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Sonja〜ソニア〜  作者: 中島Vivie
第4章
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第1部第4章『トライア国軍』その3

 木の油や魚の油や、何種類もの雨の匂いを混ぜたようなムッとする香気の漂う空間で、ソニアはボンヤリと意識を取り戻した。目より先に鼻や耳が覚醒し、その匂いや物音が入ってくる。体はまだ眠っているようで、肌の感覚は戻って来ていなかった。

 聞き慣れぬ言葉が、低く、小さく、音楽のように流れ掠めていく。

《ベドル メナ マイアー オスカ ブリーモント メイス》

《アグバー、テオ ヴァイゲンツォルト サイムズ》

《タキアス ブリーモント。……アドマ ソレル カーン スタイア?》

《ウナ》

《メナ マイアー アダンテ コンブリスト……ソーナ ヴァン ゼラフィン アイアス》

たった1つだけ聞き覚えのある単語が混じっていて、それをきっかけに急速に覚醒が進み、手足が動かない何らかの抑制を感じてソニアは目を開けた。

 視界はとろけているが、近い物は幾分ハッキリと見えた。両手を何かで縛られているのが見える。ただ見えているだけで、まだ危機感は何も感じられず、ただボンヤリとしていた。

 ここは何処で、自分は何をしているのだろう?

 ソニアが身動きしたことで会話は終わり、カタリと音がして足音が近づいてきた。木の扉が開く。声がささやかなのは、これを通していたからだった。

 誰かが側に来てソニアを覗き込み、覚醒具合を確かめようと目の前で手を振った。ソニアの目が動き、避けるように瞬きをする。

「お目覚めかな?」

今度は覚えのある言葉と声だった。訛りは殆どトライアのもので、声はあの医師だ。

 しかし、グラつく世界の中で次第に焦点が合い、見えてきた顔は違うものだった。その顔が、ソニアの覚醒を更に導いた。目を見開きジッとその姿を追う。

「……誰……?」

口にマスクのような巾帯をしているので、全体的には判らないが、肌の色や目の色が明らかに人間とは異なっていた。その肌の色は、彼女のよく知る人に似ていた。

 男の目がニタリと細められる。マスクの下の口がどんなに笑っているか想像がつくほどだった。

「……怖いかな?」

そう訊いたのは、ソニアに存外恐怖心が見られないからで、拘束されていることへの警戒はともかく、目の前の人物に脅威を感じてはいない様子だった。ソニアがただ不思議そうに首を傾いで辺りを見回すので、彼は「ふーん」と感心した。

「もっと騒ぐかと思ったんだが、何だ、君は平気なんだね。私のような者を見ても。さすがだな」

 もう1度ソニアは男を見て、眉をひそめて聞いた。

「……あなたは……誰?」

 石の壁、石の床。チロチロと紅い火が燃える油灯。香炉。薄暗い部屋の中の、獣の毛皮マットの上で彼女は横になっていた。男はそんな彼女を見下ろすように、膝を折って顔の脇にしゃがんでいる。殺気はないが、如何わしさはそこら中に滲み出ていた。

「……思い出せるところまで思い出してごらん。そうしたら、解ると思うよ」

訳が解らないので、ソニアは言われる通り思い出してみた。

 自分は何をしていたっけ。トライアを出発し、遠征行軍していたはずだ。クリーミャに辿り着いた記憶はない。まだその手前だったか? 1日目にアレッサンドロの牧場の側に野営し、2日目にはハル・ハル・イーニの森を通り抜けて、その先の平原にテントを張った。3日目はテローズ川沿いに行軍し、森に入って、その途中のカドラスで陣を張ることにしたのだ。その次……いや、そこで朝テントをたたんだ覚えはない。カドラスで何があったのか? 公民館での会食があって……その後テントで寝て……

 ここでソニアは思い出した。その後、こっそり抜け出して何処に行ったのかを。そしてそこで何が起こったのかを。自分はあそこで何かの罠に掛けられたのだ。だから記憶が途切れ途切れで曖昧な上、火のついた町で起きた蝙蝠との戦闘の記憶が途中でプツリと無くなっているのだ。そこから先が全くない。

 ソニアはやっと敵を見る目つきになって、しかし、恐れではなく挑戦的な光を映す眼差しで彼に言った。

「あなた……あの医者……?」

彼は声に出して笑った。

「君はなかなかだね。まだ大して頭が働かないだろうに、よくすぐに解ったもんだ。……そうだよ。あれは私だ」

どちらが本物の姿かは訊くまでもなかった。人間がこんな姿に変化して生活する理由は何もない。それに、人間で変化できる技を持つ者は、未だにアイアスしか知らないくらい、変化術とは人間にとって高等過ぎる魔術なのだ。

「何故こんなことをするの……?」

殺す気ならとっくに殺されているはずなのに、手足を拘束されてはいても丁寧な扱いを受けているので、ソニアは不思議に思った。彼の目的が全く見えない。

「……君にとても価値があるからだよ」

「……? どういうこと?」

彼はただ目で笑うばかりで、それ以上何も説明しなかった。

「……あなたが言ったことはみんな嘘なの?」

「……いいや。まぁ、ゆっくりしていきたまえ」

そう言うと、彼は出て行ってしまった。

 まだ頭がクラクラとしていて霧に巻かれているようで、相変わらず体に力も入らないので、ソニアはそれをおかしいと思った。彼がしているマスクはただの衣装には見えない。それにこの匂い。自分の調子があの時悪くなったのは、きっとあの妙な茶を飲んだからなのだ。今思えば、あまりに不注意で不覚だった。謎をチラつかされて、それに心奪われ過ぎていた。きっと今も、他に何らかの秘術を施しているに違いない。

 ソニアはそう思い、手に届かぬ所に遠ざけられて壁際に置かれている香炉に目をやった。そしてゆっくりと風を起こし、空気の抜け穴の存在を感じると、そこに向かって香気を流れさせるように空気を動かして、立ち昇る薄煙が自分に届かぬようにした。


 どれほどそうしていたのかは判らないが、大分頭がスッキリしてきて体も動くようになり、ソニアは外の気配に注意しながら身を起こした。会話の声は聞こえない。木の扉に耳を押し当てても、大した物音は聞こえなかった。

 ソニアはこう思っていた。彼との会話を思い返す限り、彼はアイアスに関心を持っているようだった。きっと何か、アイアスにとって悪い事を企んでいるのに違いない。自分の両親のことは知りたいが、このままここにいてはならない気がするし、アイアスに迷惑をかけぬことが何より重要だ、と。だから彼女は早々に脱出することを決意した。

 手足はまだロープで拘束されている。ソニアは火炎呪文をそっと起こして集束させ(これはとても難しいことだが、集中してどうにか手を焼かずにロープだけを焼いた)、ロープを焼き切ると、やっと手を解放させた。そして足のロープも同じように魔法で焼き切り、枷なく立ち上がれるようになった。焼け焦げの匂いが外に出ぬよう、今回は自分の周りにだけ風を起こしてドーム状にし、部屋の中だけに溜めている。

 身軽になったソニアは、もう1度木の扉に耳を押し当てて確認した。そしてそっと扉を開けてみた。石の通路が横に伸びており、左手の角に魔物らしき者の後ろ姿が見える。衛兵のようだ。鎧を身に着け槍まで手にしている。どうしてか、そんなものを目にしたことが嬉しくて、ソニアは思わず笑い顔になってしまった。

 極力音を出さないように気をつけて扉の外に出、衛兵がいるのとは反対側の方へ忍び足で進み、その先の通路端まで来た。

 こちらに衛兵がいない理由が解った。大きな井戸のような円柱状の空間が縦に伸びており、梯子も何も掛けられていないのだ。手掛かり足掛かりとなる縁も溝も殆どないので、自力で登って行くのは無理そうだ。途中、幾つか同じような口が開いているのが見えるので、上階が続いているらしい。この空間の最上部が一体どうなっているのかは、そこからは見えなかった。薄暗く闇に呑まれていて判らないのだ。

 その先がどうなっているのかも知らずに壁を蹴り上がって何処かの穴に入るのと、あの後ろ姿の衛兵に逃亡する姿を曝すのと、どちらが危険だろうかと考え、ソニアは蹴り上がる方を選んだ。逃亡する時は、なるべく騒ぎは起こさない方がいいだろう。後ろから拳で一突きすれば衛兵を倒せるだろうに、ソニアはその方法を全く検討しなかった。

 気配を探り、多分何もいないだろうと見込んだ入口を1つ見定め、そこに飛び込むのに適したキック・ポイントを考えて、ソニアはほんの少しの助走で舞い上がると、風の助けを借りて勢いよく反対の壁に足をついて蹴り上げ、1つ上のフロアーらしい口の中に飛び込んだ。足音小さく着地し、衝撃を和らげる為にゴロゴロと横転して、無事、誰もいない通路に潜り込む。

 何かが動いたような気配と、ふいに流れてきた風に気づいて衛兵は背後を振り返ったが、監禁室の扉はきちんと閉じていたので何でもなかったと思い、また向き直って毛だらけの体のノミ取りを始めた。

 一連の行動が早かったお陰で、ソニアはとりあえず部屋からの逃亡には成功したが、彼女が部屋を出たことは既に気づかれており、直ちにあの男が駆け付けてきた。その騒ぎが聞こえてきたので、ソニアは遠ざかろうと足を速めて、無人の建物の中を進んで行った。先程目覚めた時といい、彼は部屋の外にいても、室内のソニアの動きを知れる何らかの手段を持っているようだった。

 大目玉を食らっている衛兵を少し哀れに思いながら、ソニアは日頃の訓練の賜物である素早い隠密行動を行い、行く手の敵の気配を探りながら、また、風の操作によって行き止まりでない道を選びながら先へ上へと進んで行った。階段を見つければ、なるべく上に行くようにした。

 これも彼女の直感(空気の重さが感じさせるもの)なのだが、ここは塔のように地表から遠ざかって伸びる建物ではなく、地下に向かって奥行きのある施設だと思い、上に行くことが脱出に繋がると考えたのだ。

 行く先行く先、広いわりに何者かの気配を感じる機会は少なく、閑散とした建物のようで、ソニアは順調に5つ上のフロアーにまでやって来た。まだまだ上があるとは思えないくらい大きい。人間世界にはこれほどの施設はないだろう。ここはまるで地下の城――――しかも幽霊城だ。壁の装飾にも年季が入っているし、たまたま扉が開いていて中が見えた部屋には、埃が堆く積もっていた。一体この中では、どれほどの時間が経っているのだろうか。

 やがて、彼女は大きな吹き抜けのホールに出た。洞窟がそのまま残されているような景観だ。おそらく、元からあった洞窟を基点にして上下に掘り進み、地下施設を造ったのだろう。発光する石群の緑青(ろくしょう)色が仄明るく洞内に広がって、隅々まで見渡せた。

 ここでソニアは追っ手に遭遇してしまった。

「どうやって脱け出したのか……全く大したもんだ」

ソニアは医師を訪れる時から鎧も剣も帯びていなかったので、今も丸腰だ。格闘家として戦う為に構えに入り、追っ手を見据えた。

 あの男だ。未だ殺気はなかったが、逃す気だけは頑としてないようで、その気迫が目に宿っており、魔法の一声と手の一旋で行く先の扉が全て閉じてしまった。

「……君はここが何処か解っているのかな?」

「知るもんか! 私はここを出て行く! あなたの思い通りにはさせない!」

体に香気の影響が残っていながら、ソニアは威勢よく答えた。色が変わっても同じ暗い印象の目を細めて彼は言った。

「ここはヴィア・セラーゴ。我々ヌスフェラートの地上における都市だ。……都市の跡と言った方がいいだろうがな。周りは、剣の刃のように鋭い山脈が取り囲んでいる。空からの出入り以外、決して侵入も脱出も出来ない場所だ。君は流星呪文(コメット)飛天呪文(セラフ)が使えるのかな?」

頭から信じる気はなかったが、彼の言う地形を想像してソニアは一瞬言葉を失った。かつて、アイアスからヴィア・セラーゴの話は聞いている。少しだけれど。難所であるということだけは確かなはずだ。ここが本当にヴィア・セラーゴならば。

 彼女の表情から、それらの呪文が使えないことを読み取った医師の皮を被っていた曲者は、ますますおかしそうに笑った。

「……それならば、出歩くだけ無駄だよ、お嬢ちゃん。今の内に観念したまえ。君が言う通りにすれば、痛めつける気はないから」

「無駄だと言うのなら、放っておけばいいじゃないか! どうせ出られないんだろう?」

自分の方が優位にあると知ったことで彼には余裕が出てきて、首を傾いでソニアを上から見る様子には蔑みの色が窺えた。洞内の緑青の光に照らされると、その動脈血のように鮮やかな紅い色の目だけが特に発光しているように輝いた。

「いざ君が必要になった時に、捕獲に手間取るのは御免なんだよ。是非、君に会わせたい人が2人ほどいてね。その度にこの広い都市を探すのなんて面倒だろう?」

「……誰? ……会わせたい人って……」

 彼はさっと腕を上げて呪文を唱え始めると、指先で魔方陣を描き、その軌跡が白く輝いて宙に残った。彼のもう一声でそれはくるくると回転しながら大きくなって、巨大な球になり、その中が月の明るさに発光して落ち着き、ブゥ……ンという振動音もなくなった。

「一人は、今すぐ会わせられるよ」

 そう言うと、彼はまた訳の解らない言葉でその光球に語りかけ、暫くするとその光球からも応答があった。二言、三言のやり取りの後、応答する声が変わり、もっと低くて重く、威厳のあるものになった。彼もその声に対してはガラリと敬意の度合いを強めて表した。

「ソレル カーン」

目も顔も伏せ、彼は跪くことまでした。一体何者だというのだろう。

《アム カリスト》

目上の者と会う時の儀礼的な言葉らしきものが更に続き、それから本題に入ったようだった。

「メナ マイアー シムズ。ソレル カーン」

《……タキアス バローネン?》

「ウナ、メアム ルー ベウー。ソレル」

彼がソニアの方を手で示すと、月色の光球の中に浮かぶ光の固まりが動いてこちらを向いた。光がもっと落ち着くと、それが何か解った。人の首だ。首から上だけが球の中に映し出されて、霧の中にいる人物のように白く霞みつつも、その表情を見せていた。

 老人だ。しかし人間ではない。霧の中にあって色はよく判らないが、彼やこの老人は人間より耳が大きくて、天に向かい先が尖っている。ゲオルグのように。そして、ただの隈とは思えない暗い影が老人の目の掘り全体を取り巻いている。まるでトライア王立劇団ジュノーンが、俳優に死神や悪魔を演じさせる時に施す化粧とそっくりだった。額には高位の者らしい細い輪状の冠を戴いており、その輪にはびっしりと数種の宝石が散りばめられていた。

 首だけの老人は、ソニアと目を合わせると、訝しげに眉根を寄せて立っている彼女の様をじっくりと見た。そして言葉の意味は解らずとも、何やら感嘆の文句らしいものを高く囁いた。

《アルケ ミスレ……?》

「エム アルスガード。イルマ ヴィーテ ヴィレ ベウーナ」

《……ヴェリータス……》

たった一語だけ、人間の言葉ではないものをソニアは理解した。そして妙な震えが全身を掛け抜けていった。2人のやり取りをただ眺めていたソニアだったが、早くここを出なければならないと思う焦りが増して、落ち着かなくなった。

 老人は、今度は違う言葉で語り掛けてきた。

《……ソニア……と申すのだそうだな、そなた》

数十年ぶりにその言語を使うかのような、ぎこちない言い方だったが、よく解った。

《何処で生まれた? ……何処で育ったことを1番古く覚えている?》

霧の中の老人にも殺気はなくて、捕虜の尋問めいた鋭さもなかった。しかし、この人が備えている威厳だけはどうにも隠しようがないらしく、圧倒されるものがあった。

 ソニアが答えないでいると、フォローしようとしてか、彼が口を出した。

「ソレル、メナ マイアー ロブ ルスタ ヌーン ヒュミリアン」

老人はソニアの方だけを見て、視線を逸らさずに今度はこう言った。

《……訳が解らず戸惑っているようではないか。お前も、彼女が解る言葉で話せ》

「……仰せのままに、陛下」

陛下と呼ばれた老人は、迷子を宥めすかすような調子に変えた。

《そなた……人間と暮らしているそうじゃな。生まれた時からそうなのか?》

 ようやくソニアは言葉を発した。

「……何故……そんなことを訊くの?」

2人を警戒しているソニアの様子から、今度は命令通りの言葉で彼が言った。

「言ったろう? 君の母上かもしれない人の手掛かりがあるって」

ソニアの警戒はそのままだったが、そこに、熱を持った『当惑』という花が大きな花弁を広げて咲き、彼女の心の中に添えられた。

「……私に似ているって言う……人のこと……?」

老人は王者らしい優雅な仕草で瞼をゆっくりと伏せ、ソニアは疑いたかったが、だが確かに、愛しげ(・・・)とも言える眼差しで彼女を見た。

《ワシはずっと探しておるのじゃ……そなたによく似たある者を。その者を見つける前に……よく似たそなたの方が先に見つかった。思いもかけず。あまりに似ておるから……きっと何かの意味があると思ったのじゃよ》

「……それは……誰なんです?」

暫し沈黙があった後、こればかりは自分が言うべきではないと弁えたのか、カリストは無言を守り、老人がハッキリと言った。

《……ワシの妃じゃ》

ふいに、ソニアの世界がグルンと揺れ蠢いて彼女を翻弄した。様々な可能性や疑問や不安が渦巻いて絡み合い、言葉にすることが出来ない。

《……何も恐れることはない。そなたを悪いようにはせぬ。ただ、そなたと直接会って話がしたいと思う。こうした術を使ってではなく、直に面と向かって。ワシがそちらに出向いてもよい。承知してくれるかな?》

ソニアは答えられず呆然と、開いたまま閉じられない口をパクパクさせた。

「陛下、(わたくし)が説得し、留めさせておきましょう。まだ時間が要るかと思われますので」

《……ウム、そうじゃな。この様子では、無理にヴァイゲンツォルトまで連れて来させる訳にもいくまい。頼んだぞカリスト。こちらの事が片付き次第行く》

そうすると、また二言三言別れの儀式めいた言葉を交わし、

《そなたに会える時を楽しみにしておるぞ、ソニア》

首だけの老人はソニアの目の前でただの光に戻って消え失せ、カリストが術を解くと、魔法球も霧が解けるように薄れ、消滅したのだった。

 緑青色の光に戻った洞内で、まだ混乱しているソニアと微笑のカリストが再び向かい合った。気がつけば、他の追っ手もここを見つけており、カリストの背後側に並ぶ幾つかの扉に魔物兵士の姿が見えた。カリストの身振りで彼らは止められ、それ以上は入って来ないで2人の成り行きを眺めている。カリストは満足のいく手応えを得て機嫌良くしていた。

「……さあ、これで解ったろう? 君だって知りたいはずだ、自分のことを」

 ソニアは視線を落として、散り散りになっている考えをまとめようとした。それは容易ではなく、小鳥達は逃げ続けていたが、1つだけ捕まえて浮かび上がらせることが出来た。

「……もう1人って……誰のこと? 私に……会わせたい人って……」

「ホゥ……今のは結構衝撃かと思っていたんだが、先にそちらを訊くかね。まぁ、ある意味冷静だな。いいだろう、教えてやる。君が……とっても好きな人だよ」

ソニアの胸がズキンと疼いた。混乱していた小鳥達は一斉に1つの木に押しやられ、1つの考えに集中することができるようになった。

「……アイアスのこと……?!」

「……ああ、そうだよ、お嬢ちゃん」

カリストは始終笑みを浮かべている。本当に楽しいのだろう。

「君がここにいることを知れば、彼はきっと、ここに来るんじゃないのかな?」

「な……何のために……? アイアスを誘き寄せて殺す気なの……?」

カリストは牙と牙の間から舌を出して、上唇をペロリと舐める仕草でそれに答えた。

「そんなこと……させない! 絶対に!」

「奴が君を愛していれば、きっと君を助けようとやって来る。その様を見たくはないかね?」

「信じるもんか! あの人はノコノコやって来るような馬鹿じゃない!」

「ああ、そうだろうね、馬鹿じゃないだろうさ。我が友ヴィルフリートを倒し、バル=バラ=タンを葬ったほどの男なのだから。だが、君のことを本当に愛していたら……嘘でも本当でも、それを確かめに来るとは思わないかね? 特に――――君のその美しい髪を虜囚の証に見せられたりしたら」

ソニアはハッとして自分の髪を見た。ゆったり束ねている長い髪を掴んで前に持ってくると、その一部が人の手で裁たれて短くなっているのが判った。外観を損ねないように注意を払ったのか、指先にほんの一つまみ程度の量だったが、同じ長さに切り揃っているものはすぐ目についた。カリストは胸元のハンカチーフが差してあるポケットから、白い紐で結わえてあるソニアの髪を取り出して見せ、どうだ、とばかりに目の前で嗅いで見せた。

 ソニアの眼光が、戸惑うばかりだった者の定まらぬ微光から一直線の強光に変わった。

 まだそこにある。まだ、最悪の状況になることを許してはいない。

 ――――――今なら、間に合う。

「――――――そうはさせるか!!」

ソニアは飛び出し、まるで構えていなかったカリストに襲いかかった。彼女のあまりの素早さと思いも寄らぬ力に彼は面食らって、そのまま掴み合った状態で転がった。

 見守っていた衛兵達が驚いてどやどやと入り込んで来る。火炎魔法が放たれたので彼女が攻撃したのかと思い、衛兵達は斧や槍を構えて臨戦体勢に入った。しかし、カリストが身を立て直して気づいた時に燃えていたのは、彼女に奪い返され、その手の中で赤々と炎を上げる彼女の髪の束だった。チリチリという音と共に独特の焼け焦げの臭いが立ち込める。

「――――自分の秘密なんかどうだっていい! アイアスに迷惑だけは掛けない!」

そう言うと、彼女は開いている扉に向かって走り出した。衛兵達の上をヒラリと飛び越えて、行きとは違う扉を選んで全速力で突っ込んで行く。

 カリストが彼等の言葉で部下に命を与える怒号が響き、その声と競争する勢いでソニアは未知の通路を駆け抜けた。

 螺旋階段や直線的な階段や、球形に空間の開いている吹き抜けホールを通り、幾つもの部屋を過ぎ、疾風の如くソニアは追跡する魔物兵士達を引き離していった。ネコ科獣の獣人もいて、彼女の速さを見て槍を放り出し四つん這いになって全力で彼女を追い始めたが、追い風を起こしているソニアの速度には敵わず、またその風のせいで臭いによる追跡が困難になり、やがて見失ってしまったのだった。

 上階に行くにつれフロアーが広がっていくように思われ、より天井の高い柱廊空間や、長い長い通路を目にするようになった。どうやら、地上に近いほど広くなる擂り鉢状の造りらしい。どこに階段があるのか知らない点はソニアに不利だったが、この広大さのお陰で追跡者の目からソニアは隠され、逃走の役に立った。

 大きな昇り階段の両脇に居並ぶ彼女以上の大きさのガーゴイル像に見下ろされながら、幅のある段を3段抜きで駆け登り、紫色に発光する天井のあるアーチ型の通路を抜け、水が無数の小さな滝となって落ちて流れて行く川のある広場を抜け、階段ばかりが延々と続く螺旋のホールをとにかく上に向かって駆け上がるうちに、またカリストに出くわしてしまって足を止めた。

 どうしてか、彼はこの階段を上からやって来た。もっと巧い道で先回りされたのか、でなければ何らかの技を使っているのに違いない。

 息を切らせながらソニアは構え、問答無用で風を纏った体によって突進した。カリストは寸での所で避け――――肩が彼の服を少し掠めた――――すれ違い様に叫んだ。

「――――――ミステリア!」

自分には使えなくとも、それが霧迷いの呪文であることが解ったソニアは、風で我が身を取り巻き続け守った。階段の中が見る見る濃いミルクのような見通しの効かない白い霧に覆われ、埋め尽くされていく。トゥーロンが得意だった同じ霧迷い呪文『ミスト』の、もっと上級なものだ。アイアスとの旅で2人して一度巻かれたことがあるが、それ以来、生の本物を経験したことはなかった。

 この濃い霧を吸い込んでしまうと、神経が冒されて危険な幻に惑わされてしまうので、ソニアは風で防護壁を作り、なるべく呼吸を抑えながら更に上を目指した。

 走っても昇っても魔法が消え去る様子は見られず、そのうちに息が苦しくなってきて、何処かのフロアーの入り口が目に飛び込んでくるやその中に入って行き、出来るだけ階段から遠ざかる方向へと走った。

 通路を走ると霧は次第に薄れていって突き当りまで見えるようになり、その角を曲がった所でソニアは大きく息をついた。

 そして、彼らと同じ姿をした帝王のような出で立ちの石像が中央にある広場に辿り着いた。同じような通路口が5つと、幅広の下り階段があって、ふと見ればその下からもくもくとあの霧が立ち昇ってきていた。振り返ると、今来た道の口と、他2つの口からもこちらへ向かって霧が領域を広げ、迫って来ている。

 ソニアはまだ無事である正面の通路へと向かい、行く手が霞んでいないのを確かめてから、また走り始めた。その先も十字路やT字路、ホールに出る度に何処かしらは霧に侵蝕されていて、已む無くソニアは無事な方向を選んで走りつつ、上に行ける階段を探しては昇った。

 だがやがて、上がってすぐに出た通路の片方から今にも霧が覆い被さってきそうな勢いで迫って来たので、ソニアは慌てて逆方向に逃げ、その辺りからおかしいことに気づいた。彼が術をかけるのよりも、自分がその領域から逃げるのが早いお陰でここまで来られたのかと思っていたのだが、もしかするとそれは大きな間違いで、自分の方が追い詰められているのかもしれなかった。

 案の定、次に階段を見つけた時には、既に昇る前から上方より濃い霧が流れ込んで落ちてきて、時を緩めた滝の様にゆったりと降り注ぎ、ソニアはその横を走り抜けなければならず、そのフロアーの階段は何処も上から濃厚なミルク色の空気が吹き降りて来て、行く手を塞がれてしまった。彼女が必ず上に上がってくることを見越したカリストが、先回りして上の階に霧の国を築いたのだ。そして尚、四方からも下からも霧が迫りつつあった。

 どこまで続いているのか判らないが、霧に占領された上階に飛び込むしかないと考えたソニアは、精神を集中させて出来るだけ激しい風を起こし、上階へ送り込ませ、霧を押し流して少しでも退散させようとした。階段と階段を繋ぐ通路だけでも霧が晴れていれば、上へと進み続けることが出来る。

 霧が後退したのを見届けてから、ソニアは1つの階段を昇り、風を送り続けて更に上に行く階段が現れるのを待った。この風がなければ到底成し得ないような芸当だ。

 ソニアはそうして更に3階分上にまで辿り着き、その次の階段を昇り切った所で何かに足を掴まれて転んでしまった。このフロアーの霧は薄い。足元を見ると、地を這うピンク色の大きなトカゲが長い舌でソニアの足を絡め取っているのが分かった。とても粘着性が強くて、足を振っても解けそうにない。

 トカゲが舌を引き始めたのでソニアはもがき、真紫の毒々しい口を開けて彼女を頬張ろうとしたところで、タイミングを測って顔に蹴りを入れた。衝撃でトカゲはゲェッと叫び、舌が解けてソニアは這いずって離れ、立ち上がり、階段を探して走り出した。トカゲがベタベタと足音を響かせて追いかけて来る。

 進んですぐの所にもう1匹同じ種類のトカゲがいた。逃げる限り彼女の足の方が速いので、ソニアは駆け抜けて2匹の雄叫びを後方へ追いやり、その先にもいた何匹というトカゲもヒラリと飛び越えて無視して行った。まるで、ここを守るように配備されている番犬のようだ。

 階段を見つけてもう1つ上へ上がると、今度は霧が少しもない代わりに、真っ黒い影が幾つも寄り集まってきて彼女に取り付き、覆い被さろうとした。風で対抗しようとしてもあまり効かず、ソニアはとにかくかわして逃げ続け、トカゲよりも素早く追いかけて来る影達を振り切ろうと急ターンしてみたりし、どうしても立ち塞がった者には闘気を纏った体当たりの一撃を食らわせて暗黒幽気体を砕き、散り散りにして前へ進んだ。影の絶叫がフロアー中に反響してワンワンと耳を痺れさせる。

 そしてもう1つ上へ上がった所で――――またそこにカリストがいた。彼も必死でここに辿り着いたようで、上気して苛立たしさに顔を歪めていた。

 これまでは見せなかった魔法の杖を手にしており、肩の上下で杖も揺れ動いた。杖先にある楕円形の石が黄金色に輝いている。杖を使うということは、それだけ本気だということだ。術者は何もなくても魔法がかけられるが、戦士にとっての剣と同じように、杖を使った方が技も強く、正確になるのだ。

「――――――グランデ!」

既に魔方陣は敷かれていたようで、彼の叫びと共に軌跡をなぞる様に床面の紋様が青く光り、かなり巨大なその陣のど真ん中にいるソニアは、急に上からの圧力を感じ、まともに立っていられなくなって膝をつき、手をつき、地に押し付けられていった。このフロアーには他の魔物もいるのだが、雑多なそれら――――闇色の蝙蝠や紅い豹や1つ目玉の触手動物までが同じように身動きが取れなくなって潰されていった。

「もう……いい加減この辺にしときたまえ、梃子摺らせるのは。君が、無傷で陛下にお渡ししなきゃならない貴重品でなかったら、とっくに殺してるところだ」

ソニアの方が激しく肩を揺らせて息を切っていた。彼の方は走ったのではなく、何か別の方法で移動していたと見える。

 彼女がどうにか起き上がりそうになると、彼が更に威力を強めてきたので、ソニアは頭まで床に着いて、危うく地面とキスをしそうになった。トライアの王宮魔術師団で、この重力魔法をこれほど強力に扱える黒魔導士はいない。この男がどれほど高等な魔術師であるかは、もう十分に思い知った。

 ソニアにはもう理解できていた。これまで本物をそれと知って見たことがなかったから、知らずにいたのだが、このカリストやあの老人やゲオルグは、ヌスフェラートなのだ。アイアスから教えられていた、恐るべき鬼の一族。かつて歴史上、幾度も人間と戦を重ねてきた侵略の強戦士であり、強魔術師、そのヌスフェラートなのだ。

 ゲオルグは変わり者なのか親しくなれたが、大多数のヌスフェラートは先の大戦で彼等を敗戦に追いやったアイアスを憎んでいるはずだし、チャンスがあれば復讐を試みるに違いなかった。だから、自分を利用してアイアスを誘き出し、恐らく自分を殺すとでも脅して、無抵抗の内に死ぬことを要求するのだろう。

 そんなことは絶対にさせない。アイアスにはとても会いたい。死ぬほど会いたい。――――だが、こんな情けない再会だけはあってはならない。彼の手が掛からなくなったら迎えに来るという約束なのに、そんな面倒をかけたのでは旅立ちが遠のくだけだ。

 もし、そんなことでアイアスが死んだりしたら――――――自分はとても生きていられない。ここで命を絶つだろう。これは、アイアスだけでなく、自分が生き延びる為の戦いなのだ。

 ソニアは歯を食いしばると、全力で上体を起こし始めた。それ以上重力を上げられぬカリストは信じられずに目を見開き、彼女の上体が、手、肩、背、頭の順に起き上がっていくのを見た。

顔が上がると、ソニアは渾身の力で片腕を突き出し叫んだ。

「――――――ザナ!」

彼女の風が突風となって爆発し、それに乗った氷炎は猛吹雪(ブリザード)を凝縮させた雪嵐の獣となってカリストを呑み込み、吹き飛ばしてしまった。

 陣は解け、重力は元に戻り楽になって、ソニアはヨロヨロと立ち上がった。散々押し潰されて頭がクラクラとしている。魔物達はもっと酷いダメージを受けているようで、なかなか立ち上がれずにいた。

 ここにいる訳にはいかない。彼等が復活する前にソニアは再び走り始めた。更に上階へ。

 魔物がいるフロアーが続く。まるで地表入り口からこの地下要塞内部への侵入を防ぐ為に存在しているかのようだ。もしそうならば、出口は近いのだろう。

 5つの小滝と、それが合流する川と、その先に噴水がある豪華な造りの広場に出た所で、ソニアは無数の真空刃に襲われて、フラつく足で避け切れず壁に叩きつけられた。鎧のない体は所々切り裂かれて血が滲み流れ出し、戦士のお守りの腕輪も衝撃で割れて落ちてしまった。鋭い不意打ちだった。

 近づいて来たのは、やはりカリストで、彼は額と口元から血を流し、髪や服は先程のブリザードで白っぽく凍りついたままになっていた。遂に怒りの閾値を越えてしまったらしい。血色の紅い目は今にも沸騰しそうなほどにギラギラと煮えていた。

「それ以上動かないことだ。もっと痛い目に遭いたくなかったらな。……どうも君を無傷で捕えるのは無理なようだ。殺さぬ限り、幾ら傷付けようが後で回復できる。私はもう容赦しないぞ」

 ソニアは自らの周りに小さく風を起こし、そこに治療呪文を囁いた。小さな旋風は一瞬にして白く光り輝き、その中でソニアの傷は塞がり、痺れや眩暈も解消された。だが、完全ではない。流れ出た血を元に戻すことは出来ないし、ここまで走り続けた消耗は残って、彼女に息をつかせていた。

 カリストは片眉を吊り上げて目を丸くした。

「……不思議だ。その風は魔法ではないな? どうやって起こしているんだ」

ソニアは返答せず、捕まる気が更々ないことだけを凛とした顔に表して、キッとカリストを見据えた。

「その風で今まで逃げて来れた訳か……成る程な。夢魔香を退け、ミステリアを退け……さすがと言うべきだな。あの方の娘ならば納得のいくことだ」

 ソニアは立ち上がり、また構えた。もはや目の前のこの男を倒さない限り、脱出は望めないように思われた。どこまでも追って来て、もしソニアがどうにか無事帰還したとしても、トライアまでやって来るに違いない。ここで尻込みして決戦を人間社会に持ち込みたくはなかった。ソニアは胸をドクドク高鳴らせて、強敵を前に肌をピリピリと震わせた。

 今では、未試合の国軍隊長や他の士官を除けば、ソニアがトライアの首席戦士となっていた。彼女に敵う相手は誰もいない。だが、トライアにいる誰よりも、今、目の前にいるこの男は確実に手強く優れていた。ヌスフェラートというのは肉体的にも人間より強靭で、魔術師としても戦士としても秀でていると聞いていたが、どうやらそれは本当のようだった。

 だが、アイアスは18歳でその首領を倒している。自分もこの男ぐらいは仕留められなければ。例え武器無しでも。ソニアはそう思って、試合前のようにフウッと一つ息を吐き、獣のように集中した。

「……どうあっても抗う気か。いいだろう。地獄を見せてやる」

 ソニアは先手必勝で飛び掛って行った。彼女が他の兵士達に取られる戦法と同じだ。魔法を仕掛ける隙もないほどに高速で技を繰り出し続け、肉弾戦だけで勝負を決しようとするものだ。戦士としての力は彼女の方が上なので、カリストは防ぎつつも2、3発キックやパンチを食らってしまった。

 カリストが牙を剥いて金切り声を上げると、何処からともなく多数の蝙蝠が現れてソニアに取り付き、戦いの邪魔をした。風で彼等の飛行進路を狂わせて壁に叩きつけたり払い落としたりするのだが、その分カリストに隙を与えてしまう。

 彼は杖先から閃光を放って蝙蝠諸共ソニアにぶつけた。ソニアは吹っ飛んだが、巧く着地して再突進した。真空刃が次々と発射され襲い掛かり、1つ1つ際どい所で避けてカリストの手を蹴り上げ、杖を落とさせるのに成功した。

 蹴りと突きと防護の応酬が続き、風と蝙蝠の戦いが続き、やがて、彼女の放った火炎魔法が風に乗って業火となり蝙蝠を焼き尽くして、その炎獄の中でカリストが放った暗黒の炎がソニアを襲い、彼女を倒れさせた。

 格闘による傷と打撲で、カリストも血だらけで酷い有り様だったが、ソニアの方はそれ以上にボロボロになっていた。蝙蝠につけられた細かい引っ掻き傷が体中で疼き、血が滲み出している。先程回復したばかりとは思えない姿だ。

「――――――ルフレイア!!」

「――――――ザナ!!」

同時に魔法を唱え、カリストの火炎嵐とソニアの風で強化された氷炎嵐がぶつかり合って激しく火花を散らして爆発し、相殺された。

 その爆風の中を、疾風となったソニアが突き抜けて、矢の如くカリストに襲い掛かった。彼も咄嗟に真空刃を放つが、刃が威力を持つのは術者の数ディーオス先なので間に合わず、ソニアの腕と頬と服を少し裂いただけで、彼女が懐に飛び込んで来るのを許してしまった。

 剣のないソニアが渾身の力を込めて突き出した手刀が真っ直ぐに彼の腹に突き刺さり、深く彼女の手を呑み込んだ。湿った苦痛の息が吐き出される。彼女の手がヌスフェラート並みの爪を持つ手で、彼が人間だったならば貫通していたかもしれないが、逆なので無理だった。

 しかし、如何な強靭な肉体でも、こんな穴が空いて平気なはずはない。カリストはブルブルと痙攣しながら少女を見下ろし、口から血が溢れ出た。

 こんな風に生きる者を――――しかも人並みに口を利き、二本足で歩く者を突き刺したことがなかったので、ソニアは生のジクジクとした感触にゾッとして顔を顰めた。吐きたいくらいだ。

 簡単に回復されては困るので、ソニアは倒れて絶命するまでこうして手を深々と入れているつもりだったが、それは思わぬ事態を呼んだ。カリストの腹の筋肉がミシミシと締まりだし、抜けなくなったのだ。傷を塞ぐ目的もあったろうが、第一に彼女を捕えようとしているのだと、その目つきで解った。抜こうと慌てるソニアの肩をカリストがガッシリと掴み、その真紅の瞳で獲物をジッと見下ろした。凍りつくようなおぞましき魔物の目だ。

 カリストには()が必要だった。思いも寄らぬ強者であった彼女に、自分は敗れかけている。だが、その力を得れば立場は逆転するのだ。

 カリストは瀕死の者とは思えぬ力で、手も足も使ってソニアを押さえ込んだ。何が起きるのか解らずとも、脅威を感じたソニアは必死で抵抗した。2人は縺れ合ったまま倒れ転がり、死に瀕した者の凄まじい気迫で3つ足に4つ足が勝ち、真っ赤な口を大きく開けてカリストはソニアの頚動脈に牙を突き立て、ガブリと噛み付いた。

 ソニアは絶叫した。

 かつてこれを幾度となく繰り返してきた者の、本能的な正確さと躊躇いのなさで、吸血鬼は湧き上がる乙女の血を喉に流し込んだ。熟達した彼は殆ど無駄に溢すことなく強力に吸引して喉を鳴らし、そのあまりの甘美さとかつてない芳しさに痺れながら歓喜の唸りを上げ、一方ソニアは血を奪われれば奪われるほど、叫ぶ力も抵抗する力も失せていって目の前が霞んでいった。

 このままでは死ぬ。この魔物に僅かな力を残され生かされても、アイアスに何かあれば、その先は死だ。

 あやふやになっていく視界の中で、ソニアはまたアイアスの幻を見た。彼に、自分のこんな無様な姿を見せたくない。だが、殺さないかどうかも怪しく思えるほど、吸血鬼はあまりに夢中になっており、最後の一滴まで吸い尽くしかねない勢いだった。

 アイアスの他にも、アーサーや110隊の仲間や国軍隊長や国王のことが甦った。110隊に入ってから、もっと親しく会う機会の増えた国王は、今や我が子のようにソニアを可愛がってくれていた。こんな形で彼等と別れるなんて。

 しかし、その時、唐突にカリストが離れて起き上がった。そして血だらけの口で彼女を見下ろす。

 ……いや、違う?

 よく見ると何者かの手が彼の首をガッシリと掴んで絞めつけており、カリストの方が紅い泡を吹きながらもがいていた。ソニアの手はまだ彼の腹の中にある。強く圧迫されているので、もはや殆ど感覚はなくなっていた。カリストは手を首下に持っていって何者かの手を外そうとするが、まるでうまくいかず、やがてゴキッという音と共に首がへし折られて、ダランとうな垂れた。

 絶命したカリストは横に放られ、そこにもう一人ヌスフェラートが立っているのが見えた。何故、ヌスフェラートがヌスフェラートを殺すのだ? ソニアは朦朧としながらそう思ったのだが、その者が彼女に顔を近づけ屈んだので、誰だか判った。

 土色の髪と、紫の星を持つ翠玉色の瞳。ゲオルグだ。

「ソニア! 何故こんな所に……!」

彼はソニアが口を利くよりも先に、治療呪文をかけて彼女の首の傷を塞いだ。

「ゲオ……ルグ……?」

彼はそうだとばかりに頷いて見せると、彼女の手がカリストの中にあるのを知って、腹の筋肉を掻き分けてそれを取り出した。

 そしてゲオルグは彼女を抱き上げ、この危険な場所から離れようと走り出した。走りながら、夢の中で会話をするような危うさでソニアは彼と話した。

「一体何があったんだ?! 君はトライアにいるはずじゃないか!」

「……攫われたの……さっきの男に薬を飲まされて……私を使って……アイアスを誘き寄せるつもりで……」

「何てこった……!」

 ゲオルグは魔物達をほんの一睨みであしらいながら階段を昇って上へ上へと進み、遂に地上の高さに来て、日差しの入り込む窓が幾つも整然と並ぶ巨大なホールに出た。青い篝火が焚かれており、聖堂のような荘厳さと静けさが辺りに漂っている。

 彼は入り口の側で外の様子をチラリと窺ってから、ソニアを抱いたまま流星になって宙に浮き、入り口を飛び出して空へと一直線に突き抜けて行った。石造りの重々しい街並みが遠ざかり、幽霊都市は切り立った大山脈の中央盆地の中になり、その山並みさえも小さくなり見えなくなった。


 ゲオルグは、度々野原や山に着陸しては追跡者がいないか空を確かめ、もう平気だろうと判断するとソニアを降ろして、柔らかそうな草の上に彼女を寝かせた。

 心配そうに体の具合を診るゲオルグをボンヤリ眼で眺め、ソニアは言った。

「……アイアスの為に利用されたくなくて……彼を危険な目に遭わせたくなくて……逃げ出そうとしてたの。でも……」

「ああ……解ってるよ。あいつのことは知っている。魔術にも、薬や毒の秘術にも長けた男だ。名うての魔戦士でも梃子摺るほどの相手だ。無理もあるまい。間に合って良かった……! 後少しで危ない所だった!」

 ソニアは不思議な思いだった。知人としてこれまで親しく付き合ってきた彼が、こうして自分を助けてくれた安心感と、ヌスフェラートである、という警戒心とが綯い交ぜになっているのだ。

「私……他の目的でも攫われたの。私が逃げようとしなければ……傷付けるつもりはないって、あの男は言って……最初からあんな風じゃなかった」

「他の目的?」

「年取った男の人と魔術の通信で話をさせられて……『陛下』って呼ばれてた……。その人が、捜してるお妃に私がとても似てるからって……会いたいって言うの……」

それを聞くと、ゲオルグの顔は明らかに曇り、遠い目をして何か深く考え込んだ。

 まだ体に力は入らないし、頭も夢現の状態で、あまりに血が足りなかったが、ソニアはそうして口を利くことだけは出来た。だが、正しいことを言っているのかどうかの自信もあやふやな、綿の中に埋まって身動きの取れないような感触だった。

 ゲオルグは半開きのソニアの瞳を覗き込み、青冷めて体温が低くなっている頬を優しく撫でた。

「……とにかくもう大丈夫だ。君には休養が必要だ。今は眠るといい。後の事はオレに任せて」

そうして額を撫でられると、ソニアの瞼も自然に重くなり、やがて、自分はもう逃げられたんだとアイアスに叫んで気づかせようとしている夢の中へと入っていった。

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