第4部23章『悪魔の子』4
※※注意※※
この章は大変ネガティブな内容になっております。
文章作品でも映像作品でも、その時のコンディションで受け取り方が変わるものですので、特にメンタルに不調を感じられている時はお読みにならないでください。
詳しくは活動報告の『次章23章について』をご覧ください。
ルークスがようやく4つになったばかりのその年の夏に、再び暗鬼貴族ヌスフェラートの地上侵攻が始まってしまった。かつての侵攻から数えて62年が経過しているから、人間達にとっては実に久々で、初めてそれを体験する者が殆どだった。
何が起きているのか、母は隠さずルークスに教え、戦時中でも彼を連れて歩き、怪我人や病人を診て回った。だが、やはりこれまでとは人々の感情が異なってくるので、ルークスに対する風当たりが厳しくなってきた。
「――――その顔を見せないどくれ!」
遂に露骨にそう言われるようになってしまい、彼等の気持ちを慮って母も反論はせず、早く退散することが多くなってしまった。これが課せられた使命なのだとは思っていても、こんなにも幼い息子が明らかに傷ついているのを見て、尚無理強いすることはできなかった。あまりにも酷である。
しかし、家に1人で残すのはそれもそれで危険なので止めておいた。隙あらば攫って殺してしまいかねないほどにヌスフェラートへの怒りを溜めている男が山ほどいたのである。
だから母は必死で息子の身を守ろうとしつつ、まだ安全と思える村々を巡って怪我人達を治していった。そうしなければ、自分達も食べていくことができない。
大戦は長引き、被害が拡大した。森も海も狂って暴れる魔物で溢れ返り、人は殺され作物は荒らされ、多くが餓えた。ヌスフェラートが出現した村は容赦なく滅ぼされ、その姿を見ることは死を意味することになった。
そんな状況だから、これまでの経過を見てきて友好的だった者でさえも、あの死んだ男はこの大戦の為に偵察として送り込まれていた者だったのではないかと考えるようになった。
そして、まるでこの苦難があの男と、彼女と、その息子であるルークスに原因があるかのように疑うようになり、憎しみと嫌悪を募らせていったのだった。
毎度のように石を投げつけられるようになり、母は息子を庇い覆って、体中に痣を作るようになった。
今となってはどの街道も森も危険で、父が示していたヴァイゲンツォルトまでの道程を行くなんてことは、もはや到底なし得ぬことであり、万が一の時の為にと託されていた特殊な通信道具を試しに使ってみても、この戦時下ではうまく動作しないのか、全く役に立たなかった。
だから、どうにかして母1人子1人でこの乱世を生き抜いていかなければならない。
ある日、とうとうある村人に2人はこう言われた。その人は最後までわりと友好的であった人間達の中の一人である中年の女だった。
「ねぇ、あんた、もうこれ以上は本当に危ないよ。後生だから、今日帰ったらそのままこの土地を去って行くことだ。でなけけりゃ、もう私達ではあんたを守り切れないよ。もう、止められそうにないんだよ。あんたの子を殺しちえまって気が触れたみたいになってる連中が多いんだ。あんたまで、まとめて殺されちまうよ」
それは、人目を盗んでの精一杯の忠告だった。本当の最後通告なのだと理解した母と子は、これまでの献身への礼として送られた餞別を受け取ると、涙ながらに慣れ親しんだ村を後にした。
小屋に戻ると、そこには村の男がいた。以前、彼女がヌスフェラートと暮らしていることを最初に発見し広めた男だ。彼は未だに結婚しておらず、今でも彼女に対して欲望を抱いていた。
「俺が匿ってやる。この戦時に女1人子1人で無事な旅が送れるわけがない。家に隠れていればわからないから、ことが鎮まるまで俺の家に来るといい。信じてついて来てくれ」
男の家は村はずれの方にあり、家族は年老いた母親だけで、しかも母親の方も承知しているから安全だと言う。確かにこのまま何処が終着地かともしれぬ旅に出るよりは、子供の為にも安全だろうと思い、彼女は承知して男について行った。
男の家で、2人は小さな部屋を宛がわれた。この地方の典型的な家は造りが大きく、客間として使える部屋を大概備えている。そこを2人の隠れ部屋とし、万一来客のある時は、その部屋を食料貯蔵庫と偽って鍵をかけるのだと説明された。
彼女は礼を言い、この恩はきっといつかお返しすると述べた。勿論、彼女の考えたお礼の形は、この時男が考えていたものとは全く異なるものだったが。
ともかく、そうして母と子は男の家に一時避難することになった。以前良かった愛想は、彼女がヌスフェラートを夫にしたと知った時から失われていたが、今再びここで甦っていた。彼女に対してはいい。だが、彼女の見ていない所ではルークスに対してゾッとするような残忍な顔を見せることがあった。
ルークスは、人々に非難される原因が自分にあり、よく解らないがきっと自分が悪いのだとこの頃までは思っていたので、男の態度も自分のせいなのだろうと思い、母にはこのことを話さなかった。男のその視線の意味するところは、2日後に明らかとなった。
この家の何処に何があるのか知っておいた方が便利だから教えてやると言ってルークスを連れ出し、眼の悪い男の母に代わって彼女が繕いものをしている間、男は家の中と周辺を案内した。
そして裏手にある井戸にまで連れて来た時、ルークスが直感的に振り返り後ろを見ると、そこには今まさに斧を振り下ろして自分の頭をかち割ろうとしている男がいたのである。叫ぶこともなく、その代わりにルークスの中で何かが切り換わった。
目の前の男が斧を振り上げたまま固まってしまったのではないかと思った。それ程に動作が止まっていたのである。だがよく見ると、ゆっくりとだが斧は下ろされていった。
どうしてなのかは解らないが、《この人はゆっくりになった》とルークスは思った。そこで斧の下から逃げ出し、木立の中に隠れて胸をドキドキとさせながら成り行きを見守った。
暫くして世界の動きが元に戻ると、急に対象がいなくなった斧は空を切って井戸の端に突き刺さり、バランスを崩した男はそのまま井戸の中に転がり落ちてしまった。
ルークスはおそろしくなって家の中に駆け戻り、今起きたことを母に全て話した。息せき切って息子が話すことを母ははじめ信じられなかったが、彼に連れられて井戸にまで行くと、そこには確かに男がいて、必死で這い上がろうとしているから青ざめた。
そしてこの男の魂胆を知ると、心底ゾッとして、もはや本当にこの村を去り、二度と戻ってはならないのだと思い知った。
時間をかければ若い男なら這い上がってこれそうな造りの、それほど深くなくて内壁が凹凸のある石組みになってる井戸であるから、彼女は水を汲み用のロープを下ろしたりせずに、むしろ引き上げた。
「後生ですから! 私達を追って来ないで! もう放っておいて下さい!」
そして彼女はルークスの手を引いて走り、その家を後にしたのだった。それが、この村との本当の別れとなった。
大戦時の危険な道を、母と子はひたすらに歩いた。ある程度魔物を退けられる技を持っていたから何とか凌げたが、それでも戦闘のプロではない女が子連れでの旅は過酷なものとなった。
ルークスはできるだけ正体を隠すようにしていたので、一時の父親のようにフードを被り、マスクまでしている。そんな姿の子供は珍しいから、それだけでも目を引いた。
皮膚病にかかっているのだと言えばそれで信じてもらえたので、バレないうちはそれで通すことにした。
安住の地を求めつつ、行き合った街で怪我人や病人を治療し、その報酬として少ない金や食料を受け取ってどうにか命を繋いだ。まだまだ若く美しい聖職者と幼い子供ということもあって、子供の容姿が知られないうちは人々の好意を受けることができた。
本心としては、ルークスの姿を隠すことなく人々に見せて神の教えを説いて回りたいのだが、現在の状況では自殺行為に等しいことを彼女も思い知っている。だから無理はしなかった。
旅の聖職者が子連れとあって、村に留まらないかとの誘いを受けることも何度かあった。勿論、これだけの治療の腕があれば、2人を住まわせることで増える食料等の負担を考えても、滞在させる価値は十分にあると見込んでのことだった。大戦が長引いて皆一様に貧しい世の中では、役立たずを保護して養うほどの余裕はないのである。
だが、有り難い申し出でありながら彼女はその誘いを断った。「私達は癒しを必要としている次の土地へ行かねばならない」ということを口実にしていたが、本当のところは村の中で人々と共に暮らすことはできないからだった。どんな村からも少し離れて人目を気にすることなくルークスを置いておける家で暮らせなければならないのだ。
そんな場所が見つかるまで足を止めることはできないと覚悟し、母と子は村から村へと渡り歩いた。治療の代わりに一夜の宿を求めて一般の家に泊めてもらい、眠る間もルークスの姿が見えぬように奥に隠して、歩き疲れた身体を休める、という日々が何日も続いた。