第4部22章『暗黒騎士』9
相手が動いた。観察を終えて姿を表す気になったのがソニアには解った。縄張り争いをする獣同士が、互いの存在と位置を認識してジリジリと距離を詰め、対決に向かうように、大型獣の足音が再び始まる。
ズシン、ズシン。
もう、隠そうとはしていない。しかも足音のテンポが解ることで、ソニアにはもっと明確に魔物の正体が絞られていった。これは、4つの手足を持つが、そのうちの2つしか歩行には使用しない前屈みの獣に特徴的な足音だ。そんなものは大型の鳥か、蜥蜴の類くらいである。だが、他にもあるとすればそれは――――――
木立の向こうから現れたその魔物の全貌を、ソニアはマスクのアイパーツ越しに見た。それは大きな翼竜だった。翼があるのに何故か折り畳んで空を飛ばず、森を歩いている。全てを広げたら、横幅の大きさは一体どれ程のものだろう。
茶錆び色の体表はキメの細かい鱗でびっしりと覆われ、腹の部分はそれよりもう少し明るい色をしている。頭に幾つか突起があるが、体全体の滑らかさに見合って高さはあまりない。後足は前足より発達し、大地をしっかりと踏み締めている。胴体部分だけで馬より2回りは大きくて、その前後に長い首と、もっと長い尾がついて揺れているから、全長の方も大したものだった。だがこれが、翼を折り畳んでクネクネと歩けば巧いこと森の木々を掠めずに、器用に前に進むことができている。あの尾の一振りでもかなりの打撃力がありそうだ。
しかし、真におそろしい相手は、その竜の上にいた。騎乗しているのだ。この竜だけで十分圧倒的なのに、乗る人の威容はその上をいっていた。
機能的にフィットした黒いスーツに漆黒のマント。その手には長い鎌が握られている。先端は槍のように尖っているから、突きも払いも両方適しているのだろう。その姿はまるで死神だ。
しかも当然のことながら、その人物は人間ではなかった。これまでに何度も目にしてきたような青褪めた肌色と、目の周りを縁取る暗い影を持っている。
ヌスフェラートだ!
ソニアの緊張は一層高まった。見るからにこんなにおそろしい相手と、トライアの領内で遭遇しようとは、何てことだろう。
しかし、竜も含め装いの一切がそのように死神の如き凶兆を体現しているのにも関わらず、頭髪だけは濁りのない美しい金髪で、トライアの日差しに映えてまるで炎のように輝いていた。
アトラスはおそろしい魔物を目の前にしてずっと嘶きを続け、ミルアは鞍に必死でしがみ付き前を全く見ていない。
感覚の全てがこの相手を危険だとみなし、ずっと警戒信号を鳴り響かせている。これ程の相手ならば、おそらく衝撃波だけでも十分武器となり得る力を持っているのだろう。
ならば戦闘が始まる前に、アトラスとミルアを逃がさなければならない。逃がすならば今だ。ソニアはそう決断した。
「――――――アトラス! 行け!」
アトラスは嘶き続け、主人をそこに置いて行くことを躊躇っている。
「――――――行け!!」
ソニアの喝を受けて、アトラスは目が覚めたように嘶きを止めて我に返り、主人の命に従った。振り返り振り返り心配そうに、来た道を戻っていく。ミルアが落馬しないよう精一杯気を遣いながらスピードを調節して。
そしてソニアは肩の小鳥にも囁いた。
「何もしないで……! お願い……!」
そのヌスフェラートは、去っていくアトラスをチラリと見たが、特に追おうとはせずにそこに留まった。川の向こうとこちらとでジッと対峙し、暫く双方とも動かなかった。
アトラスが去ると、辺りは浅い川を流れる水の音と葉擦れの音、そして翼竜の息遣いだけになる。互いを行き来する緊張感からしたら、それらの音はあまりに穏やかだった。
至近距離に来たヌスフェラートは、ソニアのなりをひたすら検分していた。この鎧にとにかく関心を示している。
そうして対面していると、ソニアの方でも疑問が山ほど出てきて、おそれよりも大きくなった。
これは新たな刺客なのか? でも、魔導大隊的な雰囲気がない。所属があるとすれば、ヌスフェラートの戦士ばかりの集まりと聞く戦鬼大隊の方が合っているようだ。他の軍から送られて来たのか?
以前の刺客も、自分の居場所を知っていてまっしぐらにやって来た。今日、この日に、これだけ広大な土地でこれほど稀なる強者と邂逅することが、ただの偶然とは到底思えない。仮に刺客でなかったとしても、皇帝軍から何らかの目的で送られてきた偵察だろう。
行動の様からして、これから都市攻撃を単独で行おうという風には見えず、やはり刺客の可能性が強いので、ソニアは名乗ることができず、相手に自分の正体が解っているのか探ることに集中した。
そこで、長いこと沈黙があった後、ヌスフェラートの方から口を開いた。
「……それは、人間の作った鎧か?」
やはり、強く関心を示している。出所を知らないソニアは答えかねた。だが、最初の発言がこれだということは、自分の正体を知った上での刺客とは思えないので、ようやくソニアも慎重に言葉を選んで口にできるようになった。
「……これか? 作者は知らない。貰い物なのでね」
「……人間の作とは思えぬ出来映えだ」
自分もそう思うが、ハイとは言えないのでソニアは無言で流した。相手も戦士だから武器防具には甚く興味があるのだろう。飽くことなく凝視を続けている。
「貴公のような方は見かけたことがない。何用でこの国に参られたのか、お教え願えるか?」
ヌスフェラートはまだ鎌を握ったまま、いつでも振るえる体勢になっていた。先程のような殺気はなく、それに代わって好奇心と面白がる心が表に出ている。が、それでも戦闘に対する意欲は欠いていないようで、余裕がありながらも何処にも隙がなかった。
このような戦士は一瞬でトップスピードに入って強烈な攻撃を仕掛けられるから、油断がならない。
「……この時世に面白いことを訊くな。オレのような者を見かけたら、まず戦だとは思わんのか?」
「そうなのか?」
「……さぁな」
ヌスフェラートはニヤリと笑う。このようなことを言うのだから、ますます自分の正体を知っての刺客ではないだろうと見て、ソニアは続けた。
「……人間ではないものを見かけたら問答無用で敵とみなすのは良くないと思っている。この世界には沢山の種族がいるのだし、戦士の使命もそれぞれだ。だが……私も立場上、我が国への攻撃や、それに向けての偵察を目的にしているのだったら、ここを通す訳にはいかない。ここで戦わざるを得ないだろう。だが……私は不要な戦いは好まない。貴公は子供が逃げるのを見逃してくれた。そのような騎士道精神のある方であれば尚更だ」
この態度がヌスフェラートの方にとっても心地良かったようで、彼の闘志が緩和されたのが解った。一般的な人間の兵士だったら大騒ぎして会話どころではなく、このような紳士的対話などまず実現しない。ひとかどの人物に会えた時、それが種族を異にする者であれ、感銘を受けて喜びを感じるのは、相手もそれなりの人物である証拠だ。
「この国は通るだけだ。……偵察もするだろうが、それは攻撃を目的としてではない。オレも不要な戦いは好まん。君は大した人物のようだから、一戦交えてみたいとは思うが……」
「私の方は願い下げる。貴公のような者と戦えばどうなるかは想像がつく。戦時中に私を欠いたり、戦えぬ体になったりして国を守れぬような事態にはなりたくない。貴公にも仕える何かがおありなのだろう? ならばお解り頂けると思うが」
これもまたヌスフェラートの気に入ったようだった。臆病風に吹かれての言葉にも聞こえるが、目の前の戦士は確かに己が立場と使命を優先しているのだと理解したのだ。何かに忠義を尽くす者を彼は好んでいた。自分もそうであるから。
「いいだろう。……人間にしては大した男だ」
左肩でずっとセルツァが臨戦体勢に入ろうとしているので、ソニアはペットの小鳥に話しかけるようにして宥め続けた。
「我が国に害成すのでなければ、どうぞ通られるが良い。今は一年で最も美しい季節だ。是非楽しんでいかれよ。だが、忠告がある。貴公の申されるように、他の者は貴公に出会うと驚き、戦おうとするかもしれない。勿論、好き好んでのことではないが。だから、できるだけそのようなことを避ける為には、ここから西に向かってハニバル山脈まで行き、その山脈沿いに進んでもらいたい。それであれば一番人間と遭遇しないだろう。もしその竜と都付近で目撃されれば、私が出向かなければならなくなる。だからどうか、そのルートを辿ってもらいたい」
ヌスフェラートはピクリと片方の眉を上げた。
「それはつまり……このことをお国には報告しないということなのかな?」
「……ああ、そうだ。話しても人々を怖がらせるだけだろう。私の独断だが、そうする」
ソニアには解らなかったのだが、それが、このヌスフェラートとの対決を避ける決定要因となった。彼は、自分の姿形や竜の特徴などが人間世界に伝わることを阻止したかったのだから。
こうして自分の望み通り、戦わずに済ませられそうな運びとなったのだが、理性の方は必死で彼女に警報を鳴らし続けていた。
《被害が出る前に戦え》
《彼をこのまま行かせるな》
だが正直、このヌスフェラートと戦って勝てる自信がソニアにはなかった。ヴィア=セラーゴに潜入した際、多くの軍幹部を目にしてきたが、その誰にも引けを取らないほどの強力なパワーを感じるのだ。ここで戦えば、おそらく今までで最強の敵となるであろう。
仮に生き残ることができたとしても、それを勝利とは呼べない程に自分も深手を負うことになるだろう。いざトライア襲撃となり、その中に彼がいれば当然戦うが、そのような事態にならない限りは絶対に戦いたくない相手だった。
それに直感は、ここで戦わず見逃すことを善しとしている。それを信じるのだ。平和を望むのならば、自分が戦の仕掛け人になってはいけない。
寛容と、理解を。
勇気と、信念を。これが最善の策なのだ。
「……承知した。オレも面倒は起こしたくない。君の礼節を持った態度に免じて、この国を通る際、できるだけ人間に目撃されぬようにしよう。だが……不思議なものだ。人間でそれだけ肝の座っている男はなかなかいない。このような話ができようとはな。君は何者だ?」
この場において、2人の立場が対等ということはなく、どちらかと言うとソニアの方が劣勢に思われた。片や大きな竜の背に乗り、片や地面にただ立ち。
だが、名乗りについて彼女は引かなかった。
「私の氏素姓を尋ねるのであれば、まずそちらから名乗られよ。騎士殿」
一瞬、彼の苛立ちがピリッと伝わったが、道理には適っていることだから、すぐに理性的に覆い隠して、目を閉じ笑った。
「フフ……確かにそうだな。これは失礼した。だが……オレの方も名乗りたくないので、今の質問はなかったことにしよう。君が何であれ……君はこの国のかなり上位にいる戦士だろう。それだけ解れば十分だ」
本当のところは、彼はこの人物の顔を見てみたいと思っていた。正式な名乗りができれば、その時仮面や兜を脱ぐことも礼儀のうちなのだが、今回は致し方ない。偵察の際に調べることもできるから、それに任せよう。
やはり一戦交えてみたいが、戦時中には叶わぬということであれば、機会はずっとないということだ。この大戦を生き残れる人間など、いるはずがないのだから。魔導大隊の管轄地とあっては、この戦士との対決は望めぬことを知った彼は少々残念に思った。
「――――では、さらばだ。トライアの戦士よ。オレが人間と出会わぬことをせいぜい祈ることだな」
「ああ、そうする。貴公の旅の幸運を」
ヌスフェラートは翼竜に心で指示を出して方向を変え、西に向かって歩み始めた。翼竜の長い尾がスルスルと木立の中に消えていく。森は深いから、少し進めば緑の壁が幾重にも竜を覆い隠していった。地鳴りも小さくなっていく。
そして、おそろしい魔物がいることで止んでいた小鳥達の囀りが元に戻っていった。
緊張の対面が終わったソニアはドッと脱力し、疲労を感じた。まだ胸が高鳴っている。
ふと気づくと、隣にはセルツァが立っていて肩を抱いた。小鳥の姿から元に戻ったのだ。
「セルツァ、彼が何者か……判る?」
彼は竜が消えて行った方を見やりながら険しい顔をしていた。
「……いや、皇帝騎士団かと思ったんだが……どうも違う。騎士団が使う竜はあの種類じゃないし、制服もあんなんじゃなかったはずだ」
「皇帝騎士団?」
「ヌスフェラートの皇帝直属の騎士団さ。だが……あれはそれとは別のようだ」
セルツァは「ちょっと見てくる」と言って、また小鳥になり、西の方へ飛んで行ってしまった。ソニアを守るにはトライアを守ることになるので、確かにあの戦士が竜共々西に向かいハニバル山脈を目指すのか、途中まで見届けようというのである。
これで何か解るのなら大助かりだ。
本当に1人になったソニアは、帰国後間もない今日、唐突に降りかかってきたこの緊張に眩暈を感じて、天を仰いだ。
確かに魔導大隊ではないようだから、あのヌスフェラートが属する軍団が一斉攻撃をしかけてくる、というようなことはないだろう。刺客でもないようだから、魔導大隊の失敗を調べて論い、このナマクア攻めを代わって引き受けようという別の大隊かもしれない。いずれにしても、味方ではないということだ。
ソニアは空を見上げたまま吐息した。
旅をして皇帝軍の全貌が判ってきたことで、これまでのような漠然としたおそれではなく、ヴィジョンを思い描くことができる。テクトを攻めたのは副将だし、地位についていないゲオルグにも強大な戦力が備わっていた。他の大隊も層が厚そうである。しかもディライラのように大将が出向いている時は敵も本腰で、おそろしく手強い。
このトライアに、もし大将が乗り込んできたら……或いは他の大隊が乗り込んできたら……もし自分が倒れれば、滅ぶだろう。
ソニアは苦しく目を閉じた。
幼いゼファイラスを、本当は戦力にしたくないが、借りられる力は幾らでも借りたい。セルツァがいるのも大変に心強いが、本来戦とは無縁な生活をしているエルフの手を煩わせるのは申し訳ないようにも思う。
だが、可能な範囲で、彼等を傷つけたりしない範囲で力を貸してもらおう。後は……ひたすら己の修練だ。そして神の思し召しによるだろう。
ソニアはトライアスに祈り、重い足取りで森の中に歩んでいった。