第4部22章『暗黒騎士』16
同じ頃、全く別の土地で、別の梟の声を耳にし、ふと森の木々を見上げる者がいた。翼竜を休め、自分も横たわり休もうとしているヌスフェラートの騎士だった。
彼はハニバル山脈沿いに南下を続け、日没後になってから翼竜でナマクアの空を飛び、南端国のテクトを目指した。そして問題があったという噂の城塞都市へと赴いた。聖域魔法バル・クリアーが本当に発動しているのであれば竜を近づけないほうが無難なので、翼竜のことは近くの森に待たせ、自分一人で城塞都市の潜入を試みたのだ。
徒歩で都市に近づくと、結界魔法の存在を肌がまず感じ、やがて薄っすらと発光するカーテンのようなものが目の前に立ち塞がるのを見た。人間の目では見えないであろうくらいの弱い光なのだが、彼にははっきりと捉えることができる。
話に聞いたことがあるだけなので、これが本物だとしたら目にするのは初めてなのだが、知識はあった。かつて主から、己の身に危険を及ぼす可能性のある数々の魔法を教わっていたからだ。その中でバル・クリアーは、もし彼の体が適応できないようであれば致命的な弱体化をもたらすとのことだった。
だから彼は全身を入れずに、まず手だけを触れさせて反応を見た。魔法と手の触れ合う所がバチバチと弾け、軽くスパークする。決して心地良くはない。だが、耐えられない程でもなかった。そこでゆっくりと腕全体を入れ、それから肩、足、体の半分、と侵入領域を広げてみて、それでもまだ先に行けそうだったので、近くに人間の気配がないかよく調べてから全身を入れてみた。
確かに、戦士としての己の力が半分以下に抑えつけられてしまった圧迫感があった。だが立っていられるし、普通に歩いて回ってくることぐらいならできそうである。長時間いると症状が進行するかもしれないので甘く見て侮ってはならないが、可能な限り使命の遂行を最優先にした。
そこで改めてマントを深く己の体に巻きつけ、マスクもして顔を隠した。
魔法の範囲が広大なので、城塞都市の入口までは暫く歩くことになる。彼はその道すがら、やはりどんなに自分の見た目がヌスフェラートであっても、その血の性質を魔法は見抜くのだな、と少し感心していた。どんなに人々の目が惑わされても、魔法や体はこんなにも正直なのだ。
テクトの都市への入口は、この時間でも開放されていた。遅れて到着する商人や旅人もいるし、何しろ戦勝によって気を大きくしているようで、加えてこの聖域魔法があって悪しき者が入ってこないから、日没と共に大門を閉じるというような厳格な警備は行っていないのだ。
彼としては、その様は気に入らなかった。そして不穏である。確かに、主が事の真相を確かめようと自分に依頼するのが解る異常事態だ。この都市で一体何があったというのだろう。
彼は門番の兵に簡単に誰何されると、旅の者だと言い、問題なく通してもらえた。目立たぬよう、武器は結界魔法の境界近くに隠してきたので、怪しまれなかったようである。
入ってすぐの通りがもう町になっており、再建途中の様子ながら、順調に建て直しが進んでいる具合が見て取れた。夜であるからさすがに作業はしていないが、それでも人の往来が多い。食事の仕度で立ち昇る煙や温かい香りが流れてくるし、物売りも客もそれぞれにいる。普段この地上で暮らしているとは言え、こんなに人間に近づくことはあまりないので、彼はそれらの生活臭を全身で感じ取ると途端に気分が悪くなった。
平時でも、かなり気をつけて自分を抑えてようやく人の中にいられるので、聖域魔法によって病人のような体調になっている今の状況では、これはとても辛いことだった。
ダメだ。いけない。
彼はそう判断し、真に遺憾ながらもその場から引き返し、さっき通ったばかりの者がまた出て行くので不思議そうにしている番兵には「大切なものを忘れた」と言って通過し、逃げるように都市と聖域から退散した。
バル・クリアーから出た彼は、まず隠していた武器を探し、そこで暫く座り、息をついた。
情けなかった。だが、こればかりはどうしようもない。街がもっとボロボロで、人々が死んだように生活していれば、それ程でもなかったろう。だが、思いの外活気があったのがいけなかった。それにあの聖域魔法。
彼は都市を振り返った。
どんなに浮かれていても、やがてこの都市は再び戦火に呑まれ、炎の中で燃え尽きるのだ。彼はその光景を思い描いた。
聖域魔法の影響を受け難い部隊で編成された皇帝軍が夜の街を破壊し、火を放ち、煉獄に変えていく。街は炎に包まれて目映く輝く。彼の口元が薄く笑んだ。
彼は炎の街に背を向けてその都市を後にした。
それから待たせていた翼竜と合流し、一旦都市を離れてハニバル山脈の麓まで戻り、そこで明日からの計画を考えながら休むことにしたのだ。
翼竜は森で自由に狩りをし、大型の魔物を捕らえてバリバリと食事をし、もう傍らで眠っている。
この都市で潜入調査をするのは難しい。主にはバル・クリアーに阻まれたと説明しておこう。大きな意味では嘘ではないから。その代わり、この都市で何があったのか近隣の村や町で情報を仕入れよう。必要ならば、そうして詳細な情報を得てから再びあの都市に行って短時間の潜入で裏取りだけを済ませるのが効率的だ。
彼は空の星を見上げた。同じ乾期の亜熱帯域に属するこの国の森も美しい。そして光射す昼は尚素晴らしいものだ。しかし、湖や川が多いという点でも、トライアの方が国土に恵まれているようだ。トライア領の森は実に豊かだった。
彼は今日、トライア領の森で出会ったあの戦士のことを思い出した。とても気になる存在だ。是非戦ってみたかった。それに、あの鎧――――――
彼の勘に間違いがなければ、あれは人間の作ではなかった。地下世界の、しかも最高の職人であるドワーフが手掛けなければ、あれ程の代物は作れまい。どうして人間の手に渡ったのかは不明だが、おそらく何処ぞの宝物が流出して地上に出てしまい、それを人間に盗まれでもしたのだろう。
つまらない人間があれ程上等な鎧を身に着けていたら、鎧に失礼なので力尽くで奪うところだが、あの戦士は鎧を汚さぬ品位を持っていた。だからこそ鎧の方も着用を許しているのだろう。武器も防具も、あるレベルに達したものは使い手を選ぶものだ。
あの鎧の入手経路を調べてみたいものである。
テクトの件にはトライアが関わっているらしいので調べて欲しいと、主の手紙にもあった。だから彼は、この都市近隣の村で調査を進めつつ、トライアの都市を目指そうと考えた。
この翼竜は暫くハニバル山脈の麓で過ごさせよう。ここから先は単身で行った方がいい仕事になる。あの戦士にも、領内で竜を目撃されぬよう計らうと約束していた。騎士は己の言葉に責任を持つものだ。翼竜を連れて都市には赴くまい。
なに、数日のことだ。ここにいれば、翼竜も食料には事欠かない。
あの戦士は、いずれ魔導大隊が攻め込めば矢面に立って戦うのだろう。魔導大隊はテクトで失敗してまだ一勝も上げていないから、やがて、かのゲオムンド=エングレゴールが直々に出向いてくるであろう。ヌスフェラートの中でも残虐非道との噂が名高い極め付きの死神だ。彼の手にかかれば、おそらくこの国土は見るも無惨なおそろしい終末を迎えるのだ。
彼は再び思い描いた。テクトだけでなく、まだ見ぬトライアの都が血に染まり炎に染まり死に覆われ、滅んでいく様を。あの戦士も炎の中で鎧と共に灰になっていく。
炎の向こうから、女が祈る微かな声が聞こえた。
哀れで、弱々しくて、悲しい声。
彼は胸の苦しみを覚え、抑え込むように手でグッと胸倉を掴んだ。そして体を丸める。
どうしてだろう。思い出さないようにしていたのに。
これまでも時々こういうことがあった。一度苦しみに捕らわれると、一晩中彼の胸は痛み続け、彼を悩ませるのだ。
炎の幻を見ていて思い出したから、久々に強く鮮明に、彼の中で過去が甦った。
誰にも過去があり、物語がある。
勿論、この騎士にも、ここに至る長い道程があった。
今回でこの22章は終章となります。
次章についてアナウンスがございますので、詳しくは活動報告をご覧ください。