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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第7章
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第2部第7章『テクト城決戦』その1

 7.テクト城決戦


 鏡のような湖面に映る月光が、柔らかなベールとなって裾を広げ、辺りを照らし、羽音を絶えず奏でる虫達の音色もまた、織糸の如く光と混ざり、織り合って、水底へと溶けていく、そんなある夜のことである。

 夜闇の中で、自身も光のベールを織り成し、それを纏うかのような娘がいた。

 魔物が時折通りかかるので、遭遇を恐れる民は特に夜歩きを避ける森であるが、この娘にとって、そんなことはどうでも良かった。この光さざめく湖を夜に――――特に月の輝く夜に眺めるのが、この上なく好きだったのである。

 日中は魔物が往来するのだが、彼女がここにいる夜には逆に姿を消して、湖畔も街全体も平穏な静けさの中にあった。

 例え、今ここで遭遇したとしても、彼等に闘争心は全くないだろう。何故ならば、彼女の歌声が生み出した《安息》という名の薄布に誰もが包まれ、陶酔しているからである。

 彼女は、21歳の大人になったソニア=パンザグロスだった。

 このトライア王国の軍人であり、史上最年少の18歳でそのトップにまで上り詰めた若き国軍隊長だ。こうして夜になると女性らしい軽装になって湖を訪れる彼女だが、勤務中には常時重たい鋼鉄の鎧に身を包んで、颯爽と白馬アトラスを駆っている。

 生い立ちと愛の為に、彼女は幼い頃から常人には考えられない程の努力と修行を重ねてきて、今では人々が計り知れぬほどの強さを身につけていた。

 戦士としての能力は全軍の中で抜きん出て、他を寄せ付けぬ単独頂点にあり、また、人々を率いる将校としての統率力にも秀でており、若過ぎるほど若いながら、彼女が国軍隊長の地位にいるのは、誰もが天の定めた運命としか思えぬものだった。

 もはやこの国で彼女に敵い、その地位を脅かせる者など1人もいない。それが例え戦士であろうと、魔術師であろうともだ。

 だが、優れた強者が大概そうであるように、彼女は決して、何者をも無闇に傷付けることはしなかった。戦人でありながら、彼女は誰よりも心優しい人物だったのである。


 彼女は湖岸の、ここ数年の定位置である平らな岩の上に腰を下ろすと、竪琴を膝に載せて、月影揺らめく湖面に視線を落とし、軽く弦を一つ弾いた。

 ポ――――――………ン……

 湖一帯に透明な音が響き渡った。その波で辺りの空気が澄んで清められ、一層静まり返ったように思われる。

 ポロ―――――………ン……

 そしてもう一度、今度は3本の弦を弾いた。揺れる水面の月影までが、清き音に打ち震えているように見える。

 彼女は、こんな夜にいつも奏でる旋律を爪弾いた。彼女の愛する人がかつて気に入ってくれていた、柔らかくて温かで、どこか物悲しい調べだった。

 その旋律に、彼女の歌声が加わった。

 すると、大気までもが彼女の歌声を聴こうとするかのような、意思にも似たエネルギーを発して流れ始めた。

 この声が、全ての獣や、果ては石や水にも耳を傾けさせる力を持つかと思えるほどの美しさを持っているのである。

 静かに歌っていながらも、その歌声は彼女を取り巻く無数の微風によって、隅々、遠くまで運ばれて行くので、森中にその波が満ちていった。

 あまりに風の流れが複雑で、例えこの歌声を聴きつけた者がいても殆ど、いや、全く誰もがその出所を知ることが出来ずにいたので、歌声を知る者達には夜の不思議とされていた。彼女の出身都市デルフィー同様、この都市の七不思議に数えられている。

 そして耳にした者の大半が安らかな眠りに誘われたり、美しき思い出や恋の睦言に夢中になったりしてしまうので、歌い手を探そうという意思は忘れられてしまうことの方が多かった。

 この歌声が森や街に満ちる間は魔物達も活動を止めて、眠りの中にいるようだった。だからこの森は静かで、街も平和の中にいられたのだ。


《誰にも負けないくらい強くおなり。そうしたら、きっとあなたを迎えに来るから》

ソニアはアイアスを想った。この言葉を胸に、5歳で別れてから16年もの歳月を猛稽古に励んできたが、トライアのトップとなっても、未だ彼はやって来なかった。

《あなたの歌は素敵ですね、ソニア。その声を聴いていると、とても心が和みますよ》

幼少時に言葉より先に囀りを覚えた才を持つものの、彼女が優れた歌い手であることを知る者は極少ない。戦士としての道を突き進むあまり、どうしてか、こんな側面は隠し続けてきたのである。だから、大衆の面前で唄う職業歌手と比べると異質な歌姫であるが、技巧だけでは真似の出来ない特別な声を彼女は持っていた。

 その声で、彼女は夜に訴えた。

 彼への追憶が高まり、哀しみが次第に強さを増していくと、歌声は静かな叫びになっていった。歌声に耳を澄ませていた魔物達は、そのあまりの切なさを純粋に受け止めて、中には一筋の涙を流す者もいた。


 魔物の大群の異常発生に始まり、サルトーリ王国を皮切りに始まった侵略戦争は次第に規模を広げ、今では世界大戦と呼んで差し支えないものにまでなっている。

 このトライアがあるナマクア大陸も例外ではなく、商道にも私道にも森にも海にも魔物の数が増えて、警戒度は最大まで引き上げられ、兵士や傭兵の護衛無しに人々が往来することはできなくなってしまっていた。

 それでもまだ、他の国よりもこの城都市一帯の魔物が比較的大人しくて済んでいるのは、(ひとえ)にこの歌の効用があったのに違いない。彼女の風の届く範囲では、魔物の出没も負傷者も死者も少ないものだった。

 ほんの少し前のある日、急に空気が重苦しいものに変わったことを感じ、それが一時的でなく、世界中に満ちているらしいことをソニアは戦の知らせにより悟っていた。

 それが故に魔物達の凶暴性が増したことにも逸早く気づいており、魔物達と育っただけに、本来の姿はそうではない者が多くいることを知る彼女は嘆いていた。

 まるで病のように魔物たちは次々と戦気に感染して狂い、人間のみならず仲間でさえも攻撃し、弱き者は排除されている。

 人間世界にも弱肉強食の法則があり、それを労りや文化心が和らげているものだが、その理の冷酷な側面や力ばかりが世界的に強められているかのようだった。こうして彼女の調べに涙することもあるくらい、本来は純粋で優しい魔物も多いというのに。

 侵略軍と同じく、魔物のことも大いに忌み嫌い憎んでいる人間達の中にあって、その考えを強く主張することは出来ず、相変わらず彼女は生い立ちを隠していたし、逃げる魔物は追い駆けずに放っておく彼女のやり方に反対する者も多く、日々絶えない事件の報告に怯える兵士や国民は、彼女の言葉に耳を貸す余裕がなかった。

 傷付けずに済むのならそうしたいソニアだったが、国軍隊長として、涙を呑みながら国民の安全を優先して魔物達を斬り続けなければならない時もあり、それでも、できるだけ過ぎた血を流さぬよう部下達に説いていた。

 しかも人間達でさえ、少なからずその戦気の影響を受けて凶暴性や残虐性が増したようで、戦時という状況を鑑みても多過ぎるように感じられるほどに盗みや暴行や殺人が増え、横行していた。

 一向に良くならぬ事態の中で毎日のように血を見る彼女は、傷付いた心をこうして夜の中で癒し、アイアスへの想いと平和への祈りをひたすら歌い、魔物達の心を鎮めることしか出来なかった。


 サルトーリが滅び、サルファが滅び、ビヨルクからの連絡も途絶え、その他多数の国でも今尚戦闘が行われており、いつ、このトライアにも戦火の炎が舞い込んで来るか解らぬ厳戒体勢の中にある。

 それなのに、彼女の待つアイアスの噂は一向に耳に入らず、代わって別の一団が義勇軍を築いて侵略軍に立ち向かっていた。彼等の活躍を聞く度に彼女の胸は疼き、迎えに来たアイアスと共にその一団に入って戦えたら、と願わずにはいられなかった。

 彼女だけでなく、多くの者がかつての英雄の活躍を願っても、未だにアイアスの登場は語られていない。

 世の中があまりにそれを願った為か、2、3のデマも流れたのだが、やがてそれは訂正されて待ち人達を落胆させた。デマが流れるたびにソニアも胸をときめかせ、痛ませたものだったが、ことごとく裏切られた。

(お兄様……今は一体何処にいらっしゃるのかしら……)

 哀しく切なく月を見上げながら、そうして小一時間歌い続けると、彼女はいつものようにまた城へと戻って行くのだった。



 トライアの朝、国軍隊長として城内の高官専用居住区に住まう彼女は、石造りの床と壁、天井に囲まれた、重厚かつ質素な部屋で目覚めた。

 女性とは言え、余分な飾り物は殆ど置いていない部屋で、王室付きの画家が描いた彼女の肖像画の他、先代以前の時代から備え付けられている姿見、衣装棚、机と椅子、トライア伝統の壁掛け、女官の気遣いで毎日変えられる一輪差しの花瓶がある程度だ。化粧品も人形も、フリルやレースのカーテンの類も何もない。王妃や王女の部屋ではなく、やはり、ここは軍人の部屋なのである。

 南向きにテラスがあり、朝日が昇ると、白い柵の柱に明暗のコントラストが生まれる。目覚めて最初に、そのテラスから朝日を眺めるのが彼女は好きだった。

 城勤めとなってからの長年の習慣で、彼女は毎日、朝食までの時間をトレーニングして過ごしている。

 鎧の下に着る、国軍兵服である膝丈の黒いチューニックに身を包み、腰紐で縛っても、見た目にはまだ軽装の王女らしかったが、剣を取ればそれなりに軍人らしくなった。

 ソニアは、2階であるこの部屋のテラスからヒラリと身を躍らせて城壁を越え、野山へと走った。世界が戦気に包まれようとも、朝の空気は夜より清々しく涼しい。

 ソニアは、とある野原へ到着すると、まずは深呼吸をし、それから静かに佇んだ。心の中も体の中も朝の日差しで洗浄する為に。

 鳥達は朝の始まりに会話を交わし、次第に温まってゆく大地からは野ウサギ達が顔を出した。

 暫しの瞑想を終えてソニアは目を見開き、まずは、ゆったりとした動作から入り始める。神殿で神に奉納する幽玄な舞踏をする踊り手の様に、指先にまで神経を行き届かせて腕を広げ、胸に寄せては突き出し、空気を撫でるかの如く滑らせる。足は少しのグラ付きもなく擦り、空を指し、大地を踏みしめた。

 舞踏は徐々に速さを増していき、彼女の額から汗が流れ落ちる頃には、小動物達がそれから目を離せなくなっていた。

 また一息つくと、今度は傍らに置いていた剣を取り、剣術の練習を始めた。風を斬る爽快な音が野原に響き、一振り毎に空気が冴え渡り、清められるようだった。朝日に煌く剣の軌跡は滑らかで、光が意思を持って舞いを見せているかのようだ。

 鋼鉄の剣は、数多の剣の中でも重量のある部類の物だったが、先代軍隊長より譲り受けた時から彼女は軽々とそれを振り回し、使いこなしていた。

 彼女の剣技には、戦士としての強さである集中力と彼女らしい繊細さ、シャープさ、思慮深さが溢れ出ていた。


 それを木陰から見ていた一兵が、やおら拍手しながら野原に出て来て、彼女に寄った。

「相変わらず精が出るな! ソニア」

赤制服の王室近衛兵隊長、アーサー=ヒドゥン。彼も度々この野原を訪れて、彼女の朝稽古に加わることが多い。

「おはよう! アーサー」

ソニアは剣を鞘に納めると、汗で濡れた前髪を片手で払って笑顔を見せた。

「もうそろそろ時間だぜ。遅れるとまたナコーヤが怒っちまうぞ」

「うん、わかった。後少しだけ」

ナコーヤとは、王城内の居住区に住まう高官専用の給仕係長である。修行熱心は感心なこととは言え、軍の高官2人の食事がよく遅れるので(朝以外は大抵勤務上の事情なのだが)、年輩の恰幅のいい女給仕長は「困ったものだ」と言っていた。

 アーサーはニヤリと笑って彼女に木刀を投げた。

「今日はオレが相手だ! 1本先に取ったら、今日はオレの言う事を聞けよ!」

「よぅし、負けないよ!」

気心の知れた幼馴染み同士、悪戯な笑みを浮かべてソニアは受けて立った。ふざけ合ってのチャンバラごっこは、デルフィーからの習慣だ。

 立ち回りと共に木刀の弾ける音が清々と快く鳴り響き、木々を抜けて渡り、反響した。

 こうして朝稽古の現場にやって来ない限り、仕事が始まれば私的に会うことはあまり出来ない重要な役職に互いがあったから、彼は可能な限りこの野原を訪れた。戦士として、将として、そして何より1人の女性として、彼はソニアに首っ丈なのだ。

「ハハハ! 参った参った! オレの負けだ!」

木刀を弾き落とされた彼は両手を広げて降参した。ソニアはそれを見るとニッコリして木刀を彼に返した。

「さぁて、何をしてもらおうかしら」

「お手柔らかにしてくれよ、ソニア」

ソニアはクスッと笑って彼の背を叩いた。少年、少女期には同じ背丈だった時期もあった2人だが、今ではアーサーの方が頭半分位高い。どちらも長身戦士だった。

「ウソ! 何か私にして欲しくて来たんでしょ? 何?」

アーサーは、少年期と変わらぬ爽やかな笑顔で嬉しそうに白い歯を見せ、彼女の背に手を回して城への道を歩き始めた。

「今朝はオレの所で食べないか? 久しぶりに2人で食事したいんだ」

「いいよ」

彼の部屋は1階の、空間位置的にソニアの部屋に近い端の方にある。城内居住の高官は各個室で食事を摂るのが普通なので、時間の合う時にはどちらかの部屋に運ばせて食事を共にすることがあった。女性の部屋に行くのは憚って、アーサーが彼女を自室に招くことの方が多い。

 そうして、2人は元来た道を戻って城に帰って行った。

 2人が楽しそうに話しながらやって来るのを城内の者が見かけると、2人が恋人同士だと信じて疑わないファン達は喜んで覗き見したものだが、実際のところ、彼女の心は違っていた。ソニアの心は今でも、どんな時でも、兄妹を超えた恋人とも言える存在、アイアスに向けられていたのである。


 彼の部屋の様子は、ソニアのものと殆ど変わらない。贈り物を貰っても城下に住む家族に譲ってしまうので、手元には軍人生活に必要で実用的なものしか残していなかった。

 ソニアも同様に、自分の役に立つ品物以外は誰かに使ってもらおうとした。だから2人の部屋は、他の高官達に比べて非常に質素である。

 女官に朝食をアーサーの部屋に運ぶように頼むと、間もなく専属の侍女達が朝食をトレーに乗せて運んで来た。卓上にテキパキと水や茶やミルクのピッチャーが置かれ、気の利いた花まで飾られて、侍女達の好意と悦びがそこに表れていた。

「朝食後、すぐに王室に参られるようにと仰せつかっております。お2人共にお話があるとかで」

時に秘書的役割も果たす侍女団の長がそう告げると、2人は目を合わせた。

「……そう、ありがとう。わかった」

 パンや身の締まった魚や野菜の盛られている皿の並ぶ卓に着き、2人は向かい合って、手早くそれらを口に放り込みながら話をした。いつ何が起きてもおかしくない情勢の中にあって、王の呼び出しなど日常茶飯事であったが、2人の目はもう軍人らしい厳しさを見せていた。

「昨晩遅くにテクトから使者が来たから……多分そのことだろうな。王様は封書を見て何も言わなかったけれど、重要なことだろう」

「救援要請だろうね」

「あの辺りは酷いらしいからな。そうだと思う」

「…………」

 アーサーは湖の魚を口に頬張りながらソニアの顔を見て、その手を止めた。恐怖でもなく、戦士らしい純度の高い怒りでもなく、彼女の物憂げな表情の中に読み取れたのは、深い悲哀だった。人間達の窮状に心痛めている様でもあり、でも、それだけではないことを彼は嗅ぎ取っていた。

 彼女には、彼にも未だ測りかねる謎めいたところがある。押し分けて入ってそれを覗こうとしたことのないアーサーは、そんな不可触の領域を大切に守り、ただ、彼女の総てを知り得ていないことだけを肝に銘じながら、いつかそれを知れる日が来ることを願っていた。

「人も……魔物も……沢山死んでいるのでしょうね」

「……お前は、よく魔物の肩を持つよな。滅ぼそうとは思わないのか?」

伏し気味の顔から上目遣いに彼の顔をジロリと見る彼女の視線に、責めの色が過ったので、彼は閉口した。今の情勢からして、その素振りは何とも異様だ。

「攻め入ってくる魔物は仕方ないだろうけど……きっと、戦う気のない魔物もいるはずよ。仕方なく戦っている者とか……。人間は、殺されぬ為に必死で魔物達を憎んで……その憎しみが必要のない血まで流すのでしょうね。戦は……嫌だわ」

それは、軍隊長として有り得ぬ発言だが、彼女がこんな変わった考えを持つことも含めて、アーサーは彼女が好きだった。しかし、こればかりは彼にも譲れぬ誓いがある。

「見分けている余裕はない。人里に姿を見せたら容赦なく倒すべきだ。オレはそうする。……片方でも両方でも、親を欠いた子供を作りたくはない。だから戦う」

アーサーはかつての大戦で父を魔物に殺されただけに、その誓いは固かった。ソニアはそれを心得ているので真っ向責める気はなく、ただ、これから続くであろう数々の理不尽な暴力と別れと憎しみを思い、心痛めた。

 ふいに、ソニアはこんなことを言った。

「私……早くここを出て、噂の『ホルプ・センダー』に合流したい」

アーサーは特別驚いて、齧りかけていたカット野菜を取りこぼしてしまった。

「な……何言ってんだよ!」

「早く戦を終わらせる為にも、前線で戦っている彼等と共に行動して、被害も憎しみも出来るだけ少なく済ませたいのよ。長引けば長引くほど良くないはずだもの」

彼はすぐに言葉が出せず、戸惑い、意味なく口をアワアワと動かした。

 溜め息をついて、その後ソニアはこう言った。

「……でも、私には待つ人がいるから……」

「……お前の言う……兄貴か?」

「ええ。……お兄様が迎えに来てくれるか、せめて姿を現してくれてからじゃないと、ここを動けない。……でも……あれから何年も経つのに……」

 アーサーは卓上に身を乗り出して覆い被さるように言った。

「出て行くなよ! 出て行っちゃダメだぜ! 兄貴のこと、待たなきゃいけないんだろう?! オレにいつもそう言ってたじゃないか! それに……オレやこの国は、皆、お前のお蔭で持ってるんだからよ……」

彼は、その後に続きかけた言葉を無理矢理押し込めた。

 彼の剣幕にソニアは目を丸くし、そして笑った。

「……ええ! 今はとにかく、お兄様を待ち続けて国を守るよ!」

アーサーはやれやれといった様子で、ぎこちなく椅子に座り直した。

「ハハハ……良かった。本当に行っちまったら、どうしようかと思ったぜ」

中断がちだった食事を2人は再開した。


 朝食が済むと、ソニアは部屋に戻り、国軍隊長が身に着ける鎧甲冑を手早く装備して王室へと向かった。

 軍のトップらしく、国軍隊長が装着する物は全て鋼鉄製で、白銀のパーツに海竜の暗緑色の鱗が所々あしらわれている。このナマクア大陸に竜はいないが、かつて東海岸に打ち上がっていた迷い竜の死骸が国王に献上され、それを利用したのだとか。退治した戦利品ほどの箔はつかないが、防護品としてもお守りとしても竜の体は重宝されていたので、無駄なく利用したのである。

 代々国軍隊長が身に着けているこの特別な品は、今ではソニアの体格に合わせて関節部分や胴体部分を絞って微調整してあり、見た目は縮んでいるが、相当な重量だった。

 そして腰には同じく鋼鉄製で、トライアスの彫像が刻まれている長剣を差している。この姿の彼女を見かけると、何年も城に勤めている者でさえ目を留めずにおれなかった。

 幾人もの視線に見送られながらソニアが王室の前に辿り着くと、そこにはもうアーサーが来ていた。赤制服の上に白銀の鎧姿だ。世界が不穏な情勢に移り変わってから、2人はこうしてほぼ全装甲に近い姿での勤務を続けていた。

 彼は彼女を見て目だけで笑うと、普段の真面目な顔に戻って、その扉を開けさせた。番兵が両脇から扉を開く。

「――――――ソニアとアーサーが参りました、王様」

 王はまだ床にいて、山と積まれたクッションに背を凭れさせ、薬湯を口にしていた。その傍らには、王の体を気遣って侍女のようにピッタリと離れず世話をしている王妃と、本物の侍女2人、そして、王の命を受ける為に控えている国務大臣と書記官等がいた。

 王は元々心臓に持病のある人で、このところ体調が優れず、体を休めていることが多かった。大戦が始まった心労からだと王妃は嘆いていた。

 2人の姿を認めた王は、病人らしく白んだ顔を、それでもほんのりと血を通わせて目を輝かせた。若き2人の兵士は国王のお気に入りだった。

「おお、来たか」

「おはようございます、王様」

 王は王妃に頷いて指示を出し、王妃の手から昨晩届いた書状が2人に渡された。2人はそれを広げて内容を見た。

 士官になれると思わず勉強をしていなかったら、今頃アーサーはさぞかし苦労をしていたことだろうが、学校通いのお蔭で彼は全く難無く公式文書を読み、また自分でも(したた)めることが出来た。

「おそらく察しはついていることと思うが、現在襲撃にあっているテクトからの嘆願書じゃ。もう既に首都の3割近い死人が出ているという。敵は例の侵略軍の一団であるらしいのじゃが、どうにも歯が立たんらしくての。

 ……テクトは我がトライアとは同盟関係にある友好国じゃ。古き縁の隣国として、放っておく訳にはいかん。また、人の道として是非とも手を貸したい。我が国の防備も重要であるが、幸い、まだ敵の手は伸びて来ておらん。何もせずにただ待つより、隣国の危機に手を貸すべきと思う。そなた達はどう思うかの?」

 ソニアは迷いのない真っ直ぐな目で頷き、一歩前に出た。

「お心に従います。私もそうあるべきかと。有事の際にはすぐ帰還できるよう手段を整えましょう。多勢ではそれが叶いませんので、110隊、111隊、112隊30名を連れ立って私が直接赴きます。宜しいでしょうか?」

 発言の先を越されたアーサーは、その言葉に慌てふためくようにして口を挟んだ。

「――――王様! どうか自分にも出陣の許可を! 近衛隊の指揮は副長に任せて、少数精鋭を徹底させるべく援軍に加わり、テクトの力になりたいと思います!」

ソニアは呆気に取られた顔をし、王の方は何やら楽しそうに笑みを浮かべた。

「近衛隊のあなたが出てどうするのよ?!」

「いつでも戻れるように少数にするんなら、より強い者が行くべきだ。平の国軍10人よりオレは働いてやる。それに身軽だ」

「だめだ!」

「行く!」

「だめだ!!」

「行くったら行くぞ!! オレは!!」

 顔を突き合わせて言い合う2人だったが、やがて、ソニアの方が根負けして溜め息をついた。見守る王妃や侍女、国務大臣と書記官等は目を丸くしているが、王はもはや声に出して笑っていた。

「派兵はそなた達の力を信じればこそじゃ。これまで、この国はそなた等に守られてきた。その力を見込んでいるからこそ、我が兵が行きて還ることが出来ると見込んでおるのじゃ。そうでなければ、誰がわざわざ戦地に大切な兵を送り込んで失わせるものか。

 出兵の構成も、詳細はそなた達に任せるつもりじゃ。アーサーが加わってもよろしい。最も良いと思う方法で、我が国とテクトを護っておくれ」

その命には、ただ従うのみだった。

「――――――はっ!」

 

 早速任務を遂行する為に2人は王室を後にし、扉が背後で閉じられると同時に向かい合った。

 アーサーは頑として譲らないつもりの意気込みを突き出した顎に表し、一方、ソニアはそんな彼を睨み付けるようにしていた。そうしている2人を、番兵が何事かとハラハラ見守る。

 アーサーは念を押すようにもう一度言った。

絶対に(・・・)、行くぞ。オレは」

 ソニアは頭を振りながら顔を伏せ、そして肩を揺すらせて、出し抜けに笑った。

「フフフ……アハハハッ! 全く――――――しょうのない人ね。わかったよ、アーサー! 抜かりのないよう副隊長に留守を頼んで、2人全力でテクトを助けましょう」

ソニアは呆れ半分の笑みでウインクした。

「これでご満足?」

ずっと気張って顔を赤らめていたアーサーは、ホッとするのと同時にますます顔を赤くした。

「ふん! 当たり前だ! お前が行くんならオレだって行くさ!」

 そして2人は笑い合い、拳をつき合わせ、少し深刻な顔に戻って廊下を進んだ。信頼し合う者同士、目的地に向かう時には目を見交わすこともなく、前だけを見ていた。

「テクトか……。トライアと軍事力も経済力も然程変わらない国なのに、どうして先に狙われたんだろう」

「さぁな……。でも、軍事力はオレ達の方が上だと思うぜ。敵がそれを知らないんだとしたら、それは、お前が国軍隊長になる前のトライアしか見ていないからだ。それに……この国が無事なのは、お前のお蔭でもあると思う」

「えっ?」

「お前の歌は、人間でも何でも鎮めちまう。だから、この城都はまだ平和なんだ」

アーサーは、彼女の歌とその力を知る、この国で唯一の人物である。彼の顔は誇らしげだった。

「お前ならきっと、テクトの魔物だって大人しくさせられるはずだぜ」

「……そんな……わからないよ」

戦場と化し、負のエネルギーに覆われた土地で効用があるものなのか、ソニアに全く自信はなく、その戸惑いの言葉は心からのものだった。彼もそれを理解した。

「――――まぁ、とにかくテクトの為に少しでも早く出発しよう!」

「……ええ!」


 2人はそれぞれが統べている軍の集会場へと向かい、たった今決定したばかりのテクト救援計画を告げ、遠征の出発人員には、ただちに旅の準備をするよう指示した。

 遠征慣れしている第1中隊上位の110、111、112隊は素早く手荷物をまとめ、未明に王が指示を出して資材も馬車に積み込まれていたので、遠征部隊の準備はすぐに整った。

 王は体調の為に一行の出発を見送れないので、代わりに王妃が集合広場の見えるテラスに立ち、整列して指示を仰ぐ精鋭部隊の勇姿を眺めた。

 110、111、112隊30名は既に騎馬している。連絡役兼戦闘要員の魔術師が5名、馬車係3名の他、異例の近衛兵アーサーが加わった小規模勢を前に、ソニアは馬上から言った。

「――――我々は、これよりテクトへと向かう! 遠征中の指揮は私が執る! くれぐれも、無闇に血を流さぬように! 我々の目的はただ一つ、テクト民の人命救助だ! トライア最高の部隊である諸君の力を信頼している!」

 ソニアがそう叫ぶと、兵は一斉に声を上げた。

「オ――――――ッ!!」

 ディラン率いる、ジマーも擁する110隊ですら、これから向かう先が確実な戦場であるだけに、厳しい顔をしていた。

 魔術師は2名が騎馬し、3名は馬車に乗った。それぞれが緊張に肩を怒らせている。

「地の道から向かうが、一刻も早い到着が望まれる! 全行程商道を通り、道中は魔物との已む無い戦闘がない限りは、駆け抜けて行く予定だ! 道中の後衛はアーサー=ヒドゥン近衛兵隊長に務めてもらう! 皆、彼の指示に従うように!」

「オ――――――ッ!!」

不安の為に、無理にでも皆は叫んでいた。

 アーサーが馬ごと進み出て、皆の前で剣を抜き、高々と掲げた。

「――――女神トライアスの御加護のあらんことを! アール・トライアス!」

「アール・トライアス!」

全員が拳を天に突き上げた。

 ソニアとアーサーは目を見交わして頷き合い、アーサーは隊列の後方に下がって、ソニアが先頭を切り、城門を開けさせた。

「――――――出発!」

彼女の掛け声と共に、国軍隊長の白馬アトラスが2本立ちになって一声嘶き、そして蹄の音も高く門を越え、城外へと出て行った。110隊がそれに続き、111隊、馬車と術者、112隊、アーサーの順で2列縦隊が連なる。

 城下街で行軍の音を聞きつけた人々は、仕事の手を止めて通りに顔を出した。出発の理由をまだ知らずとも、主要なメンバー構成と馬車付き、魔術師付きの様子から大方の目的を察して、深刻な面持ちで一行に手を振り、出発を見送った。

 白馬の国軍隊長、赤制服の近衛兵隊長、そして第1中隊上位の精鋭達。この困窮の時にあって、民の誰もが、これら平和の勇士達を必要とし、愛していた。

 彼等の姿が消えても、テラスの王妃は暫くハンカチーフを振り続け、民は祈りの言葉を呟いた。



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