第1部第4章『トライア国軍』その4
次に目覚めた時、ソニアはきちんとしたベッドの上に寝かされており、すぐ側には人間の姿に変化しているゲオルグがいた。
彼女の目覚めを見て、彼は微笑んだ。急に会った時とは違う、ずっとそこにいた者が見せる柔らかなものだった。どれくらい眠っていたのかは解らないが、思えば、彼とこんなに長く一緒にいたことはない。
彼は体の調子を尋ね、もう心配はなさそうであることを知ると、ソニアの目が要求するがままに状況を説明した。
「ここはレベイラという町だよ。チェリノバ王国の。君をまともな所で寝かせようと思って、宿を取ったんだ。人間世界だから安心するといい。追っ手は来ていない」
チェリノバとは海洋王国で、トライアのあるナマクア大陸と向かい合わせに内海を挟んで存在しており、沢山の小島を抱える所だ。室内に飾られた貝の置物や海の絵にデルフィーと共通するものを感じて、ソニアは少しホッとした。
「あれから調べたが、カリストが近年トライアにいたことから、君がトライアの者ではないかという疑いは持っているようだ。ただ、君を連れ去ってまだ間もなかったのか、それほど詳しいやり取りはしていなかったらしい。君の兄を誘き出す作戦も、まだ一部の部下にしか知らせていなかったようだ。自分の手でやりたかったのか……或いは、王が来てから教えて驚かせるつもりで取っておいたのか……。あいつは、仲間だったヴィルフリートを君の兄に倒されて、恨んでいたようだったからな」
口にするよう手渡されていた、数種の果実の搾取液とミルクを混ぜたものを入れたカップを啜る手を止め、ソニアはポツリと言った。
「王……」
彼の目がキラリと光り、それから頷いた。
「……そうだ。君が会った老人は、我々一族の王なんだ」
「じゃあ……あなた達一族のお妃がいなくなってしまったの」
今度は、彼は目を閉じて首を横に振った。
「……王に妃はいない」
「……どういうこと?」
「さあな……オレにもよく解らん。ただとにかく、あの王はこれまでに妻を娶った例はないんだ。今だってそのはずだ」
ゲオルグにそう言われると、ソニアはもう何が何だか解らなくなった。ベッドの上で視線を落として、パステル色の養生食の入ったカップを見つめた。
「あの人……カリストって人……私を見ただけで、その人にとても似てると思ったらしいの。王も、私を見て『似てる』って言ってた……」
「……君に似た誰かはいるのかもしれないが……少なくとも妃じゃない。何かの間違いだろう。或いは……」
ゲオルグは、何を考えているのかも解らぬほどに奥深い目で言った。
「もう妃も同然だと思っていて、そう言うのかも。こうと決めたら、自分の思い通りにしないと気の済まない恐ろしい人だから。相手の方は、それが嫌で隠れているのかもしれないね」
まだ体中に血の足りていないソニアは、一時に起こった複雑な出来事を頭でまとめるのに苦労し、ともかく、目の前のカップを啜ることを再開した。ベッド脇のテーブルに吸い口があるので、眠っている間にも彼が口だけは湿らせてくれたらしく、長時間水分を摂らなかった時の舌のざらつきはなかった。
ゲオルグは、言うことを大体理解できるくらいソニアの頭が無事であることから、更に話を進めた。彼女の表情の変化や答えを探ろうとジッと見つめて、少し心配そうな真剣な顔で。
「……手配して、あの後、カリストの死体は始末しておいた。君と彼が忽然と消えたと、あそこは大騒ぎになっている。彼が殺されたとすぐには結論付けないだろうが、君のことを捜して、トライアには追っ手が来るだろう。王は相当執着しているようだから。……君がトライアに帰ることは危険だと思う。……どうだい? 今度こそ、オレと国を出ないか? 彼等がまず捜さないような場所も色々知ってるし、何かあっても君を守れる。流星呪文や飛天呪文を使える者が側にいた方が便利だし、君も安心だろう?」
彼の目には、今度こそ期待できるのではという望みがチラリと覗いていた。そう思えるだけの材料が、今日は豊富に揃っていた。
警戒するより、純粋な疑問からソニアは真っ直ぐに尋ねた。
「……どうして、あなたは私を助けてくれるの? ゲオルグ。私と旅をしようと言ってくれたり、今度は危ない時に駆け付けてくれた……」
彼はいつも深く考えながらものを言う人だったので、明け透けに何でも喋る人とは違って、どれが嘘なのかも、どれが本当なのかも、或いは全部がどちらかなのかも、考えてみればよく解らない人だったが、この時ばかりは、ストレートに真実だと思える言葉を温かな笑みと共に言った。
「君が……好きだからだよ。ソニア」
その台詞には効力があって、そう言われると、何だかそれだけでいいような気がしてしまい、ソニアは戸惑いがちながら微笑み返した。
「一緒に行こう」
彼の親切にも情にも疑いを抱いてはいなかったが、ソニアの答えはもう決まっていた。
「……私……やっぱり戻るわ。お兄様を待つうちに、本当にトライアの人間になってしまったの。あの国も、仲間も、国王様もみんな好きなの。危険かもしれないけど、私を追う彼等はいずれみんなの脅威にもなると思う。だからみんなを守りたい」
期待があった分、ゲオルグの落胆は目に見えて、ソニアの胸を申し訳なさで疼かせた。
「……君を見つけたら、捕える為に集団で国に襲い掛かって来るかもしれないぞ。それでも戻るのか?」
「……ええ。もしそうなったらその時、私が引きつけて国を出て行くわ」
彼女があまりに本気でそう言うので、彼は鼻で溜め息をついた。
そして、今までの付き合いの中で一番厳しい表情でソニアは言った。
「あの人のように……あなたも含めてだけど、ゲオルグ、人間の国には、人化したヌスフェラートが沢山いるの?」
「……解らない。実を言うと、オレはこの地上でたった一人、人間に化けているんだと思っていた。他にもそんな奴がいるのを知って驚いてるところなんだ。まだいるのかもしれないが……沢山ではないと思う。幾ら何でも。互いに変化していたら、会っても仲間同士だとは判らないから、断言はできないが」
彼は、続くソニアの質問をある程度覚悟しており、人の気分を害したくない者がそうするように表情を窺っていた。彼がこれまではっきりと己の属性を語らなかったこともその表れだ。
「……ヌスフェラートと人間の戦いの歴史は聞いているわ。あの人や、あなたのように、人間に紛れ込んでいる者がいるのは……いずれまた戦う時の為なの?」
「……カリストはそうだったのかもしれない。ここ数十年、人間の女の血がお気に入りだったらしいから、移り住んでいただけなのかもしれないが。――――だが、オレがここにいるのは、ソニアが好きだからだよ。これまで君の所に行ったのは、君に会いたかったからだ。君のような面白い友達はなかなかいないからね」
どうしてもその気持ちを伝えたいらしく、彼はソニアの手を握った。
「……世界中を廻っているのも、本当にただの旅? ……事前の調査とかではないの? 本当に」
彼の真意を探ろうとする真っ直ぐなソニアの視線はゲオルグにとって痛かったが、敵意からではなく、そうでなければいいという願いから彼女がそうしているのが解って嬉しかった。
「オレは、本当に旅の生活が好きなんだ。それだけだよ」
「……いずれ戦いは起きるの?」
「……オレにはわからない」
それ以上は、同じ質問の繰り返しになりそうなので訊けなかった。
トライアに戻るという彼女の考えを尊重して、もう少し栄養を摂らせて休ませてから、ゲオルグはトライアに彼女を連れて行った。彼の助言を受けて、人に怪しまれそうな数々のエピソードは伏せて大まかに説明することにし、ここまで帰って来られたのも、ヴィア・セラーゴで見つけた流星魔術薬(呪文が使えない者でも流星移動できる使い切りの魔法薬だ)によることにした。
彼女が無事、城門の兵士に驚き迎えられるのを見届けてから、ゲオルグはまた人ごみの中に紛れて行った。
帰還したソニアは、心配のあまり床に伏しそうだった国王に大喜びで迎えられ、事の顛末を説明すると、まだカドラス付近で滞在している第1中隊の下へ通信役の魔術師によって流星呪文で運ばれた。
そして、半分以上死んだものと思っていた仲間達に熱狂的に迎えられて、飛びついて来たアーサーと固く抱き合い、粗方事情を説明すると、調査も全て終了した110隊に合流して本来の目的であるクリーミャ遠征を再開し、西の港町への旅を始めたのだった。
賊や魔物の掃討に成果を上げて第1中隊が城都に帰還すると、ソニアはヌスフェラートに攫われながら自力で戻って来た勇士として祭り上げられた。都合の悪い部分が幾つも伏せられたり変えられたりしたとは言え、拘束からの脱出やカリストとの戦いの大半は本当のことだったので、生々しく体験者の言葉として語られ、伝わり、新聞(日刊ではない不定期の読み物で、粗い素材の紙に活版印刷された1枚紙だ)になって城下街中に広がった。大戦の記憶もそれほど古くない人々の中にあって、ヌスフェラートを出し抜いた(危険を考えて《殺した》とは言わなかった)という事実はとても胸のすくものがあった。
また、彼女が戻る前から、再びヌスフェラートが国内に現れたということで俄かに日頃の警戒が高まりだし、2次大戦の可能性が語られるようになった。軍人は持て囃され、より強い者が 相応の地位に就くことが望まれる風潮となった。
そして、それを見越したかのようなタイミングで、カドラスにて攫われる直前までに彼女が出した戦闘指示が評価されて、ソニアは士官の道を勧められた。隊長になった経験のない彼女は、まず少し地位を下げた隊114隊の隊長になることを引き受け、同時にアーサーにも119隊の隊長就任令が出た。別隊になることは惜しまれたが、互いの将来の為に2人は生き生きと己が部隊を立派に率い、まとめて、その才を発揮した。
ソニアが心配していたその後のヌスフェラートの進撃も遭遇も誘拐もなく、時折ゲオルグが姿を見せては、彼等側の厄介な事情によりソニアの捜索は後回しにされて、それほど熱心に行われないようであることなどを教えてくれたりした。ソニアはアイアスに迷惑をかけずに済んだことを喜んで、彼との再開を楽しみに、日々の鍛錬と統率術の習得に励んで時を送った。
士官としての能力を示したソニアは、間もなく1足飛びに110隊に戻ってディランに代わり隊長となり、遂にこの時が来たのか、と歴戦の壮年兵に席を譲られた。
国軍隊長とのやり取りも多くなり、彼は、まだ16とあまりに若いソニアの行動が的確か、安定しているか、部下の支持は高いかをよく観察していた。
実力も十分で逸話も豊富な、生きながら伝説になり始めている彼女であるだけに、それがいくら若い娘であろうとも、国軍兵士達は敬意を払って彼女の命に従った。そして、将として足る人物であることを知った。
士官になると試合に出なくなることが多い中、ソニアとアーサーは果敢に出場を続け、御前試合の度に彼女は首席の地位を確固たるものにして、他者を大きく引き離していき、追い縋っているのは一人アーサーのみであった。
ますます背が伸び、体のしっかりしてきた彼はもはや体格負けすることがなかったし、ジマーやディロンも負かして不動の次席となりつつあったので、決勝はソニアとアーサーの戦いになることが多くなった。
彼女が中隊長としての任を命じられ第4中隊の長となると、彼女の通った道を辿るように彼が110隊の隊長となり、いずれこの2人が国防のトップ2となるであろうことを誰もが予想して疑わなかった。
2人共が個々にカリスマ性を持っているので、部下達は2人の命には当然の如く動き、違う世界の人間を見ているような憧れだけを抱いた。
息子の驚異の昇進をアーサーの母と妹は勿論喜び、畏れ多さすら感じて得意にはならず、慎ましい暮らしだけを続けた。彼が忙しくなるにつれて会いに行く回数が減ったので、それだけは不満だったが、母も妹も決して口には出さずに彼の平穏無事を願った。
幼なじみのアイリスも城都に留まり続け、働き先だった酒場が性に合ったことから、そこでの仕事が本業になった。彼はここにも時々訪れていた。
リラは一人身を続けていて、ソニアのたまの帰郷と手紙のやり取りを楽しんでいたが、このところめっきり体が弱ってきて一人では生活できなくなり、これまで頑なに断っていた世話役をソニアに雇ってもらい、横になっていることが多くなった。
ソニアが飛び昇進して第1中隊の中隊長になった時――――彼女はまだ17だ、危篤の知らせが来てソニアはデルフィーに飛び、幼少時代を見守ってくれた恩ある老女の下に駆け付けた。
普段着ではなく仕事着のまま駆け付けたので、その精悍な姿にリラは喜び、集まっていた友人達に自慢した。そしてソニアを「よくここまで頑張ってきなすりましたね」と手を握って誉めてやり、また眠ると、翌朝には帰らぬ人となった。
ソニアは育ての祖母として彼女を盛大に見送り(リラが嫌がるだろうと思って、それでも控え目にしたが)、遺言通り息子の墓の隣に彼女を葬って、住人のいなくなる家の手入れや借家としての管理を街の者に頼み、粗方すべき事の済んだ後、窓際に花が咲き垂れ下がる愛着のある家の前で一人佇んだ。街の誇りである第1中隊長を皆はいつでも歓迎し取り巻いていたが、今回ばかりは、お悔やみを述べた後は皆、彼女をそっとしておいてくれた。
ソニアは思った。リラばあのいなくなった今、アイアスにどう伝えよう、自分が城都にいることを、と。アイアスなら、本気で自分を捜すのならば何とでも方法を見出すだろうし、この場合はちょっと街の人に訊くだけですぐに判るはずだったが、自分の方から何もせずに立ち去ることだけはしたくなかった。
そこでソニアは思いついて、腰に差した短刀を取り出すと、玄関脇の幅の広い木戸の縁に文字を刻み始めた。
《この家に住んでいたソニアは城都にいます》と。
ソニアは出来上がったものを満足して眺めると、責任ある地位の者らしく忌引きを短く切り上げてすぐに出発し、城都へと戻った。
ソニアが昇る所まで昇り詰めて来たので、後はいつ彼女が軍隊長になるのか、というワクワクとも緊張ともつかぬ雰囲気が城を覆うようになった頃、ふいにアーサーが自分から申し出て近衛の道を歩み始めた。
「なに、幾ら実力でも、あんまり彼女の後を追うルートは男として耐えかねたんだろう」というのが大方の考えで、当然だ、無理もあるまい、と思われていた。ソニア自身は、彼なら実質全軍第二位と言われている近衛のトップになるのは確かに相応しいだろうと思っていた。そしてアーサー自身は、ただ「近衛になりたかった」としか言わなかった。
編入の為、地位的にやや下方からのスタートとなったが、彼はすぐに頭角を現してあっという間に近衛第2中隊の長となっていた。
ソニアが国軍隊長になるのが先か、アーサーが近衛兵隊長になるのが先か、と噂され、若い2人の恋の進展話と一緒に城都中に流れた。もう、アーサーが彼女を慕っているのは衆知公然のことであるし、彼女の方も彼と仲良くやっていたので、かなり前から恋人同士だと噂されているのだ。当人達は周りが如何に騒いでいるかをまるで知らないので、特に城下街での噂の先走り様は想像だにしていないだろう。人気のある2人の話題だから望む聞き手が多いだけに、いつも話は大きくなり、脚色されて膨らんで伝わっていたのだ。
それでも目につく範囲で囃し立てるような者がいた場合は、アーサーが早めに手を打って静かにさせておいた。自分のことで彼女に迷惑をかけ、嫌がられることを何より恐れているのだ。
2人はこれまで通り友としてよく語らい、働き、明日を見た。
それは、ソニアが18になった年の、2度目の御前試合が間近に迫った時だった。長らく試合の不参加を続けていた国軍隊長ジェラード=ヘパカリオンが参加する意志を表明し、遂にその時が来たのかと話題騒然となった。上層部の大半の者には彼の意図が判っていた。
士官クラスが試合に参加する時の約束事で、彼らは3日目の上位戦からの参戦となっており、しかも今回、彼自らが指定した条件は、優勝者とだけ一戦交えるというものだった。
いつも通り110隊員や011隊員、ソニアとアーサーが勝ち残ってピラミッドの頂上決戦を行い、決勝では2人の剣舞のように華麗な戦いの流れが休みなく続いた。これもいつものことだが、アーサーは決してソニア相手に絞め技を使ったり(簡単に技を掛けられるはずもない)、本当に流血沙汰になるような攻撃をしたりもせず、かといって手を抜いていると見られて彼女を辱めるような戦いはしなかった。真の強者同士の剣舞を見せて観客達を圧倒し、ひとしきり立ち回りをしてから、やがてスピードの差でソニアが彼の剣を払い落とし、それに対してアーサーが両手を広げ「参った」と言う決着がついて優勝し、待ちに待った国軍隊長との戦いになった。
傍目にも年齢的限界が近い、あれから白髪の量が大分増えた国軍隊長はテントから出て、観戦中にずっと温め解していた体をまた伸ばし、国軍隊長の証であるトライアスの紋章入りの鋼鉄製長剣を鞘から抜くと、以前よりもずっとパワーを残して勝ち上がったソニアと向かい合った。
余裕はあっても、ソニアの胸は高鳴った。上司として尊敬し、これまで不可触の存在のように戦うことが許されていなかった相手なのだ。地位的にも、この国で最強とされてきた人物との試合が遂に叶うのである。
彼を越えれば、そこには、彼女が幼い頃に熱望した《誰にも負けないくらい強い者》の世界が待っている。今ではそこがゴールでないことは十分に解っていたが、かつて一度見定め、多大な努力を重ねてきた目標に辿り着くというのは、何にせよ一つの転機であり、ただならぬ達成感が得られるはずであり、やり遂げねばならぬものだった。
観衆も緊張し、息を呑んで見守り、開始の鐘の音と共に2人が動き出すと熱烈な声援を浴びせた。どちら派の方が多いということはなく、皆が、ジェラードの功績と人徳、ソニアの努力と類稀な才能双方に敬意を払って言葉を投げかけた。アーサーは若干ソニアの方を多めに応援した。
今日まで現役でやって来ているジェラードは、最盛期のパワーと比べれば見劣りはするものの、太刀筋も技もしっかりとしていて隙がなかったし、攻撃の受け流しやカウンターの巧みさで簡単にソニアのクリーン・ヒットを許しはしなかった。
「――――――全力で来い! ソニア!」
彼の声が響き、それならばとソニアは老兵に敬意を持って得意技で対抗した。今では彼女が風を操り、それが魔法の威力を高めていることを皆も知っている。風に乗った氷炎魔法はこの亜熱帯の国にはない猛吹雪を生み出してジェラードに襲い掛かった。
彼は素早く腹這いになって直撃を避けて凌ぎ、最大風力が過ぎ去ったところで身を起こして、手にしていた盾を投げつけた。彼得意のチェーン・シールド技だ。ソニアは魔法を切り上げてそれを避け、後方宙返りをした。盾は回転しながらソニアが元いた場所に来ると、そこで操作者の手元に戻って行った。
軽量、頑丈で特殊な鎖で繋がれているこの盾は、ヨーヨーのように何度でも離れた敵を攻撃できる飛び道具であり、防具でもあるのだ。この操作の難しい盾が扱えることで、ソニアに魔法があるように、ジェラードも遠隔攻撃が可能となる。この技こそが、彼をこれまで最強たらしめていた一因でもあった。
ソニアは今までのように易々とは魔法が放てなくなり、長剣とチェーン・シールド2つの攻撃とをかわしながら小さな技の応酬をした。
さすがの強戦士が相手で、なかなか決定打が出ない。だがソニアは、彼との戦いを楽しもうと体が自然に立ち回りを長引かせていることに気づき、もうそれを終わりにしなければならないと悟った。彼の目が待っているのだ。彼女の本当の全力攻撃を。
ソニアはシールドの攻撃を避けて、起き上がったところで意を決し、再び氷炎魔法を放った。盾を収容し切れていない彼は伏せられず、ブリザードを身に受けて吹き飛ばされた。彼が落ちる前からソニアは走り出し、彼が空中で体を捻って身を立て直したところでもう一度氷炎をぶつけ、体勢を崩したまま落ちてきたジェラードの盾と剣を目にも止まらぬ速さで打ち払って落とさせた。
風の余韻が残って観客の髪を掻き上げ、冷気が辺りに立ち込め、盾と剣が転がる音が高らかに響く。ジェラードが顔を上げた時には、そこで剣先を突き付けて立っているソニアがいた。
ジェラードは目だけでソニアに眩しく微笑み、切なさと満足感の綯い交ぜになった感慨の中で一呼吸置いた。
「……参った」
会場はどよめいた。ウオォーッという低く重い声が響き渡る。国軍隊長の敗戦を初めて目にする者が多くて、拍手は戸惑い気味なものとなり、その中をジェラードが立ち上がって、放り出された己の長剣を取りに行った。
この戦いの意味を知らぬ者は、この重苦しい空気をどうしたらいいのか見当もつかなかった。しかし、これから、この戦いの本当の目的が遂げられようとしていた。
ジェラードは手にした剣を、そこに己のこれまでの人生が映っているかのように、じっくりともう一度だけ眺め、それからソニアの下に行き、まだしていなかった試合終了の礼を向かい合ってすると、彼女の差し出した手を取って握手し、そのままそこに跪いた。
ソニア自身は、この先のことを慣習としても知らなかった。何をするのだろうと目を丸くして彼女が見下ろす中、ジェラードは長剣を両手で丁寧に横に持ち、恭しく掲げると、ソニアにそれを捧げた。
「よくやった。これは……そなたに相応しい」
ソニアも含め、観客の殆ども理解し、その途端、割れるような歓声と拍手が上がって2人を包んだ。テントの国王や幹部達も熱烈な拍手を送り、美しき勇退の儀式を見たジェラードの崇拝者達の中には涙を流す者もいた。
ソニアは夢かと思う驚きの中で、現実であることを確かめるようにおずおずと長剣に手を伸ばし、柄の感触を指先に感じると、しかと力を込めて握り、刃にも手を添えて全てを受け取った。
ジェラードは彼女に向かって《さぁ》と促すように頷いて見せた。ソニアは感謝のあまり、彼に熱く震える瞳で微笑み、そして、その剣を高々と天に向かって掲げた。滝のような激しい音の洪水が再びピークを迎え、今度こそ彼女だけに向けて惜しみなく降り注がれ、ソニアは喜びに大きく笑みを広げて、青い空に向かって剣を突き上げ、その輝く美しさに見とれながら、遂に頂点に辿り着いたことをアイアスに心の中でいっぱいに叫んだのだった。
史上最年少の国軍隊長が誕生する知らせは速やかに城下街に流れ、各地方都市にも流れ、出身地デルフィーでは、まだ就任式前ながら祝宴が催された。
御前試合の結果を基にした人事異動が新たに発表され、今では第1次大会入隊者が活躍するばかりとなり、それ以降の大会で入って来た者は似たり寄ったりの実力で突出した者が出てこないので、異動になるのはその第1次入隊者と、その都合で格下げされる者達だけだった。
異動日に国軍隊長就任式が行われることになり、それまでソニアは第1中隊長としての任務をこなしながら、時にジェラードと打ち合わせ、引継ぎに際して様々な伝達を行った。
異動の日、朝一番に正式通知が掲示されると、朝礼には全軍が王室テラスの見える広場に集合して、国軍も近衛も居並んで整列し、テラスを仰ぎ見た。
厳粛な静けさの中で王の言葉が広場に通り、隣に立つソニアを新しきトライア国軍隊長として任命する旨を述べ、彼女が片膝ついて腰を落とすと、軍隊長専用の長剣の刃を彼女の肩に乗せて問答をした。
「トライアスに選ばれし強者達、忠誠の臣達の長たる者として、光降る日も矢の降る日も、凪の日も嵐の日も、その身が果てるまで国家守護に尽力し、トライアスに全てを捧げることを誓うか?」
「光の日も矢の日も、凪の日も嵐の日も、この身が果てるまで国家と国王陛下の守護に粉骨砕身し、トライアスに忠誠を誓うことを――――――ここに宣言します」
「そなたを正統なるトライア国軍隊長として任命する。ソニア=パングロスよ」
肩の剣が降ろされると、それは王の手ずから両手でソニアに渡され、ソニアも両手でしかと受け取ると、王に促されるまま、テラスの柵越しに全兵士に姿を披露し、正式に自分の物となった剣を皆に翳して見せた。
その瞬間、ようやく許されて兵士達は声を張り上げ、拍手喝采し、新国軍隊長を讃えた。
ジェラードはこの日引退して故郷に隠居することになり、その後は彼の勇壮な退職の儀式も行われ、ソニアと彼は固く握手を交わして後任の健闘を祈り、熱烈な賛辞の中を見送られて、彼の軍人生活の幕を美しく下ろしたのだった。
ソニアが国軍隊長になってからは、ずっと城内にいる時間が増え、王室に赴く時間も回数も多くなり、城内に花が咲いたようだと噂された。王女や王妃がドレス姿で歩くのとは違って甲冑姿で颯爽と往くので、それは柔らかで華麗な花ではなく、野性の、しかし高貴な山百合の類のようだった。国王や軍隊長にのみ騎馬が許されている純白の馬、アトラスをジェラードから引き継ぎ譲り受け、跨り駆る姿はますます彼女の美しさを引き立てた。
物語の挿絵でしか見たことのない伝説の女戦士がそこに再現されているとしか思えず、今では『トライアス』、『守護天使』が彼女の通り名になっている。生き神がそこにいるのならば、この国は安泰に違いないと民は喜び、白き戦士の姿を拝める機会があれば心からそれを楽しんで仕事の手を止め、通りに出て来るほどだった。
彼女がその地位からさすがに御前試合に出なくなった後は、当然のようにアーサーが若き首席として優勝を堅守した。そして間もなく、割りと若かった四十路そこそこの近衛兵隊長が自ら席を譲って、彼が新任の近衛兵隊長となり、軍の2本柱が若き者によって担われる時代が到来したのだった。
2人を目にしたことのない者が話だけを聞いたら、10代の国軍隊長や近衛兵隊長など、あまりに若くて荷が重すぎるのではないかと思うのだが、会ったことのある者は2人の醸し出す頼もしさや、若さ以上の安定した強さを知っているので納得できたし、何よりこの国にトライアス伝説があることがソニアの道を広げ、輝かせており、こんな若い者達に才能の恩恵が降りて来たということには何か意味があるに違いないと多くの民が考えて、適当な地位に就かせるのが当然だという流れを作る助けとなっていた。
それぞれ黒制服と赤制服のトップとなった2人は、代々そうであるように兵舎ではなく城郭内の専用居住区で広い個室を与えられ、寝起きをするようになった。双方とも前代が使っていた部屋を譲り受ける形で入居し、ソニアはその部屋の窓が城壁に近くて、夜にそこから飛び出せば容易に森に出て行けることを喜び、アーサーは1階違いの彼女の部屋に近い場所だったので、ソニアに会い易くなったことを喜んだ。
以前から彼女の歌の趣味を知っていたアーサーは、大分前に「最近は歌っているのか」と尋ねて、彼女がよく湖の方まで行って歌って来るというのを聞いており、部隊が違ったり役職が違ったりで時間の合わなかった時代はともかく、唯一共にいられた110隊時代には一緒に連れて行ってくれと頼んで、夜の散策と彼女の歌を楽しんだりもしたので、今でも彼女がその習慣を続けていることを知っていた。
重要な役職に就いたことで二人とも勤務時間が定まらず変則的ではあったが、きちんと休養を取ることも長官として大切なことだったし、平時には然したる心配もなく夜に休むことが出来たので、仕事にも慣れてきたある夜、アーサーは彼女と折り合わせて久しぶりに湖に赴いた。
以前から、時折2人共がいなくなる夜は、例え2人が一緒にいるという確証がなくても、それは逢瀬であるとされていて、兵士が2人の足取りを探ろうと試みていたものだが、城内の今は女官や下働きの者達が主に目を光らせていた。2人は双方共にファンが多く、その2人が恋愛関係にあるという先走った憶測が、特に皆の好みの話題だったのだ。
こうして夜に2人の部屋が空になれば、翌日にはあらぬ目撃談や装飾がこってり付け足された噂話が広まること請け合いである。
そんなことは露知らずの2人は、半月の浮かぶ夜の湖畔で、街の火が漂う水面や松明に照らされ浮かび上がる城や、満天の星の美しさを味わいつつ、今までと同じように親友として語り合った。
「お前……まだ兄さんのこと、待ってるのか?」
ソニアは街の明かりを瞳の中で煌かせながら頷いた。彼女は景色ばかりを見ていたが、アーサーの方は半分以上、僅かな明かりに浮かび上がるソニアの姿を眺めていた。目に映るものの中で、一番美しいものだと彼は思っていた。
「もう長いこと待ってるのに、未だに現れないじゃないか。お前はもう誰にも負けないくらい強くなった。ずっとこの国のトップだ。なのに、まだやって来ない。……いつまで待ち続けるんだ?」
彼がこの話題に触れることは珍しく、ソニアも彼の方を見た。
「……私、まだ《誰にも負けないくらい強く》なったようには思えないわ。まだまだ知らない事もあるし、会ったことのない強者もいるはず。そう考えられるようになったことで……やっと、アイアス……お兄様の視点に近づけたような気がする。あの人は、もっと遠くや高くを広く見ていた。……もっと強くならなくちゃ、迎えに来てはくれないのかもしれない」
彼は笑いながら、ほとほと呆れた溜め息をつき、頭を振った。
「全く……お前の真面目さと言うか……自分に対する厳しさには脱帽だよ。オレもそれに習って、お前に負けないよう追い縋ってきたから、ここまで来れたように思う。お前に出会ってなかったら、きっと今頃、まだデルフィーで平凡な港衛兵をやってたんじゃないかな」
「あら、そんなことないじゃない。この街に来てるはずよ。才能あるもの」
「どうかな……」
肩を竦めるアーサーと、目を丸くするソニアは笑い合った。
「……現れるまで、いつまでも待つ気なのか?」
ソニアの仕草は夜の空気に合ってゆったりとしていたが、頷きは迷いを表さず早かった。
「ええ。《待つ》というか……《彼と会う望み》を捨てるなんて考えられない。いつか待ち切れなくなったら、きっと自分から捜しに行くと思う。今は……もうそんなことが簡単に出来ない立場になってしまったけどね」
「……迎えに来たら、一緒に旅に行くのが夢だって言ってたよな。今でも兄貴が現れたら……行っちまうつもりなのか?」
アーサーの目は真剣で、心配げだった。
彼女の抱く望みがひどく無責任なものであることは、2人共承知していた。だからアーサーは人には言わないし、ソニアも心の中でひっそりと温め続けていた。彼女の長年の努力を見てきた彼であるからこそ、彼女が幼さ故に、現在の地位を夢見てそれに邁進し、本当に叶えてしまった経緯を知っているので、そこに罪は感じていないし、責める気は更々なかった。まるで、道の方が彼女に選択されるがままに従っているように見え、如何な理由であれ、彼女が選択することを妨げることは許されないと思った。
ソニア自身は、この国に抱いている愛国心を強くしていたので、実のところ葛藤は以前より強まっていた。
「お兄様の旅はね、ただの遊びの放浪じゃないの。もし私を迎えに来てくれる時がやって来たら、それは、世界を守る戦いの手伝いを私にさせてくれる時なんだと思う。あの人も16歳でアルファブラを出て、世界中を廻って18歳でバル=バラ=タンを倒したんだもの。本当に必要な時には、きっと国を出るべきなんだと思うわ。そんな理由だったら、きっと王様も解って下さるだろうし」
アーサーは俯いた。そして、そんな話は聞きたくないとばかりにまた溜め息をついた。
「もしそうなったら……それこそ本当にお前は『トライアス』になっちまうな」
「……私、トライアスを尊敬してるけど、自分がその名で呼ばれるのは何だか好きじゃないわ。変な感じ」
「お前らしいや」
2人はまた笑った。
湖岸の、いつもの特等席である大きくて平らな岩の上でそうして隣り合い座っていると、まるで湖の精と人間の男の密会だった。夢中になっているうちに水中に引きずり込まれて食われてしまう妖怪話を彼は思い出し、もう自分が後戻り出来ないほどに彼女に夢中であることと、彼女になら、例え湖に沈められて食われてもいいや、と思っていることを知った。
「もしお兄様と旅が出来たとして、何処か遠くの国にいたとしても、このトライアが危ない時には必ず駆け付けるわ。絶対に」
ソニアの微笑に、アーサーも仕方のなさそうな微笑で返した。世界に危機など起こって欲しくないし、アイアスにも迎えに来ないで欲しいと彼は思ったが、思うだけに留めて口にはしなかった。
「……この国を守ろうな」
「ええ」
「誰にも、この素晴らしい土地を汚させやしない」
「ええ、誰にも」
2人は兵士らしく拳を付き合わせて目で誓い合い、それから、ソニアは持参した竪琴を手に歌い始めた。あれから琴を覚えて、幾らか弾けるようになっている。彼女の歌を聴いても辿り着ける者のいない中、こうして間近で独宴会を楽しめることをアーサーは心から感謝して、昼の兵士姿とはかけ離れた歌姫姿の美声を堪能した。
歌声は風に乗り、湖を廻り、街を流れ、包んでいった。
ある昼下がり、ソニアが白馬アトラスに乗り110隊を従えて近辺巡回を行っていた時だった(今は110隊の隊長にディランが返り咲いている)。ふと彼方で誰かが自分を呼んでいるような気がして、ソニアは馬歩を止め、広大な森林地帯の地平線を見やった。
今は乾期の真っ只中で、街道のクローグという木には白く甘い香りのする花が咲き乱れて、人の管理する道を浮き上がらせていた。森が一年で一番美しく見える時だ。
誰が私を呼んだのだろうか? ソニアは風の中に気配を探るが、全く解らず、気のせいだったのではないかと思った。
アイアスかもしれないし、ゲオルグかもしれない。また、これまでに会った人々の誰かなのかもしれない。――――或いは、自分では向こうを知らないが、向こうでは自分のことを知っている誰かなのかも。
そんなことを思いながら暫く地平線を眺めていると、ディランがやって来た。鹿毛の馬の大きさといい、騎手の逞しさといい、見るからに彼の方が勇壮で戦士らしい出で立ちだ。
「どうかしましたか?」
ソニアは気のせいということにして一笑に付し、「何でもない」と言って彼の肩を叩いた。
彼もその他の隊員も、かつて新人として入って来た者があっという間に自分達の中を通り過ぎていき、今ではれっきとした上官になっていることに、もはや戸惑ってはいない。
国軍隊長を見る目で彼女を迎える者達と合流して、ソニアはもう1つ近隣の町を回るべく、一行を引き連れて森の道を進んで行った。
世界が、この千年来にない大戦に入り、危機を迎えるのに、後ほんの600日足らずだった。