第2部第5章『再び、アイアス』その2
変化とは一気に訪れるものなのか、傷心の反動で目まぐるしく世界を周っていたその時に、アイアスは遂に不思議な出会いをした。人里離れた中央大陸中心部に広がる森林地帯奥地の湖畔で景色を眺め和んでいた時、1人の人間が現れて彼に話し掛けてきたのである。
中肉中背の男で、彼より10歳以上は年上に見える赤毛の旅人風の人物だった。
「あんたは、ヴォルトという男を捜しているそうだな」
人に出会わぬと思っていた場所での出会いと、その一言に、アイアスはドキリとした。
「……そうですが、あなたは?」
男の目は琥珀色に澄んでいて、目を合わせているだけでビリビリと伝わってくる何かがあった。
「私は旅また旅の身の上故、多くの者を知っている。その男を知っているかもしれない。……あんたが捜しているのは、どういう男なんだ?」
アイアスは慎重に息をつき、感嘆と恐怖に同時に心震わせて言った。
「……人前では軽々しく申し上げられない素姓の方です。私は、その人の敵ではありません。ただお話がしてみたいだけです」
「ほぅ……どんな素姓なのだ? 軽々しく言えんとは」
男は眉を吊り上げ面白そうに笑んだ。不敵で油断のならない笑みだ。
「……人間ではない方です」
男は目を細めた。そして両腕を組んで湖岸に寄り、ひとしきり景色を目に入れてから、ゆっくりと振り向き、言った。
「あんたは何者だ?」
「アイアス=パンザグロス。アルファブラ王国の出で、もとは捨て子でした。自分の出生を知りたくて、長い旅をしています」
「……やはりな。先の戦いの勇士か」
男は彼に背を向けたまま、顔だけ振り向けてアイアスをジッと見つめていた。アイアスも真剣に男を見つめ、目で互いの多くのことを読み取った。
「私がヴォルトだ」
予想はしていても、更にアイアスの胸は高鳴った。
ヴォルトは人化術を解くことなく、そのままの姿でアイアスと語らった。両手を広げて身振りも加えて話すアイアスに対して、ヴォルトはずっと腕を組んだままで、警戒心が強いのか、敵と思っているのか、或いはただの癖なのか何とも解らぬ不気味さがあった。
ヴォルトは、アイアスの情報に関して、この世の人々が持ち得るのと同じかそれ以上のことを知っており、アイアスがヴォルトに尋ねることの方が多かった。
アイアスは次々と問いかけた。どのように生まれ、育ち、暗黒竜ディベラゴンの軍との戦いに至ったのかを。ヴォルトは多くは語らず、全てを簡潔に説明し、アイアスが知りたいよりずっと少ない情報しか与えず、多くを伏せていた。人間でも、年輩の男から詳しく話を聞き出すのは困難なことだが、わざわざ会いに来た者としては、それ以上に秘密主義のようだ。
ヴォルトはズバリ訊いた。
「あんたが私を捜した一番の理由は何なのだ? 何が訊きたかった?」
アイアスはゴクリと喉を鳴らして、未だに耳に鼓動を感じていた。
「『天使』というものについてです。……私は、天使だと言われている。だが、自分ではよく解らない。あなたはどうやってそれと知ったのですか?」
ヴォルトは湖の方を見、そして哀しげに目を伏せた。
「……知ってなどいない。私もそう言われ、ただ受けとめているだけだ」
アイアスは落胆した。どうあっても自分に答えはもたらされないのだろうか?
「私はこれまで天使のことを調べてきました。その運命や生誕の謎を、ずっと……。だが、結局何も解らない。自分が何者なのか未だに解らないのです。天使だと言われるあなたに会えば、何か知ることが出来るのではと期待していました」
「……だとしたら残念だろうが、私には何も期待できんよ。私は普通の竜人や普通の人間とは変わっているから、それを理由に自分が天使であると受けとめているだけだ。……私もかつて、己の謎を知りたかった時があった。だが、今日まで解らず仕舞いだ。だからもう諦めている」
暫く言葉なく、2人の間に沈黙が流れた。
アイアスは敢えて続けた。
「……私は、人より魔法や戦闘に長じていただけで、それ以外は全く普通の人間なんです。ただ、背中に伝承通りのアザがあるだけで。あなたは……どのように変わっているというのですか?」
その話をする気はあまりなさそうな素振りだったが、一応彼は答えてくれた。
「……普通の竜人というものは、このように人間の姿になることは出来ないのだ。魔法無しで。私のこの姿は、変化によるものではない。私の実体の一つなのだよ」
アイアスはポカンと口を開けて、その言葉を幾度も反芻した。
「それほど変わっているのならば……確かに、あなたは天使なのかもしれない」
また沈黙。あまり楽しい空気ではなかった。
「……どうして、会いに来てくれたのですか?」
「あんたなら、もう1人の天使が自分を捜しているかもしれないと知ったら、どうする?」
アイアスは笑み、その通りだと言わんばかりに3度頷いた。
「もし……私達が2人共天使だったら……こうしてまだ生きているのは、この先にまだ大きな使命があるからなのでしょうか……?」
「それも解らんよ、私には。確かに異例のことではあるんだろうが」
「その時……私達は、共に同じ使命に向かって戦えるのでしょうか……?」
ヴォルトは、解読不能の複雑な光を宿らせた瞳でアイアスを見据えた。
「……さあな」
それ以上話の発展は望めず、この会談の終わりの気配が近づいた。アイアスは右手を差し出したが、ヴォルトはその手を見ただけで、取ろうとはしなかった。
「あなたと私は、持てる体こそ違えど、唯一の同族かもしれません。私は、あなたと良い関係を築きたい。また会ってくれませんか?」
「……私がそれを望む時があればな。いや……そうでなくても、いずれ会えるだろうよ」
そう言ったきり、ヴォルトはクルリと踵を返して森の中へと入って行き、姿を消してしまったのだった。
謎が未だ謎のままであることは変わらなかったが、同じ苦悩の中にいるもう1人の人物の存在を知ったことは、アイアスの根底にある孤独を幾分か和らげたのだった。
それからも、アイアスは何度かヴィア・セラーゴからヴァイゲンツォルトに赴いて探求を続け、ヌスフェラート社会潜入も巧みになり、友の家もよく巡って世界の平穏無事を見守った。ヴォルトと会うこともなく、アルファブラの使者に捕まることもなく、気楽な1人旅はこれまでと同じように続いた。
1人の夜に故国の王女のことや幼女のことが思い出されたが、幼女と別れてもはや久しく16年の月日が流れている。王女に至っては18年だ。
暫く泣き暮らしていたらしいとう噂の王女も、幾ら何でも放浪の男に呆れ果てて、英雄が恋敵と知りながら求婚を続けた情熱的な夫との新生活にも慣れ、幸せになっているだろうし、かつての幼女も今や立派な大人のはずだ。遠い昔の置き去り屋のことなど、もう忘れていても良い頃だと思っていた。また、そうであって欲しいと願っていた。
そんな折、アイアスはとある海沿いの街の宿屋で、チェック・アウト際にある物を手渡された。昨晩遅くに来た者が、客が目覚めた後で良いから渡して欲しいと託していった手紙だった。
きちんと蝋で封印されている封書だ。宛名には《もう1人の探求者へ》と書いてあった。それだけでアイアスの胸は高鳴った。
宿の外に出て人気のない道まで来てから、階段に腰を下ろしてアイアスは封を切り、中身を拝見した。
あれから6年ぶりの、ヴォルトからのものだ。彼の字を知らないから真偽は解らないが、彼の名を騙ってこんな手紙を寄越す者がいるとは考えられないし、宛名の言いぶりからして間違いはなかった。きっと、彼が望む時が来たのだ。
《アイアス=パンザグロスよ。
君の健脚ぶりは噂に聞いている。
互いに、まだまだ死ぬ気配も使命の予感もなさそうだな。
実は、訳あって君に会いたくなった。
突然だが、パラドール海のイクレシア島まで来てくれないだろうか。
今度の新月の日にそこで落ち合いたい。
面倒な願いだが、きっと君は来てくれるだろうと信じている。
島の城跡で君を待つ。会える日を楽しみにしている。
ヴォルト》
そうして、新月まで後2日ありながらアイアスはすぐに飛び立ち、霧の中でイクレシア島を探して、その日の夕方には城のある島を見つけて到着したのだった。
夜は焚き火の炎を見つめて物思いに耽っては眠り、次の日は島中を探索して、ヴォルトが何故この島を選んだのかを考え、そうしてまた夜を過ごして約束の日を迎えたのが、今日までの経緯だった。
アイアスは、朝霧の城跡で早くから目立つ場所を選び、倒れた石柱に腰掛けて、青い甲虫の神経質な手入れ様を眺めつつ、ヴォルトが現れるのを待った。
彼は、これまでの人生でこんな風にして誰かを待ったことはなく、その時間を普段より長く感じたので、ふいにまた、彼を待っているかもしれない人々のことを思い出し、考えた。博識、人格者と言われる彼でも、普通の人なら大概知っているようなこんな事を、意外にもこれまで体験してこなかったのだ。いつでも自分が行動者で、先を行く運命にあり、待ったり、ジッとしていたりするのは彼の本分ではなかったからである。
もし彼女達が、両親が――――――未だ彼を待っているとしたら……?
18年…………
アイアスはそれを思ってブルリと肌を震わせた。かつて逃げてしまったとは言え、彼はまだ皆を愛していた。愛していればこそ、その年月は改めて恐ろしく感じられた。
待っていないで欲しい。忘れてくれていて欲しい。
だが……もしまだ待っていたら……?
アイアスは空恐ろしくなり、長い旅の中で、初めて彼等の下に帰ることを考えた。
例え会わなくてもいい。端から見るだけでいい。
いや……会わねば確かめられないだろうか……?
ともかく、一度帰ろう。今度のことが終わったら。それからまた旅立ってもいい。
老いた父、母、アルファブラの王に王女、そしてトライアの幼子。
彼等の顔を思い、涙を思い、この霧の魔力なのだろうかとアイアスは不思議さを感じながら、帰郷への熱い想いに満たされていった。
長い孤独の旅を自分に課してきた彼が、ようやくそれを許せる憩いの時が訪れたのか。或いは、この孤独にもはや耐えかねているのか。自分という魂の深い所で、1人きりではないのだと感じさせてくれるヴォルトとの再会が近づいたから、そんな気になっているのかもしれなかった。
日が傾いてもヴォルトは現れず、昼間は晴れていた霧がまた発生して、次第に黄昏に染まっていき、霧の中は光の乱反射によって、天国にでもいるかのような眩しく幻想的な世界に移り変わっていった。太陽が沈むギリギリまでそれは続き、日没とともに光量が落ちていって、それでも上空にある雲の反射光を取り込んで未だ仄明るく輝き、蛍が死ぬ最期の時まで光を灯しているかのように、ゆっくりと光は閉じていき、青い闇が訪れ、やがて漆黒に覆われた。
アイアスはまだ焦りを見せず、彼が現れぬ事情をあれこれ考えてみていたが、《新月の日に》と言っているだけに、もしかしたら月を意識しているかもしれないので、実は夜のことを示しているのかもしれないと思い、用意していた薪に魔法で火を熾して、闇の中で尚も待った。ただの闇の中より辺りは明るくなったが、見通しの利かないことは相変わらずで、新月の夜闇は濃く、霧の向こうは完全なる暗黒の中にあった。
何故、今日、この場所を選んだのだ? ヴォルトよ。
夜になると、然程待たずして霧の中に何かの光が閃いた。乾いた空気の中で聞くのとは少し違っていたが、それが流星呪文だということがアイアスには判った。到着したのである。
焚き火の側で座っていた彼は起き上がり、焚き火の明かりを頼りに近づいてくる者の、サク、サク、という草を踏む音を聞きつけて、そちらに向いて、相手の姿が見えてくるのを待った。
見えてきた影は予想よりも大きく、明らかに、人間の姿をしている時のヴォルトではなかった。竜人の方の姿になっているのだろうか?
やがて現れ、焚き火に照らされた姿にアイアスは言葉を失った。
紫色の肌、血管の浮き上がる顔、この闇よりも更に濃い漆黒の髪と目の逞しい巨漢。耳も爪も鋭く伸びて攻撃性をありありと表しており、暗黒の中から登場するのにあまりにも相応しい悪魔の様相を呈していた。
「……やっと会えたな、天使アイアスよ」
これは何かの間違いだとしか思えなかった。彼が、彼自身の手で倒したはずの男が、そこにいる。アイアスは霧に毒されたのかと自分の目を疑い、戦慄きながら、掠れるように言葉を吐いた。
「……バ……バル=バラ……タン……?」
悪魔は裂けるような不気味な笑みを顔いっぱいに広げ、牙を露にし、輝かせた。
「地獄から甦り……再び相まみえんと戻って来たのだ。死霊を恐れるがいい」
悪魔の低い笑い声を聞きながら、アイアスはパニックを起こさずに考えた。あの時、自分はバル=バラ=タンを倒し、蘇生することがないよう、確かに灰にまでしたのだ。現在自分が知り得る方法には、そこから死者を呼び戻す術はない。如何にヌスフェラートが魔術に秀でているとは言え、そこまでの技があるとは思えない。
目の前のこの男は実に生き生きとしており、墓場から甦ってきたような禍々しさや、虚ろな生気ではない、れっきとした生者の標を持っている。
「……どういうことだ……? あなたは、本当にバル=バラ=タンなのですか? それとも変化術を……? 何故、死者の姿を借り、名を語ろうとするのですか?」
「借りてはおらん。これは我輩の姿だ。……なに、貴様を驚かせてやりたくて少々戯れてみただけのことよ。我輩の名はサール=バラ=タン。バルは我輩の弟だ」
それでようやく合点がいき、アイアスは細くため息をついて、サールをサールとして観察した。体付きといい色調といい、よく似ているが、この男の方が記憶の中のバル=バラ=タンよりも毛深いことに気づいた。
「……弟の仇を討ちに来たのですか?」
「まぁ、そんなところだ。誰が来ても良かったのだが、我輩の手で葬りたかったから志願したのだ」
アイアスは剣の柄に手を掛け、いつでも抜けるようにした。
「……私はここで、ヴォルトと会う約束だったのです。それがどうして、あなたがここにいるのです? あの手紙は、確かに彼のものだと思ったのに」
サールは目を薄くして、また低く地を這うような声で笑った。
「確かにヴォルトが書いた。貴様をここに誘き寄せる為にな」
アイアスは耳を疑って硬直した。サールもその効果を楽しんでひとしきり眺めていた。
「……貴様を見つけ出し、戦い易い場所に連れて来ることは困難だったのでな。『自分なら呼び出せる』と言うので、力を借りたのだ。ヴォルトは我々の仲間だからな」
「……まさか……嘘だ……! 天使である彼が何かに与したり、ましてやヌスフェラートに力を貸したりするなんて……!」
それこそが自慢であるかのように、サールはまた笑った。
「貴様は人間的な天使として世に降りて来ているのだから、そう思うのも無理もあるまいが、天使とは、必ずしも我々の敵ではないぞ。要は、どう感じ、判断するかだ。自分が戦うべき相手が何であり、成すべき事が何であるかをな。そしてヴォルトは決めたのだ。カーン様の一大計画に加わるべきであると」
「一大計画……?」
「我等が皇帝、カーン様は偉大だ。かつて、これほどの事を試みられた方はいなかった。恐らく史上最高の帝王として後世に名を残すことになるだろう。それを見極めたからこそ、ヴォルトも賛同し、カーン様のお声に応じて仲間となったのだ」
夜霧に包まれ、現実感を失いそうな空気の中でアイアスは震撼した。ヌスフェラートは策略、謀略を大いに行う、彼の忌み嫌う一族ではあるが、戦いにおいて積極的に嘘をつくような真似まではしない誇り高さを持っていると知っている。相手がバル=バラ=タンの兄ならば尚のことだった。あの男は残虐ではあったが、戦いは堂々としていたものだ。だから、アイアスはサールの言葉をほぼ真の事と受け止め、聞いていた。
「……何をするともりだと……?」
「かつての我々は、効率の悪い無駄な戦いを繰り返してきた。そしていつも天使に阻止されてきた。もはや、そんな時代は終わったのだ。カーン様は大軍団を結成し、遂に天使の1人までもその中に引き入れた。今度こそ、徹底的に、全力を挙げてこの地上を奪うのだ! 我々のような優れた一族にこそ相応しい豊かな大地を、我々の手で勝ち取るのだ! この先、天使の1人や2人降誕したところでどうにもならぬほどの力を持ってして、大波の如き軍勢と火の如き将達によって全てをさらい、焼き尽くすのだ! 弟は逸り過ぎていた。もう少し待つべきだったのだ!」
恐れていた事がついに現実になると、アイアスはピリピリと肌を震わせた。総毛立ち、今にも静電気放電が起きそうなくらいに感じた。
これまで幾度かヌスフェラートの国に潜入しておきながら、この動きには全く気づいていなかった自分を恥じた。或いは敵は、それほどひっそりと極秘に事を進めてきていたのだろうか?
「進撃の前に清算しておくべき事があると我々は考えてな。この先必ず邪魔になるであろう貴様をまずは葬り去り、それを皮切りにときの声を上げようということになったのだ。その役を担うのは、我輩を置いて他にはいなかった。天使アイアスを倒し、バルの仇を取ってこそ、進撃の合図に相応しいからな。
カーン様はヴォルトにその役を負わせようとお考えになっていたが、さすがにヴォルトもそこまでは出来ないようだった。天使同士の対決を見てみたいものだったがな。カーン様はヴォルトを天使として尊重なさっていて、命じられる関係にはないから、それを了解なさった。
念の為、ヴォルトの名誉の為にもこれだけは言っておこう。ヴォルトはこの島へ呼び出す手紙までは書いたが、罠を仕掛けたり、不意打ちや卑怯な手を使ったりはせぬよう、くれぐれも私を脅していた。あくまで正々堂々と戦え、とな。貴様に会え、戦い易い場所にいられるだけで我輩は十分だ。だから何の罠も施していない。逃げようと思えば、貴様はいつでも逃げられる。貴様がそれで逃げるとは我輩は思わんがな」
熱く震える真っ直ぐなブルー・グレーの瞳を向けて、アイアスは言った。
「あなた方の進撃は本当なのでしょう。でも――――――ヴォルトのことは私は信じない! ヴォルト本人の口から聞くまでは決して!」
「フフン、まぁどちらでも良いわ。信じて死のうが、信じずに死のうが変わらぬ。貴様は今日、ここで滅びるのだ」
サールはマントを脱ぎ捨て、その下の鎧甲冑姿を露にした。ヌスフェラートは強靭な肉体を頼みに、あまり鎧を身に着けることはしないのだが、それだけ彼が万全の準備を整えて真に戦う気であるということだった。
長い杖を構え、手元のスイッチをカチリと押すと、物々しい曲線を描いていた重そうな上部のロックが外れて、スラリと滑らかな刃先が現れ、90度動いて固定し、魔石入りの鎌がそこに出来上がった。魔法と武器と鎧とで戦うのなら、ヌスフェラートとしては本気過ぎるくらい本気の全力体勢だ。
アイアスは逃げることなど少しも検討せず(考えてはみたが、明らかにここで決着をつけ、ときの声を上げさせないべきだと思った)、鞘から剣を抜いて両手で握り、顔の横で縦につがえた。
「いざ、参る」
サールは頭上で大鎌を回転させ、濃厚な霧を渦巻き、魔法を発動させた。鎌の付け根にある宝玉が輝くと、そこから青い炎が迸って鎌の刃に宿り、回転しながら尾を引き、軌跡が青い輪を描いて、霧の渦もその色に染まった。
そして幽炎の鎌を振り下ろし、流れるような連続技で斬りつけてきた。アイアスはそれを身軽に避けつつ、自分も剣に魔法を宿らせて幽炎に対抗すべく太陽の炎を取り巻かせ、刃先を噛み合せては激しい火花を散らした。
サールが大振りに鎌を振り上げても、アイアスが真空刃を放っても霧は深く裂け、まるでミルクの中で2つの炎の精霊が激しく乱舞しているかのようだった。
18歳だった大戦当時より戦士として円熟し、成長しているアイアスに簡単に有効打を与えられるはずもなく、サールと彼との応酬が続き、若干サールの方が押され気味で、炎の競演が佳境に入っていった。
「――――――さすがだ! 天使アイアスよ! それでこそ倒し甲斐があるというものだ!」
数カ所斬られ、傷口から血を滲ませながらも、サールは笑みを浮かべて余裕を見せた。
そして一度離れて、地面に鎌の柄を突き刺すと、アイアスに飛び掛かられる前のほんの一瞬の隙に呪文を唱えた。
「バル・ダムール!」
その叫びと共に、柄先を中心に紫色の魔方陣が地表にどっと広がって、あっという間に巨大な五芒星陣が城全体を覆い、ほぼ島全域にまで達した。
人間で扱える者のいない――――いや、使えても使うことのない暗黒の魔法だった。陣内の闇の力を強め、光を殺ぎ、ヌスフェラートのような闇属性の者の活性を高める作用のある術だ。人間の魔術師でも、この魔法の存在を知る者は少ない。
しかも、普通なら魔方陣を作るところから始めなければならず、時間のかかる術なのだが、サールは杖に魔方陣を幾つも仕込んでいて、それを発射しただけなので、たった一声でこの大魔法が使えたのだった。そのような戦法を、アイアスはエベルゲン・ポイツの書館で読んでいたが、本物を目にするのはこれが初めてだった。
対抗呪文はあるのだが、それを完成させるには時間がかかるので、戦闘中はまず無理と言えた。
霧の魔法陣の中でアイアスの動きは鈍くなり、まるで何者か数人に手足を引かれているかのように感じた。再開されたサールの攻撃をどうにかかわすが、今までのようにはいかず、彼も服を切り裂かれるようになり、肩からジワリと血が滲み出た。
ほんの一瞬手元を見た時、そこに手の形をした霧が伸びて腕を掴もうとしているのを目撃し、アイアスは一旦その場を離れて辺りを窺った。
戦気以外の何者かのざわつきが感じられた。『バル・ダムール』とはこんな呪文であったろうか?
すると、彼の疑問を察したサールが、してやったりという笑みを浮かべて言った。
「闇の力に呼応して、死霊が目を覚ましたのよ。この島に死霊は事欠かんからな」
そんな作用があることを知らなかったアイアスは、足元や四方を警戒し、目を光らせた。風のような啜り泣きや、不気味に反響する切れ切れの叫び声が耳元を掠め、幾つも通り過ぎて行く。
「かつてこの島は、天使による救済もなく我々によって滅ぼされた。その恐怖の記憶が、地中に血と共に残されているのだ。我等を恐れ、天使を求め逃げ惑っている。その姿を見せてやろう!」
サールは更にもう一つの魔法を陣に上掛けした。
「影と幽鬼に力を与えん! ――――――バル・ヴォーエンス!」
すると陣にビリビリと振動が伝わり、紫色だった輝きが少し白味を増した。霧の中にボンヤリとした光が発生し、地や宙を漂い、浮遊する。その光が数え切れない程多いので、霧の中は闇から薄明かりに転じ、霞み消えて隠れてしまわない範囲に見える限りのものをアイアスに見せた。
何体ものゴーストが、見えない敵を恐れ泣き叫び逃げ惑い、天使アイアスを見つけるや縋り付こうとした。力を得たゴースト達の拘束力は強く、何体にも絡まれると、さすがのアイアスでも身動きを取るのに苦労した。ヌスフェラートであるサールには少しも近寄ろうとしない。
「――――――卑怯だぞ! こんな手を使うとは!」
サールは眉を上げて高笑いし、それに怯えたゴーストがもっと彼から離れる。
「ただの魔法ではないか! 取り付いているのは我輩ではない。愚かな人間どもだ! その記憶……と言った方がいいだろうがな!」
アイアスは幽鬼や影が特に嫌う太陽の炎を起こして剣に宿らせ、振り回し、ゴースト達を遠ざけた。泣き叫ぶ者達の勢いは凄まじく、ギリギリの所まで離れても、それより遠くへは行かず、グルグルと旋回するなどして滞空しては、取り付くスキを窺っていた。
「真に助けを求めるならば、我輩に襲い掛かって貴様の助けをすればいいものを、それが解らんのだ。何とも傑作ではないか! 貴様が助けようとする人間どもの記憶に、貴様は殺されるのだ」
彼の言う通りだった。ゴースト達はまったく事態を理解しておらず、アイアスが幾ら言っても、少しも通じなかった。時が止まったままなのだ。あまりに恐ろしい事があったから時空が歪み、その歪みが血と共に地中に流れて染み付き、今日まで眠りについていたのだ。
アイアスの腹の中は煮えたぎった。サールがかつて直接手を下したのではないだろうが、同じ仲間によって苦しみと絶望のうちになぶり殺しにされた哀れな人々を、今またこうして冒涜しようとは、許すまじき行為だった。
「恥を知れ! ヌスフェラートめ!」
アイアスはゴーストを振り切って真空刃を連発し、城跡の上に漂い高みの見物をしていたサールを捕えんとした。ゴーストから逃れる為に自身も飛び立ち、激しくぶつかり合い、衝撃波で城を傷付け崩れさせながら2人の技の応酬が続いた。
一所での絡み合いが長引くとゴーストに取り巻かれるので、アイアスは小刻みに離れては再接近を繰り返して邪悪な業に報いんとした。
完全武装と持てる実力によって、サールはバル=バラ=タン以上の強敵と化していたし、アイアスも以前の自分を上回っているので、18年前の決戦を凌ぐ戦いがここで繰り広げられていた。
衝撃と爆発音があまりに激しいので、近隣の島々にまで激闘の余波が届いて、次第にイクレシア島からは霧が引いていった。
双方共に打撃を受け、傷を負い、息を切らせ疲弊し、ボロボロになっていく。
幾度目のぶつかり合いか分からぬ剣と鎌の衝突の後、アイアスは再びサールから離れて距離を置き、ゴーストからも逃れ、ふとその時、城の上に1人の人影が浮かんでいるのに気がついた。霧が晴れたことで辺りは先程より暗くなっており、夜闇の空に浮かぶその姿はよく見えない。
アイアスは直感的にある人物を思い、確かめようとそこに飛んだ。人影のすぐ側にある、屋根が崩れ落ちて壁の名残だけになっているギザギザの壁面の縁に降り立ち見上げてみると、そこにはこれまでに見たこともない姿の者がいた。
闇の中で色は判別できぬが、明らかにそれと解る鱗の筋を顔面一杯に走らせて、背には見事な翼を持っている。蜥蜴と人間を融合させたような顔の鼻腔は縦長に切れ込んでおり、瞳は琥珀色に輝いて、夜闇の中で炎の如く光を放っていた。ヴァイゲンツォルトの書館で見た本の挿絵そのままの姿だ。
これが――――――噂に名高い『竜人』か?!
アイアスの炎の剣に照らされて見える鱗人は、静かな視線を彼に向けているだけで、ただの見物人を決め込んでいるようだった。
「まさかあなたは――――――――ヴォルト?!」
アイアスがそうして止まっている間は、誰が来たのか解ったサールも戦闘を一時止め、近くに飛んできた。
「何だヴォルト、気でも変わったんじゃないだろうな」
ヴォルトはいつか会った時と同じように、腕組みした立ち姿で滞空を続け、サールに一瞥をくれると、またアイアスに視線を戻した。
「……私も加担した責任上、あんたが本当に正々堂々と戦うか見届ける必要があると思ったのでな。サール=バラ=タン」
人間の時とは違う、三重音の不思議な声だった。
ゴーストがアイアスにもヴォルトにも縋り付いて来る。ヴォルトはそれを一切無視したままアイアスを見続け、一方アイアスは、彼の台詞に愕然として動けずにいた。
「見れば……私が思っていたよりも、随分と妙な真似をしてくれているようだな」
ヴォルトにそう言われて、サールはギクリとした様子だったが、すぐに悪びれもせずに返した。
「魔法を使っただけだ、ヴォルトよ。彼にその気があれば、いつでも逃げられるようになっている」
ヴォルトが夜闇にギラつく琥珀色の目でサールをジロリと睨むと、彼は恐れるように口を噤んだ。この2人の力関係はこれで明らかになった。
「……まあ、いい」
アイアスはヴォルトに叫んだ。そうしないと、ゴーストの騒音で声が届かない。
「ヴォルト! 何故あなたはこんな事を?! 一体何があったのです?! どうしてヌスフェラートの軍勢などに……?!」
ヴォルトはまたアイアスを見ると、あの時と変わらぬ複雑な揺らぎを見せる光を目に宿して、こう言った。
「彼等の王の計画と私の望み……利害が一致したのだ」
「そんな……何故……?! どういうことなんです?! 利害とは……?!」
「……この下らぬ歴史……宿命への挑戦とでも言おうかな」
「挑戦……?」
ヴォルトは目を細くして、笑っているかのようだった。彼がやり取りをしているうちはサールも決して手を出さない。動き回るのは、未だ陣内で慌てふためくゴーストばかりだった。
「アイアスよ、あんたは『天使』の使命や宿命をどう思っているかね? こんなふざけた伝説は壊してやろうと思ったことはないか?」
彼のこれまでの人生に何があったのかは知らないが、その質問は、アイアスの深い所を的確に突いた。賛同する訳ではないが、やはり彼が同じ苦悩の途上にあったのだと知り、こんな事実が知らされた今でも、彼のことを敵視できずにいた。
「彼等の王であるカーン皇帝も、これまで一度として成し得なかった地上席捲、支配を完遂して歴史を覆そうとしているのだよ。……本来なら世界均衡保持が使命と言われている天使は、彼らを阻止し、人間世界を守る立場にあるのだろうが……実は、私は人間が大の嫌いでね。皇帝の軍勢に加わって手助けをすることで、私は同時に2つの望みが叶えられるという訳さ。これまでの定説を転覆させることと、人間の滅びをね」
あまりに愕然としたアイアスは、言葉らしい言葉が喉から出てこず、声なく繰り返し《何故》と口を動かし頭を振った。アイアスの狼狽ぶりを嘲笑うように、ヴォルトは歪んだ笑みを口元に浮かべた。
「……無駄かもしれんが、一応訊いておく。あんたは、私と共にこの計画に乗る気はないか? 天使を作ったのが天であれ神であれ、あんた等の思い通りになると思うな、と挑戦状を突きつけてやるのさ。どうだ? アイアスよ」
アイアスは苦悶の表情で熱い溜め息を吐き、泣きそうな目で言った。
「……どんなことがあれ、私がつくのは人間の側です……!」
ヴォルトはそっと目を伏せた。2人の間に幕が降ろされたかのようだった。
「……そうか、残念だ」
そしてサールに目をやり、ずっとやり取りを窺っていた暗鬼貴族にヴォルトは言った。
「必ず邪魔になる男だ。きちんと始末しろよ。あんたで手に余るようなら、その次は私が相手をしてやる。手柄を取られたくはあるまい?」
そして、最後にもう一度だけアイアスを見やってから、ヴォルトは星になって一瞬で飛んで行ってしまったのだった。
「――――――――――ヴォルト――――――――――っ!!」
叫んだが、もう遅かった。アイアスは途方に暮れ、取り付くゴーストのことなど暫し忘れて放心した。
一体、何が起こってしまったというのだ……?
そうしている間にも、サールの高らかな呪文詠唱が聞こえてきて、アイアスはハッと我に返った。
「――――――バル・ヴォーエンス!」
未だ強く残る魔方陣に、改めて幽鬼達の力を上げる魔法が注がれ、少し弱りかけていたゴースト達が一段と強力になって復活し、彼の手足を捕えた。
沈没する船から投げ出され、溺れている人々の浮かぶ波間に放り込まれて、八方からしがみ付かれ海に沈んで行くのはこんな感じだろうかとふと思いながら、アイアスは地に落ちた。
もし、このまま敵をのさばらせてしまったら、アルファブラの懐かしい人々も、この者達と同じ運命を辿ってしまうのかもしれない。
そう考えた途端、アイアスの脊髄に炎が流れ、彼を燃やし、立ち上がらせた。ゴースト達でさえ一瞬怯むほどだった。
問答無用で向かってくるサールを炎の剣で迎撃し、青い幽炎と太陽の炎との対決が再開され、幾度も火花が弾けて、島中が嵐の如き烈風に包まれた。
このサールを倒し、ヴォルトをも倒し、そして大軍団となったヌスフェラート達を全て倒さなければ、この世界は守れない。まずはこの男を滅ぼさなければ、この先の無謀とも言える戦いは切り開かれないのだ。
アイアスはこの戦いに、自分に、この先の人間の未来がかかっていることを悟り、覚悟して炎の戦士と化した。ヴォルトはこのサール以上の相手だ。この男を倒せなければ話にならない。
アイアスの放つ真空刃が3度サールの体にヒットして、血を吹き上がらせた。しかしさすがヌスフェラート、ぐっと堪えるだけで傷は筋肉で塞がり、人間のような致命傷にはならなかった。
明らかに押されているサールは、目に危険な光を覗かせ、大鎌を空に翳し呪文を追加詠唱した。
「――――――これでどうだ! スフィアル・プリゾンタ!」
ずっと輝きを保っている魔方陣が回転を始め、島全体を大きく包んで、360度天にも地にも軌跡を描き、巨大なドームを築き上げた。反対呪文で破壊しない限り脱出不可能な、地中にまで柵の手を伸ばしている球形の魔法牢だ。正々堂々というのは止めにして、アイアスが逃げられる手段を殺ぐ戦法に移ったのだ。他の場所より確実にアイアスにとって不利なこの島で、決着をつけようというのである。
「――――――卑怯者が、正体を現したか!」
「フフン! 持てる技を使うのは当たり前のことよ!」
一度来て去ったからには、ヴォルトはもはや戻って来るまいと踏んだのも、サールがフェアさに拘らなくなった理由だった。今や、ここでかつての勇士を仕留めることこそが、彼の一番の優先事項になったのである。逃してヴォルトに名声を与えてしまう前に。
サールは、魔方陣が仕込まれた特殊な大鎌を使うことでアイアスに魔法攻撃の機会を殆ど与えず、魔法戦でも優秀な彼の能力を半分も発揮できずに抑え込むことに成功していた。そのような特殊性能の道具を持たぬアイアスには実に不利な状況だ。
使う機会のない分、魔法力は余力十分だったので、アイアスは一度境界ギリギリまで退いてから、自分もこの場に有効な呪文を唱えた。
「――――――ドゥラム・ドラグーン!」
世界中の魔術師でも指折り数えるくらいにしか使える者のいない高等魔法で、一時的に術者を竜に変化させるものだ。
通常の変化呪文と違うのは、上辺だけでなく中身まで本当の竜になってしまう点である。だから、かつての術者の中には竜になったまま人間の心を忘れてしまう者もいて、半端な精神力で扱うと大変危険なものだった。
アイアスは幻の炎に巻かれて姿を消し、その炎が見る見る大きくなって、ふいに切れて消えてしまうと、そこには大きな紅竜が出現した。
ゴースト達も姿を変えたアイアスには近寄らず、救い主を求めて当て所もなく牢の中を彷徨った。
紅竜はサール目掛けて飛び、牙剥き、裂けた口から業火を吐き出して空間中を炎に包んだ。飛翔し逃げるサールを何処までも追いかけ炎を吐くうちに、城跡は陥落した当時のように炎を立ち昇らせ、脆い壁はガラガラと崩れていった。カゴの中の蜥蜴と虫の戦いのようだった。
陣の内に術者本人も残っている状態で牢を発動させたので、サール自ら術を解除しない限り、紅竜の炎から逃げ続けなければならない。
サールは術を解かずに逃げる方を選んで、アイアスが竜でいられる時間の限界が来るのを待った。時間と共に竜の心が侵蝕してくるので、長時間変身してはいられないのだ。
「――――――グランデ!」
サールが重力変化の呪文を陣内に施すと、より体重の大きい紅竜は動きが鈍くなり、首や手足に見えない拘束具があるかのように重くなって、火炎放射だけで逃げる者を追った。
強力な魔方陣を使って幾つもの魔法を重ね掛けすることで、通常では有り得ぬほどの相乗効果を生み出しているので、その重力たるや、紅竜の足元に地割れが走るくらいになっていた。術者だけは通常と同じく異空間バリヤーで陣の法則外の次元にいるので、身軽にしていた。
アイアスは自ら変化術を解き、再び元の姿に戻った。この状況はあまりに不利だった。ここまで来れば、一時退散して世界中に危機の到来を知らせてから、完全な環境で改めて敵と戦うことを選択する方が正しい。だが、もう脱出は出来ない。
アイアスは、それでも一度だけ、紫色に光る網目模様の牢の壁に向かって反対呪文を放った。やはり強力になり過ぎた壁に効き目はなく、反対呪文は砕けてしまったのだった。
振り返ると、死神の如く大鎌を振り上げた鬼が迫って来ていた。過重力の中だが、アイアスは避けようとする。
しかし、動けなかった。
本物の人間以上の力を持ってしまったゴースト達が、人の姿に戻った天使に取り付いて20数本もの手で、彼を放すまいと掴んでいたのだ。
この、無数とも思える手をアイアスは振り切れなかった。
サールの大鎌が雷光の速さで振り下ろされ、彼の右肩、首の付け根に深々と突き刺さり、血を吹き上がらせた。
それでもまだ、ゴースト達は彼を離さなかった。
邪悪な喜びに輝く、闇色の鬼の目と血走る紫色の肌。濡れた海藻じみた黒い髪。
刺された者にも、刺した者にも声はなく、鬼はただゆっくりと笑みを広げて、牙を炎に照らした。血や汗で、全てがギラギラと光っている。
アイアスの顔は、まだ挑戦的だった。苦痛や悲嘆や敗北の色はそこにはなく、事態をまだ解っていない者のようでもあった。
だが、彼は理解していた。そして、目の前の暗鬼貴族に目を向けていながらも、死に瀕する者らしく別のものを見ていた。
父、母、王、王女、ヴォルト、大戦の仲間達、その子供達。
そして、自分の亡き後に、一体誰がこの危機を救えるのだろうかと途方に暮れつつ、ある者の姿がふと浮かんで、そこに見えた。
ルピナス色の髪と宵闇色の瞳の幼子だった。
或いはあの子なら、この世界を守ってくれるのではないだろうか。
アイアスは頼んだと言いたくて、彼女の名を呼んだ。口からは血が溢れるばかりで、全く声にはならなかった。
鮮血が奔流のように流れる中、彼の視界は闇に支配されていき、幼子もその中に呑み込まれていって――――――――やがて、全て闇となった。