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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第5章
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第2部第5章『再び、アイアス』その1

5.再び、アイアス


 中央大陸とターネラス大陸に挟まれた内海パラドールに浮かぶ孤島イクレシアの、今は無人となって久しい廃墟と化した古城に、マント姿の1人の男がいた。誰もいないこの島で身を隠す必要もあるまいに、その男は目深にフードを被ったまま、倒れた石柱の上に腰掛けて、目の前の苔生したゴブリン像を這う青い甲虫を見ていた。

 この辺りの群島域には毎日のように霧が発生しており、この城が城として機能していた時代よりもずっと以前から『霧の国』と呼ばれていた。かつては、この群島を統べていた王がこの城に住まっていたのだが、今はもうそれも遥か昔のことで、国が滅び、人が消え失せた今でも当時のまま変わらず残り続けているのは、今尚漂い、城も男も薄煙の中に隠してしまおうとする霧ばかりであった。

 豊富な湿気の為に、かつては白亜の殿堂だったであろう城もすっかり苔に覆われて、フサフサと毛を生やした塊と成り果てており、緑の館と呼んだ方が相応しかった。苔の着床を防ぐ為に釉薬(ゆうやく)がけして焼かれた当時の技術がまだ生きている部分には、地肌の白さが覗いており、男も柱のそんな一部分を選んでそこに腰掛けていた。

 この城が滅び、現在のような霧中の幽霊城と変わり果てた理由は、遠い昔の暗鬼貴族ヌスフェラートの侵攻によるものだった。人間世界を侵略せんとするヌスフェラートとの戦いは、それほど昔から続いているのだ。特に正確な記述が人間の文化には残っていないだけで、恐らくはもっと昔から。

 男は、今尚残る竜の爪跡を幾つも城壁に見出して、静寂の中で眺めた。翼竜の前足かと思われる、地竜よりはやや小ぶりな4本の傷跡には、苔がこびり付いて鮮やかな緑色のラインを成し、苔の花までがポツリポツリと白く咲いて縁取っている。このような逃げ場の少ない島で竜を使われたら、恐らく一たまりもなく、一夜にして陥落したことだろう。

 伝説の護りの戦士、『天使』が出現し駆け付けていれば話は別であったろうが。

 男はブルー・グレーの瞳を再び甲虫の方に向けて、濡れた触角を手入れする姿を観察した。

 男は、36歳の立派な大人に成長を遂げていたアイアス=パンザグロスだった。成長と言うには年嵩かもしれないが、1人旅を再開した20歳そこそこの当時よりは少し体が大きくなったし、相変わらずの整った童顔ながら、その表情には大人としての深い落ち着きが表れていた。如何なかつての救世の勇士とは言え、やはり当時は若かったのだ。

 今では彼が本来持つ思慮深さや機知に、ようやく年齢が辿り着いたように見える安定感が滲み出ていた。以前から人より冷静で柔和な賢い人ではあったが、若さ故に振り回されていた時代はどうしてもあったのである。


 彼は、一時旅を共にして愛した幼子と別れてから、己の探求の旅を続けていた。

 故国アルファブラの父、母にも一度も姿を見せておらず、時折手紙を送って無事を知らせてはいるものの、全て一方的なやり方で、帰ってくるよう泣きせがまれることを恐れて、返事を送る手段を与えてはいなかった。

 親不孝の負い目は感じており、両親の年齢的問題も考えて、このところはお忍びで帰国しては、まだ無事で暮らしているかどうかだけをその目で確かめていた。彼等が死ぬまでには戻るべきだろうという考えはあるのだが、果たしてそうできるかどうかは定かではない。彼の旅は、まだ終わっていないのからだ。

 幼子と別れて暫くの間、彼の頭には泣きじゃくる彼女の姿が焼き付いて離れず、四六時中、特に夜に思い出されて胸を痛みで疼かせていた。

 だから早く忘れる為にも、彼はより強い危険と刺激を好んで選択し、幼子連れでは十分に調査できなかった砂漠の遺跡に再潜入したり、ヴィア・セラーゴにも侵入したりして、『天使』に関する情報を求めた。

 長い時だった。

 世界中を廻って見つけたものは、いつも天使の哀しい宿命や活躍の記述ばかり。その起源や正体については決定的な答えが得られず、また自分がその者であるかどうかの証明法も見出せず、心満たされぬ日々が続いた。

 ヴィア・セラーゴは以前訪れた時と然程変わらず、そこにいるヌスフェラートも少なければ書物の類も殆ど無いし、ヌスフェラートから情報を得ようとするのは無謀なことのように思われた。

 だが、北方王国ビヨルクの書物にあった文句、《或いは、長寿にして邪悪なあのヌスフェラート達の方が、我々より遥かに天使について詳しいのかもしれない》が気になって離れず、これこそ、今まで得た先人の言葉の中で尤もな見解であろうと考え、彼は一大決心をしてヴィア・セラーゴの未踏の最深部へと入って行った。彼等の本拠地が何処か他にあるような気がしてならず、それを探すつもりで幽霊都市を地下深く下って行ったのである。

 まかり間違ってヌスフェラートの集団に出くわしてしまう危険は計り知れなかったが、敢えてそれを冒す価値は十分にあると思えた。もし本当に本拠地を見つけることが出来たら、いずれまた戦いの時が訪れた際には、大変有用な情報となるはずだ。

 アイアスは、都市の表層部に張り巡らされている、侵入者を防ぐ為の魔物がウヨウヨしているゾーンを突破し、かつて城だったと思われる一番の巨大施設の中を地下へ地下へと下り、下に行くほどフロアーの狭まっていく中を、本当に最後の最後のフロアーらしき所にまで辿り着いて、その奇妙な景観をまざまざと見た。

 そこは、もはや大部屋一つ分のスペースしかなく、しかし床は存在しておらず、大きな井戸の口らしきものが下方に向かって伸びており、深い暗黒の中に消えてその先を謎にしていた。

 申し訳程度の幅しかない階段が穴の縁に沿って設けられており、螺旋状に続いているが、この先にまだフロアーがあるようには思えなかった。ただの井戸の底があるか、でなければ地下を通じて別の何処かに繋がる連絡路があるかのではないだろうか。井戸用の汲み上げ機もないし、空気が淀んでいる感じもしない。

 だからアイアスは、井戸なら底を確かめてやろうと思って、細い階段に足を掛けて慎重に闇の穴の中へと入って行ったのだった。

 魔法の照明球を小さく生じて足元を照らし続け、下ること一刻近く、それでも井戸の底には辿り着かず、連絡路のように水平方向に曲がって行くこともなく、穴は下向きの穴であり続け、途中で何度か若干の蛇行はあっても概ね幅は変わらず、何処までも何処までも続いた。

 アイアスは、これが井戸や連絡路ではないらしいことに気づき始めた頃から不安になった。

 それでは、これは一体何なのだろう?

 不安ではあるが、これが彼等の手で造られたものであり、何処かと地下城を繋ぐ施設であることは確かだったので、新たな謎を発見した悦びと、その先にあるかもしれない新事実との出会いの予感にアイアスは胸のときめきを感じて、冒険者らしく肌を震わせた。

 また一刻ほど過ぎた頃、ふと下方に小さな光が点ったのに気づいて、アイアスはそれに注目した。その光はゆっくりと大きくなって――――――こちらへ近づいて来ているらしい。

 アイアスは咄嗟にマントで全身を覆って自己透明化呪文を唱え、姿を隠した。

 そして、近づく光が急速に迫って来て流星の速さで通り過ぎ、真っ直ぐ上に向かって飛び去って行くのを目撃し、ここが今尚使用されている何らかの路であることを知ったのだった。

 あれは流星呪文(コメット)だ。何者かが、この途方もなく下に続く闇の向こうから上の幽霊都市に向かって飛び去って行ったのである。この先に何かがあるのは間違いない。

 自分が最初に思っていた連絡路とは形も規模も違っていたが、これが紛れもない別の意味での連絡路であることを悟るや、アイアスはますます慎重かつ大胆になって、探求者らしく目を輝かせ、更に下へと足を伸ばして行った。

 それ以降、再び流星に出会うことはなく、何度か階段途中で腰を降ろして休んだり、簡単な食事を摂ったりしながら半日以上を階段下りに費やした。

 この長さなら、誰かが上から階段を降りて来たり、下から上がって来たりして突然遭遇することもあるまいと考えて、地上ではとっくに夜半となっている時刻にアイアスは階段途中でマントに包まって眠り、目覚めてはまた螺旋階段を下って行った。

 これだけの深さがあると知っていたら、とてもではないが、飛天呪文(セラフ)流星呪文(コメット)の使えない者は恐ろしくてこの階段を使えないだろう。いきなりこの先へ行くのは危険と見てアイアスは徒歩にしていたが、いざとなればいつでも飛べる自信があるので続けられることだった。そうできない者だったら、こんなに狭い階段で寝るなんて正気の沙汰ではないと叫ぶに違いない。

 また半日近く経った所で、ようやく下方にぼんやりとした光が認められるようになった。その光は徐々に大きな円になっていき、いよいよ階段の終着点が見えるようになり、ここからは必要であろうと、アイアスは自らの姿をヌスフェラートに変化させて光の中へと入って行った。

 紫と青の灯火が焚かれ、その明かりだけで全体が染まっているそこは、ドーム状の大空間だった。ずっと同じ直径を保っていた穴が、ある所から急激に幅を広げて、その空間の壁になっている。

 階段もその壁に沿って続いており、それを降りて行くとドームの床まで降りて行け、やっと広い床に足を置くことが出来たのだった。

 番人らしき番人も見当たらない、地上の都市と変わらぬ人気のなさだ。

 アイアスはドームに開いている幾つかの口の内、1つを選んで外に出て行った。

 出た先には無人の屋内施設が続いており、更にその先へ出ると驚愕の景色が目の前に広がって、アイアスは長いこと身動きが取れず、口を開けたまま固まってしまった。

 何とそこには――――――――もう一つの世界があるではないか!

 薄曇っていてよく判らないが空もあるし、それなりに空らしく白んでいる。彼の立つ場所は、高い高い山の中腹に開いた入り口の一つで、その山は天に向かって聳えており頂上が見えず、空の薄曇りの中に消えてしまっている。そしてそれを背にして立てば、見渡す限りの空と森がそこに広がっているのだ。

 アイアスは束の間混乱し、そして記憶にある限りの知識を総動員させて事態の把握に取りかかり、やがて一つの推論に達した。

 ここは、魔法によって転送された異空間か、そうでなければ、地下に存在するヌスフェラート達の本拠地――――本当の王国なのではないだろうか。

「ヴァイゲンツォルト……」

アイアスは呟いた。謎とされてきたある言葉が、これを示すように思われた。

 足元の床面には矢印で方角が示されており、何やら彼等の言葉で行き先らしきものが綴ってある。ある程度学んでいた彼にはその文字が読め、そこに『王都』と書かれていることが解った。

 アイアスはその方角を見定めると飛び立ち、森の樹冠スレスレを飛んで暫く進み、同方向に向かっているらしい森の道を見つけると降り立って、その道を徒歩で進んで行った。


 森の中の一軒家でアイアスは宿を求めた。いきなり都市に行く前に、自分の言葉や変化(へんげ)がどれだけ本国で通じるのか確かめておきたかったのだ。

 人間世界の家と大きく違う所はないが、教会のような石造り建築の彫刻装飾の華美さ、荘重さはヌスフェラートらしいと言えた。

 そこには本当にヌスフェラートの老婆と娘が住んでおり、ノックに応じて戸口に出て来た時には大分胸が高鳴り、アイアスは緊張した。

 愛想も何もない娘は、ただ彼の求めに応じて家の中に入れてくれたが、老婆と2人してずっと珍客をジロジロと見回していた。

 何処から来たのか、何処へ行くのか、何故魔法で楽に行かずに、こんな所で宿を求めたのかと根掘り葉掘り尋ねられ、アイアスは《自分は旅の途中の者で、森の調査をしていたところを植物の毒気にやられて頭が多少おかしくなってしまい、魔法も尽きたので、何処かで休ませてもらおうと家を探していたのだ》と説明した。そして自分はずっと遠くの出身であるが、今は殆ど根無し草の生活で、次は都市を目指しているのだということにした。

 変わり者と取られたようだが、2人は特にそれ以上の警戒を見せず、頭がおかしくなっているのなら仕方がない、と納屋を貸してもらえ、そこで一眠りすることにした。

 まだこの2人のことしか見ていないが、ヌスフェラートは人間ほど旅人に親切でもなく、笑うこともしない種類の者かもしれないと思いながら、アイアスは異種族の納屋をジックリと眺め、睡眠中に変化が解けてしまった場合の為に内側からしっかり閂を掛けて、煙ったい臭いのする雑穀袋の上に横になった。太陽の匂いがするものは何処にもなかった。


 一眠りしてもう一度2人と話してから、アイアスは早々に森へと戻った。娘の方に、もう毒気は抜けたのかと訊かれ、大分良くなったと答えたところ、《それでもまだあんたからは変わった臭いがする》と言われて、慌ててそこを立ち去ることにしたのだ。幸いその毒性植物の香気だと思われたようで、まさか人間の臭いだとはきづかなかったようである。調査に戻ると言って出て行こうとする彼を、2人共少しも引き止めようとはしなかった。

 アイアスはこの出来事を参考にして、臭いについての対策を講じることにした。記憶では、ヌスフェラートは嗅覚において人間と然程能力差がないと思われたが、人間にも鼻の利く者はいるし、ヌスフェラートには血食嗜好の者がいるから、そんな者は敏感に血の臭いで異種族を嗅ぎ分けるのかもしれない。

 だから、アイアスは森の中で特別臭気の強い木や花や草を見つけては、体に擦り付けたり持ち歩いて乾燥させてから首に下げたり、勇気を出して食べてみたりなどして、あらゆる種類の臭いを身につけた。

 途中、つけた臭いのどれかが良くなかったらしく、ピンク色の蜂の軍団に追いかけられたり、かぶれてしまったり、苦過ぎて吐いてしまったり、軽い幻覚を見たりと散々だったが、探求心の強い彼の体当たりかつ大胆なチャレンジによって、やがて無難な組み合わせを見つけて落ちつくことが出来、そのなりで都市を目指すことにした。

 道程は遠く、道中では未知の魔物と何度も遭遇しては戦い、彼の好奇心を刺激するあらゆる細部を観察して、有用な部分は手に入れ、野宿をしたり魔物の肉を食べたりして都市を目指し、途中に幾つかの街を通ってヌスフェラートの人々に敬遠されながら(得体の知れない臭い者を、皆が顔を顰めて遠ざかった)、どうにか情報を手に入れ蓄えていった。

 彼は森の生態研究者ということで通し、そうすれば変わった学者と見られて変人扱いされ、助かった。

 どの街に行ってもそうだが、ヌスフェラートは大体どれも皆プライドが高く、身だしなみも男女問わずきちんとしており、だらしのない者はまずいない。

 そんな中に、ニンニクに近い臭いを放つ球根を数珠繋ぎにして首に下げている異臭の者がやって来れば、頭のおかしい変態が来たと思うのも無理のないことだった。

 あまり目立つのもどうかと思われたので、それ以上の奇行をわざわざ人前で披露したりはしなかったが、怪しんで通報しそうな素振の者が何人もいたので、アイアスは気を付けることにし、身なりの他はまともな人物であることを示すべく、彼等の仕草を真似して見せた。

 不機嫌そうに、何時も何か気に食わないことがあるような様子でいれば、彼等に馴染めることが出来た。財産や領地や遺産相続に心奪われている上流階級の人間にも似ていると彼は思った。


 人間世界での旅と同様に獲物を金品に交換してヌスフェラートの通貨を手に入れ、もう少し彼等らしい服を購入して着用することで更に身なりを完璧に(ニンニクもどき等を含めてである)してから、この世界に来て7日後に、アイアスは首都に到着した。

 王の住まう宮殿のあるここはエベルゲン・ポイツと呼ばれており、彼等の言葉で『力の中心』という意味だった。

 そのあまりの高度さに、アイアスは度肝を抜かれた。動く床、上下移動する部屋、空飛ぶ絨毯。人間の知らぬ高度な技術と魔法を当たり前のように使って市民は生活し、世界最大と謳われていた祖国アルファブラの都市よりも遥かに大きな街を築いているのだ。

 一般的な家並みも、豪邸や公共施設も正体不明の灰色微光沢の硬い素材で出来ており、彫刻などの装飾もふんだんにあしらわれていて、古典美術と最新技術とが巧く融合しているような雰囲気だった。

 灰色で統一されているのは基本的な壁面や、華美にする必要のない施設だけで、多くの建物にはその他に縁の着色や彫刻の着色が施されており、全体的に色調は暗いものの、ティー・ローズのバラ園にいるような落ち着いた華やかさがあった。

 《凄い》《凄い》ばかりで細やかな感想を抱けなかったアイアスが、ようやくそれ以外の言葉で真っ先に思いつくことができたのは、《何故これほどの種族が、今まで地上を支配できずにいるのだ?》ということだった。

 少数侵略部隊との戦いだったから、バル=バラ=タンには勝てたようなものの、もしこれだけの人々が大挙して地上に侵攻をしかけて来たら、果たして自分達に防ぐ術はあるのだろうか?

 彼らに『天使』と呼ばれ、自分でもそれを疑っている救世の勇士でありながら、アイアスは途方に暮れた。

 天使が実在するものなら、確かに、これだけ力差の歴然としている種族間の侵略騒動を鎮める為に遣わされたとしても納得がいった。そんな特別な戦士がいなかったら、とてもではないが、何千年もの間、この種族をこの世界に押し込めておくことなど不可能であるに違いない。

 そして、アイアスはこうも思った。自分が例え天使だとして、もし自分が生きている間にバル=バラ=タンのような少数軍勢以上の、大軍団級の規模でヌスフェラートが地上に侵攻して来ることがあったら、防ぎ切ることなど出来ないと。それはつまり、自分が生きている間にそんな事件は起きないのか、はたまた、それを解決するのは自分ではなく別の天使の使命なのか、或いは他の天使が来て加勢してくれるのか、とにかく、今の彼1人には無謀な任務で、あり得ないことのように思われた。

 だとしたら、もしかしたら――――――自分は、天使ではないのだろうか?

 決して人には話せぬ奇妙な思いだったが、初めて少しそう思える事実を目の当たりにして、アイアスは解放されたような嬉しさを束の間味わった。2族の戦いに終止符は打たれていないが、そうだとしたら何と喜ばしいことだろう。これから数十年は危機的な大戦もなく、自分の未来も陰鬱なものではないと解るのだから。確証はないが、アイアスはその妄想とも言える考えに暫く身を浸した。

 何はともあれ当初の目的は達成すべきと思い、アイアスは散策を続け、書館を探した。

 都市では今まで以上に人々に煙たがられ、ボンヤリと看板の字を解読していたりなどすると、暇で意地悪そうな兵士がやって来て、あっちへ行けと小突かれたりし、その臭くて汚らしい物を外して捨てろと命令されたりして、その度にアイアスは、これは森で見つけた貴重な植物で魔除けになるのだ、と気違い学者っぽく断言して喚いて見せたりなどした。相手を怒らせたら面倒だが、訳の解らないことを捲くし立てて《こいつは馬鹿なのかもしれない》と思わせれば、そのうちに呆れて去って行ってくれた。

 ご婦人はヒソヒソ話をしながら如何にも汚らしい者を見る目つきで毒気を放っていたし、子供は石を投げてやろうかと接近してきたが、あまりに異様ななりの男にギロリと睨まれると、すごすごと物陰に身を隠した。

 それにしても、笑いのない人々だ。何を楽しみに生きているのだろう。物欲? 金欲? 色欲? 名誉欲? それとも、人間とは笑いのツボが違うのだろうか? 実は、向こうでは笑いに代わる何らかのアクションを起こしているのに、こちらがそれを知らないだけなのか?

 アイアスは色んなことを考えながら、なるべく目立たない道の端を選んで(つぶさ)に街を観察した。蔑みの笑みや、してやったりというような笑みは表情に窺えるが、ケラケラ、アハハというようなものはまったく目にしなかった。

 人間が人前で裸や情事を晒すことを嫌うように、彼らにとっての笑いとは、家族や、夜の床で伴侶にしか見せぬ禁忌(タブー)なのだろうか? それとも本当に、全く存在していないものなのか?


 書館を発見したアイアスは、入り口にある受付で入館を止められ、そんな汚いなりで館内を汚されては困ると受付人に言われて、長いこと交渉に時間がかかった。

 これは意味のある物なのだと、ある事ない事並べて捲くし立て、臭いは凄くても汚い訳じゃないとか、そんなに心配なら本には直に触らない、自分も本を汚すのは大嫌いだとか言ってようやく渋々ながらの了解を得、手を洗わされた上に閲覧用の手袋までさせられて入館が許可された。

 しかも始めのうちは書館員が少し離れて後を尾けてきて、彼の本の見方を監視している始末だった。

 アイアスが本当に書物を大切にする者らしい丁寧な扱い方をする人物であると判ると、書館員もようやく持ち場に戻って行った。

 慣れぬヌスフェラート文字だらけの中で目的のものを見つけるのは時間のかかる作業だったが、未知なる世界の知識が集約されている宝庫を目の前にして、アイアスは興奮を抑えるのに苦労した。

 『天使』に関する書物が集められている棚を見つけた時には、思わず声を上げそうになってしまった。どれもこれも豪華に装丁がされている。

 題目が解ったうちの一つ、『歴代天使大全』なる物を手に取って台に置き、アイアスは慎重にページをめくった。

《イランジャ――――――サリダー皇紀325年、バルモツル遠征軍の阻止。

           出生地不明。有翼の人間の姿で降誕》

見開きの右ページに説明があり、左ページにはその天使の絵が描かれていた。イランジャとは金髪碧眼で有翼の人間だった。鎧を着て剣を掲げている。

 続いてページをめくると、同じように説明と絵が入っていた。全編このスタイルのようだ。

《シャマシュ=ダーナ――――――サリダー皇紀438年、バルムフリート遠征軍の阻止。

               サン・サーラ王国出身。無翼人間の姿で降誕》

《レヴェッカ=タウラス――――――ガル皇紀23年、ゴルゴン遠征軍の阻止。

                アルティア王国出身。有翼人間の姿で降誕》

驚いたことに、天使の中には女性までいた。武装して槍を握る、黒髪流るる乙女だ。

《アルタイル――――――ガル皇紀85年、メンドゥーサ遠征軍の阻止。

           出生地不明。有翼人間の姿で降誕》

《レザビア――――――ガル皇紀212年、暗黒竜ドゥルガーの反乱の阻止。

          竜王国出身。翼竜人の姿で降誕》

これにもまた驚かされた。人間の姿ではない、全身鱗だらけの翼人が描かれている。しかも、人間とヌスフェラートには一切関係のない危機の為に登場したようだった。

 ページをめくっていくうちに、そうした明らかに異種族の姿をした天使が度々現れ、聞いたこともない未知の種族の為に活躍した歴史が綴られていた。

 ドワーフ王国の種族内戦争……? 獣王ダイダロスの暴走……?

 そうして読み進めていくうちに、アイアスは本の終わりに近い頁の記述に目を留め、固まった。

《エレメンタイン――――――カーン皇紀526年、ヴァイゲンツォルトに発生した闇の裂け目の封印。

             出生国不明。有翼ヌスフェラートの姿で降誕》

《ハーキュリー――――――カーン皇紀531年、ヒュアデス遠征軍の阻止。

            出生国不明。無翼人間の姿で降誕》

何と、以前ビヨルクの大書庫の本にあった通り、やはり天使エレメンタインと天使ハーキュリーは実在していたのである。アイアスは、この2人に関してだけは詳細も読んでみた。

《科学者アル=ベリンガーの失敗により、ヴァイゲンツォルト北部のラルケ森林地帯奥地に闇の裂け目が発生し、均衡が崩れ、王国存亡の危機に瀕した。エレメンタインはその頃何処からともなく出現し、カーン皇帝、獣王、竜王協力の下、魔術によって闇の裂け目を閉じ、2度と開かぬよう封印を施したのである。その後間もなく姿を消し、王国内で彼の姿を見た者はなかった》

 エレメンタインとは、想像とは違ったヌスフェラートであり、蒼褪めた肌色の天使として描かれていた。ハーキュリーとこの姿で会ったのだろうか?

《貴族戦士ヒュアデスが、部下30名と獣族、暗鬼族等の援軍を得て地上侵攻を試みるが、7割方を占領した頃にハーキュリーが決起し、台頭し、逆転した。ヒュアデス以下、部下30名は全て死亡。援軍の残りだけが一部帰還した。戦勝後間もなく死亡したと伝えられている》

 アイアスは、自分の手が小刻みに震えているのに気がついた。これまでは物語のようでしかなかった天使伝説であるが、地上の文献と地下のこれとを見比べて、こんなにも現実として存在感を持ってきたのは初めてなのである。

 やはり、本当なのだ。人間はあまりに知らない。あまりに早くものを忘れ過ぎる。300年前のこの天使達の話が、あのたった一冊の本でしか語られていないなんて。

 アイアスは自分を落ち着ける為に一度本から目を離し、瞼を閉じて一息ついてから、また視線を落とした。

 そして、徐々に現代に近づいてくる天使録を読み進め、ハーキュリーから数えること8人目に、恐ろしいものを見つけた。インクの色もまだ新しい、挿入されたばかりの頁だ。

《アイアス=パンザグロス――――――カーン皇紀831年、バル=バラ=タン遠征軍の阻止。

                 アルファブラ王国出身。無翼人間の姿で降誕》

もう震えなどでは済まなかった。吐き気と共に呻き声を漏らして、アイアスは歯を食いしばった。

 何ということだろう!

 これまで自分が本物の天使か否かを見極める為の旅を続けてきたのに、こんな所でもうあっさりと決め付けられていたなんて……! 自分の知らないうちに、こうして歴代天使達に名を連ねて、既に記載されているなんて……!

 アイアスは、そこに描かれている自分の絵を穴の空くほど見、それから不意に目が合わせられなくなって頁をめくった。

 今度は違うものが目を引いた。まだ続きがあるとは思っていなかったが、そこにもう1人の天使がいた。

《ヴォルト――――――カーン皇紀831年、暗黒竜ディベラゴン反乱軍の阻止。

          出生国不明。有翼竜人の姿で降誕》

 何と、同じ時にもう1人天使が出現していたのではないか! 自分がバル=バラ=タンと戦っていたのと同じ時に、全く離れた別の場所で!

 このヴォルトというのは何者なのだろう? 彼はもう死んでしまったのだろうか?

 アイアスは、先程より幾分低い呻きを漏らして眉をひそめた。まさかこんな情報を得ようとは思いも寄らなかった。そして、あまりに時間が重なっているが為に、これに似たエレメンタインとハーキュリーの関係を思い出した。

 このヴォルトにもしも会うことがあったら(生きていたらの話だが)――――――自分は天使として告知され、新たな戦いに引きずり込まれてしまうのではないだろうか?

 アイアスは、そこに描かれている鱗だらけの人物の絵を恐れつつ、またときめいて見た。

 この人物なら……自分が何者なのか教えてくれるのでは……?

 アイアスはその他の本にも目を通したが、天使の由来に関して書かれている物は特になく、人間世界のものと大して変わらぬ表現で《天からの使者》としか記述されていなかった。

 

 この世界に地上で言うところの夜らしい夜はないのだが、閉館時間が来たと告げられてアイアスは書館を後にし、またエベルゲン・ポイツを散策した。夜間巡回を怪しまれるようだったら宿を取って身を潜めるのだが、人の姿は多いし、宿屋でも格好のせいで入室を断られるのが目に見えていたので、アイアスは宮殿近くまで足を伸ばした。

 どうもヌスフェラートの国では、長寿のお陰で在位期間の長い皇帝――――ヌスフェラート達は王のことをこう呼ぶらしい――――に合わせて暦が作られており、それぞれの皇帝の名を取って年代を表記しているようである。

 アイアスがバル=バラ=タンと戦ったのがカーン皇紀831年。それからまだ数年しか経っていないので、頓死や政変でも起きていなければ、現在の皇帝はカーンという者らしい。しかも、エレメンタインやハーキュリーの時代にもその帝位にいた人物だ。時の尺度の違いを考えて、アイアスは気が遠くなった。

 宮殿前の掲示板には様々な告知や報告が貼り出されており、この国の現状を少し知ることが出来た。

《アルスガード潜入調査員募集。――――――変化呪文術者であり、アルスガードでの長期滞在に耐え得る者を募る。詳しくは外務省調査部まで》

《魔法学、魔術学、学会期迫る。参加者、公聴希望者の申し込み受け付けは学会進行委員会まで》

《先日ラマダー湖で目撃された水竜の一団は、その後の皇帝騎士団による調査で、竜王国からの迷い竜の群れと判明。既に移動し、モルガン河からアマルナ海へと抜けて行ったので、もはや警戒は不要とのこと》

《窃盗容疑で逮捕されていたベルナルド=カインに有罪判決。エングレゴール家の宝物庫に侵入したとして御用となっていたカインの犯行が実証され、斬首刑が確定した。執行日は黒座17日》

 そこへ、ムッスリとした宮廷兵士がやって来て、変人をあしらおうと槍で小突いた。一般兵より多少身なりが華やかで位が高いと判るその者は、何やら変人がウロついているという噂を耳にしたらしく、ただ追い払おうとはせずにしつこく尋問した。

 アイアスはまた自分の事情を説明したが、今までのようにはいかず疑われてしまい、宮廷内の詰所にまで連行されて、そこでジックリ話をする羽目になった。

 臭さからそれほど内部には連れて行かれず、幾つかある裏手入り口の1つのすぐ側にある小さな取調室に押し込まれ、扉や窓を全開にして椅子に座らされると、厳めしい2人の王宮兵と机越しに向かい合わせになった。蒼褪めた肌に黒い装束の彼らは、真にもって視覚的に恐ろしげなものがある。

 アイアスは重要機関内に足を踏み入れている動悸がありながらも、機転の利く頭の柔らかさを見せて、自分でも可笑しくなるほどの嘘を並べ立てた。勿論、尤もらしく。

 自分は森の生態を研究してもいるが、実はもう一方で病気の治療法も探しており、自分の病気を治せる植物療法を研究中なのだと言うと、彼等は興味を示した。血を飲む習慣の自分なのだが、ここ数年今までの血を旨いと感じられなくなり、獣の血を求めるようになってしまったとアイアスが言うと、1人は吐きそうに顔をしかめた。

 そんな狂った嗜好を止めさせるべく、こうして薬草療法を実践中で、これをしている最中は調子がいい。獣の血に惹かれなくなった。だからこのままこれを着けさせていてくれ、と頼むと、2人の兵士はヒソヒソ話し合った上で、害はなさそうな人物だと見て彼を釈放した。

 彼が去る時、その内の1人に呼び止められて、それは本当に効くのか? と訳あり顔でヒソヒソ声で訊いてくるものだから、アイアスはピンときて、良ければ一つ差し上げますと、ニンニクもどきを1つ外して差し出した。

 兵士は汚物でも見るように顔を歪めていたが、キョロキョロと辺りを見回して人の目を窺ってから、ハンカチーフを取り出してそれにポトリと落とさせ素早く包むと、革の小袋の中身をポケットに移して包みを袋の中に入れ、しっかりと口を閉じて何食わぬ顔で懐にしまったのだった。

 アイアスは笑いたいのを堪えて出来るだけ神妙に取り繕い、兵士に見送られて宮廷裏口を後にした。


 アイアスはそれから3日間をエベルゲン・ポイツで過ごし、殆どの時間を書館で費やし、閉館時のみ市街散策やちょっとした林での睡眠に当てた。何度も怪しまれはしたが、どうにか切り抜けたし、書館でも更に知識を得ることが出来たので、価値ある冒険となった。

 そして、もうこれでここを去ろうと決意するきっかけとなった最後の出来事が書館の外であった。彼がここ連日書館に通い詰めて、主に天使にまつわる文献の棚に齧りついているのを見ていた者が、声を掛けて来た時のことである。

 植物の研究をしている者だと人から聞いていたが、天使にも興味があるのかと尋ねられて、アイアスは何か説明をしない訳にいかず、咄嗟に、天使学にも興味があって、ヴォルトをこの辺りで見掛けたという話を聞いたのでやって来た、と言ってしまった。言いながらしまったと思ったのだが、返ってきた答えは意外なもので、学者風の男は、ヴォルトなら今はアルスガードの方に行っているはずなのだが、こちらへ戻って来ていたのだろうか、知らなかった、と言ったのである。

 まだ彼が生きているのだと知ったアイアスは居ても立ってもいられなくなり、男と別れた後、今ではその意味を知ったアルスガード――――人間達の住む地上世界への帰還を決め、エベルゲン・ポイツを出て森の道に入るとすぐ、今度は流星となって一気に来た道を引き返し、絶壁の神殿に戻ると、縦に伸びた連絡路を打ち上げ花火のように上昇して突っ切り、ヴィア・セラーゴの地下城に到着して見知った世界へと無事帰ったのだった。


 ヴォルトがどんな事情で地上に来ているのかは知らなかったが、それからのアイアスは、ヴォルトなる人物を探す旅、彼の痕跡を求める旅を始めた。

 手掛かりも方法も全く解らなかったが、ヴォルトという者を探していると方々で言っていれば、いつか本人が聞きつけて自分から探りに来るかもしれないと思い、世界中に足を伸ばして僻地にも難所にも赴き、おそらく変化しているのであろう竜人なる者の姿を捜し求めた。

 容易に成果が出るはずもなく、これまで通り天使の情報を求めつつ、ヌスフェラートの国で告知されていた通り調査人員が来ていないか探り、その都度折に触れてヴォルトのことを尋ねるようにした。


 天使についての新情報を得、それについて自分1人で震える度、アイアスは、唯一彼の悩みを知る幼子のことを思い出した。

 時が経ち、もはやあれから10年の月日が流れていたので、彼女も幼子と呼ぶには大き過ぎるくらいに成長しているだろう。

 月日のお陰で当初ほど胸は痛まず、ゆったりと彼女を考えることが出来るようになり、今や15になっているはずの彼女が如何に美しい娘になっているだろうかと想像し、微笑した。さぞ男達を虜にしていることだろう。

 あの子はまだ、自分のことを健気に待っていたりするのだろうか? もう10年も経ったのだ。自分のことなど忘れて、彼女自身の道を生きて欲しい。

 アイアスは結局これまでのところ、一度も彼女の姿を見に行っていないし、後ろめたさからトライア領そのものに足を踏み入れていなかった。天使について調べる時だけ、同大陸の隣国ペルガマやテクトに足を伸ばすが、その時でも、ついついトライア領の方角に背を向けてしまっていた。

 これから先もそのつもりだったが、もう一度あの子の美しい声を聴き、美しい髪に触れたいものだとも思い、アイアスは切なく独り笑いをした。

 そしてその頃より、寂しさの為か、ふと大戦時の友を訪ねてみたくなり、足を伸ばした。それぞれ国の要職に就いてたり、田舎町に引っ込んで子を儲けていたりと、自分よりはずっとまともな人間らしい暮らしをしている仲間達を目にして和み、また切なさを味わった。

 かつての友には可愛らしい娘や息子がおり、大戦の話を物語に育った子供らは当然ながらアイアスを崇拝していてすぐ夢中になり、滞在時には友に頼まれて、彼等に稽古をつけたり魔法を教えてやったりもした。

 小さな女の子を相手にしている時は、特に幼子のことが思い出されて懐かしくなった。

 こうして彼の消息が知れるようになると、アルファブラの使者が彼を追って探すようになり、彼は友の家にほんの2、3日いて次へ行くという転々とした旅をし、その合間に今まで通りの調査をするようになった。

 そしてアルファブラからの使者がどうしても彼に追いつけないとなると、新たな動きがあった。ずっと彼を待ち続けていたと思われるアルファブラの王女が、婚約発表を広く公にしたのである。相手は、長年王女に求婚を続けていた隣国の王子だった。次男なので婿入りであり、結婚すればアルファブラにやって来ることになる。

 さすがにこれには、アイアスも鼻柱を殴られたような気になった。彼が自己探求の旅に出たばかりのあの頃はうら若き乙女であった王女も、何年も待たされて王族としての結婚適齢期を過ぎかけているのだ。これまでは父王からの強い圧力にも耐えてきたのだが、遂に痺れを切らしたのである。それでも、よく12年も待っていたものである。

 この、彼の出現を待っていたかのような王女からの強いメッセージは、王女の意図通りアイアスに伝わった。彼の耳に確実に入るよう、彼が出没する他国にまで告知をしたのだ。式の予定は3ヶ月後。つまりはそれが猶予期間である。王族として、1人の女性として人生を賭けた王女の勝負なのである。

 アイアスは奔放な旅の中にあって、これまでも心の底で王女への思いを大切に隠し持っていた。その、かつては結婚話まで出た相思相愛の彼女が上げた最後の叫びであると知りながら、しかし、アイアスは彼女の前に出て行くことができなかった。

 友人の勧めや叱咤を浴びながらも、どうしても自分の旅を終わらせることができない宿命の強さを改めて実感し、落胆した。

 人には言えない何かしらの問題を抱えているらしいことを悟った友人達は、それ以上口は挟まなかった。

 結局彼にできたのは、結婚式の前夜、王女の花嫁衣装が飾られた部屋に潜り込み、長年待たせたことの詫びと、幸せを祈っている旨の手紙をドレスに添えて残してくることだけだった。

 翌日の式を見ることもなく、アイアスは逃げるように人間社会から離れ、ヴィア・セラーゴの深部探索に明け暮れた。

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