第4部22章『暗黒騎士』15
「私……きっと……あなたを愛せる。……愛してる。私は……幸せだわ。あなたのような人に出会えて……こんなに想ってもらえて……」
彼女のその言葉が彼のおそれを解き放つと、その後、激しい悦びの衝動が彼の全身を襲った。自分を愛せると言ってくれた、その言葉が何度も頭を駆け巡り、揺さぶる。そして抗い難いほどに欲望も高まり、再び心臓を高鳴らせた。
もし彼女が拒まないのなら、このままここで、自分のものにしてしまいたかった。何があろうと、何であろうと、彼女は自分のものであり、自分の身も心も彼女のものであるという標が欲しかった。証を残したかった。
だが、彼女はおそろしい旅をしてきて、酷く心を痛めている。今聞いたばかりの話では、どう慰めたらいいのかも解らないほどに重い荷を彼女は負ってしまっているのだ。そんな彼女を、己の欲望だけで抱いてしまったら、自分は第一の理解者を名乗る資格など無くなってしまうのではないだろうか。そうアーサーは思った。
彼女の親友であり続け、尚且つ恋人になろうというのなら、ここで堪えられないようでは値しない。彼女は、巷の娘とは違うのだ。身の内に清い血を流す尊い乙女なのだ。アーサーは必死の理性でそう己を戒め、肩を震わせた。
『きっと』という言葉も、まだ完全に己に許可を与えてはいるわけではない。
それに、もしかしたらこの場を盗み見ているかもしれないエルフの存在も頭を掠めた。彼女の話通りであるならば、本当に身を弁えて遠く離れているだろうが、何分にもまだ会ったこともない人物である。しかも彼女を本当に大切にしているようだから、ここで万一にも人間の男が帰国間もない傷心の姫を強引に押し伏せたなどということが知られたら、彼女との今後の付き合いに支障が生じそうだという算段も働いた。
こんなに側にいて、触れていて、どうしようもなく高まった欲望を抑えるのは酷く苦労した。彼は、自分が狂ってしまわないようソニアを強く抱きしめ、何度も名を呼び、その手をきつく組んで離さないようにした。
「……私、あなたがいなかったら、今のように安心してトライアで生活できなかったと思うわ。自分の本当のことが知られた時のことばかり考えて怯えて……そんなだったかもしれない。理解してくれる人がいるって……幸せなことね。あの人にも……そんな人がいればいいのに……そうすれば……」
「……双子の弟のことか?」
「ええ」
彼女が話すお陰で、それについて考えるようにすれば、徐々に彼の身の内の獣は鎮まっていった。
「……ひどく不幸で……哀れな奴だと思うよ。同族も身内も側にいなかったんだろう? 本当に……お前だけが唯一の存在だったんだろうな。別れたのは仕方のないことだが……お前には辛いことだったな」
ソニアは、ゲオルグが今、向かい合っているかもしれない闇を思うと胸が絞めつけられた。
「もしあの人が来たら……この国では戦わないようにするわ。……できれば戦いたくないけれど……他にどうすればいいのかも解らないし」
「……お前が伏せた話は、それで正解だ。誰にも言わない方がいい。このことも黙っていよう。お前の判断は正しかったと信じている。……もし、そいつがここへ来ることがあったら……そん時は皇帝軍の来襲にしか見えないだろうし、例えお前を名指ししていたとしても、また刺客だろうとしか思われないさ。まぁ……国王くらいには言っておいた方がいいのかもしれないが……」
ソニアは深い溜め息ばかりを幾度もついた。そう簡単に割り切れるものではないのだ。母が同じである兄弟が皇帝軍の一員であり、しかも属する大隊がこの大陸を担当しているのだ。身内がトライアを攻めてくるかもしれないことを考えると、繋がりのある自分がこの国にいるのはどうしても負い目を感じてしまう。それを覚悟の上で帰国してきたわけではあるが。
アーサーはようやく少し身を離して彼女の肩を叩いた。
「……前にも言ったように、お前がこの国にいることで受けている恩恵の方がずっと大きい。この先も、お前がいなければこの国は生き残れないだろう。弟の大隊が来るかもしれないからって、それは変わらない。……それに、ゼファイラスやエルフの力も借りられるんだ。こんなに守られている国は他にないだろう。むしろ、皆はそれに感謝しなければならないよ。教えられないのが残念だが」
「……私にできることは……少しでも被害が及ばないよう、尽力することだけのようね……」
ようやく、ソニアは溜め息を止めて少し笑んだ。
「しかし……あのゼファイラスって奴がそんなに危ない奴だったとはな……。本当に大丈夫なのか?」
ソニアは苦笑しながらゼフィーのやらかした失敗の幾つかを話した。結果については今後心配なものがあるのだが、元々嬉しくて叫んだだけとか、興奮しただけ、といった本当に悪気のないものばかりなので、躾てさえいけば問題はないだろうと説明した。
「魔法を破ったり嵐を呼んだりなんて、竜ってのはスゲェんだな」
どうも全ての竜が魔法を破るわけではないようなのだが、ソニアは特に訂正しなかった。
「どうりで、あのフィンデリア姫がゼファイラスを見ても他の兵士より余程落ちついていられたわけだよ。虫の国だの、ヴィア・セラーゴだのに連れて行かれたんだもんな。そんな人間の想像を超えた世界に比べたら、あんな子供の竜一匹、大したことじゃなくなるんだろうな」
「……若いのに、あの人は本当に苦労されてるわ。それでもあんなに凛としていて……大したものだと思う」
「今更ながらに……ミンナと同い歳だと思うと居た堪れなくなるよ」
彼の優しさが嬉しくて、今度はソニアが彼の背を擦った。年齢がある程度人生経験に制限をかけるものだが、ある域を越えた時、年齢は全く意味がないということを、あの姫は体現していると思った。
「彼女も、ヴィア・セラーゴをその目で見て皇帝軍幹部を目の当たりにしているからこそ……ますます足を止めるわけにはいかなくなったんだろうな……」
「そうでしょうね」
あの都市と敵を見て、軽々しく勝利を想像できる者などいない。また逆に気丈でなければ、生き残ることなどできないと戦いを放棄してしまうところだろう。どんなに敵が強大か解った上で、それを目の当たりにした者の役割として戦いに備えようと励めるのは、指導者の星を持っているからなのだ。
重い話ばかりで夜の静けさが染み入るようなその時、遠くから夜鳴きの鳥の声が響いてきた。丸みのある声色が、木々の間を擽るようにすり抜けてやってくる。
「お、梟だな」
「……そうみたいね」
このトライア城下街周辺で梟はあまり聞くことがない。もう少し人里離れた森の奥にいることが多い。だから、こんな諺があった。
「月のない夜の梟は……何だったか覚えてるか?」
「えっ?」
彼の目が悪戯っぽく街明かりに輝いた。この時分、月はもう沈んでいる。
「愛の成就さ」
彼は鼻面をつけ合って笑った。ソニアも「まぁ」と笑う。こうして少し和むことができた。
だが、ここでもう一つ大切な話があったことをソニアは思い出した。
「皇帝軍と言えば……実は今日、アルエス湖の方でとんでもないものに会ったのよ」
「……子供が迷子になっているのを助けたって話は小耳に挟んでるが……他にも何かあったのか?」
「……ええ、皆がパニックになるといけないと思って黙っていたのだけれど、翼竜に乗った騎士と森の中で出会ったのよ」
彼はこれまでに散々己の世界とかけ離れた話を聞いた後だったのに、これまたひどく驚いて声を上ずらせた。
「また竜?! しかも騎士って……竜騎士なのか?!」
それぞれに単体で遭遇するよりもおそろしい組みわせだから、彼がこんなに仰天するのも無理はなかった。地下世界歴戦と聞いている、あのセルツァもかなり警戒していたのだから。
ソニアは、その時の状況を事細かに説明した。魔導大隊の者ではないようなので、何か別の隊から送られて隠密行動中の様子とも取れたと。そして自分への刺客ではないようだとも。鎧で全身を覆い隠していたので、必ずしもそうとは言い切れない部分はあるが。
「セルツァがその後の様子を見てきてくれて、確かにハニバル山脈の方に行って山脈伝いに南下を始めたそうなの。今は何処にいるのか解らないけれど……この国を通り過ぎたからといって安心はできないのよね」
心配事ばかりのソニアであったが、実はアーサーは、この話を聞いて彼女以上に胸騒ぎを覚え、不安に捕らわれた。
彼女の刺客であることをおそれて? ……いや、違う。
最も危険な級に入る敵だからか? ……いや、何だか違う。
自分にすら理解しがたいこの不安が何なのか明らかにならず、アーサーは一人慄いた。こんな感覚は初めてだった。
昔から、男の中では勘が鋭い方である彼なので、不安の正体が解らずとも、何かしら意味があることだけは既に確信していた。
いけない。そいつを二度と、この国に近づけてはいけない。
ただ、ひたすらにそう思う。
「……しかし、よく事を荒立てずに済ませたな。よくやったよ」
「……向こうも話の解る人だったからね。あの場で戦って勝てる自信もなかったし……」
「お前はまだ完全な状態じゃないんだ。これで良かったと思うよ。悩むなよ」
「……うん」
アーサーの頭の中で、呪文のように繰り返し言葉が反響した。
二度と、そいつが来ませんように。
二度と、そいつが来ませんように。
来ませんように。
「遅くまで、本当にありがとう。アーサー。あなたに話せて、とても良かったわ。1人で抱えているより、ずっと楽になった。……あなたのお陰よ」
感謝の気持ちいっぱいに微笑みを向けたソニアであったが、見返すアーサーの方は何だか苦しいような、歪んだ顰め面をしていた。それで、ソニアの微笑も薄れる。
「……お前が好きだ。もう、何処へも……行かないでくれ」
「……どうしたの?」
「……何処にも行かないでくれ」
「……行かないわ。私を狙ってくる敵でも現れない限り。平和の続く間は」
「平和の……続く間……か」
切なそうに、彼はまだ顔を歪めていた。でも、その瞳は彼女への熱で輝いている。
彼は顔を近づけ、言った。
「……もう一度、いいか?」
「えっ……」
彼の真っ直ぐで熱い眼差しは、彼女の心を温め、解した。
ソニアが少々恥らいながら小さく頷くと、2人は互いに顔を寄せ合い、今度は何かを確かめるようにゆっくりと互いの唇を重ね合わせた。アーサーは彼女の頭を抱き、背を抱き、それからきつく抱き締め、不安の強さの分だけ激しく彼女を求め、答えをまさぐった。
この人を愛せない理由が、どこにあるというのだろう。
そう思いながら、ソニアは気も遠退くほどの激しい想いを身に受け、その熱に身を委ねた。
また1つ、梟の鳴き声が森を木霊していった。