第4部22章『暗黒騎士』11
その夕暮れ、トライア城下街では夕餉の煙が上がり、通りに良い香りが立ち込めるようになった時間、極々平凡な石畳の階段の途中で、陰に身を隠すように立って新聞を手にしている人間がいた。
今朝早くに配布された新聞は、今時分になると民間の新聞屋が発行したものに取って代わられていた。内容は同じだが、民間の自由さで色々と憶測を盛り込んでおり、話が膨らんでいる。民の方はもっと話が聞きたくてウズウズしている状態なので、この新聞もとても売れ行きが良かった。
この男も、そんな民間の新聞を買って読んでいる。
《国軍隊長ソニア様 無事御帰還!》
大見出しの文字が踊るように字体まで喜んでいる辺りが民間らしい。暗い印象の目と、黒いくせのある髪の男は、とても表情に乏しいのに口元だけを笑わせた。
良かった。彼女はこのトライアに戻っていたのだ。
彼はこれで役目に就くことができると一安心し、心の中で主にこのことを告げた。
彼女がアドロミラル海にいるらしいと教えられ、すぐに発ったものの、彼女を見つけることができなくて随分と探し回ったものである。宮殿のガルデロンと何度かやり取りをした結果、どうも海上ではなく海の下にいるらしいと解ったのだが、その時にはもう彼女は再び移動を始めていた。
後はひたすら現在位置の確認と追跡を繰り返し、今ここに至るのだ。
ここまで自力で辿り着くとは、さすがは我が主の妹君だと改めて感心する。その喜びが髪に表れ、彼の縮れた黒髪が一瞬ユラリと蠢いた。
おっと、いけない。
彼は周辺に人間がいないことを確かめてから、ゆるゆるとその階段を昇り、城を目指した。
彼は、主であるゲオルグからソニアの守護を仰せつかっている部下、ディスパイクである。この使命に対する複雑な思いがありつつも、彼はソニアを探し、その側に控えようとしていた。人間の姿になり、どうにかして彼女に近づく道を探ろうと模索しているところである。
単独で人間世界に潜入し誰かを警護するのは初めてだから、興奮を抑えるのが少し難しい。どんな手を使っても、必ずや主の命を遂行しようと意気込んで、彼は城下街の観察と城の動きの調査に勤しんだ。
その同じ夕暮れ時、城ではフィンデリア姫と国王が別れを惜しんでの談話をしていた。姫は静かに発つことを好み、大掛かりな見送りは不要としていたので、国王の間で行われるこの会談が終われば、彼女とはお別れである。
それでも、ちょうど戦などが起きてそれに参戦していなければ、また祭の時に来ると言うので長々と引きとめはせずに、再会の約束の方を双方ともが熱心に行った。
この場に居合わせる予定だったソニアの到着が何やら遅れているようなので、彼女が来るまでは残ることにして、もう暫くお喋りを続ける。教育を受け聡明で、しかも現在世界中を飛び回っている才女だから、話題の尽きることはない。
それで、その後優に半刻ほどしてから、ソニアがアトラスを大いに駆って帰ってきたという知らせが入り、それからソニアも王室に到着した。
彼女の説明で、外出した先の迷子探しに加わり遅くなったことが判ると、王も姫も笑った。
「これからは、どうなさるおつもりですか?」
「まずはホルプ・センダーの本部に一度戻って、情報を集めるつもりです。襲撃の情報が入れば皆で出動するでしょう。獣王大隊と判れば、私は必ず参戦します」
サラリと言ってのけるが、重い計画である。場合によっては再会できないかもしれない。傍らのカルバックスの顔は賛成していないのだが、止めても無駄なことは重々承知で何も言わなかった。
「あ、それから、ディライラにも様子見で立ち寄って、ナルスが無事であったことをお教えしておきますわ。皆さん心配しておられたから」
それは有り難いとソニアからも頼んだ。身分は明かさなかったが、王子等はかなり心配してくれていたようであるから、安心させてやりたい。
「サルファ王の無事も確認できていますし、ビヨルクも王子が生き残っておられるということであれば、ホルプ・センダーからも確認の使者が飛ぶことでしょう。こちらの方でも、何かお手伝いできないか検討するようにいたします」
「是非、お願いします。このナマクア方面のことでしたら、いつでもここに確認に来て下さい。できる限りのお手伝いをさせて頂きます」
2人は固く握手した。ソニアは顔を近づけて、他の誰にも聞こえぬようそっと言った。
「……特殊な方々でないと判らないようなことでお困りの場合は、念の為、私にも訊いて下さい。そういう方々に尋ねて、判ったりするかもしれませんから」
フィンデリアは悪戯そうにニッと笑った。何か、女同士の秘密の話があるようだと周りには見える。
「それは心強いことですわ。必要な場合はきっとそうさせて頂きますね」
そうして、いよいよお別れとなった。「では」とフィンデリアがカルバックスを伴い退室し、ソニアだけが見送りについて行く。そして流星術者専用の発着スペースがある3階東の大テラスまで来ると、最後にもう一度だけ手を振り、そして姫と従者は星となってあっという間に北東方向へ飛び去ってしまったのだった。
出会いもさっぱりとしていたが、別れも未練なく潔いもので、前線の人間は常に回転しているものだなと思いながら、ソニアは既に星が輝く北東の宵の空を眺めた。
その夜は、昨日よりはもっと限られた幹部と王とでの夕食会と決まっており、フィンデリアを見送った後はすぐに自室へと向かって、鎧を脱ぎ、寛げる格好になった。昨日の今日で皆が聞き足りない所をまた彼女に尋ねられるし、情報伝達を済ませられる点でも便利なので、この夕食会はわりと重要なものだった。
乾期の夕べは気持ちがいいからテーブルはテラスに設けられ、ソニアが到着した時には先に2人の大臣が来ており、後は皆忙しさに応じてまちまちの到着となるであろうから、いる者だけで先に食事を始めた。
今晩はフィンデリアがいないから、客の前では話し難いことも言えるので、もう少し突っ込んだ質問が出てきたりする。それに応え、今日の散策についても尋ねられれば答えた。
事務的なことでは、早くもビヨルク支援に向けた物資の面の計画が立ったようである。まずは食料と建築技師と道具、そして生活必需品などを第1陣として送り、その中に視察官を入れて現状を把握させてくることになった。その第1陣は明日にも出発の予定ということだ。
ようやくあの国を本当に支援できるとなって、ソニアは嬉しかった。明日の出発までには自分からメルシュ王子宛てに書を認めておこうとソニアは決めた。あまりに時間がかかったから、向こうでは自分が事故にあったりなどして帰れなかったのではないかと心配しているかもしれない。
その次は街に出回っている新聞のことが話題になり、大臣が懐から得意そうに取り出して披露した。そちらの方には彼女の帰還についての各著名人の喜びぶりも記載されているので、そこが特に民間らしいゴシップ好きさを表している。
国王の容態が途端に回復したとか、白い竜は火を吹くらしいとか、帰国直後、アーサーが一番に飛びついてなかなか離さず、そのまま結婚を迫ったらしいとか、本当のことと勝手なつくり話が入り混じっておかしなことになっている。要するに、そうであったら面白い、という方向に脚色されてしまっているのだ。
「あの子は火なんか吹きませんよ。雷は落としますけれど」
ソニアがそう訂正すると、財務大臣が軽く噎せて目をまん丸にした。少々青ざめている。他の皆も心配そうだ。
「普段はしませんから心配しないで下さい。敵を攻撃する時にしか使いませんよ」
「ウム……電撃というのは魔法で行うと上級で扱いも難しいものだし、電撃の大砲が一基あると思えばなかなか心強いのう」
王は真面目にそうフォローしたが、どうも皆の方はすんなりとはそう思えないらしい。誰もが、感電するとおそろしいから近づかないでおこうという顔をしている。
「あと、彼は一番に飛びついて来ただけです」
これには皆が笑った。いかに噂があるとは言え、まさか大勢の目の前でプロポーズをするなどとは皆も思っていなかったのだ。そう解っていながら、しかし祭の実行長官はからかった。
「おや、私が聞いたところでは、貴女がそれをお受けしたとありましたが」
更に皆が笑う。ソニアは苦笑いだ。
「もう……どうして皆さんはそういうお話が好きなのかしら」
今朝のアーサーの喜び様が何を示すのか、どれだけ憶測が飛んでいるのか、ソニアは知る由もない。今日は幸い、職務に専念するとのことで近衛兵隊長は同席を断っていたので、彼はからかいに耐えずに済んだわけだ。今日のソニアが休養中であるという点でも、彼は仕事をしていた方が自然である。
その後は祭の準備がどのくらい進んでいるかに話題が移った。今年の宿泊者予定数や出店予定数が思いの他伸びていることを実行長官が自慢げに報告すれば、皆も喜んだ。
国が無事であっただけでなく、恒例の祭までこれまで通り行えそうだということは、ソニアにとっても格別の喜びだった。この国であの祭の嫌いな者などおらず、誰もが楽しみにしていることだから、開催されればどんなに国を活気付かせるかと思い、ソニアも嬉しくなる。
今日は城下街や森の様子も見てこられたことだし、この国の平穏を自分の目で確かめられて、ソニアは心の底から安堵していた。脅威となり得るのは皇帝軍の影だけだ。
あの謎の黒い騎士との出会いは確かな不安材料としてソニアの胸につかえている。だが、この場であの話をすることはやはり適当ではない。彼女の対処方法について、おそらく王を除く全員が賛成しかねるだろうし、今更どうすることもできないので、無駄に皆の心を掻き乱すだけとなる。ソニアは黙っていることを改めて心に決めた。
食事が済むと、ソニアは早めにその場を辞した。
今日は外出先で思わぬ迷子探しなどもして休むはずが動いてばかりだったから、ビヨルクの王子宛ての手紙を書いて早く休みたいと言えば、誰もがそうするように同調し、彼女を行かせた。残る面々の方ではまだ話があるようなので、食後酒をゆっくりと嗜んでいる。