第4部23章『悪魔の子』18
※※注意※※
この章は大変ネガティブな内容になっております。
文章作品でも映像作品でも、その時のコンディションで受け取り方が変わるものですので、特にメンタルに不調を感じられている時はお読みにならないでください。
詳しくは活動報告の『次章23章について』をご覧ください。
坑道の世界と違い、外はおそろしく寒い。ルークスとデレクは身を寄せ合いながら肌を震わせて森の中を進んだ。
どんな季節でも夜明け前と早朝が一番冷え込むので、森の空気はピリッと張り詰めるようだった。どんより淀んでいた坑道の空気とは大違いである。寒くて仕方がないのに、それでもデレクは喜び、さかんに「空気がおいしいね」と言った。ルークスも心からそう思った。
小屋の中に閉じ篭って誰かを待ったり、マントやマスクで自分を徹底的に覆い隠したり、狭い穴蔵で働かされるのはもう沢山だ。これからは、ずっと、ずっと、こんな風に自然の空気を思う存分吸って、味わって、開放的に生きていきたい。そう思った。
日が昇り、気温が少しずつ上がっていき、これ以上デレクを歩かせるのは無理だろうという所まで来ると、ちょうどそこに一軒の小屋があった。外には馬が繋がれており、煙突からは煙が出ている。
良かった。ここでデレクに暖を取らせることができるかもしれないと思い、ルークスはまず小屋の様子を窺った。吊るされている馬具や馬の毛並みといい、貧しい生活をしている家ではないようである。窓にはガラスが使われており、覗き込むと髭面の男が暖炉の前で飲み物を口にしていた。
とにかくこれ以上森を歩かせるのは良くないので、ルークスはまずデレクだけを小屋に向かわせることにした。自分も一緒では人間が大騒ぎをするだろうから、デレク1人で助けを願った方がいいのだ。その点は、不条理さを感じつつもデレクも納得した。ルークスはその間納屋に隠れて勝手に休ませてもらう。そしてもし可能ならば、食べ物や飲み物をもらえたら、ルークスにこっそり分けてもらうのだ。
デレクはおずおずと小屋の階段を昇り――――高床式になっている木製の小屋なのだ――――扉の前に立ち、深呼吸をしてから扉を叩いた。男が出てきて驚いた様子でデレクを見、デレクが助けを願うと、外の様子を一通り見渡して辺りを警戒してから招き入れた。
ルークスはデレクが中に入れてもらえたのを見てホッとし、あの中はきっと暖かいだろうから、暖炉の側で休ませてもらい、何か温かい飲み物や食べ物でももらえるといいと願った。本当にそうしないと、デレクの衰弱ぶりでは、そのうち母のように病を得て死んでしまうだろう。
中で起きていることを想像しながら、納屋の陰で体を丸めて小屋の様子を眺め、ルークスは待った。
どれくらい時間が経っただろうか。とても疲れていたのでウトウトし始めた頃、バアンというとても大きな音がして、ルークスは飛び起きた。驚いて小屋に近づき、中で何が起きているのか確かめると、デレクが床に倒れている。ルークスは顔面蒼白になって目を見開いた。
デレクは必死で声を出していた。
「逃げて……! 逃げて……! ルークス……!」
ルークスに、逃げられるはずはない。デレクを残して。
やがて男が小屋の外に出てきて、大声で言った。
「――――もう1人いるんだろう! 出て来い!」
男は手に何か長いものを持っていた。高級そうな機械だ。
本当に自分の身の安全を第一に考えるのなら、ここで姿を現すのは賢明ではないだろう。だが、ルークスには隠れていることなんかできなかった。納屋から出て行き、マントやマスクで隠しておらぬヌスフェラートらしい姿をそのまま男の目の前に晒した。
男は目を細め、「ホゥ」と言った。
「来い、坊主」
とにかくデレクの様子を確かめたくて、ルークスは言われるがまま小屋の中に入って行った。おそるおそる足を踏み入れると、そこにはカップとパンが転がり、デレクが倒れ、床に血が流れ出ていた。あのバアンという音が何かは解らないが、それがデレクを傷つけたらしいし、その道具がどうやら男の手の中にある長い物のようであることも判った。転がっているカップとパンは、デレクに与えられたものなのだろう。
小屋の中にあるものはどれも作りのいい物ばかりで、この男が裕福であることを示していた。
男は、ルークスがデレクに近寄ることを許さず、その長い物を突きつけてルークスを直立させた。
「どうやって出て来た?」
ルークスは気が遠退いた。十分離れたつもりであったが、それは子供の足で進んだ距離感覚であり、ここはまだあの坑道関係者が巣食う土地で、この男は敵だったのである。しかも、何の抵抗もできないデレクに対して、こんなに早々と凶悪な武器を使い、こんなに血を流れさせている。このままでは死んでしまうだろう。
ああ、やはり、神はいない。改めてルークスは思った。
「あそこは火事になって大騒ぎで、えらい目にあっている。おい坊主、お前、何かしたのか? お前は何か特別なことができるんだろう? きっと。言わねぇと殺すぞ」
ルークスは、ただデレクを見下ろし、何も言わず、知らぬ間に涙を流し始めた。ポロリ、ポロリ、と真珠のような涙が零れていく。
「お願い……デレクを治療させて……」
「――――――答えろ!」
男は長い物を突きつけて凄むばかりで、デレクを助けさせようとはしなかった。そもそも、このまま殺すつもりなのだ。
「デレクが……死んじゃう……」
「抜け出てきたおめぇらが悪いんだ。そういうことをしようとしたらどうなるか、見せしめが要るんだよ」
ルークスはゆっくりと、涙で一杯の目を男に向けた。髭面で身の回りの手入れが行き届いている50代くらいの人間だ。瞳の色が薄いのは、この男の場合に限っては魂の軽薄さを表すように思われた。
ルークスの知らぬ所だったが、目の前のこの男こそがあの坑道の持ち主であり、冷酷な産業で己の手を悪の汚濁に染めている首謀者だったのだ。利益によって潤う本宅はずっと離れた街にあり、その豪邸には家族が住んでおり、この小屋は坑道の視察や監視、そして外部の者に坑道の存在が知られぬように森を見回る為に利用している小屋だったのである。森に住む狩人を装って。
ルークスは、今、自分がどんな顔をしているのか解らなかった。嘆願が言葉として全身から溢れ出てくるのだが、同時に、どうしようもなく嫌悪と憎悪が湧き上がってきてもおり、男の目から見ると、明らかにルークスの目は男の心臓を抉るかのような殺意のこもった危険極まりないものになっていた。
相手は7才の子供なのだが、外見がヌスフェラートだということもあり、一気に男の中で恐怖心が高まって、それを理性が殺意に変えた。
男が長い道具に何か仕掛けた瞬間、大きな音の発生の正にそのタイミングで竜時間が発動した。ルークスは、暫く止まった世界を見ていた。男が手にしている長い道具から火花が散り、白い煙が吹き出ている。道具の中で何かが爆発しているのだ。
男の立ち位置と、その道具の先を自分に向けている位置関係から、ルークスはこの道具の意味を何となく悟り、動いた。そして男の手から長い道具をもぎ取ると、今度は代わりに自分が両手に抱え、その先を男に向けるようにした。
そして、竜時間を解除した。
バアンという大音声と共に全身を激しい震動が駆け抜け、目の前の男は吹っ飛んだ。ルークスも反動で後方によろめき、そのまま尻餅をついた。なんて威力だろうとルークスは暫し呆然とした。
男は胸に穴を開けて、喉からゴボゴボと血を吐き、ひとしきり苦しそうにもがいていたが、すぐにその動きは止まって事切れ、シーンとなった。
後悔はなかったが、初めての殺人という凶事によってショックを受けるのは当然のことで、ルークスはずっと胸をドキドキとさせていた。
そしてすぐにしなければならないことを思い出し、その長い道具を放り出して、ルークスはデレクの所に這いずって寄った。
「デレク……! デレク……!」
既に、あまりに多量の血が流れている。見るからに手遅れだということが治療者の勘でルークスには解った。だが、それでも必死に治療呪文をかけてその傷を塞ごうとした。
あの男の腕が悪かったのか、尋問の為にわざと急所を外したのか、デレクは肩を撃たれているので即死には至らなかった。だからルークスに逃げるよう叫べたのだ。急所ではなくても、この体力でこれほど出血していては致命的だ。
デレクは、この状態でまだ口が利けた。
「……ルークス。僕はもうダメだよ。だから……無理しないで。力を使わないで」
「そんなこと言わないで! 今血を止めるから!」
デレクは哀しそうな様子もなく、笑っていた。
「だって……僕、見えるんだ。そこに母さんがいるんだ。迎えに来てくれたんだよ」
えっと思い、ルークスはデレクの示す先を見たが、そこには食器棚があるだけだった。
「嬉しいな……やっと夢が叶った」
現実的ではない夢なのでデレクは話したことがなかったが、再び両親に――――特に母親に会えることを彼は望んでいたのだ。
「君は……きっと……ヴァイゲンツォルトって所に……辿り着いてね。僕の分も……沢山……いろんな世界を見てきて……」
「デレク!」
「……あの穴の中で終わらないで……最後に外の空気が吸えて……良かった……。君のお陰だよ。……本当に……本当に……ありがとう」
後は失血によるショックで意識を失い、ルークスがいくら治療呪文で傷を塞いでも――――簡単に塞げるようなものではない酷い傷だったこともあって、治療の甲斐なく、デレクの心の声も何処かに溶けて消えていってしまうのをルークスは感じた。
ルークスは座り込んだまま、デレクの死体を目の前にして涙を溢れさせた。彼にとって初めての、唯一の友達は、こうして無惨にも失われてしまった。救いは、彼が笑顔のまま死んでいることだけだ。その周りに広がる血の色も、部屋に充満する火薬の臭いも、他のものは全てが残酷なまでに痛々しかった。
「ゴメンね……デレク。ゴメンね……」
彼等は精一杯のことをしたし、子供という非力さの中で十分に知恵を働かせ、最善を尽くした。だから責任を感じる必要はなかったのだが、それでも、どうしようもなくルークスは己を責めた。あのまま坑道にいた方が良かったとは思わないが、安全な大人かどうかを見抜けずにデレクをこの小屋に入れさせてしまったことを激しく後悔した。
そもそも、人間の大人の男を信用してはならかなったのだ。自分と母を逃がしてくれた善良な者も中にはいるが、ごく稀なことで、大多数がどれほど醜い内面を持っているか、どれほど残忍な性質を持っているか、嫌というほど見てきたというのに。幾らデレクが人間だからといって、彼を送り込んだのは間違っていたのだ。
これは、自分のミスなのだ。
ルークスは木の床を何度も叩き、悔しくて悔しくて泣き叫んだ。そして立ち上がり、死んだ男の大きな体を何度も何度も蹴った。
そうしてひとしきり暴れた後、やるべきことは明白なので、ルークスは涙を流しながらも作業を始めた。この小屋は物が豊富だし、納屋にもいろんな道具があったので、まずスコップを見つけて家の外に出、一生懸命に穴を掘った。母が死んだ当時より体が少し大きくなっていたし、坑道の穴掘り作業でコツは心得ていたので、1人で子供用サイズの穴を掘ることはできた。
父を葬り、母を葬り、今度はデレクだ。もう、こんな作業は2度としたくないし、見たくもない。そう思いながらルークスは穴の中にデレクを横たわらせ、母の時と同じように、今でも覚えている葬送の祈りを捧げると、さよならを言ってデレクに土をかけ、埋めた。
母の時もそうだったが、ルークスには解る。デレクはもうここにはいない。何処か別の所に行ってしまったか、完全に消えてしまったのかのどちらかだ。これはあくまで儀式であり、土の中に埋まっているデレクの中に、デレクをデレクたらしめていた中身は存在しない。
だから未練なく、ルークスは小屋を物色して食べ物と着る物を用意し、十分に防寒とカムフラージュを兼ねる格好になると、ありったけの食料をカバンに入れて肩から下げ、小屋を後にし、こうしてまた、たった1人での旅を始めることになったのだった。