう結びつけ、解釈したらいいのかはまだ解らないが、やはり関連があったということが知れただけでも大きな収穫である。
そして、天使たる男を目指したのであれば、彼女があまりに高い目標を追い求めて現在の地位に上り詰めてしまったことにも納得がいくような気がした。
また、いかに天使とは言えその男が憎いのと、彼女を人間世界から切り離したくて、彼はある衝動に突き動かされていった。新たな情報も入っているが、確かなことではない。しかも前例のない奇妙なことだから、無視していいだろう。
大切なのは……彼女に諦めさせることだ。
ルークスは、自分でも驚くほどの残忍な笑いが身体の奥底から涌き出てくるのを感じて、一本槍を持つ悪魔のように、細く、高く笑った。影が彼の身体を支配していく。