第4部24章『出会い』22
軍隊長付き侍者専用室のディスカス。
彼は昨晩と同じように木製のベッドに腰掛けて瞑想をしている。少々身動きしただけで軋みを上げているベッドだ。物というのは、使わないとかえって傷みが早いから、どうやら住人のいない期間が長かったせいでガタがきているのかもしれない。
彼は総勢15体の部下を城内の各要所や重要人物にあてがって、それらが送ってくる情報の収集と解析に余念がなかった。人に見られることのない室内では、彼の目は紅色に怪しく光っている。暗闇の中で、その色だけが夜行性の捕食動物のように浮かび上がっていた。
あの近衛兵隊長をよく観察していたが、彼は彼女の良い守護者となるだろう。気働きもいい。味方として彼を利用する価値は十分にあるようだ。
彼女は、万一あのヴォルト唯一の弟子と戦いに発展した場合の死を覚悟している。どのようにして出会ったのかを目撃できなかったのが残念だが、いずれにしても、あの男は彼女の正体を知らずにこの国を調査し、しかも特に軍隊長に関心を示している。それでありながら同時に彼女に言い寄っているのだ。真実が知れるのは時間の問題だろう。それを解っているからこそ、彼女も近衛兵隊長に遺言めいたことまで伝え始めてしまった。こうなると、こちらとしても急がねばならない。
本来なら、ここで起きていることを全て主人に報告せねばならないのだが……さて、どうしたものか。彼女は既に自分の正体を知っている。そうと解れば、あの方のお怒りは目に見えている。本当は、彼女に気取られぬようにして守るのが自分の務めだったのだ。
だが、彼女は身も竦むほどの寛大さで我が使命の遂行を許してくれた。全てを承知の上で側に置いてくれるのだ。彼女を守ることさえ出来れば、その件は伏せても良いのではないだろうか。
そしてもう一つ困ることと言えば、あの男のことを告げるかどうかだ。これを報告するとなると、まず2人の密会のことを教え、あの男が彼女に熱を上げていることまで伝えなければならない。
そうすると、主人の性格的に、もしかすると予定を早めて即座にこちらに出向いて来る可能性がある。危険な男に彼女を渡すまいと、そしてその男に殺されることがあってはならないと血相を変えて参上し、状況によってはあの男と主人が対決することになるだろう。
主人が負けるとは思わないが、あの男も実力の程は未知数だ。それにどちらが勝っても、それぞれの大隊との間に大きな確執が生じてしまう。しかも、もし主人が勝った場合、あのヴォルトを敵に回すことになってしまう可能性があるのだ。それが何より危険で、おそろしいことである。エングレゴールのみならず、我が一族にも危機をもたらしかねない大事である。
連絡をせずにいて万一の事態になり、彼女が死ぬようなことがあれば、それこそ最悪の事態であるが……。どうも明らかにする事と伏せる事のバランスが難しい状況のようだ。
彼女が今晩あの男と会うかは不明だが、会うようであれば、その様子を見てからの方がいいだろう。彼女の方としては、あくまで友人として彼と接し、国を守る為に情報を得ることを目的としてるだけのようだから、いずれ彼女の方から、もっときっぱりとあの男を突き離すことがないとも言えない。彼女は近衛兵隊長と親しくしていて、今晩も一緒だった。彼女の心は近衛兵隊長の方にあると思われる。あの男は熱烈な片想いをしているのだ。
もう少し様子を見ていれば、片恋に破れて傷心のままこの国を去ってくれるかもしれない。それなら万々歳だ。そうすれば、主人が出向いて来る必要もなくなるし、対決の危険は回避できる。
今暫し、様子を見よう。さて、彼女は眠ったであろうか。
ディスカスは14体と交信を断つと、ソニアを担当してる部下からの情報に集中した。
ソニアは寝間着ではなく普段着に着替えていた。すぐに眠る気はなかったのだ。
彼女は部屋の明かりを小さくしてテラスに出ると、そっとセルツァを呼んだ。呼びかけに応じて、いつものように蛍火がやって来た。そしてテラスの暗がりにセルツァが現れた。
今晩呼ばれたのは特に嬉しかったようで、彼は実に優雅なお辞儀をしてニッコリと笑った。
「こんばんは、戦乙女殿。今日はあの暴れん坊が帰って来たね」
ソニアは必要な情報についてのやり取りをまず行った。セルツァは、急に出現したディスカスという従者のことにやはり注目しており、さすがに人間ではないことも見抜いていた。ソニアは、彼の出所を詳しくは説明できないが、危険はないので彼に干渉しないように伝えた。
「そう言われてもなぁ……。ありゃあ、かなりヤバいものじゃないのか? オレの見たところじゃあ、アイツの正体はきっと、とんでもない姿だぜ。まず2本足じゃないな」
「ん……まぁ、それはいいのよ。本当に私を守ってくれるだけだから。そういう意味では、あなたとは味方ということになるでしょう?」
「どうかなぁ……」
ソニアは笑った。ディスカスの正体を知ったら、彼はきっと警戒を緩めないだろう。
一体何処で会ったんだ? 等といろいろ尋ねられたが、ソニアは適当にはぐらかした。
ゼフィーがビヨルクで大いに役立ち、本人も楽しんでいるらしいと聞くと彼も驚いていた。あれ程の暴れん坊が大した変わり様だと笑う。全くその通りだ。
ハイ・エルフ側から既にビヨルクへの援助を行っているのか尋ねると、多分そうだろうと答えた。セルツァ自身はソニアの守護役に集中しているので、まだ確かなことはわからないらしい。
「今のところ平和なようだが、いつ何があるか判らないから、気をつけておくれよ。ゼフィーに乗って急に出て行かれたりすると、追い付くのも大変だから、そういう時は出来ればオレが側に行ってからにして欲しい」
「ああ、そうね。気づかなくてゴメンなさい。明日はあの子と散歩はしないわ。すぐにまたビヨルクに発つ予定だから。でも、今後そういうことがある時は待つようにするわね」
セルツァにしてはいつになく慎重なことを言うものだから、ソニアは内心ドキリとしていた。ルークスとのことを気づいているのだろうか? でも、それとは少し違うような気もする。
「……セルツァは、他からもいろいろ情報を得ているんでしょう? 何か心配事でも?」
「いや、そういうワケじゃないんだが……ディスカスみたいな奴が急に現れたりもしたから、ちょっと心配になっただけだよ」
何とも釈然としなかったが、言う気のないものを追求するつもりもなかったので、納得した素振りをしておいた。そして、彼女が一番伝えておきたかったことを言った。
「……確かに、いつ何があるか判らないわね。ディスカスもいるけれど、本当に万一のことがあった時には、誰でも守り切れないことはあるかもしれない。この時世だもの。だから……この先、私に何かがあったとしても、決してあなたに負い目を感じて欲しくないわ。あなたの方ではそういう訳にはいかないかもしれないけれど、私としてはずっとそういうつもりだから」
「…………」
セルツァもまた、彼女がこんなことを言う背景を考えている様子だった。笑顔だったのが真顔になっている。
「オレは、必ず守るよ。建前だとか、対面を保つ為じゃない。オレ自身の望みだから」
ソニアは笑んだ。すっかり光を取り戻している彼女の笑みには何の翳りも見えないから、彼も微笑む。
「……ありがとう、セルツァ」
2人はそれでおやすみを言い合い、セルツァは蛍火となって木立の向こうに消えて行った。
ソニアはそのまま漆黒の森に目をやり、夜風に髪を靡かせて夜景を眺めた。早くお休みよ、と言うように温かい夜風が優しく肌を撫でていく。この風を浴びているだけで体がリラックスして解れていくようだ。今、床に就けば、あっという間に眠れるのだろう。
だが彼女は、海のように広がる暗い森の、水辺で1人待つ者のことを考えていた。その姿が脳裏に浮かんで、離れない。
ここ最近会っていた時刻からは遅くなっていたが、彼はまだ、あそこで自分を待っていたりするのだろうか。
あの、情熱的な人。
ソニアは彼の涙と吐息を思い出した。
口の中に広がる血の味。彼の想い。
「…………お兄様……」
ソニアは胸元に手を当て、ペンダントを感じた。アイアスが微笑んでいる。
「お兄様、見守っていて下さい」
ソニアはそう言うと、愛用の竪琴も持たずにヒラリとテラスから飛び出して行った。