第4部23章『悪魔の子』11
※※注意※※
この章は大変ネガティブな内容になっております。
文章作品でも映像作品でも、その時のコンディションで受け取り方が変わるものですので、特にメンタルに不調を感じられている時はお読みにならないでください。
詳しくは活動報告の『次章23章について』をご覧ください。
これが平和な家族で起きた突然の死だったら、おそらく受け入れられず、納得できず、子供らしい癇癪でも起こして母の目覚めを願ったかもしれない。
だが、ルークスは見てきている。沢山の死人を。母の受けてきた仕打ちと痛みと、ボロボロの体を。死ぬ寸前の人や、病で弱っている人がどんな風になり、どんな風にして死んでいくのかを。
だから、母がもう一度目覚めたりすることがないというのを、己の感覚と経験でどうしようもなく理解していた。解っているけれど、それでもは離れたくなかった。
生まれてから一度も、この人と離れたことがなかったのだ。長い時間小屋の中で帰りを待つことがあっても、待ってさえいれば帰ってきた。それがもう、待ったって、探したって、願ったって、生きて動いている母には会えないのだ。
しかしその一方で、それこそ幼い子供とは思えない愛情と思いやりで、ルークスはこうも思っていた。もう母さんは二度と苦しむことはないのだ。これで良かったのかもしれない、と。
それは同時に、今の自分ではどうにもならなかったという無力感を強めた。母の重荷にしかなれなかったという罪悪感。そして、生きているうちに守って楽をさせてやれなかったという後悔。いずれにしても、この別れは幼いルークスの心を更に深く傷つけた。
そして、これこそが彼の今後を決める重要な分岐点でもあるのだが、彼は神を全く信じていなかった。いや、それどころか存在していないと思った。何故って、この母を助けなかったのだ。自分はともかく、あんなにも神を信じ、素晴らしい行いをしてきた母をこんなにも苦しめ、最後には血を吐く病で死なせたのだ。
母は素晴らしかった。だが、母は間違っていた。神は、存在しないのだ。存在しないものを敬って、求めて、だからこんな風に死んでしまうことになったのだ。
もし存在するというのなら、自分は信じない。いや、許さない。決して。
そしてルークスは人間のことも非常に冷めた目で見、既に腹の底で大いなる怒りと憎しみを燃やしていた。
母の言うように、善人はいる。これから戻ってくる男もそのうちの1人だろう。だが、人間という生き物の圧倒的大多数は邪悪で、残忍で、おそろしく汚らわしいのだ。病気の子供に暴力が振るえ、非力な女に石を投げ、その視力を奪い、何の抵抗もできない母子を火あぶりにしようとできる連中なのだ。
その酷い有り様を少しでも軽くして薄める為に、善人がほんの僅か存在して、世の慰めになっているのだ。人間が、善なのではない。
母は素晴らしかったが、母の血が半分入っていることで《自分が半分人間である》ということは、今では屈辱的な嫌悪感をルークスに抱かせた。いっそ、100%ヌスフェラートなのだと自分に信じ込ませてしまいたいと思った。
だが、母を忘れられるはずもない。母が心の中にいる限り、自分の中に人間の血も残る。
ルークスはそんなことを、涙を流すがままにして母の側に座り、母の体を撫でながら思い、男が戻って来るまでの時間を過ごした。この先のことは、まだ考えようにも考えられなかった。
ただ解っているのは、人間と一緒には暮らせないということだけだ。
やがて男が戻ってきて、その時はルークスも男が母を穴の中に抱き下ろすのを止めることなく見守り、最後に母の見様見真似で葬列の祈りを呟き、男と共に土をかけた。この時はもう既に辺りは暗かった。
これまでの振る舞いで、男はこの少年がとてもよく躾られた礼儀正しい子供で、頭もいいらしいことが解っていた。そんな子ならば、村で引き取っても今後大いに役立つだろう。だから、土を全てかけてやる事が終わった時、男はルークスに言った。
「坊主、お前、行く所はないんだろう? だったら、おじさんとおいで。おじさんの村の子におなり。一緒に行こう」
終戦の知らせを受けた日に行き合った者だから、これも何かの縁だろうと思っていて、例えマントとマスクで姿を隠している病気らしい子供でも、その男は躊躇わなかった。
だが、ルークスは断った。それも、ただ断るのではこの男が納得しないであろうことを解っていて、こう言った。
「……ボク、今晩は母さんと一緒にいたいんです。どうしても」
それも本音であった。
子供のその言い様に男は涙ぐみ、寒さと魔物の危険を心配しつつも、あまりにきっぱりとルークスが宣言するので、したいようにさせてやることにした。幸い、この道ではあまり魔物を見かけることがないし、大戦が終わって撤退する魔物もいると聞いているから、減少方向にあるのだろうと考え、望み通りにさせてやろうかと思ったのである。
仮にルークスがここで後追いをしようとしているのだとしても――――男はそうとは思わなかったが――――死にたがる人間を引き止め守るほどの余裕はまだ世の中にないこともあった。第一、子供がこの幼さで自害することはまずない。認識自体がないものだ。この大戦時の苦境に耐え兼ねた様々な人の自死を目の当たりにしたり、聞いたりして学習してしまっていたら、また別かもしれないが。
そんなわけで男は防寒用に自分のマントを貸してやると、かえって獣の目を引くからランプは要らないとルークスが断るのでその通りにして、村へと戻って行った。明日の朝また来るから、その時は一緒に行こう、という言葉を残して。
ルークスはその晩、離れ難い土中の母の側で座り、喪失感と怒り、憎しみ、そして愛の思い出に繰り返し胸を詰まらせながら涙を零した。そしてようやく、この闇の中で今後のことについて考えられるようになった。
頼れる存在は何処にもいない。人間に自分の正体が知られれば、また殺されそうになるだろう。行く当ては、この地上には何処にもない。やはり亡き父が残した、ヴァイゲンツォルトへの道程のみだ。どんな所にあるのかは、父からも母からも呪文のように聞かされて覚えている。もはやこうなっては、自分1人でそこを目指すしかないだろう。
自分が、ありのままの姿で堂々と暮らせる居場所を見つける為に。
そして、ここまで必死に自分を連れてきてくれた、母の為に。
僅か6才で、ルークスはこの世をたった1人で生き延びる人生を始めた。
深く身を隠すマントの下には、父の形見である騎士団の紋章と、母の形見である神の象徴を摸した金の輪を首から下げている。そうして、これまで通り外見は皮膚病で人に見せられない姿をしている子供を装いながら、物乞いをしたり、怪我人を見つけては、自分は治療呪文ができるから代わりに食べ物をくれ、と言って交換条件で人の治療をしたりなどして食い繋ぎ、生命を繋ぎ、ガラマンジャ北西部の森をひたすら目指した。
母との旅がなかったら、ただの子供がどのようにして食べ物を手に入れればいいのかなど、思いつきもしなかっただろう。手っ取り早く盗みなどをしていたかもしれない。
寝ている間に正体がバレてしまうと困るので、眠るのは外か、忍び込んだ農家の納屋などにしていた。そしてマントを剥がそうとする悪い連中と遭遇した場合は走って逃げた。ルークスの足は幼くてもとても速かった。
信じるものがなくて、守るものがなくて、守ってくれるものがなくて、それはとても虚ろな日々だった。ただ、ヴァイゲンツォルトに行く。それだけを生きる目的にしていた。
その道程は、まだ遥かに遠い。