第4部24章『出会い』2
トライアの朝。城下街に住む人々は、朝日が昇ったばかりの早朝に、皆一斉に飛び起きた。家の前で伸びをしていた老人などは、危うく腰を抜かすところであった。朝日と共に巨獣の雄叫びが轟き、城下街一帯を突き抜けていったからである。
鶏は暴れ、豚も牛もギャーギャーと喚き、馬は嘶いた。赤子も泣くし子供も泣くし、城の兵士でさえも何人かが思わず悲鳴を上げてしまったほどだった。
原因は、皆が暫く冷静になって考えてみればすぐに解るあのゼファイラスであり、教師のアスキードが「おはよう、朝の散歩に行こうか」とやって来たので、目覚めの解放感と朝日の歓びに思わず声を上げてしまったのである。単純に、ワーイというものだ。
これから早朝運動に出ようとしていたソニアが慌てて駆けつけたものの、理由を聞いて叱るに叱れず、苦笑しながら注意することしかできなかった。
アスキードも大弱りである。彼に非はないとソニアは慰めた。まだ着任2日目だ。全く、大きな鶏だね、とその場の兵士達皆で笑い合って、城下街に今の経緯を説明して心配せぬよう伝えてくれるように兵士達に依頼し、こうして慌しくも今日の彼女の一日が始まった。
祭の準備に向けて兵を配置し、各地から入ってくる情報にも耳を傾ける。そしてビヨルクへの物資の輸送。この一番重要な仕事は朝のうちから取りかかった。
ビヨルク派遣隊の第一陣は、城都に直接流星術で赴くことのできる魔術師を含んだ一団で、建築技師も護衛の兵士もそれぞれが背負えるだけの物資を持って出発した。まずは挨拶を兼ねた最初の小規模なものである。これを機に、徐々に救済ルートを活発化させていくのだ。早ければホルプ・センダー側の救援も到着していることだろう。
そしてソニアはゼフィーにも救援部隊のことを話してみた。寒いのが平気だったら、このような状態の土地があるから、行って助けてくれないか、と。
ゼフィーは快く引き受けた。寒いのは多分大丈夫と教えてくれるのだが、もし行って合わないようなら帰ってきてもいいのだとソニアは言っておいた。王子が承諾の返事をくれたら、すぐにもゼフィーは出発することになる。勿論、その場合はアスキードも一緒だ。
ゼフィーと話し合えた後はアスキードに任せ、彼等は早速飛行練習の為に飛んで行った。アスキードに合わせてゼフィーが低くゆっくり飛んでいくのを見届けると、ソニアは軍隊長として祭の警備体制に関わる仕事を始めた。
彼女の不在時にかなり体制はできあがっていたので、この分であれば例年通りうまく回り、ことが運びそうな様子である。祭の期間の警備体制は常時と比べて少々特殊なものとなる。全兵士が通常の持ち場にいる訳ではなく、約3分の1が制服着用の勤務に残り、その他は私服で祭に参加することが許されている。その代わり、揉め事や問題が発生した際には国軍の章を示して解決に従事するのだ。酔っ払いの騒ぎやスリや盗みは必ずと言っていいほど起きるから茶飯事であるが、そういった出来事にあまり遭遇しなければ、兵士もたっぷりと祭を楽しむことができるのである。
このスケジュールにより、殆どの兵士は3日間行われる祭りのうち1日を完全拘束されるだけで、残り2日間については一般市民と同じように心待ちにして開催を喜ぶことができるのであった。
ただ、軍幹部や近衛の者は、城の守りと統率者としての役目を果たす責任があるので、3日間のうち僅かな時間を交代制で出て行き、城下街を廻ってくるだけとなっている。ソニアに代表されるように、責任ある役職の者達は一般市民と同じレベルで祭りを楽しむことはなかなか出来ないのだ。
職務第一の彼等にとっては、祭の無事進行こそが本望であり、歓びであるから苦にはしていないのだが、逆に市民側の方がそれを惜しんでいたりする。特に人気の高いソニアやアーサーなど若い軍人達にこそ、自分達の生み出した作品や音楽、踊り、舞台など、是非見ていって欲しいという要望は毎年上がり、年々強まって、不満と言える域にまで高まっていた。
国王もそれは把握していたので、昨年辺りからは彼らにも積極的に祭に参加するよう勧めている。交代時間を長めに設定したり、その間の代役を十分にあてがったりなどして、幹部も祭を楽しんでこいとの直々の仰せだから、幹部も街の視察を兼ねてお忍びで長く出歩くようになった。
今年もそれでいこう、と前々から決まっていたのだが、これこそ同時に複数幹部が一斉にいなくなると問題なので、厳密にスケジュール立てする必要があり、ソニア不在の間は決定を下すことができなかったので先送りされていた。彼女がきっと戻ってくる、という願掛けとしても、不在のうちに重要事項を決めてしまうのは不吉と考えて見合わせていたのだ。
そこで、昨日の休暇も終わり、本日から本格始動となった彼女を含めて幹部が一同に会し、国王の面前でこのスケジュールについて話し合いが行われた。他についてはどこも万事順調なので、各部署の報告が終わると早速この議題に入った。
「軍隊長様は昨年も殆どお出にはなりませんでしたな」
「ほんの2刻ほど回られただけでしたね」
会議室のテーブルに、ソニアの他、副軍隊長、参謀長、近衛兵隊長、近衛兵副隊長、祭の実行長官、国務長官等が向かい合って座し、国王に顔を向けている。
自分はどうしてもあの催し物だけは見たい、というような希望を募って、他の希望者と被らなければ、その者が優先されて特定の時間を自由時間に割り当てられるのだが、随分と早い段階からソニアに焦点が当たった。皆が、自分の希望を言うより先に彼女のことを話す。
「この時節ですが……今年もせめて半日ぐらいはごゆるりとされては如何ですか?」
「メキタ参謀の言う通りだ。今年こそ、そのくらいは街に出るべきだ」
小柄の参謀に強く相槌を打ってアーサーがそう加わるものだから、ソニアは皆を見回した。
「どうしたの? 皆。私のことからそんなに言い始めて」
彼女が帰還する前から内々に話が進められていたようで、待ち構えていたかのように皆が言う。
「ソニア様は軍隊長になられてからと言うもの、祭りの警護に身を捧げておられます。まことに結構なことではございますが……なれど……もう少しお楽にされてもいいのではないでしょうか」
「左様です。ソニア様は今回で軍隊長就任より5度目の祭となりますが……今までは昨年同様ほんの一時城下街を回られただけでした。もっと羽を伸ばしてもいいのでは?」
「民も待ち望んでおります。正直、せっつかれてしょうがありません。ソニア様を解放してやれと、まるでこちらが悪者のように責められるのですよ」
国王も皆も、苦笑しながら賛同した。
「私の妻など、『あなたは来なくてもいいから、ソニア様を出せ』と、こうきましたよ」
参謀の話に皆はもっと笑う。ソニアも皆の熱心過ぎるところがくすぐったくて苦笑した。
「ハハッ。なんだか、私をこの城からどうしても追い出したいみたいだね」
「いや、追い出すわけでは……」
生真面目な副軍隊長は、彼女が安心して出られる言葉を探そうと迷うのだが、そうこうするうちに誰より早くアーサーが身を乗り出してきてきっぱりと言った。
「追い出したい」
他の皆は一瞬固まった。こんな台詞を言えるのは彼だけで、いかにも彼らしいのだが、やはりちょっとビックリする。王は最初からニコニコと見守っていた。
「追い出してでも、今年は祭に出てもらうぞ! そうでもしなきゃ、お前は行かないからな!」
副軍隊長はホッと胸を撫で下ろして微笑み、付け加えた。
「此度のことで、我々も軍隊長様不在の折の身の振り方を学び、十分勉強させていただきました。今までの我々とは違いますから、どうぞ我々を信じて祭を楽しんで下さいませんか」
こう言われては、ソニアも一笑に付すことはできなくなった。将校になる前の時代に存分祭りは楽しんだと思っているのだが、皆にそう言われれば確かに生の祭からは遠ざかっている気がする。昨日はアトラスで帰還の挨拶回りはしたが、そんな風にではなく、一市民として普段着で城下街を歩くことはめっきりなくなってしまっている。
自分が不在でも軍が正常に機能する為の訓練を祭でも実験的に行うのだと思えば、そう悪い気もしない。こうして、彼女の頭の中でも祭りへ行く名目が整ってしまった。
「……そうね。皆がそれほど考えてくれているのなら……今年はもう少しゆっくり見てみようかしら」
「そうなさいませ!この際、半日と言わず丸一日行かれてはどうです? 一日だとて、この城下街中の催し物を見て回ることはできないのですから」
「そうだ。思い切って一日行けよ! その時は残るオレ達全員で祭は見守るから」
思いもかけない展開にソニアは目を丸くした。昨日のような休暇はともかく、祭の会期中に城公認で丸一日外出するなど、考えたこともなかった。
ようやく国王も穏やかな声で加わった。
「ワシですら祭には出掛けるのじゃ。そなたより長く行ったのでは、ワシも後ろめたい気持ちになるからのう。そなたが一日行ってくれれば、ワシも心置きなく祭りに参加できる」
ソニアは観念のしるしに両手を上げて見せ、笑いながら承諾した。すると皆も喜んで、決まった、決まったと手を叩く。どうやら一番の重要事項はこれであったらしい。
3日間の会期中、初日と最終日はやはり重要であるから、彼女が出ていくのは真ん中の2日目ということになり、それさえ決まれば後はすんなりと無駄なく幹部のシフトが配分され、ソニアと国王の承諾を待つだけとなった。
あまりに手回しがいいから、またソニアは笑い、今度は上げた両手をヒラヒラとさせた。
「参った! 参った! 感心したよ。そんなに考えてくれてたんだね。これなら安心して街に行けるよ。ありがとう」
「さぁ、大変ですぞ。2日目は引っ張りだこですな」
「そりゃあ、変装して行かれるでしょう」
「いやぁ、ソニア様はすぐに判りますでしょうし」
「いずれにしても、このことを発表すれば、ようやく妻も民も納得してくれますな」
皆でこの決定を喜び談笑していると、ビヨルク派遣隊の魔術師が早くも帰ってきたとの知らせが入って場が一時中断した。大急ぎでその魔術師を呼ぶと、実に意気揚々と入ってきた。
彼等は大変に歓迎され、技師達は早速仕事に取り掛かっているという。そして、正式な礼状は後ほどメルシュ王子から来るそうなのだが、彼の意志だけ先にこの魔術師が伝えに来たのである。メルシュ王子はゼフィーが来ることを歓迎するそうだ。
それで、後の会議は彼女がいなくとも進められる内容であったので、彼女は退出を許してもらい、ゼフィーの所へと行った。ゼフィーは食後の睡眠を取ってパッチリ目が覚めている所だった。
ソニアは改めてゼフィーとアスキードにビヨルクのことを説明し、たった今王子から承諾の連絡が入ったから、そのつもりで仕度をするように言った。ゼフィーの方は身一つだが、アスキードの方は北方王国向けの装備など物入りであるので、彼が仕度に忙しくする間は変わってソニアがゼフィーの面倒を見、よく話をしておいた。ゼフィーも、雪で一杯の白い大地や雪猿のことが楽しみであるらしい。
まだこの国に慣れぬうちに北へやるのは可哀想であったが、ゼフィーはソニアのその思いも汲み取った上で引き受けていた。ソニアの仲介あってこそではあるが、人間は概ね彼に仲良くしてくれているので、新たな土地の人間のことも期待しているのである。
あの王子であれば、きっとゼフィーを可愛がってくれるであろう。
兵士らしく短時間で荷物を纏めたアスキードはゼフィーに乗り、その後ろに更に魔術師が乗って出発準備が整い、一向は星となって飛び立った。
馬や家畜に流星術を使うのは危険だが、あのゼフィーなら大丈夫であろうと、ソニアは笑顔で見送る。流星の軌跡は、北の空に向かって弧を描き、やがて薄れて消えて行った。
それから会議室に戻ると、高官達がまだ会議を続けており、しかも終盤だったので決定事項だけ聞き、後は一通りの内容に賛成してこの会議は終了した。
少々長くかかったので、我が持ち場に早く帰ろうと皆は会議場を後にする。そんな中で、ソニアは王に報告があると言って皆を先に退出させ、去り際に参謀長と軽く会話をした。
「ところで、ソニア様はジュノーンの後援をなさっておいででしたな」
王立の歌劇団のことである。始めてこの都に来て舞台を観て以来、ソニアは歌劇団を好んでおり、都合のつくときはよく舞台を観にも行っていた。今は重要な役職であるので、以前ほど気軽に足を運べない分、資金援助などで後援をしている。
「ええ、今度の祭の舞台は特別だそうよ」
「何でも……ソニア様の提案で『トライアス』叙事詩から選ばれたものだとか」
さすが情報に関しては早い。ソニアは認めた。
「かなり話題を呼んでいるそうですな。これまでにない奇抜な物語で、演出も手が込んでいるとか。これは当たりそうだ、と関係者が言っておりましたぞ」
「そうなの。それは良かった。ずっと出来具合を窺う暇がなかったから、どうなっているのかと思ってたよ。ほんの軽い気持ちで、団長や役者達と会った時に言ったことだったけど、そんなに取り入れてくれるなんて驚いた」
「私も、必ず拝見しようと既にチケットを手に入れております」
「まぁ、嬉しいことだわ。ありがとう、メキタ。あなたも当日は自由時間が限られているというのに、長い舞台を観てくれるなんて」
参謀長は「なんの」と言うと、会釈して会議場を去っていった。
王は彼女と話があるのが解っているから、まだ席に座している。これで衛兵以外は2人きりとなった。
ソニアはまずゼフィーをビヨルクに出発させたことを報告し、その他にも幾つかの事項を伝えた。そして事務的なことが終わると、今度は願って人払いをさせた。
王も薄々そのような話になるのではないかと気づいていたので、すぐに兵を下がらせ、真顔になった。