第4部24章『出会い』21
ゼフィーを連れて散歩に行き帰ってくると、なんだか見違えるようにソニアが元気を取り戻していたので、気遣っていた者達は皆喜んだ。仕事を始めれば凛としている彼女であるが、ここ最近のちょっとした変化に気づいていた者は少なくなかったのだ。
城に戻った後はゼフィーの面倒をアスキードに任せ、ソニアは王子達宛ての返事の手紙を書いた。最近は軍務庁の執務室で各地からの報告を聞いていることが多いので、手紙を書き終るまではずっと執務室にいて、楽しく羽ペンを進めた。
手紙を書き終えた後は城中を巡回し、その間もずっと機嫌が良かった。こんなに変わるものかと、彼女自身が不思議に思うくらいだった。ルビリウスからの手紙を懐に忍ばせていると、それがお守りでもあるかのように元気が漲ってくる。彼女にピッタリとついているディスカスは、そんな彼女が放つ光に己の属す闇の力が圧されてクラクラとしていた。
アーサーは勿論、彼女に輝きが戻ったことを誰より喜び、安心していた。今日は遠くから彼女の姿を見守り、陰ながらその輝きがずっと続くことを願った。
何をきっかけに彼女が息を吹き返したのか解らず、明らかにそれが自分ではないのが残念なのだが、彼は彼女さえ楽しそうにしているのであれば、それで良しとした。
しかし彼は知らないのだが、彼の存在は、彼が思う以上にソニアの救いとなっているのである。
夕刻になると2人は誘い合って一緒に夕食を取り、その後すぐに2人して城下街に巡回に出掛けた。
夕食の席で彼は大いに笑ったものである。彼女に見せられた幼い子供からの手紙を見て、これが正体だと知ったからだ。ライバルがあまりに幼い少年だったものだから、彼はいつまでもおかしそうに笑っていて、ソニアまでがつられて愉快になり笑った。
「子供には敵わないな」と彼は苦笑したのだが、彼女を元気にしてくれたのだから、ありがたいものだとも思った。もしこれが若い男からの手紙であったら、心中穏やかではいられなかっただろう。
2人はそれぞれ白馬アトラスと栗毛のジタンに跨り、ゆっくりと石畳の道を進んでいった。街の其処彼処で灯が点っており、音楽や笑い声が聞こえてくる。皆、祭の準備の為に各々の芸や品を夢中で手掛けているのだ。
しかし、この国で最も人気のある2人組がやって来たと知ると、そこら中から人が飛び出してきて、大喜びで迎えた。2人揃って健在である姿は平和の象徴であり、その姿を拝めるとご利益があるとでもいうように、こぞって皆が姿を見ようとした。
ソニアもアーサーも手を振ったり、「順調ですか?」と声を掛けたりなどして街を廻って行く。
彼女は兜まで被り、マスク部分だけずらして顔が見えるようにしていた。随分と警戒した恰好だなという印象を皆に与えはしたのだが、その顔はとても明るく満ち足りた様子だったので、誰も不安には思わなかった。
2人は噴水広場を通り、国教会を通り、大劇場を通り、酒場街を通り、行く先々で当番の兵に異常がないかを伺った。毎日少々のいざこざがある程度で、それも今のところ大事に至る前に丸く収まっているようである。
臨時の宿屋もそれぞれ着々と登録と準備を進めており、予想される来場者を十分に収容できそうだ。この時期は悪天候の心配もないから、懸念は本当に皇帝軍だけである。
それぞれの場所で強く引き止められても丁寧に断って先に進み、一通り見廻って安心した2人は、ミラル湖へと注ぐ幾つかの川のうち1つがある所に行き、人家からは離れた、とある橋の袂まで来ると、そこで馬を下りて近くの木に繋ぎ、叢に腰を下ろした。川に向かって緩やかに傾斜しており、近くを通りかからないと人からは見え難い場所である。
トライア城が篝火に照らされ、夜闇の中に浮かび上がって見えた。この時期は祭の準備で何処も照明が多く残っているから、城下街全体の夜景が美しい。
今頃ゼフィーはあの城の向こうにある土手で寝ているのだろうかと思いながら、その無垢な寝顔を想像してソニアはクスリと笑った。
「私……昨日はとても辛かった。でも今は、こんなに気持ちが落ち着いているなんて……とても不思議だわ。皆のお陰ね。私には……元気をくれる仲間がこんなにいる。とても幸せなことだわ。改めてそれを実感した」
アーサーは、ようやくプライベートな時間にこうして側にいられる喜びと、彼女愛しさとで温かく笑み、優しい眼差しで彼女を見ている。
ソニアはそのまま叢に横になり、手を重ねて枕にすると、満天の星を眺めた。数え切れぬ星の群れ。この世に生きるあらゆる者の数だけ、その想いの数だけ、これらは輝いているのだろうか。
「……ねぇ、アーサー」
「ん?」
「私達の国は……いつ戦火に巻き込まれるか判らない。明日にだって攻めて来られるかもしれないわ」
ここでの無言は、望まない事実に同意するしるしである。アーサーは何も言わずに、同じようにそこに寝そべった。
「もし……私が先に死ぬようなことがあったら……」
アーサーはギクリとし、寝転がったまま顔だけ向けて互いを見つめた。アーサーを見る彼女の顔には、悲観的な怯えや弱さはなく、先を見通してそれを受け入れる覚悟をしている強さがあった。
「あなたは……生きていてね。そしてトライアを守ってね。私の後を追おうなんて、決して考えないでね」
アーサーは目を閉じ、深く吐息した。言葉にされるだけで、体がこのまま地中に吸い込まれて落下していくような恐怖を感じる。そんなことを想像するだけでもおそろしい。
「……自信がない」
お前のいない世界を守るなんて。
「弱気なことを言わないで。あなたらしくもない。あなただけが頼りなのよ」
「……お前は最後まで残らなきゃならない司令官だ。オレより先に死なせやしないよ」
彼は寝そべったまま彼女の頬に手を伸ばし、指の背でそっと撫でた。
「城外に国軍が出て行くことになれば、城を守るのは近衛なのよ? 城は最後の砦なんだから、あなたが最後になるかもしれないわ」
「……皇帝軍は、真っ先に主都と城を落としに来るんだろう?」
「今までの他の国がそうでも、必ず同じ戦術で来るとは限らないわ。幾つかは失敗しているんだもの」
アーサーは撫でる手を止め、今度は掌でそっと彼女の頬を包んだ。彼女が何を言おうとも、彼は調子を変える様子がなかった。
「城が落ちても、たとえ国王が死んでも、……それだけでこの国が敗れたことにはならない。お前が生きてさえいれば、この国は滅びないんだ。だから、オレはお前を守る。お前を先に逝かせたりやしない」
「――――何言ってるのよ! 王様が死んだら終わりよ! それに城外戦になったら、またついて来るつもりなの? それは絶対に許さないわよ! これまでのようにはいかない!」
「……それは解ってる。オレは城を出ない。お前も城を出ない」
「アーサー……? 何言ってるの?」
語調は強くても、2人は声を潜めていた。辺りに人がいても聞かれることはまずない。2人の様子を覗き見ようと追いかけてくる者がいたとしても、どうせこの暗さでは何をしているのか見えないはずだ。だからこうして安心してやり取りしていられる。
アーサーはゆっくりと、彼女の頭を自分の胸元に引き寄せて、それからギュッと抱き締めた。
「軍隊長は城に残る。地方都市は地方の軍に任せるんだ。お前は決して出て行くな」
「救援を求められれば、出て行かないわけにはいかないよ! そんなの、当たり前でしょう?」
「それには副軍が出て行けばいい。小事にナンバー1が出て行く必要はない」
「小事ですって?」
ソニアは体を離して間近で彼の顔を見た。彼には何故か確固とした決意のようなものがあり、全く動じる気配がない。
「お前だって解っているだろう? 本当の戦いになったら、切り札は残っていなきゃならない。とっときは最後まで隠して残しておくんだ」
「それでは被害を最小に食い止められないわ! あなたは……私的な感情で私を遠くに行かせまいと考えているの? テクトの時も刺客の時も私は城を出たのに」
「確かに、オレは個人的にもお前を遠くにやりたくないし、先に死なせたくないと思っている。だが、それとは関係なしに、現実的な考えとして、お前が城に残ることが最良の策だと信じているんだ。テクトや刺客の時とは違う。今度は大軍がこの国にやって来るんだ。お前という人物がいることをある程度知って、当然ながら向こうも手を抜かずに徹底的に攻めてくるだろう。お前が邪魔だから、わざと地方を先に攻めてお前を城から引き離し、その隙に城を狙って来ることもあるかもしれない。だから、そんな挑発には乗らずに、とにかくお前は城を拠点に指示だけを出して、全国の兵を動かすんだ。例のエルフもいるんだろう? 力を貸してくれるんじゃないのか? そうしてお前は戦況を遠目に見るんだ。城に奴等の手が伸びてくるまでは」
それも一理あるので、ソニアは吐息した。しかし、彼女の考えもある。
「……私は、決戦を主都に持ち込みたくないの。ビヨルクを見て、大きな街が戦場になり破れることの悲惨さをよく解っているから、絶対にこの街を傷つけたくないのよ」
「だからこそ、奴等もさっさと城都市を狙って来るんじゃないか」
「そうなってしまったら仕方がないけど、もし先に地方都市を攻めてくるようだったら、そこで決着をつけてしまいたいのよ」
アーサーは溜め息混じりに言った。
「全く……お前は間違いなく軍隊長だな。誰よりもこの国と都を愛してる」
そして、今度は優しい力でそっと彼女の頭を抱き締めた。
「オレは……もし奴等が地方の小都市まで攻めてくるようなことがあったら、それはお前を引き離す目的か、でなけりゃ、よっぽどこの国自体を警戒して全土を焼くつもりぐらいの時だけだと思っている。奴等は……そこまでこのトライアのことは考えていないと思うんだ。お前を消すことが目的にしろ何にしろ、国そのものは城都市さえ潰しておけば、それで十分だと考えているんじゃないだろうか。だから、本攻撃の時は真っ先にこの都を攻めて来ると信じているんだ。過去の大戦が大抵そうであったようにな。
……でなけりゃ、オレは昔から近衛兵隊長になんかなっていなかったさ。国軍でお前の部下になっていたよ。オレは……名誉の為に近衛兵隊長になったんじゃない。いつかまたヌスフェラートが攻めてきて戦が始まった時に、決戦は必ず城になるだろうから、城で一番力を振るえるようこの道を選んだんだ。お前と城で戦う時に、お前と対等に……いや、お前以上に指導権を持って兵を動かして、お前とこの国を守りたかったから」
「アーサー……」
それは、彼女も初めて聞くことだった。彼のこの真意を、これまで誰も知らなかっただろう。実力主義のこの国で、力のある者がそれ相応の地位に就くのは当然であるから、実質ナンバー2と言われている近衛兵隊長の座を狙って進路変更し、近衛隊入りしたのだと皆が思っていたのだ。
しかも、幾らソニアが飛び抜けた才を持つとは言え、同郷で同じ年頃の、しかも女性の後を追うような役職にばかり就くのは、男としてプライドが許さないからそうするのだろうとさえ思われていた。それも無理からぬことだと、多くの者が同情的に見ていたのだ。
彼は当時から近衛隊入りの理由をあまり人には話さなかった。ただ「近衛に入りたかった」としか言わず、皆も深くは追求しなかった。だが、その当時から彼は未来を見据えて、己の前向きな意思でこの道を選んでいたのである。
そして、それもこれも、彼女が昔から軍隊長になるという強い意志を持ち続けていることを承知の上で、いつか必ず彼女がその地位に上り詰めることを確信していたからこそ、彼も決意することができたのだ。
初めて彼の心を知り、『昔から好きだった』と繰り返し彼が言っていたことが本当なのだと、ソニアは改めて実感した。
自分も長いことアイアスを待っているが、彼もまた長い時間を自分の為に捧げてきたのだということは彼女に深い感銘を与え、彼女は身を起こし、彼を覆うように地に手をつき、彼を見下ろした。
「あなたに出会えて……本当に幸せよ。……勿体無いくらい」
「それはオレの方さ。こんな風に独り占めしていいのか、畏れ多いんじゃないかと時々ゾッとする」
ソニアは首を横に振った。
「……お願い。どんなに用心しても、いつ何が起こるかは判らないものなのよ。だから万一の時のことは考えていて。もし、私が先に死ぬようなことがあったら……どうか、あなたがこの国を守ってちょうだい。例え肉体が滅んでも……私の心はいつでもあなたと一緒にこの国を守るわ。だから決して、あなた自身を粗末にしないで」
「…………」
彼女の長い髪が彼の耳元に垂れ、風に靡くと顔を撫でた。王女様の髪はカフラ油のブラッシングで少し痛みが和らいだようだ。
「…………ちぇっ…………遺言かよ」
聞きたくもないといった様子で彼は顔を背け、吐き捨てるように言った。だが、暫く考えるともう一度彼女の顔にしかと向き、その項に両手を掛けた。
「……じゃあ、オレの遺言も聞いてくれ。お前も、生きろ。何があっても生き抜いてくれ。そして平和に、幸せに暮らしてくれ。……誰かを犠牲にしても、お前は決して自分を犠牲にするな。何にも縛られず、己の信ずる道を自由に突き進め。その時のお前が一番輝いているから。そうすれば……オレの魂も安らかに眠れるだろう」
アーサーはそう言うと、彼女の髪を掻き上げて優しく頭を撫でた。そして半身をそっと起こすと、彼女の額にキスをした。
彼がチラリと自分の唇を見てからそうしたので、ソニアは彼の気遣いを知った。下唇の傷は治ってはいるが、跡が残っているくらいだから、まだ止めておいたのだ。
また横たわると、アーサーはニコリと微笑んだ。
昨晩、血に塗れたこの唇を敢えて奪った、どこまでも情熱的なあの人。だが……この人は、限りなく、どこまでも優しい。
2人は、それぞれ色の異なる炎を持っている。この人は……大きくて温かな太陽の色だ。
ソニアは、彼の胸に折り重なった。無言の、安らぎに満ちた静寂の一時。サラサラという川の流れが耳に心地良く、体を癒していく。遠くからは、祭の準備で予行演習している楽隊の音楽が微かに届いてくる。
彼が、己を優先して一方的に奪うばかりの愛を持つ男だったら、ずっとこうして彼女を自分の懐に留めておくか、或いは体を求めたかもしれない。だが、ソニアには世界一優しい男だと自負しているこの快男子はこう言った。
「昨晩は殆ど眠れなかったんだろう? 今日はもう、帰って寝た方がいいんじゃないのか?」
「……そうね。ありがとう、アーサー。そうするわ」
「今晩はスッキリ眠れそうか?」
「ええ、皆のお陰でね。……勿論、あなたもよ」
出発が早かっただけに、まだ宵の口といったところだ。
アーサーの気遣いを受けて、ソニアは2人して馬の所に戻り、再び騎乗して城への道を歩み始めた。あまり人に出会って引き止められなくていいように街外れの道を選んで通り、途中の当番兵に挨拶をし、城へ到着すると各々の馬を預け、ゼフィーにお休やすみを言いに行き、それから部屋に戻って中に入って行くまで、彼は彼女を見送った。
彼女がまた暗い部屋で1人悩まなければいいが、と内心不安で、彼は、いつか彼女が夜も自分を求め、側に置いてくれる日が来ることを願った。