第4部24章『出会い』23
夜風に吹かれ、虫の音に包まれ、いつもの水辺の、いつもの岩の上に腰掛け、彼は待っていた。彼のシルエットを見つけた時、やはりいたということがソニアの胸をキュッと締め付けた。切なくて……しかし、どこか嬉しかった。
気配に敏感な彼は、彼女がもう少し近づいただけですぐに気がつき、立ち上がった。そしてソニアが茂みから出ると、ゆっくり歩み寄る彼女よりも素早く駆け寄って、彼はソニアの肩を取った。
昨晩のことがあったから、彼女が現れてくれるかどうか不安だったらしい。本当にやって来たことで、彼はまるで彼女を捕えるかのように掴み、その様に必死さが滲み出ていた。
真っ直ぐな瞳が、彼女の心に染み入ってくる。
「きっと……来ると、信じていた」
ルークスはそう言うと、彼女をギュッと抱き締めた。「信じていた」と言っても、かなり不安だったのだろう。その大きさと喜びの分、彼女を抱く力は強かった。
今夜のこと。これまでのこと。これからのこと。それら全てに対する謝罪の気持ちで、ソニアも彼の背に腕を回し、抱き返した。
そして思った。この様子では、どうしてかまだ自分の正体を知られてはいないらしい、と。
「……今日も私を探していたの?」
「……ああ。だが……我が心の姫君は何処ぞの屋敷の奥にでもお隠れになっているらしい」
そうでしょうね、とソニアは心の中で囁いた。街をいくら探したって、彼女はいないのだ。
ルークスは腕を解くと、彼女の顔をよく拝もうとして頬に手を添え、前髪を掻き上げた。
「今日も君を見つけられなかったが……その代わりに、とんでもないものにお目にかかったよ。この国には竜がいる。白い飛竜だ。あれは……どういうことなんだ?」
「どういうことって……いるんだもの。それが何か?」
「焦らさないでくれ。君だって解っているだろう? この時世に、あの竜は……明らかに君らにとって、いや、人間にとって敵じゃないか。竜の方はともかくとして、人間は竜をおそれて一緒になど住めないものだろう? それが……何故この城で一緒にいるんだ?」
ソニアは彼と初めて会った時に見た翼竜のことを思い出した。この人と竜の付き合いは自分よりずっと長いものだ。当然、竜の気質などはよく知っていて、竜のことが解っているからこそ、このようなことが理解できかねているのだろう。
「例の……あなたが調べたがっていた人と、あの竜は友達なのよ。とてもよく言うことを聞いていて、他の人とも仲良くやっているの。時々大声を出しちゃったりして皆を驚かせたりはしているけれど、あの人がお願いしているから、皆、温かい目で見守ってくれてるのよ」
「信じられない……」
ルークスは首を横に振った。彼女を疑っているのではなく、この事態そのものに納得がいかないのだ。
「噂によると幼いそうだから、まだ、ものがよく解っていないんだろう。竜としての誇りが育っていないんじゃないだろうか」
「あら、そういうものなの? 竜って」
「……乗り物として飼い馴らすことを目的にしている場合は、幼生の時に捕獲して飼育したりするんだ。その時から仕込んでおけば、従順になるから。乗り物を同じ種類の竜で統一している部隊なんかは、大概そうして調達している」
それは好奇心を刺激する知識だったので、ソニアも純粋にキラリと目を輝かせた。まるで馬のようだと思った。でも馬の方が、大人になってからも調教できる点ではずっと扱い易いのだろう。
「その辺はどうか解らないけれど、あの竜はとてもいい子よ。あの竜、白いでしょう? だから今まで他の竜に虐められていたらしいわよ。それで、あの人はあの竜を虐めたり蔑んだりしないから仲良くなって、ここまで一緒に来たのよ。今は大人しくしているけれど、前は随分暴れていたらしいわよ」
今度は彼の方が、街で聞いた情報以上のことを彼女から聞けて強く関心を示した。
「そんなことが……。順位争いや縄張り争いは普通にあるが……まさか迫害なんてことまで……。だが……白い奴なんて本当に珍しいからな……。そんな事があるもんなんだろうか……」
「人間じゃないけれど、白いというだけで虐められるのだったら、竜も随分酷いものってことね」
「……白子が虐げられるのは、他の生き物でもあることだ」
そうは言っても、彼はなかなかゼフィーに纏わる物事に納得がいかないようだった。
「あなたは竜に詳しいのね、ルークス。あの竜は元々、どの辺に住んでいるものか知っている?」
「……いや、オレはこれでかなりの種類を知っているつもりだが、あんなのは初めて見た。全身に毛が生えているものなんて、これまでに聞いたこともない。何かの突然変異なんじゃないだろうか」
そうすると、本当にゼフィーの出生は不明なのだとソニアも知り、彼女もまた考えた。一体あの子は何処で生まれ、どうやって生きてきたのか。
だが、今大切なのはこのことじゃない。気持ちを切り換えて、ソニアは彼をジッと見つめた。
「……そう、ありがとう。それより、ルークス」
彼は名前を呼ばれる度に、驚くほどピリッと反応した。普段、人から名前を呼ばれる機会がどれほど少ないのかの表れである。その刺激からは、鼓動の高まりと喜びが感じられた。
「……大事な話があるの。今日は、それだけを言いに来たのよ」
「……大事な話?」
彼の鼓動がもっと高くなった。何を言われるのだろうと身構えてしまう。遂に決心してくれたのかという期待もあれば、今夜以降もう二度と会わないという別れの宣告かもしれないのだ。彼はソニアを離せなくて、ずっと体を寄せたままだ。別れの可能性の方が高いから、彼女を抱く腕の力が強まった。
彼の真っ直ぐな瞳と想いを間近で見、感じ、この人を欺いていることの苦しさを今一度ソニアは感じた。だが、それも、明日終わる。
「あなたが調べているあの人……」
「……軍隊長のことか?」
ソニアは目を逸らさぬよう、勇気を持って彼を見続け、頷いた。そして彼のスーツをギュッと掴んだ。
「もし……あなたがどうしても私を連れて行こうとするのなら、あなたはあの人と戦わなければならないわ」
「あの戦士と? どういうことなんだ? あの男は君の何なんだ?」
ソニアは答えず、彼をただジッと見つめ、目を細めた。彼の方はどんどん憶測やおそれが渦巻いていく。
そして、ある可能性を見出した。
「まさか……まさか、あの男は君の……? そうなのか?」
彼女は答えず、沈黙を守った。
「――――君を守るのはオレだ! 人間の戦士などに君は渡さない!」
それが例え天使であろうとも。
ソニアの目に、彼の顔が嫉妬で仄かに明るさを増したように見えた。だが、それはすぐに違うことが解った。ふと彼方に目をやると、地平に近い高さにある月が雲間から顔を出していたのだ。乾期でも多少の雲はある。水平線近くなるとそれが多いから、月がずっと隠れていたのだ。
ソニアは月を眺めながら言った。
「ああ……本当にもうすぐ祭なのね。あれが満月になったら、始まりよ」
月明かりに輝く彼女の美しい横顔と美しい囁き。彼の耳に言葉は届いていたが、彼の頭にそれは響いていなかった。彼の身も心も、今は嫉妬の炎に捕らわれていた。
彼女は月よりも花よりも美しく、心優しく、奥深くて聡明だ。彼女を欲する者は当然ながら数多存在するのだろう。
だが、彼は許し難かった。エルフという貴重な血を引く彼女に触れようとする他の男の存在は、考えるだけでも焼け火箸で腹の中を掻き回されるように臓腑を燃やした。
「そいつを倒して、オレは君を連れて行く!」
月を見ていた彼女の顔をぐいと引き戻し、彼は心の炎をそのまま口移しに彼女に伝えた。どちらの唇にも僅かながら昨晩の傷跡が残っていて、こうしていると感触がよく伝わった。それが、昨晩の血の味と苦しさを甦らせた。
彼が意味を取り違えるかもしれないと解っていても、ソニアは涙を堪えられなかった。そして、これが最後になるかもしれないと思い、彼を抱く腕に力を入れて、自ら能動的に唇を合わせた。
どんなに衝撃を受けても、傷ついても、どうか忘れないで。
私はあなたを大切に思い、愛していました。
友として、同じ宿命の中で生きた者として。
そして……もしかすると、異性として。
ソニアは唇を離すと、涙を拭いて、ただの娘としての最後の別れは笑顔でいたいと思い、ゆっくりと笑んだ。
彼女の一連の行動が、ルークスにとっては、軍隊長という恋敵の関門さえ超えれば自分と共に来てくれるという決意の表れとしか映らず、全身が火照った。日増しに彼女を欲する力が強くなってもいるので、彼はソニアを離すことができない。
最後に、無理を承知でソニアは彼に尋ねてみた。
「……ねぇ、もし……私を放っておいて、この国から出て行ってと頼んだら……どうする? そうしてくれなければ、もう二度と姿は見せないと言ったら」
「……それだけはできない。君が隠れても、必ず探し出す。オレがこの国を出る時は、君も一緒だ」
ソニアは目を閉じ、涙の最後の一粒を頬に滑らせた。決意の時だった。
再び目を開けた彼女の顔はとても安らかで、不安も恐怖もどこにも見当たらなかった。
美しき、至上の、女神の微笑み。
「……あの人と戦うのなら、あなたはあの人をよく知っておかなければならないわ。……明日の朝、城からあの竜が飛び立つ時、あの人はきっと北側の塔から見送ると思うわ。その時、出来るだけ城に近づいて、よくあの人を見てみて。――――いえ、見てちょうだい。あなたはあの人を知らなければならない」
例の男が見せるのであろう雄姿を想像して、ルークスは鋭い刃物のような戦人の顔をした。
「……いいだろう。君を賭けて戦わなければならぬ相手なら、その姿、じっくりと目に焼きつけておこう。君の望み通り」
それを聞くと、ソニアは彼の腕から離れた。彼は名残惜しそうに手を伸ばすも、彼女が手を翳すと仕方なくそれを下げた。彼女は手を翳し続けた。
「明日も……会えるだろう?」
彼女の瞳が揺らぐ理由を、彼はまだ知らない。
「…………ええ、きっと」
そう言い、ソニアは森の中へと小走りに去って行った。まるで、追ってくるなという意思を示すために逃げて行くかのようだった。決してするなと彼女に言われているから、彼は夜道を尾けていくような真似はこれまで一度もしていない。それだけは、あまりにいやらしい振る舞いだからだ。
彼はいつまでもそこに立ち、彼女が消えて行った闇を見ていた。